第2話 完璧なやり直しの誓い
インクの匂いが充満する書斎で、レオポルトは最後の一行を書き終えた。
ペンを置き、深く息を吐き出す。窓の外が白み始めている。徹夜だった。だが不思議と眠気はない。脳髄が冷たく冴え渡り、血管にはカフェインの代わりに焦燥と使命感が流れているかのようだ。
マホガニーの机の上には、数十枚の紙が乱雑に積み重なっていた。そこにあるのは単なるメモではない。第一周目の詳細な年表。関わった人物たちの性格と行動原理を記したリスト。失敗原因の徹底的な分析。そして、それらを覆すための対策案。びっしりと書き込まれた文字の羅列は、レオポルトが歩んできた破滅への道程であり、同時にこれから切り拓く未来への地図でもある。
レオポルトは乾いた目を擦り、椅子の背もたれに体重を預けた。
ふと気を抜けば、またあの感覚が蘇ってくる。首筋に感じる冷たい刃の感触。石畳の凍えるような硬さ。そして、鼓膜を突き破らんばかりの民衆の怒号。殺してやる。貴族め。裏切り者。その声が幻となって耳に響いた。
「二度とあの結末には辿り着かせない」
レオポルトは低い声で自分に言い聞かせた。あえて言葉として空気に触れさせることで、揺らぎそうな決意を鋼に変えるのだ。
「あの広場の石畳の冷たさを、俺は一生忘れない。忘れてはいけない」
窓辺に立ち、カーテンをわずかに開く。
朝日が王都の街並みを黄金色に染め始めていた。重なり合う煉瓦色の屋根。朝食の支度だろうか、あちこちの煙突から細い煙が立ち上っている。遠くには王宮の尖塔が誇らしげに輝いていた。その光景はあまりにも穏やかで、美しい。
だが、レオポルトは知っている。三年後、この美しい街が業火に包まれることを。あの屋根の下で眠る人々が、飢えと憎悪に狂い、互いに殺し合う地獄が訪れることを。彼はその景色を見たのだ。破壊と崩壊の光景を、己の皮膚で感じたのだ。
コンコン、と控えめな、しかし確かなノックの音が静寂を破る。
「旦那様、朝食の用意ができております」
執事エーリッヒ・ランベルトの声だ。感情の起伏を感じさせない、いつも通りの落ち着いたバリトン。レオポルトは机上の書類を素早く束ね、引き出しの奥深くへしまうと、小さな銅の鍵で施錠した。
「ああ、今行く」
返事をしながら深呼吸をして心を落ち着かせる。外部の者には何も悟らせてはならない。完璧な青年貴族を演じ続けなければならないのだ。
◆
食堂の扉を開けると、芳しい香りが鼻孔をくすぐった。
湯気の立つ野菜のポタージュ。焼きたての香ばしいパン。色鮮やかな季節の果物。非の打ち所のない朝食が、完璧な配置でテーブルに並んでいる。
エーリッヒが無駄のない動きで椅子を引き、レオポルトを促した。背筋を伸ばした無表情な執事の姿は、まるで訓練された兵士のようだ。
レオポルトは席に着きながら、ちらりと執事の横顔を盗み見る。
四十二歳。短く刈り揃えられた黒髪には苦労を表すように白いものが混じり始めている。灰色の瞳は常に冷静沈着で、その表情筋は彫像のように動かない。長く壊れることのない奉仕の日々が、彼の顔立ちを形作ったのだろう。完璧な執事。それがエーリッヒへの世間一般の評価だ。
だが、レオポルトだけは知っている。この男の仮面の下にある、燃えるような忠誠心を。それは揺らぐことなく、この先も生涯変わることはないということを。
第一周目の最期の日が脳裏をよぎった。
革命軍の兵士たちが屋敷の門を破り、雪崩れ込んできたとき、エーリッヒはたった一人でレオポルトの前に立ちはだかった。主人が逃げる時間を稼ぐために、短剣一本で殺意に満ちた数十人の兵士の群れに飛び込んでいったのだ。彼の剣の腕は確かなものだったが、数には勝てない。何本もの刃が彼の体を貫き、血まみれになって倒れていった。
その光景が焼き付いている。
剣に貫かれ、口から鮮血を吐き出しながら、それでも彼は這いずろうとしていた。
「申し訳……ございません……旦那様を、守れず……」
最期の瞬間まで自分の命ではなく、主人の無事を案じていた男。その記憶が鮮明すぎて、喉の奥が詰まったように痛む。
「旦那様、お顔色が優れませんが」
エーリッヒが心配そうに身を乗り出した。普段なら決して崩さない鉄仮面がわずかに揺らいでいる。眉間の皺が深まり、主人の不調を案じる心が表情に滲んでいた。
「もしお加減が悪いようでしたら、医師を手配いたしましょうか。東区のヴェーバー先生であれば、午前中に往診が可能かと存じます。あちらは内科のみならず、神経の不調にもお詳しい方ですから」
レオポルトはハッとして、努めて明るく微笑んでみせた。
「いや、大丈夫だ。ただ少し考え事に没頭していただけでね。医者の世話になるほどじゃない。それより、この朝食が素晴らしい香りを放っている。今日も完璧な仕上がりじゃないか」
「恐れ入ります。本日のポタージュは、昨日市場で手に入りました冬蕪を使用しております。料理人のマルタが旦那様のお好みに合わせ、バターを少量加えて仕上げました。パンは夜明け前から窯に入れたものでございます。焼き加減には特に気を配ったと、マルタが申しておりました」
「マルタにはいつも感謝しているよ。直接伝えてくれ」
「ええ、もちろん。あの者も喜びましょう。旦那様からのお言葉となれば、三日と言わず一週間は上機嫌で腕を振るうに違いございません」
その穏やかなやり取りの最中、レオポルトの中で抑えきれない衝動が膨らんでいた。
彼は突然、椅子から立ち上がった。
エーリッヒの肩に手を置く。しっかりとした骨格と筋肉が掌越しに感じられた。生温かい体温が伝わってくる。この男は生きている。今、この瞬間に、確かにここに存在しているのだ。
執事が驚いたように目を見開いた。貴族である主人が使用人の体に気安く触れることなど、この世界の常識ではありえない。エーリッヒの口がわずかに開き、灰色の瞳が揺れる。
「旦那様……? どうなさいましたか」
「エーリッヒ」
レオポルトの声が低く、震えを帯びた。
「お前は……お前はいつか俺の命を救ってくれることになる。まだ先の話だが、俺はそのことを決して忘れない。お前がどれほどの覚悟でそうしてくれるか、俺は知っている」
言葉を失ったエーリッヒの視線が激しく揺らいだ。完全な執事としての冷静さが一瞬だけ崩れ、その下にある素の人間が顔を覗かせる。
「旦那様……? 何をおっしゃって……。いえ、恐れながら、旦那様は夢でもご覧になったのではございませんか。昨晩一睡もなさらず、お疲れが出ていらっしゃるのでは……」
だが、すぐに彼は自制を取り戻した。背筋をさらに正し、執事としての仮面を被り直す。
「……差し出がましいことを申し上げますが、書斎の灯りが夜通しついておりました。私の部屋の窓から見えておりましたので。お体を壊されては元も子もございません。旦那様のお体は、旦那様だけのものではないのですから」
レオポルトは手を離し、再び椅子に腰を下ろした。少し感傷的になりすぎたかもしれない。正体を疑われては本末転倒だ。
「何でもない。ただ日頃の感謝を伝えたかっただけだ。忘れてくれ」
「忘れろと仰いますか」
エーリッヒは数秒の沈黙の後、静かに首を横に振った。
「いいえ。忘れません。旦那様がこのような形で感謝のお言葉をくださったこと、このエーリッヒ、生涯忘れることはございません。ですが……」
一瞬の間があった。
「何か深刻なことをお考えなのではございませんか。旦那様の目の奥に、私がこれまで見たことのない色があるように思えてなりません。もしお話しいただけるのであれば……いえ、差し出がましいことを。申し訳ございません」
「いや、いい。お前の観察眼はいつも正確だ。だが、今はまだ話せない。話す時が来たら、必ず打ち明ける。それまで待ってくれるか」
「もちろんでございます。旦那様がお話しくださる時を、私はいつでもお待ちしております」
エーリッヒは深く一礼した。主人の不可解な言動に疑問を抱いているはずだ。だが決して問い詰めない。それが彼の矜持だからだ。長い奉仕の経験が、主人を無理に詮索してはいけないことを教えている。
「何かご不安なことがおありでしたら、いつでもお申し付けください。たとえ夜半であろうと、私はお側に参ります。それが私の務めでございますから」
その言葉に込められた忠誠の深さに、レオポルトは胸が詰まる思いがした。
「ああ。……頼りにしている。いつも、本当に」
エーリッヒの表情がわずかに和らいだ。鉄仮面の下に、微かな温もりが覗く。
「もったいないお言葉でございます。それでは、ごゆっくりお召し上がりくださいませ。お食事が終わりましたら、本日のご予定をお伝えいたします。午前中にヴァルトシュタイン男爵の茶会、午後に仕立て屋のハインリヒの訪問がございますが……」
「午後の仕立て屋は延期だ。別の用件ができた」
「承知いたしました。ハインリヒには私から連絡いたします。何かご理由をお伝えしますか。あの者はなかなか繊細な気質でして、理由なく延期と言えば気を悪くするかもしれません」
「体調不良とでも言っておいてくれ。嘘ではないからな」
「……かしこまりました。それであればハインリヒも納得いたしましょう。お大事にと言伝でも添えておきます」
執事が食堂を出て行くと、レオポルトは一人スプーンを手に取った。
スープを口に運ぶ。温かい。パンを齧る。小麦の甘みが広がる。だが味がしない。砂を噛んでいるようだ。頭の中はこれから始まる生存競争のことで埋め尽くされていた。
「……冬蕪のポタージュか。マルタの腕は相変わらずだな」
そう独り言ちて、レオポルトは無理にでもスプーンを口に運び続ける。体が資本だ。食べなければ戦えない。前世で過労死した経験が、皮肉にもそのことを誰よりも思い知らせている。
◆
朝食を終えたレオポルトは、すぐにエーリッヒを書斎に呼び出した。
執事は無言で入室し、背後で重厚な扉を閉める。カチャリとラッチが噛み合う音が響き、完全な密室が出来上がった。外の廊下には何も聞こえない空間だ。
レオポルトは椅子から立ち上がり、窓辺に背を向けて立った。逆光の中で執事と対峙する。
「エーリッヒ。これから話すことは墓場まで持って行ってほしい。決して誰にも口外するな」
声色は先ほどまでの穏やかなものとは一変していた。張り詰めた空気が室内を支配する。重い沈黙が立ち込めた。感情の起伏を感じ取ったのか、エーリッヒの背筋がさらに伸びる。その目が、奉仕者のそれから、戦士のそれへと変わった。
「もちろんです、旦那様」
即答だった。声に微塵の迷いもない。
「この身は旦那様のために存在しております。何をお隠しされようとも、私は何も見ず、何も聞かず、ただお側にあります。それが、ランベルト家三代の誓いでございますから」
その忠誠の言葉が、レオポルトの決意をさらに堅くした。
「その言葉を信じる。お前を信じている。だからこそ、打ち明ける」
レオポルトは振り返り、執事の瞳を真正面から見据えた。灰色の瞳と漆黒のそれが交わる。深呼吸をする。心臓が早鐘を打っていた。
どこまで話すべきか。転生したと言えば狂ったと思われるだろう。時間が巻き戻ったというのも同じだ。だが、これから起こる悲劇を回避するためには、この男の協力が不可欠である。この忠誠心に応え、信頼で返さなければならない。
「俺はこれから王国を変える」
レオポルトは静かに、しかし力強く宣言した。その声には、断頭台の露と消えた男の深い覚悟が込められている。
「新しい形の商業施設を作る。デパートメントストアだ。だがその第一の目的は単なる利益追求じゃない。王国の経済構造を透明化し、民衆の生活水準を底上げすることだ。身分の違いなく、誰もが同じ場所で商品を選べる。そしてその仕組みを、皆で作り上げていく」
エーリッヒは黙って聞いている。表情は変わらないが、その瞳の奥で情報を咀嚼し、分析しているのが分かった。
「旦那様。それは……壮大な構想でございますね」
静かな声で、エーリッヒが口を開いた。
「お言葉を遮るようで恐縮ですが、一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「なぜ、今なのでございますか」
その問いは鋭かった。
「旦那様はかねてより商業に関心をお持ちでしたが、これほど具体的な、しかもこれほど切迫した口調でお話しになるのは初めてのことです。昨日お休みになる前の旦那様は、明日の茶会で何の菓子を出すかを気にしていらっしゃった。それが一晩明けたら、王国の経済構造を変えるとおっしゃる。昨日までの旦那様とは、まるで別人のように……失礼、言い過ぎました」
「いや、言い過ぎじゃない。お前の観察眼は正しい」
レオポルトは苦笑した。さすがだ。何も見逃さない男である。
「俺は確かに変わった。昨日と今日では、別人と言ってもいいかもしれない。その理由は……今はまだ全てを話すことはできない。だがいずれ必ず話す。それまで信じてくれるか」
エーリッヒは長く、深く、レオポルトの目を見つめた。何かを探るような視線だった。だがやがて、静かに目を伏せる。
「……旦那様がそうおっしゃるのであれば。理由は問いません。私が知るべき時が来れば、旦那様からお話しくださるでしょう。それまで、私は待ちます。十五年お仕えして、旦那様が嘘をおつきになったことは一度もございませんでした。その信頼は、今日も変わりません」
「すまない。そして、ありがとう」
レオポルトは一拍の間を置き、声のトーンをさらに落とした。ここからが本題だ。
「だが、商業施設を作るだけでは足りない。俺は見えざる敵とも戦わなければならない」
「見えざる敵……でございますか」
「隣国ヴェルディア帝国が、この王国の崩壊を画策している」
ピクリ、とエーリッヒの眉が動いた。わずかな変化だが、レオポルトは見逃さなかった。元密偵としての警戒心が即座に立ち上がった証だ。
「帝国が……。お言葉ですが旦那様、それは極めて重大なご発言です。何を根拠にそのように」
「聞いてくれ。彼らはすでに工作員を送り込み、革命の火種を撒いている。最終的には王国を内部から崩壊させ、一滴の血も流さずに保護国化するつもりだ。王宮の権力は名目上保有させておいて、実質的な支配は帝国が握る。傀儡国家の完成だ。それが彼らの狙いである」
執事の表情が完全に変わった。無表情という仮面が剥がれ落ち、鋭い緊張感が顔全体に走る。その目は、かつて王宮の影の部隊に所属していた密偵の本質を露わにしていた。
「お待ちください、旦那様」
声が一段低くなっている。もはや執事の声ではなく、情報を分析する専門家の声だった。
「今のお話は仮説でございますか。それとも……確証がおありなのでございますか。この二つでは対応が全く異なります」
「確証がある」
レオポルトは間を置かずに答えた。
「確証……」
エーリッヒの瞳が大きく見開かれた。
「そこまで詳細にご存知なのですか。いつ、どのような経路でその情報を得られたのですか」
レオポルトは自嘲気味に口角を上げた。
「彼らの手口、潜伏している工作員の名前、裏帳簿の資金の流れ。穀倉地帯の放火計画、食糧危機の演出方法、デモ隊の扇動手順。そのすべてを知っている」
エーリッヒは沈黙した。長い、深い沈黙だった。
彼はただの執事ではない。かつては王宮の影の部隊に所属していた元密偵だ。情報の真偽を見抜く目は確かなものを持っている。彼はレオポルトの瞳を穴が開くほど見つめていた。対話者の本質を読み解こうとしているのだ。
狂言か。妄想か。あるいは真実か。
重苦しい沈黙が部屋を支配する。空気さえ凍りつくような静寂の中で、二人の視線だけが交錯していた。暖炉の薪が小さく爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
やがて、エーリッヒは静かに問いかけた。その声はかすかに震えている。
「なぜ、そこまで詳細に……? 旦那様は独自の情報網をお持ちなのですか。それとも、どなたかからの密告を受けたのですか」
一度言葉を切り、自らの推論を否定するように首を振る。
「いえ、しかし密告だけでは説明がつきません。穀倉地帯の放火計画や食糧危機の演出方法など、帝国の内部にいる者でなければ知り得ない情報です。外交官でも掴めないような機密を、なぜ旦那様がご存知なのか……私には見当がつきません」
「なぜなら俺は、一度全てを失ったからだ」
レオポルトの答えに、エーリッヒが息を呑む気配がした。
地獄を見てきた者だけが持つ、深く暗く、底のない瞳。今のレオポルトの瞳は二十九歳の青年のそれではなかった。時間の束縛を超えた、別次元の深さを秘めている。
「一度……全てを……?」
エーリッヒの声が掠れた。彼は言葉の意味を理解しようとしているのだろう。だが、その意味するところの途方もなさに、思考が追いつかないようだった。
「旦那様。今のお言葉は……字義通りに受け取ってよろしいのでございますか」
「字義通りだ」
「……つまり旦那様は、これから起こることを、未来を、ご存知であると。そういうことでございますか」
レオポルトは短く頷いた。
「詳しい理由は言えない。今はまだ。だが俺は未来を知っている。このまま何もしなければ、三年後に革命が起きる。王は逃亡し、貴族は広場で処刑され、王国は地図から消える」
一拍の間を置いて、レオポルトは付け加えた。
「……そして俺も死ぬ」
断頭台の記憶がフラッシュバックし、声がわずかに震えた。その震えは演技ではなく、真の恐怖と悔悟が入り混じったものだ。エーリッヒは主人の震える拳を見逃さなかった。白くなるほど握り込まれたその手から伝わる緊張が、言葉以上に真実を物語っている。
エーリッヒは長い長い沈黙の後、静かに目を閉じた。まるで自分の中の何かと対話しているかのように、十秒、二十秒、三十秒と時間が流れる。
やがて、目を開けた。
「信じます」
厳かな声だった。迷いも疑いもない。
「旦那様が何を経験されたのか、その理由は問いません。ですが旦那様のそのお覚悟は本物だ。それだけは確信を持って申し上げられます」
レオポルトは息を詰めた。
「私はこの十五年間、旦那様のお側でお仕えしてまいりました。お生まれになった日から、初めてお立ちになった日、初めてペンを握られた日、お父上を亡くされた日。全てを見てまいりました。旦那様がどのようなお顔で嘘をつき、どのようなお顔で本当のことをおっしゃるか……失礼ながら、全て存じ上げております」
「……」
「だからこそ分かります。今の旦那様の目は、嘘をつく者の目ではございません」
エーリッヒは一歩前に出た。その声に、執事としての礼節を超えた、人間としての感情がにじむ。
「あれは……何かを深く、深く失った者の目でございます。取り返しのつかないものを目の当たりにし、それでもなお立ち上がろうとする者の目です。私には、その目に見覚えがございます」
「見覚えがある?」
「はい。かつて私が王宮の影の部隊にいた頃のことでございます。作戦に失敗し、仲間を全員失った指揮官がおりました。ハンス・ブレンナーという男です。七人の部下を一夜で失い、自分だけが生き残った。翌朝、報告のために私の前に立った時の、あの男の目……」
エーリッヒの声がわずかに途切れた。古い記憶の痛みが、今も消えていないのだろう。
「あの男の目と、今の旦那様の目は同じでございます。何かを失い、その重みに押し潰されそうになりながら、それでも前を向こうとしている。そういう目です」
レオポルトは言葉を失った。この男の洞察力は底知れない。
「ですから信じます。理屈ではございません。この目を見て嘘だと思える人間は、この世にはおりません。私にできることがあれば、この命を懸けてお守りします。今も、そしてこれからも」
レオポルトは目頭が熱くなるのを堪え、深く頷いた。やはりこの男は裏切らない。第一周目と同じだ。いや、同じどころか、その忠誠心はこの時点ですでに揺るぎない。
「ありがとう。本当に……ありがとう、エーリッヒ。お前のその力と、その心がどうしても必要なんだ。俺一人では、この王国は救えない」
「では、旦那様」
エーリッヒの声が切り替わった。感傷の色が消え、実務者の鋭さが戻る。
「具体的なご指示を。信じると申し上げた以上、私は動きます。何を、いつまでに、どのように。それをお聞かせくださいませ」
その切り替えの速さに、レオポルトは思わず口角が上がった。さすがだ。感傷に浸る時間を最小限に切り上げ、即座に行動へと移る。これが元密偵の本領である。
レオポルトは机の引き出しから一枚の紙を取り出し、エーリッヒに手渡した。丹念に書かれた情報が詰まっている。
「まずヴェルディア帝国の動向を徹底的に監視してほしい。王都にはすでに工作員が潜んでいる。名前はエドヴァルト・シュタイナー。表向きは輸入雑貨を扱う友好的な商人だが、その正体は帝国情報局経済戦略課の大佐だ。非常に危険な男である」
エーリッヒは紙を受け取り、書かれた名前を目で追った。その瞳が、密偵時代の鋭さを取り戻している。
「エドヴァルト・シュタイナー……。輸入雑貨商。帝国情報局経済戦略課大佐」
名前と肩書を復唱し、脳裏に刻み込んだ。
「……なるほど、経済戦略課ですか。軍事ではなく経済から攻めてくるとは。帝国も手口を変えてきましたな。以前であれば国境に兵を集めて威嚇するのが常套でしたが」
「そうだ。正面からの軍事侵攻ではなく、内部崩壊を誘発する。その方がコストも低く、国際的な非難も避けられる。帝国にとっては最も効率的な手段だ。占領軍を送るより、革命を起こさせて混乱に乗じた方が安上がりだからな」
「合理的ですな。しかし、それだけに厄介でございます。軍隊なら目に見えます。兵の動きは偵察で把握できる。ですが経済工作は水面下で進行する。気がついた時には手遅れということもあり得ましょう」
「だからこそ今動く必要がある。まだ芽が出る前に根を断つんだ」
「承知いたしました。では、そのシュタイナーなる男の特徴をお聞かせください。人相、体格、癖。監視に必要な情報を全てお願いいたします」
その質問の速さから、すでに頭の中で監視体制の骨格が組み上がりつつあるのが窺えた。
「三十代前半。金髪、碧眼。整った容姿で、非常に物腰が柔らかい。貴族にも商人にも市民にも分け隔てなく接し、誰からも好かれるような人畜無害な好青年を演じている。社交の場に出れば、いつの間にか人の輪の中心にいる。話術に長け、聞き上手でもある。だがその笑顔の下には冷徹な計算と支配欲が隠れている」
「身長は? 体格は?」
「長身だが威圧感はない。痩身で、指が長い。手は白く、労働者の手ではない。服装は常に上品だが派手ではなく、商人にしては品が良すぎるが貴族ほど華美ではない。そういう絶妙な線を狙ってくる男だ」
「癖のようなものは?」
「酒を飲む時に、必ず右手の薬指でグラスの縁を撫でる癖がある。無意識にやっているようだ。そして……笑うとき、目が笑っていない。口元だけが完璧に笑みを作る。それが彼の唯一の綻びだ。注意して見なければ分からないが、分かってしまえば二度と見失わない」
エーリッヒは一つ一つの情報を噛み締めるように頷いた。その目が鋭く光る。
「なるほど……。まるで実際にその男と何度も対面したかのような、具体的な描写でございますな。尾行報告書でもここまで詳細には書けません」
レオポルトは一瞬だけ目を伏せた。ああ、対面した。何度も。社交の場で杯を交わし、世間話を装った情報戦を繰り広げた。そして最後には、その男の策略によって断頭台に送られた。
「実際に見たことがある、とだけ言っておこう」
「……承知いたしました。それ以上は問いません」
エーリッヒの瞳に冷徹な光が宿った。視線が狩人のそれへと変わっている。
「毒蛇は美しい花の下に潜むものですな。よく心得ました。すぐに調査を開始いたします」
「どういう体制で臨むつもりだ」
「旧同僚のうち、信頼できる者が三名おります。カール、ディートリヒ、ベルタ。いずれも影の部隊の出身で、今は市井に紛れて暮らしておりますが、腕は錆びついておりません。カールを王都の北区に、ディートリヒを東区に、ベルタを港湾区にそれぞれ配置し、シュタイナーなる男の宿所、取引先、面会相手、全ての動きを把握いたします」
「頼む。だが、決して気取られるな。帝国の情報員は訓練されている。尾行に気づけば即座に行動パターンを変える。あるいは逆にこちらの情報網を逆探知してくる可能性もある。下手を打てば、こちらの存在を知らせることになる」
「ご心配なく。我々は影の部隊の出身です。尾行と監視については、帝国の情報員にも引けを取らないと自負しております」
一瞬の間があった。エーリッヒの目に、かつての密偵としての自負が覗く。
「……もっとも、過信は禁物でございますな。旦那様のお言葉を肝に銘じます。慎重の上にも慎重を期しましょう。それに旦那様、一つご提案がございます」
「何だ」
「シュタイナーの監視と並行して、王都の各酒場や集会所にも耳を配らせたいのですが。帝国の工作は一人で行うものではございません。必ず協力者がいるはずです。現地で雇われた扇動者、買収された役人、あるいは脅迫されて協力させられている市民。そうした末端の駒が必ずいる。末端の動きを追えば、やがて組織の全体像が見えてまいります。木の根を辿れば幹に行き着くように」
「その通りだ。さすがだな、エーリッヒ。まさにそれが俺の考えていたことだ」
「恐れ入ります。これでも昔取った杵柄でございますから」
「……実はもう一つ、気になる動きがある」
「何でございましょう」
「東区の酒場で、最近になって反貴族的な演説をしている男がいるという話を耳にした。元ギルド員を名乗っているらしいが、裏は取れていない。話の内容は貴族批判と王政への不満だが、単なる酔っ払いの戯言にしては妙に論理的で、扇動の技術を心得ている。そいつが帝国の息がかかった扇動者である可能性が高い」
エーリッヒの目が細まった。
「東区の酒場……。心当たりがございます。『赤鹿亭』でございますか。あの辺りは職人や日雇い労働者が多く集まる場所です。仕事にあぶれた者、ギルドから追い出された者、家族を養えず鬱屈を抱えた者。不満の種は常にあり、火をつければ簡単に燃え広がります。扇動するには格好の土壌ですな」
「ああ、おそらくそこだ。だが今の段階では手を出すな。泳がせておいた方がいい。その男自体は末端の駒に過ぎない。俺が知りたいのは、その背後にいる人間だ。糸を手繰れば、シュタイナーに繋がるはずだ」
「賢明なご判断でございます。枝を切っても幹が残れば、また芽が出ます。根を絶つには、根の全容を把握しなければなりません。急いで末端を潰せば、かえって本体に警戒されましょう」
「その通りだ。相手が王国の敵ならば容赦はいらない。だが焦ってはいけない。正確に、確実に。一手一手を慎重に進める」
「はい。このエーリッヒ、必ずやお役に立ってみせます」
エーリッヒは一礼し、踵を返した。だが扉に手をかけたところで、その動きが止まる。
「旦那様」
背中を向けたまま、彼が言った。その声には、それまでの実務的な響きとは異なる何かが込められていた。
「何だ」
長い沈黙があった。エーリッヒの広い背中が、わずかに震えている。
「先ほど旦那様は、私がいつか旦那様の命を救うとおっしゃいました」
レオポルトの心臓が跳ねた。
「それは……つまり旦那様のお命が危険にさらされる時が来る、ということでございますね。未来を知っていらっしゃるのであれば、ご自身の死も知っておいでなのでしょう」
「……ああ。何も手を打たなければ、な」
沈黙が降りた。エーリッヒは振り返った。
その灰色の瞳には涙こそなかったが、それ以上の深い感情が渦巻いていた。忠誠と決意と、そして主を失うかもしれないという恐怖が入り混じった、複雑な光。
「私は旦那様の秘密を守ります。それがたとえどのような秘密であっても。このエーリッヒ・ランベルトの名誉に懸けて、決して口外いたしません。そして旦那様が信じる道を、この身が朽ちるまで支え続けることをお誓いします」
その声は静かだが、鋼のように硬かった。
「ですが旦那様。一つだけお約束ください」
「何だ」
「今度は……お一人で全てを背負おうとなさらないでください」
レオポルトは目を見開いた。
「旦那様は時折、全ての重荷を自分だけで担おうとなさいます。お父上がそうでございました。先代の旦那様は、領地の経営難をお一人で抱え込み、誰にも相談なさらず、最後には……お体を壊されました。あなた様にも、同じ気質がおありです。何もかも自分の責任だと背負い込む。助けを求めることを弱さだと考える。ですが、それでは……人は壊れます。どれほど強い方であっても」
その言葉は、まるで未来を見てきたかのように正鵠を射ていた。第一周目のレオポルトは、まさにそうして壊れたのだ。全てを一人で抱え込み、誰にも弱みを見せず、限界を超えて走り続けた結果、足元が崩れた。
「……ああ。約束する。今度は一人で抱え込まない。だからこそ、お前に話したんだ。俺が最初に打ち明ける相手にお前を選んだのは、そういうことだ」
エーリッヒの表情が、微かに、本当に微かにほころんだ。それは鉄仮面の下から覗いた、初めての笑みだったかもしれない。目尻の皺が少しだけ深くなり、灰色の瞳に温かい光がともる。
「……ありがたき幸せでございます。その一言で、十五年分の奉公が報われた思いでございます」
すぐに表情を引き締め、執事の顔に戻る。
「では早速動きます。夕刻までには最初の報告をお持ちいたします。旧同僚への連絡は昼前に済ませ、午後から配置に入らせます」
「頼む。それと、エーリッヒ」
「はい」
「お前も気をつけろ。帝国の工作員は、こちらの動きを察知すれば排除にかかる。暗殺も辞さない連中だ。決して無理はするな。命あっての物種だ」
レオポルトの声が低くなった。
「俺は……もう誰も失いたくない」
その最後の言葉に、エーリッヒの背筋が微かに震えた。主人の言う「もう」という言葉の重みを、彼は完全には理解していないだろう。だがその言葉が魂の底から発せられたものであることは、確かに伝わったはずだ。
「お心遣い、痛み入ります。ご安心くださいませ。死んでは旦那様をお守りできませんから。必ず生きて戻ります。それに、私はまだ旦那様のご結婚を見届けておりません。それまでは死ぬわけにはまいりません」
「結婚……。それはまた、気の早い話だな」
「いえ、執事というものは常に十年先を見据えるものでございます」
レオポルトは思わず笑った。張り詰めていた空気がわずかに緩む。この男は、こういう絶妙な間合いで空気を和らげる術を心得ていた。
「ありがとう。本当にありがたい。その言葉で、俺は救われたよ」
扉が静かに閉まり、再び静寂が戻ってきた。だが先ほどまでの沈黙とは質が違う。今の静寂には、確かな希望が満ちていた。
◆
一人になったレオポルトは、窓の外を眺めながら思考を巡らせた。
朝日が高くなり、街の喧騒が大きくなっている。人々が活動を始め、商人たちが店先に品物を並べる時間だ。荷馬車の車輪が石畳を叩く音、水売りの呼び声、鍛冶屋の金床を打つ響き。平和な日常の音が、窓越しに聞こえてくる。
だが、それは薄氷の上に成り立っている。一つの誤算で、この全てが崩壊する可能性があるのだ。
「第一周目では俺は王に全面的な支援を求めた」
レオポルトは独り言ちた。声は低く、自分への警告であり、未来への誓いでもある。
「王はそれを承認し、デパートは王立の看板を掲げた。それが致命的なミスだった。民衆の目には、あの豪華な建物が権力者の象徴と映った。自分たちのためのものではなく、自分たちを支配するための装置だと」
あの時の光景が鮮やかに蘇る。
国王アルフレート三世は玉座に深く腰掛け、満足げな笑みを浮かべていた。
「ヴァイスハルト、お前の構想は気に入った。実に面白い。だがな、これほどの規模の事業を一介の貴族が独力で行うというのは、いささか心許ない。王家の名を冠せ。そうすれば資金も後ろ盾も全て用意してやろう」
「陛下、それは……恐れ多いことでございます」
「何を遠慮している。これは命令ではない、提案だ。だが考えてもみろ。王家の名があれば、ギルドの抵抗も抑えられる。貴族たちの協力も得やすくなる。何より民衆が安心する。王が認めた事業だと分かれば、信用が生まれるだろう。お前一人の名前では、信用を築くのに何年かかるか分からんぞ」
「おっしゃる通りでございます。しかし陛下、一つだけ懸念が……」
「懸念? 何だ、言ってみろ」
「王家の名を冠することで、民衆がこの事業を『王家のもの』と認識する可能性がございます。そうなれば、デパートは民のためのものではなく、権力の道具として見られかねません」
国王は片眉を上げ、やや不機嫌そうな表情を見せた。
「ヴァイスハルト。お前は考えすぎだ。民衆は王家を慕っている。王の名は信頼の証だ。それが足枷になるなどという発想は、いささか不敬ではないか」
「申し訳ございません。出過ぎたことを申しました」
「よい。気にするな。だが、余の提案は受けよ。これは王家の事業だ。余の名のもとに進めよ。いいな」
「……ありがたき御言葉でございます、陛下。必ずや期待に応えてみせます」
あの時の自分は、王家の看板を得られたことに有頂天になっていた。これで全てが上手くいくと信じ込んでいた。懸念を口にしながら、結局は押し切られた。いや、押し切られたのではない。自分から折れたのだ。王の機嫌を損ねることを恐れて。
だが、それは毒の杯だった。甘い蜜で口を潤すと同時に、内臓を蝕む致死量の毒を飲み干していたのだ。
レオポルトは拳を握りしめた。当時の自分がどれほど民衆の声を聞き落としていたか。その浅はかさがどれほど取り返しのつかない結果を生み出したか。
「今回は違うアプローチが必要だ」
静かに、だが強く言い切る。
「デパートを半公共・半民営の組織にする。王国の支援は最小限にとどめ、民衆やギルド、商人たちも出資者として巻き込む。利益を還元し、運営にも参加させる。意思決定の場に彼らの席を設ける。そうすれば、デパートは彼ら自身のものになる。自分たちが金を出し、自分たちが声を上げ、自分たちが作り上げた場所を、誰が壊そうとするものか」
だが、問題はある。
「王を説得できるか」
第一周目では若さと熱意だけで押し切った。だが今回の提案はより複雑で、王権の制限にも繋がりかねない。慎重なアルフレート三世がこのような大胆な改革を歓迎するとは思えなかった。
第一周目で、フェリックスが警告してくれた言葉が蘇る。
レオポルトの執務室に怒鳴り込んできたフェリックスの姿。金髪を振り乱し、碧眼に怒りと焦りを浮かべていた。
「レオポルト、お前は王を信じすぎている。何度言ったら分かるんだ」
「フェリックス、落ち着け。王は改革を支持してくれている。昨日の謁見でも……」
「支持? あれが支持に見えるのか。あれは管理だよ。お前を手元に置いて、都合よく使っているだけだ。王は改革者ではない。自分の王座を守ることが第一の男だ。お前の事業が王座を脅かすと判断した瞬間、王はお前を切り捨てるぞ。古くなった手袋を捨てるように、何のためらいもなく」
「だが、王の後ろ盾なしにこの規模の事業を進めるのは……」
「後ろ盾が必要だと言っているんじゃない」
フェリックスの声が一段低くなった。怒りが消え、代わりに切実な説得の調子が浮かぶ。
「後ろ盾の取り方を間違えるなと言っているんだ。王の全面支援を受ければ、お前は王の傀儡になる。王が右を向けと言えば右を向き、左を向けと言えば左を向く。そんなものは改革じゃない。王の御用商人だ。そうではなく、王が手を出せない仕組みを作れ。民衆を味方につけ、貴族と商人を巻き込み、王が介入すれば自分が損をするような構造にしろ。それが本当の改革だ」
「お前の言いたいことは分かる。だがフェリックス、理想と現実は……」
「理想と現実? お前が言うのか、それを。お前こそ理想を掲げて王都を変えると言った男じゃないか。その理想を、最初の壁で曲げるのか。王の顔色を窺って、妥協するのか。それなら最初から改革など口にするな」
あの時、フェリックスの目は潤んでいた。怒りだけではない。失望と、それでもなお友を信じたいという葛藤が、その碧眼の奥に渦巻いていた。
あの言葉をもっと深く受け止めるべきだった。フェリックスの慧眼を、自分は過小評価していたのだ。
「まず強力な協力者を集める必要がある」
レオポルトは机の上に広げた人物相関図を見つめた。徹夜で書き上げた、全ての重要人物を記した一枚の紙だ。
オスカー・ブラウエル。偏屈だが天才的な老魔導建築技師。彼の建築技術と魔導結合の技があれば、革新的な施設の建造も不可能ではない。
フェリックス・フォン・アルトハイム。理想に燃える若手貴族。家族との絶縁を覚悟してまで改革を支持してくれた男。そのような勇気を持つ者は稀有だ。
マルクス・シュトラウス。世渡り上手な中堅商人。利益と理想のバランスを取りながら、商業の現実を理解する実務家。
クララ・ノイマン。貧民街出身の書籍修復職人。民衆の心を最も深く理解できる存在。
彼らを味方につければ、王も無視できない勢力になる。
「オスカー先生は……おそらく一番説得しやすい」
レオポルトは呟いた。老技師の皺だらけの、しかし精力に溢れた顔を思い浮かべる。
第一周目で、オスカーはレオポルトに最後までついてきてくれた。革命の炎が王都を焼いた日、老技師は煤だらけの顔でこう言ったのだ。
「わしは逃げんぞ、レオポルト」
煙に巻かれて咳き込みながらも、老人の声は揺るがなかった。
「この建物はわしの最高傑作だ。四十年の職人人生で、これ以上のものは作れん。こいつと一緒に燃えるなら本望だ。お前さんは逃げろ。若い者には未来がある。わしのような年寄りにあるのは過去だけだ」
「先生、俺も逃げません。先生を置いて逃げるなんて……」
「馬鹿者が」
オスカーの手がレオポルトの胸倉を掴んだ。年老いているはずなのに、その力は驚くほど強かった。
「お前さんがいなくなったら、誰がこの理想を継ぐ。わしの傑作を灰の中から掘り起こして、もう一度建ててくれる奴が必要なんだ。図面は頭の中にある。だが、あの図面に魂を吹き込めるのはお前さんしかおらん。わしが作ったのは器だ。器に命を与えたのはお前さんだ。だから……走れ」
「先生……」
「泣くな。泣いている暇があったら走れ。走って、生き延びて、またやり直せ。何度でもやり直せ。何度潰されても、何度でも建て直せ。それが、わしへの恩返しだ。分かったな。分かったなら、今すぐここから消えろ。これ以上わしの前でめそめそするな、見苦しい」
あの言葉が、今こうして現実になっている。
レオポルトは目を閉じ、深く息を吸った。
先生、俺はやり直す機会を得た。今度こそ、あなたの傑作を守り抜く。あなたの言葉通り、何度でもやり直す。
「フェリックスは……扱いが難しい」
若手貴族フェリックスの鋭い眼差しを思い出す。金髪碧眼の端正な顔。だがその美貌の下には、常に批判的な知性が潜んでいる。彼は理想主義者であると同時に現実主義者だ。矛盾した二つの性質を併せ持つ複雑な男である。
第一周目で、フェリックスは家族と絶縁してまでレオポルトの改革を支持した。そのために払った代価は計り知れない。
彼の父、アルトハイム伯爵は激怒してこう言い放ったという。話を聞いたのはフェリックス自身からだ。酒の席で、珍しく弱さを見せた夜のことだった。
「親父は俺の顔も見ずに言ったよ。『お前はもはやアルトハイム家の人間ではない。この家から出て行け。二度と敷居を跨ぐな。お前の部屋の荷物は明日までに門の前に出しておく。それ以降は、路上の他人だ』とな」
「フェリックス……すまない。俺のせいで」
「お前のせい? 冗談はよせ。俺は自分の意志で選んだんだ。お前に頼まれたわけじゃない」
フェリックスは杯を一息に空け、苦い笑みを浮かべた。
「母上だけは泣いてくれたよ。使用人の目を盗んで、こっそり手紙をくれた。『いつでも戻っておいで』と。……戻れるわけがないのにな。戻ったら、俺が信じたもの全てが嘘になる」
「……」
「レオポルト。俺がお前についていくのは、お前の理想を信じているからだ。お前個人を信じているのではない。お前が掲げた旗を信じている。だから、その旗を汚すな。お前が妥協した瞬間、俺はお前の敵に回る。それだけは覚えておけ」
その覚悟の深さを、レオポルトは今なら正しく理解できる。第一周目では、それを当たり前のように受け取ってしまっていた。彼の犠牲の重さを、軽く見ていた。
「マルクスは……金の匂いをちらつかせれば食いつく。だが、それだけでは浅い」
商人マルクス・シュトラウスは利益を追求する現実的な男だ。だが同時に、商人としての矜持を持っている。第一周目で、彼は危険を冒してまでレオポルトに情報を流してくれた。
あの夜更けの酒場で、マルクスはこう言った。
「誤解してくれるな、ヴァイスハルト殿。私は慈善家ではない。あなたに情報を渡すのは、あなたが倒れれば商売に支障が出るからだ。あなたの事業は王都の商業に大きな影響を持っている。あなたが潰れれば、その影響は私の商売にも及ぶ。純粋な自己利益の話だよ」
「……それだけか?」
「……まあ、それだけが理由とは言わないがね」
マルクスはエールの杯を傾け、少しだけ表情を緩めた。
「あなたの理想は馬鹿げている。身分の差をなくすだの、誰もが平等にだの。この世界でそんなことが実現するわけがない。百年経っても無理だろう。だが、馬鹿げた理想を大真面目にやる奴は嫌いじゃない。この世は利口な人間ばかりで退屈だからな。商人にとって、世の中が安定していることが一番の利益だ。あなたの事業がそれに貢献するなら、私は協力する。ただし、見返りはいただく。それが商人の流儀だ」
あの時の彼の言葉は、ある意味で最も正直で、最も信頼できるものだった。利害を隠さない人間は、利害が一致する限り裏切らない。それは商人との付き合いで学んだ、前世からの教訓でもある。
だが、最後の一人の名前を見て、レオポルトのペンを持つ指が止まった。
クララ・ノイマン。
貧民街出身の聡明な女性。デパートの図書室司書として働いてくれた、誰よりも本を愛していた彼女。
第一周目、彼女はレオポルトを裏切った。革命の嵐の中で、群衆の前で彼を告発したのだ。
法廷での彼女の姿が蘇る。証人席に立つ痩せた体が、葉のように震えていた。
「レオポルト様は……いえ」
彼女は一度言い直した。
「被告人は、私たちに理想を語りました。誰もが平等に。公正に。美しい言葉でした」
そこで声が詰まった。裁判長が促すまで、数秒の沈黙があった。
「私は……それを信じました。信じたかった。あの方の目は、嘘をついているようには見えなかったから。でも……」
呼び方を言い直すたびに、彼女の声は震えていた。「レオポルト様」と呼びかけてしまう自分を、必死に「被告人」に矯正しようとしていた。あれは演技ではなかった。彼女は本当に苦しんでいたのだ。信じていた人間を告発するという行為の重さに押しつぶされそうになりながら、それでも声を絞り出していた。
そして処刑の日。群衆の中に彼女がいた。顔を伏せ、肩を震わせていた。あれは裏切った罪悪感からだったのか。それとも、かつての友を殺される悲しみからだったのか。
真実は、今もまだ謎のままだ。
「クララを……今度こそ救えるか」
彼女は貧民街の出身で、権力者に対する根深い不信感を持っている。幼い頃から貴族の横暴を見て育ち、美しい言葉の裏には必ず裏切りが待っていると、骨の髄まで刻み込まれている。そのような心を開かせるには、言葉だけでは足りない。理屈では説得できない。
初めて彼女に出会った日のことを思い出す。
デパートの図書室の司書を募集した時、応募者は三人いた。二人は中流家庭の出で、読み書きも教養も申し分なかった。三人目がクララだった。
面接の部屋に入ってきた彼女は、擦り切れた茶色の上着を着ていた。靴は片方の踵がすり減って傾いている。だが背筋はまっすぐで、目だけが異様に強い光を放っていた。怯えではなく、挑むような光だ。
レオポルトが聞いた。
「お名前と、ご出身を」
「クララ・ノイマン。南区の六番街です」
南区の六番街。貧民街のど真ん中だ。面接に同席していたエーリッヒが、かすかに眉を動かしたのを覚えている。
「なぜ図書室司書に応募を?」
「本が好きだからです」
ぶっきらぼうな返答だった。愛想のかけらもない。
「それ以上の理由が必要ですか。必要なら帰ります。どうせ貧民街の人間は採らないんでしょう」
レオポルトは面食らった。だが同時に、その率直さに好感を持った。
「いえ、十分です。出身は選考に関係ありません。では一つだけ聞かせてください。あなたにとって、本とは何ですか」
クララは一瞬だけ目を伏せた。それまでの攻撃的な態度が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
「……唯一の逃げ場所でした」
声が小さくなっていた。
「六番街には図書館なんてありません。でも、ゴミ捨て場に本が落ちていることがあるんです。背表紙が破れていたり、虫に食われていたり。そういう本を拾って、繕って、読みました。文字は隣のおばあさんが教えてくれました。元は学校の先生だったそうです。おばあさんは私に、文字が読めれば世界が広がると言いました。……おばあさんの言う通りでした。文字が読めるようになった日、私は初めて六番街の外に出られたんです。体はそこにいたまま、心だけが」
その言葉の奥にある痛みを、あの時のレオポルトは表面的にしか理解していなかった。採用はした。だが彼女の背景に寄り添うことは十分にできていなかった。貧民街で育った人間が、貴族の事業に関わることの意味。彼女が日々感じていたであろう疎外感と、それでもなお留まり続けた理由。そのすべてを、軽く見ていた。
「今回は違う」
レオポルトは声に力を込めた。
「今回は彼女を対等なパートナーとして扱う。彼女の声をデパートの運営に反映させる。上から与えるのではなく、共に創り上げる。貧民街の声を代弁できるのは、貧民街を知る人間だけだ。それを形だけの参加にするな。実質的な権限を持たせろ。彼女が『これは自分たちのものだ』と心から思えるような仕組みを作れ」
必要なのは行動だ。実績だ。誠意だ。言葉ではなく、結果で示すしかない。
「それしかない」
レオポルトは決意を固め、椅子から立ち上がった。
上等なシルクの部屋着を脱ぎ捨て、クローゼットの奥から質素な外出着を取り出す。濃紺のウールの上着。丈夫な茶色のズボン。実用的な革のブーツ。貴族の装飾品は一切身につけない。王家の紋章が入った指輪も、階級を示すバッジも、全て外した。
鏡を見る。そこに映るのは、どこにでもいる若い商人の姿だ。やや痩せ気味で、目の下にうっすらと隈があるが、瞳には強い意志が宿っている。
「俺はもう一人の転生者だ」
鏡の中の自分に向かって呟く。声は落ち着いており、一種の悟りさえ感じさせた。
「前世の記憶を持ち、未来の失敗を知っている。この二つの武器を使えば、今度こそ成功できる。だが慢心は禁物だ」
自分自身に釘を刺す。
「記憶に頼りすぎるな。変数が変われば結果も変わる。俺が動くこと自体が変数だ。常に最悪を想定し、柔軟に動け。相手を過小評価するな。民衆の心の動きを甘く見るな。帝国の力を油断して考えるな。そして……自分の判断力を過信するな」
前世の記憶の奥から、百貨店時代の上司の声が蘇った。白髪混じりの、温厚だが芯の強い男。定年間際のベテランバイヤーで、レオポルトの前世の師匠とも呼べる存在だった。
「いいか、お前。売場ってのは生き物だ」
残業続きで疲弊したレオポルトに、缶コーヒーを差し出しながら、その上司は言った。
「昨日上手くいったことが、今日上手くいくとは限らない。データは過去を教えてくれるが、未来を保証はしない。お前はデータが好きだな。数字を見れば安心するタイプだ。それは武器だが、同時に弱点でもある」
「弱点、ですか」
「ああ。数字に溺れると、数字に出ない大事なものを見落とす。大事なのは常に現場を見ること。数字の向こうにいる人間を見ること。レジの向こうに立っているのは消費者じゃない。一人一人が名前を持った、生活を持った、感情を持った人間だ。それを忘れた瞬間、お前は終わりだ」
「……肝に銘じます」
「まあ、お前は素直だから大丈夫だろう。だがな、いいか。素直なだけでは足りないぞ。素直さの上に、強さを載せろ。正しいと思ったことを曲げない強さだ。上から言われても、周りに流されても、自分の目で見たものを信じる強さ。それがないと、この業界では生き残れん。……まあ、偉そうなことを言ってるが、俺もそれが出来なくて何度も失敗したんだがな」
上司は自嘲気味に笑い、缶コーヒーをぐいと飲み干した。
「先輩、その言葉、今の俺に一番刺さりますよ」
レオポルトは苦く笑った。あの上司は今頃どうしているだろう。もう二つの人生分の時が経っている。あの世界はもう手の届かない場所にあった。だが、教えてもらったことは消えない。時空を超えても、師の言葉は生き続ける。
部屋を出る前に、レオポルトはペンを取り、一枚の手紙を書いた。封筒の表に『エーリッヒへ』と記す。文字は丁寧で力強く、迷いがなかった。
万が一自分が帰らぬ人となった場合に備えた手紙だ。デパート構想の全貌と、帝国の陰謀についての情報が詳しく記されている。協力者の名前と連絡先。資金の隠し場所。そして、理念の核心。
最後に一行だけ書き添えた。
「もし俺が戻らなかったら、この手紙を信頼できる者に託してくれ。誰かがこの理想を引き継いでくれることを願う。俺の失敗から学び、今度こそ成功させてほしい。そして、エーリッヒ。お前には感謝してもしきれない。十五年間、ありがとう」
手紙を机の中央に置き、書斎を出る。
階段を降り、玄関ホールへ向かった。
使用人たちが驚いたように主人を見つめる。普段なら馬車を用意させるところを、徒歩で、しかも護衛もつけずに出かけようとしているのだから無理もない。質素な外出着の姿は、貴族のものとはとても思えなかった。
「旦那様、お出かけですか? お供をお付けしましょうか。馬車の手配もすぐに……」
若い従僕のヨハンが慌てて声をかけてきた。まだ十七歳の、赤毛のそばかす顔の少年だ。去年の秋に雇い入れたばかりで、何事にも一生懸命で、時折その一生懸命さが空回りする、そんな年頃の少年である。
第一周目では、革命の混乱の中で行方不明になった一人だ。
レオポルトは手で制した。
「一人で大丈夫だ。馬車もいらない。少し街の空気を吸いたい気分なんだ」
「で、ですが旦那様……お召し物がそのような……」
ヨハンは困惑した顔で、レオポルトの服装を上から下まで眺めた。
「その、失礼を承知で申し上げますが、まるで町人のような……。い、いえ、町人が悪いというわけではなく、その、旦那様のお立場としてはいささかその……」
「ヨハン」
「は、はい!」
少年がビクリと背筋を伸ばした。
「そう緊張するな。叱っているわけじゃない」
「す、すみません。つい……」
「いいか、ヨハン。人は服で判断されるものだ。立派な服を着ていれば、人は敬意を払ってくれる。だが同時に、本音を言ってくれなくなる。壁ができるんだ。相手との間に、目に見えない壁がな。俺は今日、その壁の向こう側に行きたい。本音を聞きに行く。だからこの格好がいいんだ」
「は、はあ……」
ヨハンは首を傾げた。分かったような分からないような顔をしている。
「すみません、正直なところ、よく分かりません。でも、旦那様がそうおっしゃるなら、きっと大事なことなのだと思います」
「正直でいいな、お前は。その素直さは武器だぞ、ヨハン。大事にしろ」
「は、はい! ありがとうございます!」
少年の顔がぱっと明るくなった。褒められ慣れていないのだろう。耳まで赤くなっている。
「ただ、帰りが遅くなるかもしれない。エーリッヒにはそう伝えておいてくれ」
「かしこまりました。あの、旦那様」
「何だ」
「その……お気をつけて。最近、東区のほうで治安が悪くなっているとか、メイドのリーゼが言っておりました。夜は特に危ないそうで。酔っ払いの喧嘩やスリも増えていると。それから、野良犬が凶暴化しているという話もあって……あ、すみません、余計なことを」
「余計じゃない。ありがとう、ヨハン。気をつけるよ」
「い、いえ! そんな、旦那様にお礼を言われるほどのことでは……」
少年は顔を真っ赤にして俯いた。主人から名前を呼ばれ、礼を言われることなど、使用人の身分では滅多にないことだ。
この少年もまた、第一周目では守れなかった一人である。革命の混乱の中で、どこへ消えたのか最後まで分からなかった。生きているのか、死んでいるのかすら。
今度は違う。この少年も、全員守る。
使用人たちは顔を見合わせたが、主人の強い意志を感じ取り、それ以上は何も言わなかった。
重い扉を開け、外に出る。
朝の冷気が頬を撫でた。清々しく、どこか鉄の匂いのする王都の空気。鍛冶屋の煙だろうか。それとも、石畳に沁み込んだ馬蹄の鉄の匂いか。遠くで鐘楼の鐘が鳴っている。七つの鐘。まだ朝は始まったばかりだ。
レオポルトは石畳を踏みしめ、歩き出した。
その足取りは確かで、迷いがない。
目指すは職人街。
頑固で気難しく、しかし誰よりも腕の立つ老技師、オスカー・ブラウエルの工房だ。第一周目では最期まで自分の側にいてくれた男。「走れ」と叫んでくれた男。その信頼を、今度は裏切らない。
「待っていてくれ、先生。今度こそ、あなたの傑作を灰にはさせない」
背中に朝陽を感じながら、レオポルトは心の中で誓った。
今度こそ完璧なやり直しを。誰も犠牲にしない。誰も裏切らせない。そしてこの王国を、自分の手で救ってみせる。
二つの人生を持つ男の第二周目の挑戦が、今、始まろうとしていた。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます!
ついにレオポルトの物語が動き出しました。
断頭台の衝撃から3年前へと戻ったレオポルト。前世である「1990年代の百貨店バイヤー」としての辣腕スキルと、現世の「貴族としての教養」が完全に統合された瞬間、彼はただの青年貴族から、王国最強の「経営者」へと生まれ変わりました。
かつては「現代知識をそのまま持ち込む」という慢心がありましたが、二周目の彼は違います。
「なぜ失敗したのか」を冷静に分析し、執事エーリッヒという最も信頼できる味方を、今度は「ビジネスパートナー」として頼ることに決めました。
百貨店マンとしての武器である「POSデータの活用」や「現場主義」、そして「人の心を読む力」が、この中世ファンタジー世界でどう革命を起こしていくのか。
次回の第3話では、レオポルトがいよいよ具体的な一歩を踏み出し、王国最強の職人を口説きに向かいます!




