表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

14/18

第14話 保守派貴族の妨害工作

 デパートの建設工事は、今のところ順調に進んでいた。


 鋳鉄の骨組みが日ごとに天へ伸び、その威容は王都の空を切り裂くかのように聳え始めている。朝焼けの薄紅色が鉄骨の表面を染める頃には、現場のあちこちで槌音が鳴り響き、日が西の稜線に沈み切るまで、職人たちの熱気が途切れることはなかった。


 朝には集合の笛が高く吹き鳴らされ、労働者たちが四方から足早に集まってくる。昼時になると太陽が真上から差し込み、鋳鉄の柱が長い影を地面に落として、その巨大さをいっそう際立たせた。夕暮れにはガス灯が次々と灯され、蒼い炎が現場を照らす中、深夜まで作業が続く日も珍しくなくなっている。


 建設現場の周囲には、日を追うごとに見物の民衆が増えていた。完成を待ちわびる者、興味本位で足を止める者、あるいは自分の暮らしがどう変わるのかを量りかねて不安げな目を向ける者。期待と怯えが交錯する視線の中で、建物は着実にその姿を現しつつある。


「おい、見ろよ。もう三階の高さまで柱が立ってるぞ」

「すげえな……。本当に五階建てになるのか。こんな建物、王宮以外で見たことねえよ」

「しかも全部鉄の骨組みだろう。石積みじゃなくて鉄だぜ。どうやって組んでるんだか、見当もつかねえ」

「あのガラスが全部天井に嵌まったら、どんな景色になるんだろうな。空が見えるんだろう、建物の中から」

「雨の日にガラス越しの空を見上げたら、さぞ綺麗だろうなあ」

「早く完成しねえかな。楽しみで仕方ねえよ」


 民衆の声は明るく弾んでいる。しかし、その希望に満ちた喧騒の裏側で、どす黒い陰謀が音もなく渦を巻いていた。


 保守派の巨魁、ゲオルク・フォン・エッケルト伯爵は、まだ諦めてなどいなかったのである。


 王からの叱責を受けてなお、彼の野心とレオポルトへの恨みは消えるどころか、傷つけられた自尊心という燃料を得て、かえって激しく燃え上がっていた。自らの権威を否定されたという屈辱が、老いた権力者の胸の奥で煮えたぎり、理性の堤防を少しずつ侵食し続けている。


 王都の一等地に構えるエッケルト伯爵邸は、王国の古い貴族制度そのものを体現したかのような建物だった。重厚な石造りの外壁は幾世紀もの風雨に耐え、苔むした表面が歴史の重みを無言で語っている。門扉に刻まれた家紋は三百年の血統を誇示し、玄関を潜れば、幾代にもわたって蓄積された美術品と先祖たちの肖像画が、訪問者を威圧するかのように壁という壁を埋め尽くしていた。


 その邸宅の奥深く、豪華な調度品に囲まれた書斎で、ゲオルクは腹心たちを集めて密談を行っていた。


 六十歳になる彼の太った体躯は、抑えきれない怒りに小刻みに震え、顔面は上等なワインを浴びせられたように赤く染まっている。鷲鼻の下に蓄えた白い口髭が、荒い呼吸のたびに揺れていた。長年この国の保守的な秩序を守り続けてきたという自負が、新参者の台頭を決して許さない。その自尊心を正面から踏みにじられた事実が、彼にとって何よりも耐えがたい屈辱として心臓の裏側に張り付いていた。


「ヴァイスハルトの小僧め……まんまと土地を確保し、王の承認まで得おった。あの若造が、この王都でどれほどの年月を過ごしたというのだ。たかだか数か月ではないか」


 ゲオルクの太い声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。しかしその声の底には、年老いた権力者が若き才能に取って代わられることへの、骨の髄まで染みついた恐怖が潜んでいた。


「あの男は何者だ。ただの男爵だぞ。父親の代では、王宮での発言権すらなかった家系ではないか。それが、たった一人の若造の登場で、王の信頼を一手に集めている。あり得んことだ。何か裏がある。何か、我々の知らぬ力が働いているに違いない」


 ゲオルクは葉巻を取り上げ、銀の火口で火をつけた。琥珀色の炎が一瞬だけ彼の血走った目を照らし、やがて紫煙が天井へ向かってゆるりと立ち昇っていく。


「我がエッケルト家は、三百年にわたってこの王国の貴族制度を支えてきた。祖父は先々代の王の右腕として仕え、父は宰相に近い権限を握って国政を動かした。その三百年の重みが、たった一人の若造に軽んじられているのだ。侮辱だ。我が家の歴史に対する、この上ない侮辱だ。先祖の墓前に顔向けができんわ」

「職人どもまで手懐けたようだが、思い上がるのもここまでだ。あの小僧の浅知恵がどれほどのものか、思い知らせてやらねばなるまい」


 側近の一人が革張りの椅子に座ったまま、恭しく口を開いた。四十代半ばの男で、薄い眉の下に光る目には、主人の怒りに同調しつつも、その先の戦略を冷静に模索する計算高さが浮かんでいる。


「伯爵様、次はどのような手をお打ちになりますか。前回の妨害工作も、残念ながら目論見通りには進みませんでした。ヴァイスハルト側の対応は、我々の想定を上回る速さでございました」

「目論見通りに進まなかったのは、相手の情報網が予想以上に優秀だったからだ。あのヴァイスハルトの執事、エーリッヒとか言ったな。あの男は、ただの執事ではない。元は王宮の密偵だという噂がある。情報戦で後手に回るのは、奴がいる限り避けられん。奴は影のように動き、こちらの手札を事前に読んでくる。厄介この上ない存在だ」


 別の側近が口を挟んだ。この男は軍歴を持つ元騎士で、実行力に長けた人物として知られている。


「では、情報戦を避け、より直接的な手段に出るべきではございませんか。相手が情報で先手を打つというのであれば、こちらは物量で圧倒すればよろしいかと存じます。情報で勝てぬならば、力の土俵で勝負を仕掛けるのが道理でございましょう」

「その通りだ」


 ゲオルクは口の端を歪め、冷酷な笑みを浮かべた。その笑みには、長年にわたって権力を振るってきた者だけが持つ、人を踏みにじることへの躊躇いのなさが刻まれている。


「金だ。金で職人を殴り、引き抜く。それが最も確実な方法だ」


 その言葉には、市場の力学を熟知する貴族としての揺るぎない確信が込められていた。金は万能である。何者も金の誘惑には抗えない。ゲオルクはそう信じて疑わなかった。なぜなら、彼自身がそうやって六十年を生きてきたからである。


「情報網がどれほど優秀であろうと、金の前では無力だ。人間は理想では腹が膨れん。三倍の報酬を提示されて断れる職人が、果たしてどれほどいると思う。ヴァイスハルトが何を説こうと、金は嘘をつかない。美しい言葉より、一枚の金貨の方が重い。それが人間という生き物の真実だ」


 彼は葉巻の煙をゆっくりと吐き出しながら、声を低めた。


「リソース不足に陥らせるのだ。工事を遅延させ、建設費を際限なく膨らませてやれ。最終的に、ヴァイスハルトが資金ショートを起こして自滅するよう仕向ける。民衆の目の前で、奴が金欠のあまり工事を放棄する醜態を晒せば、所詮は新参者の浅はかな夢物語だったという評価で幕が下りる。誰も二度とあの男の言葉を信じなくなるだろう」

「具体的には、どの職種を狙いますか」


 側近が身を乗り出して尋ねた。


「まず石工だ。基礎の補強工事に不可欠な連中を引き抜け。地盤が揺らげば建物そのものが揺らぐ。次に、鋳鉄の職人。骨組みの組み立てができなくなれば、工事は完全に止まる。そして最後に、ガラス職人だ。天井の取り付けは最難関の工程であり、最も高度な技術を要する。ここの人員を奪えば、完成は数年先に延びるだろう」

「三倍の報酬で応じなかった場合はいかがいたしましょう」

「五倍にしろ。それでも駄目ならば、家族の安全を仄めかせ。直接的な脅迫はするな。匂わせるだけでよい。『このご時世、何が起きるかわかりませんからなあ』と、その程度で十分だ。庶民というものは、暗示だけで震え上がる。想像力が恐怖を増幅してくれるのだ。我々が手を汚す必要すらない」


 ゲオルクは、自らの戦略の精妙さに満足げに頷き、葉巻の灰を銀の灰皿に落とした。


「それとな」


 不意に声の調子が変わった。ゲオルクの瞳に、狡猾な光が宿る。それは老獪な権力者の本質を剥き出しにした、底なしの暗さを帯びた光だった。


「ヴェルディア帝国とも連携する。奴らもまた、ヴァイスハルトの存在を煙たがっているはずだ。帝国にとって、王国の内需が強化されるのは望ましくない。敵の敵は味方。利用できるものは何でも利用する。それが政治というものだ」

「帝国との連携、ですか……。しかし伯爵様、外国勢力と手を組むことが露見すれば、反逆罪に問われる可能性がございます。いくら伯爵様のお力があっても、反逆罪ともなれば、弁護の余地は」

「露見しなければ問題ない。帝国の商務使節団にシュタイナーという男がいる。あの男は、表向きは友好的な商人の顔をしているが、実態は諜報員だ。そのような男と手を組むことに、倫理的な抵抗があるとでも言うのか。我々が守ろうとしているのは、この国の秩序だぞ。秩序を守るためならば、多少の手段は正当化される」


 側近は口をつぐんだ。反論の言葉を探したが、主人の目に宿った異様な光を前にして、何も言えなくなったのである。


「いいか、よく聞け。この王国の秩序は、我々古い貴族が三百年かけて築いてきたものだ。それを、あの若造一人に壊されてたまるか。そのためならば、帝国であろうと悪魔であろうと、手を組む覚悟がある。お前たちにも、その覚悟はあるな」


 側近たちが一様に頷いた。その頷きの中には、主人の命令への絶対的な服従と、同時に、もはや引き返せない道に踏み込んでしまったという微かな恐怖が同居している。


 ゲオルクは、帝国との密約の下準備を既に済ませていた。彼の持つ情報ネットワークは、保守派貴族の中でも屈指の規模を誇っている。その網の目は王都の隅々にまで張り巡らされ、密使を飛ばすための回路はとうの昔に構築されていたのだ。


「左様でございますか。では、早速、人員の引き抜きに動きます。本日中に手配を整えましょう」

「急げ。奴の建物が完成する前に、基盤を揺るがすのだ。完成してしまえば、もう手遅れになる。民衆があの建物を自分たちのものだと認識した瞬間に、我々の影響力は永遠に失われる。時間は我々の味方ではない」

「承知いたしました。本日中に、現場の職人名簿を入手し、標的を選定いたします。石工、鍛冶、ガラス職人の順に、最も影響の大きい者から接触いたしましょう」

「それから、運送業者にも手を回せ。資材が現場に届かなくなれば、いかに腕の立つ職人がいても何もできん。金で動かないなら、脅せ。それでも動かないなら、競合の運送業者を使って市場から締め出せ。手段は問わん。結果だけを持ってこい」


 書斎に漂う紫煙の中で、側近たちは深々と頭を下げた。こうして、ゲオルクの陰謀は静かに、しかし確実に動き始めたのである。



 数日後、建設現場に異変が起きた。


 朝もやがまだ残る中、棟梁オスカー・ブラウエルが現場に到着すると、いつもなら五十名はいるはずの職人が、三十名ほどしかいなかった。


 普段ならば活気に満ちた朝の光景が、その日に限って妙に閑散としている。槌音はまばらで、足場の上に人影が見えない区画がいくつもあった。


 その光景を目にした瞬間、老職人の顔色が一変した。


「なんだ、これは……」


 オスカーの声には深い戸惑いと、それを上回る懸念が滲んでいる。昨日まで確認していた人数と明らかに異なる。それは単なる欠勤ではなく、何か組織的な事態が起きた兆候を示していた。五十年の経験が、直感的にそう告げている。


「おい、他の連中はどうした。説明しろ」


 オスカーが残っていた石工の一人に歩み寄り、問い詰める。数十年の現場経験から培われた絶対的な権威が、その太い声に乗って職人を射貫いた。


「昨日の時点で五十二名が登録されていたはずだ。今朝は三十一名しかいない。二十一名が消えたということになる。病欠か。事故か。まさか全員が同時に体調を崩すなどということはあるまい。何があった。隠さず言え」


 石工は気まずそうに目を逸らし、小声で答えた。声は震え、その瞳には申し訳なさと、何かから逃れたいような焦燥が映っていた。


「……引き抜かれました、棟梁。昨日の夜間に、どこぞのお屋敷の側近だという男が現れまして、片端からスカウトをかけられたんです」

「引き抜きだと。誰にだ。どこの差し金だ」

「ゲオルク伯爵の別邸改修工事だそうです。報酬は、ここの三倍出すと言われまして……。断り切れなかった者が、次々と」


 その言葉で全ての絵図が明らかになった。経済的な圧力を用いた、組織的な人員の奪取である。


「三倍だと。あの伯爵、そこまでやるか……」


 オスカーは舌打ちし、無意識のうちに拳を固めた。節くれだった指が白くなるほど力が込められている。その拳の中に、職人としての誇りを踏みにじられた痛みが凝縮されていた。


「それだけじゃありません、棟梁」


 別の職人が、おずおずと前に出て口を開いた。若い男で、額には脂汗が浮かんでいる。


「引き抜きに応じなかった者には……脅しがかかっています。『今のうちに辞めた方が身のためだぞ。この建物は完成しない。完成する前に必ず潰される。その時、残っていた者は路頭に迷うことになる』と、そう言われたそうで……」

「脅しまでかけやがったか。卑怯者が。金で釣った上に、恐怖で追い打ちをかけるとはな……」


 オスカーの怒号が朝の現場に響き渡った。足場の上で作業を始めかけていた職人たちが、一斉に手を止めてこちらを見る。


「それで奴らは引き抜きに応じたと。三倍の金に目が眩んで、この現場を捨てたと。そういうことか」


 石工は視線を足元に落としたまま、か細い声で答えた。


「申し訳ございません、棟梁。俺たちの中にも心が揺れた者はおります。給料がもう少しよければ……もう少し余裕があれば、こんなことにはならなかったかもしれません」

「棟梁、俺たちだって好きで残ってるわけじゃないんです。家族がいるんです。嫁も子供もいる。毎日食わせていかなきゃならない。三倍の報酬だと言われたら、心が揺れるのは……当然じゃないですか。それを責められたら、俺たちはどうすればいいんです」

「棟梁、去った連中を恨まないでやってください。あいつらだって、苦しんで決めたんです。前の晩、酒場で泣いてた奴もいました。男爵様を裏切りたくない、でも家族を飢えさせるわけにはいかないと」


 その言葉の一つ一つが、贅沢ではなく、生きるための切実な現実だった。職人たちは毎日、家族の食卓を賄うために汗を流している。より高い報酬の申し出があれば、それに応えるのは人間として当然の反応であり、それを非難する権利は誰にもない。


「だが、俺は残りました」


 不意に、別の石工が静かに、しかし力強い声で言った。中年の男で、日焼けした顔に深い皺が刻まれている。


「男爵様が約束してくれたんです。この建物が完成すれば、俺たちの人生が変わると。あの方の目を見た時、嘘じゃないと思った。俺は、あの方の言葉を信じることにしたんです。金より、信じたいものを選んだ。ただそれだけのことです」

「俺もだ。男爵様に赦してもらった恩がある。あの時、クビにされて当然だったのに、赦してくれた。もう一度やり直せと言ってくれた。あの言葉がなければ、俺は今頃、路地裏で酒に溺れていたはずだ。金なんかで裏切れるわけがねえ」


 ヨハンが、静かに拳を握りしめて言った。その隣でフリッツとクラウスも深く頷いている。三人の目には、金銭では買えない何かに対する、揺るぎない忠誠が宿っていた。


 オスカーは怒りを呑み込み、長いため息をついた。相手を責めることはできない。責めるべきは、その弱みにつけ込んだゲオルク伯爵だ。職人たちの暮らしの脆さを武器に変えた、あの老人の卑劣さこそが憎むべき対象である。


「……わかった。去った者を責めはせん。奴らにも生活がある。家族を食わせるために選んだ道を、俺がとやかく言う筋合いはない。だが、残ってくれた者たちには心から感謝する」


 オスカーは残った職人たちの顔を一人ひとり見渡した。若い者も年老いた者もいる。誰もが不安を抱えながら、それでもここに立っている。


「いいか、お前たち。人数は減った。二十一人が抜けた。だが、この現場にいる三十一名は、金よりも信念を選んだ者たちだ。俺は、五十年の職人人生の中で、こんなに誇らしい仲間を持ったことがない。胸を張れ。お前たちは、この建物の魂そのものだ」


 職人たちの間に、静かな、しかし確かな結束の空気が流れた。誰も声を上げはしなかったが、互いの目を見れば、言葉にせずとも通じ合うものがある。


「わかったな。悪いようにはせん。だが、今は手を動かす時だ。作業に戻れ。人数が減った分、一人ひとりの負担は増える。覚悟してくれ。だが、俺が必ず段取りを工夫して、無理のない配置にする。それだけは約束する。誰一人、潰させはしない」



 残された職人たちだけで工事を進めるのは、困難を極めた。


 特にガラスの取り付け作業は深刻だった。一枚の巨大なガラス板を高所に据えるには、最低でも四人一組の熟練チームが必要である。人手不足は致命的な遅れを生む。四人で行うべき作業を三人で無理やり進めれば、品質が低下するばかりか、最悪の場合、落下事故が起きかねない。


「棟梁、四階のガラス取り付けチームが一名足りません。三人で作業を進めてもよろしいでしょうか」

「駄目だ。三人では安全を保証できん。一枚五十キロのガラスを十五メートルの高さで扱うんだぞ。支える手が一本でも足りなければ、命に関わる。一瞬の油断で人が死ぬ。そんな危険を冒すわけにはいかん。別の作業を先に進めろ。ガラスは人員が揃うまで待て」

「しかし、そうなると工期が大幅に遅れます。予定では来週には四階の天井部分に着手するはずでしたが」

「工期より命だ。何度言わせる。俺はな、五十年間で一人も現場で死なせたことがない。たった一人もだ。その記録を、今さら破る気はない。工期が遅れるのは取り返しがつく。だが、人の命は取り返しがつかんのだ」


 現場の士気も、目に見えて低下していった。職人たちは、同じ釜の飯を食ってきた仲間が次々と引き抜かれていくのを目の当たりにして、足元の地面が揺らぐような不安を感じ始めている。次は自分が声をかけられるのではないか。断り続ける自信はあるのか。その疑念が、じわじわと心を蝕んでいく。


「なあ、俺たちも引き抜かれるんじゃないか……。次に声をかけられたら、断れる自信がねえよ。正直なところ」

「馬鹿を言え。男爵様を信じるって決めたんだろうが」

「信じてるさ。だが、信じることで飯が食えるわけじゃねえんだ。女房に、信じてるから給料は減るけど我慢してくれ、なんて言えるか。子供の顔を見ながら、そんなことが言えるか」

「……言えねえな」


 その会話を聞きつけ、オスカーがゆっくりと歩み寄った。


「おい、お前たち。不安なのはわかる。当然だ。だが、下を向くな。男爵様が必ず手を打つ。あの方は、これまで一度も俺たちを見捨てなかった。約束を破ったことも一度もない。今回も同じだ。必ず何とかしてくれる」

「棟梁、本当にそう思いますか。相手はエッケルト伯爵ですよ。この国で五指に入る大貴族だ。金も権力も桁が違う。男爵様のお力で、本当に対抗できるんですか」

「できる。いや、できるかどうかじゃない。あの方は、やるんだ。俺は五十年間、数え切れないほどの人間を見てきた。嘘をつく者も、逃げる者も、裏切る者も見てきた。だがな、あの男の目は違う。何があっても諦めない者の目だ。どれだけ追い詰められても、膝を折らない者の目だ。俺は、あの目を信じる。それで十分だろう」


 さらに悪いことに、資材の搬入までもが滞り始めた。


 予定の時間になっても石材が届かない。朝一番で納期の確認をしても、夕方になっても現場に到着しない。木材の量が足りない。鋳鉄の質が明らかに悪い。搬送過程で破損したという報告が日を追うごとに増えていく。


 オスカーが運送業者を問い詰めても、返ってくるのは曖昧な言い訳ばかりだった。


「道が混雑しておりまして……。王都全体で何やら祭りでもあるのか、街が大変なことになっておるのです。荷馬車がなかなか進めませんで」

「祭りだと。今の季節に祭りなどないぞ。出鱈目を言うな。俺はこの王都で五十年暮らしている。祭りの日程くらい全部知っておるわ」

「いえいえ、滅相もございません。確かに道が……その、いつもより馬車の往来が多くて……本当でございますよ」

「嘘をつくならもう少しましな嘘をつけ。目を逸らすな。俺の目を真っ直ぐ見て話してみろ」

「し、失礼いたしました。実は馬車が故障しまして……。車輪の修理に思わぬ時間を要してしまったのです。申し訳ございません、まことに申し訳ございません」

「三日連続で馬車が故障するなど、あり得ん。整備を怠っているのか、それとも、別の理由があるのか。どっちだ」

「い、いえ、偶然が重なっただけでございまして……。運が悪いと言いますか、星の巡りが……」

「ほう、今度は星のせいか。先週は馬の蹄鉄が外れたと言い、一昨日は荷台の板が割れたと言い、昨日は御者が腹を下したと言い、今日は星の巡りだと。明日は何だ。隕石でも降ってくるか」


 オスカーの皮肉に、運送業者は顔を真っ赤にして黙り込んだ。額から流れる汗を拭うこともできず、視線を泳がせている。


 運送業者たちの言い訳は、一つずつ取り上げれば、あり得ないものではない。馬車の故障も、御者の病気も、日常的に起こりうることだ。だが、それらが連続して起きるのは、どう考えても偶然ではなかった。


「……棟梁」


 一人の若い職人がオスカーに近づき、声を潜めた。


「俺、昨日の夜、運送業者のハンスのところに寄ったんです。仕事の後で一杯やろうと誘いまして。酒をおごってやったら、ハンスが途中から泣き出しましてね。声を殺して泣きながら言うんです。『俺だって届けたいんだ。あの現場の職人たちには世話になった。だが、届けたら商売を丸ごと潰されると脅されている。家族もろとも路頭に迷うと』」

「誰にだ。誰に脅された」

「名前は言えないと。怖くて言えないと。ただ、相手は王都で一番偉い伯爵様の使いだとだけ……。服装がよくて、靴が革製で、貴族の使用人だということは間違いないと」

「……エッケルトか」


 オスカーの顔に、怒りと確信が同時に浮かんだ。やはりそうだったか、という思いと、ここまでやるかという憤りが、深い皺の刻まれた顔に交錯している。


 執事エーリッヒの調査により、真相はすぐに判明した。


 元王宮密偵としての彼は、帝国の情報網にも匹敵する独自の探索能力を持っている。わずか数日で全ての糸を繋ぎ合わせ、裏で蠢く陰謀の全体像を白日の下に晒してみせた。


 運送業者たちは、ゲオルク伯爵から組織的な圧力をかけられていたのだ。


「デパートへの搬入を遅らせろ。さもなくば、今後の取引は一切行わない。すべての商人に、お前たちを取引先から外すよう周知させるぞ」


 その脅迫は、実質的な経営破綻を意味している。王都の商人たちの信用を失えば、運送業は成り立たない。ゲオルク伯爵の影響力は、レオポルトたちの想像を超えて広大だったのである。


 男爵邸の書斎で報告を受けたレオポルトは、静かに目を閉じた。


 窓から差し込む午後の光が、執務机の上に広げられた図面を柔らかく照らしている。だが、その穏やかな光とは裏腹に、もたらされた報告の内容は苛烈だった。


「……予想通りの展開だ」


 焦りはない。むしろ、予期されていた事態が現実になったことを確認する冷静さが、その声には宿っていた。第一周目でも経験したことだ。権力を失いかけた者の必死の抵抗。そのパターンは時代が巡っても繰り返される。


「旦那様、状況を整理いたします」


 エーリッヒが書類の束を執務机の上に広げた。几帳面に整理された報告書には、彼の正確な筆跡で数字と名前がびっしりと記されている。


「現在、建設現場の人員は五十二名から三十一名に減少。減少率は約四割に達しております。主に石工と鍛冶職人が引き抜かれており、ガラス職人と魔導技師については、今のところ無事でございます。資材の搬入遅延については、石材が三日遅れ、木材が五日遅れ、鋳鉄の追加発注分が一週間以上遅延している状況です。特に鋳鉄の遅延は深刻で、四階部分の骨組み工事に直接影響を及ぼしております」

「引き抜かれた職人たちの行き先は確認できたか」

「はい。全員、エッケルト伯爵の別邸改修工事に配属されております。ただし、旦那様、注目すべき点がございます」

「何だ」

「エッケルト伯爵の別邸は、二ヶ月前に改修を完了したばかりでございます。新たな改修工事の計画など、どこにも存在しておりません。私が調べた限り、建築許可の申請も出されておらず、資材の発注記録もございません」

「……つまり、引き抜いた職人たちに実際の仕事を与えるつもりはないということか」

「左様でございます。三倍の報酬を支払うのは、せいぜい一月か二月といったところでしょう。その後は適当な理由をつけて解雇するに違いありません。職人たちは、その頃には元の現場にも戻れない状態に追い込まれている。行き場を失い、路頭に迷うことになります」

「使い捨て、か。……卑劣だな」


 レオポルトの声に、冷たい怒りが滲んだ。それは感情に任せた激昂ではなく、人間の尊厳を踏みにじる行為に対する、理性的な憤りだった。


「ゲオルクにとって、職人たちの人生など、遊戯の駒に過ぎないのだろう。引き抜いて、使って、捨てる。その後どうなろうと、知ったことではないと。三百年の名門が聞いて呆れる」

「旦那様。引き抜かれた職人たちの中に、妻子を養っている者が十二名おります。彼らが解雇されれば、十二の家庭が路頭に迷うことになります。子供の数にして、二十三名。乳飲み子を含む幼い子供たちです」

「……わかっている」


 レオポルトは目を開いた。その瞳には、もう迷いの色はない。矢継ぎ早に指示を出し始める。その指示の速度と精度は、報告を受ける前から既に複数の対策案を脳内で練り上げていたことを如実に示していた。


「対策を講じる。複数の層で、同時にだ」


 エーリッヒが、羽根ペンを手に取り、新しい紙を広げてメモの準備を整えた。


「まず、人員の補充だ。熟練工をすぐに集めるのは難しい。ならば、若手の見習いを大量に雇い入れる。オスカー先生に頼んで、現場で教育しながら使ってもらう形を取りたい。実地訓練と建設作業を同時に進めるのだ」

「見習いの募集は、どの範囲で行いますか」

「王都全域だ。貧民街も含めて、むしろ貧民街を重点的に回ってくれ。特に、身体は丈夫だが仕事がない若者を優先的に探してほしい。彼らにとっては職を得る千載一遇の機会になるし、我々にとっては人手を確保できる。双方にとって利益がある話だ」

「承知しました。しかし、工期は確実に遅れることになります。見習いの教育にも相応の時間がかかりますし、熟練工と同じ速度では到底作業が進みません」

「どの程度の遅延を想定する」

「最低でも二ヶ月。最悪の場合、四ヶ月に達するかと」

「遅れても構わない」


 レオポルトの返答は明瞭だった。


「人を育てることは、長期的にはこの王国の財産になる。今急いで完成させることよりも、将来にわたって活躍できる人材を得ることの方が遥かに価値がある。エドヴァルトも、ゲオルクも、短期的な勝利しか見ていない。目の前の盤面しか読めていないのだ。だからこそ、俺たちは長期の視座で動く」

「それに、見習いたちが腕を磨き、一人前に成長すれば、この国に新たな熟練工が生まれる。デパートの建設だけではない。完成後の維持管理、さらには将来の建設事業にも貢献できる人材になるだろう。ゲオルクは、職人を奪って建設を妨害したつもりでいるのだろうが、結果として、この国の職人の総数を増やすことに貢献してくれたわけだ。皮肉な話だがな」

「……旦那様は、敵の攻撃をすら、味方の利益に変換されるのですね」


 その戦略の射程の長さに、エーリッヒは改めて主人の器量を確認した。目の前の危機を嘆くのではなく、危機の中に未来の種を見出す。そのような視点を持てる人間は、エーリッヒの長い経験の中でも数えるほどしかいなかった。


「次に、資材搬入の問題だ。中間業者を排除し、生産地から直接買い付けるルートを確立しろ。王国内の鉱山、林業地、ガラス工房……すべてと直接取引を結ぶ。中間に人が入れば入るほど、ゲオルクの圧力が効く余地が生まれる。その余地を潰すのだ」

「マルクスの商人ネットワークは活用できますでしょうか」

「ああ。マルクスには既に話を通してある。彼のネットワークを使えば、ゲオルクの影響が及ばない独立系の業者と繋がることが可能だ。マルクスは王都の外にも広い人脈を持っている。地方の生産者と直接結べるのは、彼の力があればこそだ」

「旦那様、帝国の通商商人がそのルートを妨害してくるおそれもございます。帝国は王国の通商路にも一定の影響力を持っておりますので」

「その時は、王の名において商人ギルドを通じて圧力をかける。ヴォルフガング・ケーラーなら、この件で力を貸してくれるはずだ」

「ケーラー殿は、先日の会談以来、デパート計画への支持を公言されております。ギルド内の穏健派をまとめる力は十分にあるかと。彼の発言力は、ここ数か月で格段に増しております」


 レオポルトは頷いた。すべての布石が、既に打たれている。それぞれの駒が、それぞれの場所で、その役割を果たす準備ができていた。


「信頼できる運送業者と専属契約を結び、ゲオルクの手が届かない独自の流通網を構築する。契約額に見合う報酬を用意して、他の商人からの切り崩しに応じないよう、しっかりと繋ぎ止めるのだ。義理だけでは人は動かない。相応の対価を示してこそ、信頼関係は盤石になる」

「承知しました。旦那様、もう一点よろしいでしょうか。引き抜かれた職人たちへの対応はいかがいたしましょう」

「彼らがゲオルクの元で解雇された時のために、復帰の道を残しておけ。『戻りたい者はいつでも戻れる。罰則はない。報酬は以前と同額を保証する』と、引き抜かれた全員に伝えてくれ」

「寛大な措置ですが……裏切った者を受け入れるとなれば、残った職人たちが反発するのではありませんか。自分たちは苦しい中を耐えたのに、去った者が何の咎めもなく戻ってくるのかと。その不満は無視できないかと存じます」

「反発するかもしれない。だが、エーリッヒ、あの職人たちは裏切ったのではない。家族を守るために選択したのだ。その選択を責める権利は、俺にはない。俺がもし同じ立場だったら、同じことをしたかもしれない。それに、彼らが戻ってくれば、工期の遅れを取り戻せる。感情よりも実利を優先すべき場面だ」

「承知いたしました。引き抜かれた職人たちの家族の所在も把握しておきます。万が一の事態に備えて、保護できる態勢を整えておく必要がございますので」

「頼む。それから、オスカー先生にも現状を詳しく説明しておいてくれ。見習いの教育方針について、先生と直接膝を突き合わせて打ち合わせたい」


 さらに、レオポルトは会計担当のルートヴィヒ・ベッカーを呼び出し、予算管理の徹底を命じた。


 五十代の几帳面な会計士は、丸い眼鏡の位置を人差し指で直しながら、力強く頷いた。痩せた長身に仕立ての良い地味な上着を纏い、その厳格な佇まいは、あらゆる無駄を許さない人間の気質を雄弁に物語っている。


「お任せください、旦那様。釘一本、水一杯に至るまで、無駄な支出は一銭たりとも許しません。予算表の毎日の更新、支出の記録、入金と出金の突合、すべてを厳密に管理いたします。数字の上に曖昧さが入り込む隙は、私が生きている限りございません」

「ルートヴィヒ、現在の予算残高はどうなっている。正直に聞かせてくれ」

「旦那様、率直に申し上げます。人員の引き抜きと資材遅延により、当初の予算計画から約一五パーセントの超過が見込まれます。具体的には、人員補充のための追加募集費用、資材の緊急調達による割増費用、そして工期延長に伴う固定費の増大。この三つが主な超過要因です。しかし、王室からの出資分と旦那様の個人資金、そしてマルクス殿の商人組合からの拠出分を合わせれば、二割の超過までは対応可能な計算になります」

「二割か。……ギリギリだな」

「はい。綱渡りと申し上げても過言ではございません。ただし、これ以上の妨害が続けば、予算は底をつきます。資金ショートを防ぐためには、支出の最適化が不可欠です。私の提案としましては、まず現在の夜間作業を一時的に縮小し、魔導照明の燃料費を節約すること。次に、見習いの雇用を段階的に行い、一度に大量の人件費が発生しないよう時期を分散させること。この二点を実行すれば、超過幅を一八パーセント以内に抑えることが可能と試算しております」

「いい提案だ。採用しよう。ルートヴィヒ、お前の几帳面さが、今ほどありがたく感じられる日はない」

「恐れ入ります。……しかし旦那様、私は几帳面なのではございません。ただ数字に対して誠実なだけでございます。数字は嘘をつきませんので。人の口は飾れますが、帳簿の数字は飾れません」

「その通りだ。数字と帳簿は、この戦いにおける最も頼もしい武器の一つだ。頼りにしているぞ、ルートヴィヒ」



 だが、ゲオルクの悪意は、さらに卑劣な方向へとエスカレートしていった。


 どこまでも追い詰められ続ける者の中に残るのは、もはや理性ではない。焦燥と怒りだけだ。


 ある新月の夜のことだった。


 星の光さえ届かぬ濃い闇が王都を覆い、街灯の炎すら心許なく揺れるその夜半に、静まり返った建設現場で火の手が上がった。


 夜警の見回りが早かったおかげでボヤで済んだものの、積んであった木材の一部が焼失し、焼け焦げた臭いが夜風に乗って周囲に広がり、眠っていた職人たちを叩き起こした。


 夜警の老人が、息を切らせながらオスカーの宿舎に駆け込んできた。


「棟梁、棟梁、大変です。北側の木材置き場が……火が出ております。炎がもう三尺ほどの高さまで上がっておりまして」

「何だと。すぐに行く。おい、全員起きろ。水を持ってこい。バケツリレーだ。一秒でも早く動け」


 オスカーは寝間着のまま飛び出し、裸足で現場に駆けつけた。夜闘の中で、北側の木材置き場から立ち昇る炎のオレンジ色が、彼の険しい顔を照らしている。


「くそっ、火の回りが速い。風向きは……北西か。このままでは足場にまで燃え移る。お前たち、足場の周囲の木材を退避させろ。燃えていないものは一本でも多く救え。動ける者は全員、手を貸してくれ」

「棟梁、この臭い……ただの失火じゃないですよ。油の臭いがする。木が焼ける臭いとは違います。間違いなく、何かの油が撒かれています」

「油だと……。放火か」


 職人たちが必死でバケツリレーを組み、手から手へ水桶を渡していく。魔導技師のディートリヒが水の魔導刻印を緊急起動し、消火に当たった。


「ディートリヒ、水の刻印は使えるか」

「使えます。ただ、本来は建設用の刻印ですので、消火用には設計されておりません。水圧が弱い。バケツリレーと併用してください。両方合わせれば、なんとか抑え込めるはずです」

「よし、やれ。お前たち、火元の周囲を囲め。延焼を防ぐことだけに集中しろ。足場に燃え移ったら終わりだ」


 約一時間の格闘の末、火はようやく鎮火された。


 職人たちは煤だらけの顔で荒い息をつき、互いの無事を確認し合っている。炎は消えたが、焼け焦げた木材の残骸が黒々と横たわり、その周囲には焦げた臭いと立ち上る白煙が重く漂っていた。


 現場検証の結果、油を撒いた跡と、火打ち石の破片が見つかった。さらに、焼け残った瓦礫の中から、銀色に光る小さな物体が回収される。


「棟梁……これを見てください」


 一人の職人が、煤で汚れた手で慎重にそれを拾い上げた。


「懐中時計だ。……この紋章は」

「エッケルト伯爵家の紋章だ。間違いない。この獅子と盾の意匠を見間違えるはずがない」


 オスカーはその時計を手に取り、怒りで唇を震わせた。銀の蓋に深く刻まれた紋章が、ガス灯の光を受けて鈍く輝いている。


「……あの腐れ貴族め。職人を引き抜くだけでは飽き足らず、今度は放火か。人が寝ている時間帯を狙って火をつけるとは、殺す気だったのか……。いや、殺してもかまわないと思っていたのか。俺たちの命など、虫けら同然だとでも思っているのだろうよ」

「棟梁、怪我人は出ていませんか」

「幸い、一人もいない。夜警のゲルトが早く気づいてくれたおかげだ。あと少し発見が遅れていたら、足場にまで燃え移って、取り返しのつかないことになっていた。……ゲルト、よくやってくれた。お前の手柄だ」


 夜警の老人が、煤だらけの顔をくしゃりと歪めて、かすかに微笑んだ。歯の抜けた口元から、照れたような笑みがこぼれている。


「俺は耳だけは良いんでさ。火のぱちぱちいう音が、いつもの虫の声と違ったもんで。おかしいなと思って見に行ったら、案の定でした。虫の声は規則正しいが、火の音は気まぐれですからね。その違いが、耳に引っかかったんです」

「お前の耳が、全員の命を救った。心から感謝する」


 レオポルトが現場に駆けつけたのは、消火から間もなくのことだった。


 エーリッヒからの急報を受けて馬を飛ばし、夜明け前の薄暗がりの中を駆けてきたのである。馬を下り、焼け跡の前に立った瞬間、彼の目が鋭く細められた。焦げた木材の臭いが鼻を突き、まだ温かい灰が靴の下で崩れる。


「……許さん」


 レオポルトの声が低く震えた。その声には、単なる怒りを超えた何かが込められていた。それは、人としての一線を越えた行為に対する、根源的な拒絶だった。


「建物だけではない。そこで働く人々の命すら危険に晒す行為だ。越えてはならない線を、ゲオルクは越えた」

「オスカー先生、怪我人は」

「いない。全員無事だ。だが、北側の木材の約三割が焼失した。金額にして、金貨百五十枚相当の損害になる。復旧には少なくとも十日はかかるだろう」

「木材は買い直せる。金は稼ぎ直せる。だが、人の命は取り戻せない。全員が無事で、本当によかった」


 レオポルトは焼け跡を見つめ、拳を握りしめた。黒く炭化した木材の断面が、朝焼けの光の中で鈍く光っている。


「先生、職人たちの動揺はどの程度ですか」

「正直に言えば、大きい。引き抜き、資材遅延、そして今度は放火だ。これだけ立て続けに来れば、恐怖を感じるなという方が無理な話だろう。何人かは、辞めたいと言い出すかもしれん。家族を持つ者ならなおさらだ」

「そうならないように、俺が対処します。先生は現場の復旧に集中してください。それから、今後は夜間の警備を大幅に強化します。夜警を二名体制に増員し、魔導照明の範囲を現場全域に拡大する。二度と同じ手は通させない」

「承知した。……だが男爵、一つ聞いていいか」

「何でしょう」

「お前さんは、この状況でも折れないのか。引き抜き、妨害、放火と、矢継ぎ早に攻め立てられて、普通の人間なら心が折れてもおかしくない。それでもお前さんは、平然とした顔で対策を並べている。なぜだ」


 レオポルトは足元に転がっていた、焼け焦げた木材の破片を拾い上げ、じっと見つめた。炭化した表面の奥に、まだ木目が残っている。焼かれてなお、木は木であることをやめていなかった。


「……先生。第一周目では、この建物は完成間近で全焼しました。民衆が火をつけたのです。帝国の穀物買い占めで飢えに追い詰められた人々が、怒りのままに。あの夜の炎は、今日のボヤとは比べものにならないほど大きかった。空が真っ赤に染まって、鉄骨が溶けるほどの熱だった。あの時、俺は何もできなかった。ただ見ていることしかできなかった。燃える建物の前で、立ち尽くすことしか」

「……」

「今回は、ボヤで済んだ。誰も死ななかった。木材は失われたが、建物は無事だ。仲間も無事だ。第一周目に比べれば、これは勝利です。折れる理由がない」


 オスカーは長い沈黙の後、白髪混じりの頭を深く頷かせた。


「……お前さんは、本当に強いな」

「強くなんかありません。ただ、もう一度同じ過ちを繰り返したくないだけです。あの夜の炎を、二度と見たくないだけなのです」


 レオポルトは瞳を閉じ、深く息を吸い込んだ。焦げた臭いの混じる冷たい朝の空気が、肺の奥まで満ちていく。その瞬間、彼の心の中で何かが静かに転換した。甘い希望から、現実的な覚悟への移行。この先に待ち受けるものが、さらに過酷であることを、彼は知っている。


 エーリッヒが動いた。


 元王宮密偵としての彼の探索能力は凄まじいものだった。わずか数日で実行犯の男を特定し、王都の裏通りに潜む隠れ家から引きずり出して、レオポルトの前に連行してきたのである。


「旦那様、実行犯を確保いたしました。貧民街の南端、廃屋に潜伏しておりました。逃走の準備をしていた形跡がございましたが、足取りが杜撰でしたので、追跡は容易でした」

「早いな。さすがだ、エーリッヒ」

「恐れ入ります。しかし、容易な仕事でございました。犯人は証拠隠滅の意識が皆無でした。燃え残った油壺を自分の隠れ家に持ち帰っており、しかもその油壺にもエッケルト家の紋章が刻まれておりました。……あまりの杜撰さに、呆れを通り越して感心いたしました」

「ゲオルクの傲慢さが、そのまま実行犯の杜撰さに反映されているわけだ。自分たちが捕まるなどとは、微塵も考えていなかったのだろう」


 連行されてきた男は、貧民街に住む無一文のチンピラだった。粗末な衣服は汚れ、頬はこけ、髪は乱れている。粗野で無学な風体だが、その目だけは、絶望的な日々を生き延びてきた者特有の、鋭くも疲れ切った光を宿していた。


「誰に雇われた」


 エーリッヒの尋問は、冬の湖面のように静かで、そして凍てつくほどに冷たかった。その声を浴びた瞬間、チンピラのわずかな虚勢は一瞬で瓦解した。


「は、放してくれ。俺は何も知らねえ。何も知らねえんだ」

「嘘をつくな」


 エーリッヒは感情を一切排した声で、淡々と事実を並べた。


「お前の隠れ家から回収した油壺には、エッケルト家の紋章が刻まれている。お前の懐には、同家の紋章入り金貨が入っている。お前の靴底には、建設現場と同じ種類の砕石が付着している。これ以上の証拠が必要か。黙秘するなら構わないが、その場合、私が直接お前の過去を洗い出すことになる。貧民街の南端で、どのような暮らしをしてきたか。何をして食いつないできたか。すべてが明るみに出る」

「げ、ゲオルク伯爵様の使いだ……」


 チンピラは震え上がって自白した。もはやその声には、抵抗する力など欠片も残っていない。


「金貨十枚で頼まれたんだ。火をつけて、あの建設現場を台無しにしろと。失敗しても構わん、試しでいいと、そう言われた。成功しても失敗しても、金は払うと」

「使いの者の名前は」

「知らねえ。顔を隠してやがった。フードを目深に被っていて、口元しか見えなかった。ただ、服装が上等で、靴が磨き上げられた革製で、貴族の使用人だってことは間違いねえ。そいつが金貨の入った袋を渡して、『北側の木材に火をつけろ。夜中の二時に。それだけでいい。余計なことはするな』と言ったんだ」

「お前は、建物の中に人が寝ていることを知っていたか」


 チンピラは一瞬黙った。それから、小さく、しかし確かに頷いた。


「……知ってた。職人が泊まり込みで作業してるって噂は、貧民街でも聞いてた。でも、使いの男が言ったんだ。『木材だけ燃やせば十分だ。人には燃え移らん。木材置き場は宿舎から離れている』と。俺は、それを信じた。信じたかった」

「信じた、か。お前は、十枚の金貨のために、三十人以上の人間の命を危険に晒したのだ。風向きが変われば、炎は足場を伝って宿舎まで届いていた。そのことを理解しているか」


 チンピラの顔から、血の気が引いた。唇が小刻みに震え、目の縁に涙が滲んでいる。


「じゅ、十枚の金貨がなきゃ……俺は飢え死にするんだ。三日間、何も食ってなかった。頼む、許してくれ……」


 男の懐からは、確かにゲオルク家の紋章が刻印された金貨が出てきた。あまりにも杜撰で、あまりにも傲慢な証拠の数々。自分が捕まることなど微塵も想定していなかったのだろう。あるいは、たとえ捕まったところで、貧民の一人や二人がどうなろうと知ったことではないと、その程度の認識だったのかもしれない。ゲオルク伯爵の傲慢さが、そのまま証拠として形を成していた。


 レオポルトはチンピラの前に歩み寄り、静かに問いかけた。その声は、怒りでも軽蔑でもなく、ただ真っ直ぐに相手の事情を聞こうとする響きを帯びていた。


「……お前は、なぜこんな仕事を受けた」

「……金がなかったんだ。もう三日間、何も食ってなかった。水だけで凌いでたが、限界だった。あの使いの男が声をかけてきた時、俺は市場のゴミ捨て場で腐りかけの野菜を漁ってたんだ。白菜の芯と、半分腐った人参を拾って、それで今夜を凌ごうとしてた。そこに、金貨十枚だと言われたら……。十枚あれば、一ヶ月は食える。安い宿にも泊まれる。それだけだったんだ。それだけの理由で、俺は火をつけた」


 レオポルトは長い沈黙の後、小さく頷いた。


「……お前を憎むつもりはない。お前を利用した者を憎む」


 チンピラが、信じられないという顔でレオポルトを見上げた。


「旦那様」


 エーリッヒの瞳に、冷徹な光が宿った。かつての王宮密偵としての本質が、その鋼色の目の奥に姿を現す。


「始末しましょうか。事故に見せかけることは容易です。川に落とすか、暗い裏路地で足を滑らせたことにするか。いずれにせよ、痕跡を残さずに処理できます」


 エーリッヒの言葉は、実現可能な計画として淡々と述べられていた。彼ならば、本当にそれを実行する能力がある。そしてそれが露見することもない。


「この男を消せば、証拠隠滅として機能します。エッケルト伯爵は、実行犯の証言がなければ、言い逃れが可能になる。しかし、逆に申しますと、この男が消えた場合、伯爵は安心して次の工作に移ることになります。つまり、始末することで、こちらの手の内を隠すという選択肢もございます。戦略的に見れば、どちらにも利がある」


 レオポルトは首を横に振った。迷いのない、明確な否定だった。


「いや。王宮に突き出す」

「しかし、旦那様」


 エーリッヒは主人の決断に疑義を呈した。


「相手は大貴族です。法廷で争ったとしても、揉み消される可能性が高い。貴族同士の争いにおいて、下層民の証言がどれほどの価値を持つでしょうか。過去の事例を見ましても、庶民の証言によって大貴族が有罪になった例は、この百年間で一度もございません。法は、理論上は平等です。しかし、その運用は」

「不平等だ。わかっている」

「では、なぜ……」

「それでもだ」


 レオポルトの声は揺るがない。静かだが、そこには鋼鉄のような芯が通っていた。


「エーリッヒ、聞いてくれ。俺がこの建物を建てているのは、身分による不平等を変えるためだ。法の運用が不平等ならば、その不平等を白日の下に晒すことにも意味がある。この男の証言が法廷で軽んじられるならば、その事実そのものが、この国の歪みを証明する。公にすることに意味があるのだ。民衆の目に晒し、ゲオルクの権威を失墜させる。そして、貴族であるからといって、人の命を脅かす犯行が許されるわけではないということを、この王国に示す」

「しかし旦那様、公にすれば、ゲオルク伯爵はさらなる報復を」

「報復は来るだろう。だが、闇の中で戦い続けるよりも、光の中で堂々と戦う方がいい。俺たちが闇に落ちれば、ゲオルクと同じ側の人間になる。それだけは、絶対に避けなければならない。どんな理由があっても、そこだけは譲れない一線だ」

「……承知いたしました。旦那様の意志に従います」


 エーリッヒは一礼した。その表情には、主人の判断への戦略的な疑問と、同時に深い敬意が複雑に共存していた。


「ただし、王宮への出頭は、私が段取りを整えさせていただきます。証拠の提出順序、証言の内容、タイミング……すべてを最適化いたします。伯爵側に反論の余地を与えないよう、隙のない構成を組み上げて参ります」

「頼む。お前の手腕が必要だ」

「それから、この男の処遇はいかがいたしますか」


 エーリッヒがチンピラに視線を向けた。


 レオポルトはチンピラの目を真っ直ぐに見つめた。


「お前は、三日間何も食っていなかったと言ったな」

「……ああ」

「エーリッヒ、この男に食事を出してやれ。温かいものを頼む。それから、清潔な服も用意してくれ。王宮に出頭する際に、みすぼらしい格好では証言の信憑性が落ちる」


 チンピラは呆然とした顔でレオポルトを見上げた。その目には、理解が追いつかないという戸惑いと、かすかな希望が入り混じっている。


「……あんた、俺を殴らねえのか。火をつけた犯人だぞ。あんたの建物に火を放った人間だぞ」

「殴っても何も解決しない。お前を雇った者が裁かれることの方が重要だ。それに、飢えている人間に食事を出すのは、当然のことだ。人として当たり前のことを、当たり前にやるだけだ」

「……あんた、本当に貴族か」

「よく聞かれるよ」


 レオポルトは苦笑した。



 翌日、レオポルトは放火犯を伴い、王宮の謁見室へと乗り込んだ。


 その動きは、綿密に計算されたものだった。王が朝礼を終え、政務に取りかかる直前の時間帯。朝食を済ませ、頭が最も冴えている時刻を狙ったのである。


「旦那様、王宮の警備に連絡を入れました。謁見の許可は下りております。ただし、陛下の御前に犯罪者を連行するということで、衛兵が二名、同行することになります」

「構わない。衛兵の存在は、むしろ事態の深刻さを印象づける効果がある。物々しいくらいでちょうどよい」

「それから、旦那様。一つ幸運な情報がございます」

「何だ」

「本日、エッケルト伯爵が朝の打ち合わせのために王宮に参上しているとのことです。政務会議の前に、王と個別に面談する予定だったようで」

「……つまり、王の面前で、伯爵本人に対して直接告発できるということか」

「左様でございます。これ以上の舞台はございません」

「これ以上ない舞台だな」


 レオポルトの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。それは愉快さの笑みではなく、勝負の場が整ったことへの、静かな確認の笑みだった。


 玉座の間に足を踏み入れると、高い天井から差し込む朝の光が、大理石の床を白く照らしていた。壁面に掛けられた歴代の王の肖像画が、訪問者を無言で見下ろしている。


 玉座には国王アルフレート三世。昨日の疲労から十分に回復した様子で、表情には落ち着きと明晰さが宿っていた。


 そしてその傍らには、何食わぬ顔で控えるゲオルク伯爵の姿がある。朝の打ち合わせのために参上していたのだ。豪奢な衣装を身にまとい、三百年の名門の当主としての威厳を取り繕っているが、その目の下にわずかな隈があることに、レオポルトは気づいた。


 ゲオルクの姿を視界に捉えた瞬間、レオポルトの内心では、あらゆる計算が高速で実行された。この舞台は最高だ。告発の相手が、まさにこの場にいる。王の面前で、すべての貴族の目の前で、その罪を暴くことができる。


「陛下」


 レオポルトは最敬礼で王に向き直った。


「建設現場にて放火未遂事件が発生いたしました。本来であれば、城塞騎士に報告すべき事柄ではございますが、その背後関係が重大であるため、陛下へ直接報告申し上げたく参上いたした次第でございます」


 王が眉をひそめた。その反応は、予期していなかった重大事態の報告に対し、注意深く向き合う統治者のそれだった。


「放火だと。神聖な王都において、そのような蛮行が行われたというのか」

「左様でございます、陛下。新月の夜、建設現場の北側木材置き場に油が撒かれ、火が放たれました。夜警の迅速な対応により大事には至りませんでしたが、木材の約三割が焼失し、金貨百五十枚相当の損害が発生しております」

「百五十枚……。それは、国庫に対する損害でもあるぞ。王室はこの事業の出資者の一つなのだからな。国の金が、放火犯によって灰にされたということか」

「おっしゃる通りです、陛下。そして、この放火が単なる愉快犯の仕業ではないことを示す証拠がございます」

「証拠だと。申してみよ」


 レオポルトは静かに、しかしよく通る声で告げた。


「実行犯を確保しております。本日、その者を連行して参りました。そして、この男が所持していた証拠の品が、こちらでございます」


 レオポルトは、紋章入りの金貨を両手で恭しく差し出した。その金貨は、天窓から差し込む朝の光を受けて鈍く輝き、玉座の間にいる全員の目に入った。


「ゲオルク・フォン・エッケルト伯爵家の刻印が入った金貨でございます。犯人は、伯爵家の使者の指示で火をつけたと自白しております」

「さらに、現場から回収されたエッケルト家の紋章入り懐中時計。犯人の隠れ家から発見されたエッケルト家の紋章入り油壺。そして犯人自身の証言。三つの物的証拠と、一つの証言が、すべて同一の方向を指し示しております」


 その瞬間、玉座の間が凍りついた。


 空気が変わった。それまで穏やかだった朝の空気が、一瞬にして張り詰めたものに変わる。


 王の顔色が一変した。その変化は激しく、そして誰の目にも明らかだった。


 ゲオルク伯爵の顔からは、すべての血の色が引いていく。まるで蝋人形のように硬直し、瞬きすら止まっていた。


 周囲の貴族たちが、息を呑んだ。


「まさか……エッケルト伯爵が……」

「放火だと。あの名門のエッケルト家が、そのような蛮行を」

「いくらなんでも、ヴァイスハルト男爵のでっち上げではないのか……」


 貴族たちのざわめきが、高い天井に反響して玉座の間を満たした。


 王の視線がゲオルクに向けられる。その目には、かつての寵愛の名残はなく、純粋な不信と、裏切られたことへの激しい怒りだけが燃えていた。


「ゲオルク」


 王の声は、雷のような響きを持っていた。


「これはどういうことだ。説明してみよ」

「お前の家紋が刻まれた金貨が、放火犯の懐から出てきたのだぞ。どういうことか、この場で申し開きをしてみよ」


 ゲオルクは一瞬狼狽したが、長年の貴族生活で鍛えた処世術が瞬時に働き、すぐに表情を取り繕った。窮地を切り抜ける術を、彼は幾度も経験の中で学んでいる。


「陛下」


 彼の声は、演技的な驚きと怒りで満たされていた。


「これは陰謀です。濡れ衣ですぞ。この若造が、己の失敗を隠すために、私を陥れようとしているのです」

「まずお聞きください、陛下。我がエッケルト家は三百年にわたり王家に忠誠を誓ってきた名門でございます。その歴史に泥を塗るような行為を、この私がするはずがございません。三百年の忠誠が、金貨一枚の証拠で覆されてよいのですか」


 ゲオルクは全身全霊を演技に注いだ。被害者としての無実の表情を作り、声に悲痛さを込め、身振りで無辜の身であることを訴える。


 レオポルトを指差し、唾を飛ばしながら叫んだ。


「この男が、私を陥れるために三文芝居を打っているのです。金貨など盗ませればどうとでもなる。証言だって買収されたに決まっておる。貧民街のチンピラなど、金さえ握らせれば何とでも言うではありませんか」

「考えてみてください、陛下。この男は、私を排除することで、保守派全体の影響力を削ごうとしているのです。デパート計画への反対意見を封じるために、私を犯罪者に仕立て上げようとしている。これは政治的な陰謀ですぞ。王国の安定を揺るがす、悪質な権力闘争ですぞ」


 その言葉には、一定の説得力があった。実際、金貨は盗むことができるし、証言は買収することもできる。ゲオルクは、そうした疑念の種を王の心に植え付けようとしていた。


 レオポルトは動じなかった。彼は既に、この反論を寸分違わず予期していた。


「伯爵、一つお聞きしたい」


 レオポルトの声は、氷の表面のように滑らかで、そして冷たかった。


「もし私がでっち上げをしたとすれば、なぜ三つの異なる証拠品のすべてに、エッケルト家の紋章が刻まれているのでしょうか。金貨だけならば盗むことは可能かもしれません。しかし、懐中時計と油壺にまで紋章が入っている。伯爵家の所有物が三つも同時に犯人の手に渡ることを、偶然の一言で説明できますか」


 ゲオルクが言葉に詰まった。口を開きかけ、閉じ、また開く。金魚のように。


「そ、それは……。この男が、私の屋敷から盗み出したに違いない。使用人に化けて忍び込み、紋章入りの品を持ち出したのだ」

「では、伯爵のお屋敷から盗難届が出されているのでしょうか。エーリッヒ、王都の警備記録を確認してくれ」

「確認済みでございます。エッケルト伯爵邸からの盗難届は、過去三ヶ月間、一件も提出されておりません。また、伯爵邸の警備記録にも、不審者の侵入を示す報告は皆無でございます」


 ゲオルクの顔が歪んだ。反論の足場が一つずつ崩されていく。


 レオポルトは追撃を緩めなかった。


「では、この実行犯に対して魔法による尋問を行いましょうか。真実の水を飲ませ、その後の供述が真実かどうかを検証するのです。私は何の異存もございません」

「むしろ、私からお願いいたします。この場で、真実の水を使った尋問を行ってください。犯人だけでなく、この私自身も真実の水を飲む用意がございます。……伯爵も、同じく飲んでいただけますね」


 その提案は、ゲオルクにとって絶望的な一撃だった。真実の水の前では、嘘は一切通用しない。それは、この王国の誰もが知る常識である。


「真実の水だと……」


 ゲオルクの額に、脂汗が浮かんだ。白い口髭の下で、唇が引きつっている。


「そ、そんなものは……野蛮な手段だ。貴族に対してそのような手段を用いることは、王国の伝統に反する。品位を欠く行為だ」

「伝統に反するかもしれません。ですが、放火はそれ以上に伝統に反するのではありませんか」


 レオポルトの静かな反論に、ゲオルクは返す言葉を失った。口を半開きにしたまま、視線が宙を泳いでいる。その姿は、もはや三百年の名門の当主ではなく、追い詰められた一人の老人だった。


 王は冷ややかに告げた。その声には、長年にわたって培われた統治者としての直感が映っている。


「ゲオルク。……そなた、建設を妨害するために火を放ったのか」


 その問いかけは、既に答えを知った者の質問だった。ゲオルクの反応を見て、王はすべてを理解していた。


「余は長年、そなたを信頼してきた。三百年の名門エッケルト家の当主として、王国の柱であると。……だが、その信頼を、このような形で踏みにじるのか」

「陛下……」

「そなたの父上とは、余もよき関係を築いていた。エッケルト家は、この国の誇りであるはずだった。それが、放火犯の元締めとは。先代が知ったら、さぞかし嘆かれるであろうな」

「陛下、先代の名を持ち出すのはおやめください」

「余が持ち出さずとも、そなた自身が先代の名を汚しているのだ」


 ゲオルクは開き直ったように胸を張った。追い詰められた獣が、最後の力で牙を剥くように。


「私は、王国の秩序を守ろうとしたのです」


 その声には、狂気に近い確信が満ちていた。


「ヴァイスハルトの計画は危険です。貴族の特権を奪い、平民を増長させる所業。これを阻止することこそが正義ではありませんか。王国の真の守護者として、私はあえて汚名を被る覚悟で動いたのです」

「お考えください、陛下。あの男の言う平等な商店とは、貴族と平民の区別を消し去ることに他なりません。我々が三百年かけて築いた秩序が崩壊するのです。貴族は特権を失い、平民は身の程を弁えず増長し、この国の統治構造そのものが瓦解する。私は、それを防ごうとしただけでございます」


 その言葉は、自らの犯行を正当化しようとする必死の叫びだった。しかし同時に、それは動かしようのない有罪の自白でもあった。


 レオポルトが、静かに口を開いた。


「伯爵。一つだけお聞きします。あなたが守ろうとした秩序の中に、三十人以上の職人の命は含まれていましたか。あの夜、現場で眠っていた人間たちの命は、あなたの秩序の中で、どのような位置を占めていたのですか」


 ゲオルクは口を開きかけ、何も言えなかった。声が出ない。言葉が見つからない。なぜなら、答えは彼自身が最もよく知っているからだ。職人たちの命など、最初から考慮に入れていなかった。


「黙れッ」


 王の雷のような怒声が響き渡った。玉座の間の空気そのものが震え、壁に掛けられた肖像画の額縁がかすかに揺れたように見えた。


「秩序を守るために放火をする者がどこにいる。それはただの犯罪者の言い分だ。貴族の名を、そのような言い訳に使うな」

「そなたが守ろうとしているのは、秩序ではない。自分の特権だ。それを秩序と呼ぶな。余の目の前で、嘘を真実のように語るのは、もうやめよ」


 王は玉座の肘掛けを強く叩いた。乾いた音が高い天井に跳ね返り、余韻が長く残った。


「ゲオルク。そなたには失望した。長年の信頼を裏切られた思いだ」


 王の声には、統治者としての決然たる判断と、個人的な感情の痛みが重なり合っていた。


「一ヶ月の謹慎を申し渡す。その間、登城はまかりならぬ。自分の罪を深く省みよ」


 さらに王は続けた。


「また、ヴァイスハルト男爵に対し、被害額の三倍の賠償金を支払え。これは、王家の名誉にかけての命令である」


「三倍の賠償……」


 貴族たちの間にざわめきが走った。


「金貨百五十枚の三倍、四百五十枚か。エッケルト家にとっても軽くはない額だ」

「自業自得だろう。放火などという蛮行に手を染めるからこうなる」


「それから、ヴァイスハルト男爵」


 王がレオポルトに向き直った。


「はい、陛下」

「今後、建設現場の安全確保に万全を期せ。必要であれば、王宮の衛兵を派遣することも検討する。この事業は、王国の未来を担うものだ。二度と、このような妨害を許してはならぬ」

「陛下のお言葉、深く心に刻みます。必ず、この建物を完成させてみせます」

「うむ。期待しているぞ」


「へ、陛下……」


 ゲオルクは顔面蒼白のまま、その場に崩れ落ちた。椅子から滑り落ちるように膝をつき、大理石の床に手をついている。指先が震え、全身から力が抜けていた。


「そんな……私は……三百年の……エッケルト家の当主が……こんな扱いを……」


 その呟きは、もはや権力者の声ではなく、破滅を前にした老人の嘆きだった。


「下がれ」


 王の指示は絶対的なものだった。衛兵たちが素早く動き、ゲオルクの両腕を取った。彼は抵抗する力も残っておらず、ただ引きずられるままに、玉座の間から連れ出されていく。


「覚えておれ、ヴァイスハルト……。これで終わったと思うなよ……」


 連れ出されるゲオルクの最後の叫びが、玉座の間に残響した。それは脅迫というよりも、断末魔の悲鳴に近い響きだった。


 その背中を見送った後、王は疲れたように深く息を吐き、レオポルトに向き直った。その眼差しには、自らが信頼した者に裏切られたことへの悔恨と、統治者としての重い責任感が入り混じっている。


「ヴァイスハルト男爵。……苦労をかけるな」

「もったいないお言葉です、陛下」

「余は思うのだ。この国は、変わらなければならないのかもしれんと。ゲオルクのような古い考えに固執する者が、放火という蛮行に走る。それは、古い秩序がもはや機能していないことの証左ではないか」

「陛下のお考えの通りかと存じます。しかし、変化は急激であってはなりません。緩やかに、しかし確実に。デパートは、その変化の第一歩となるはずです」

「建設を続けよ。余が保証する。二度と、邪魔は入るまい」


 その言葉は、王としての絶対的な約束だった。


「お言葉に甘えまして、陛下。一つだけお願いがございます」

「何だ」

「放火の実行犯、あの男ですが。飢えのために犯行に及んだ者です。重罰ではなく、社会奉仕刑としていただけないでしょうか。デパートの建設現場で働かせれば、彼にとっても、我々にとっても、利益になります」


 王は一瞬驚いた顔をし、それから小さく笑った。その笑みは、呆れと感心が半々に混じったものだった。


「……お前は、自分に火をつけた男すら、味方に変えようとするのか」

「味方というよりは、もう一つの機会を与えたいだけです。飢えた人間が犯罪に走るのは、本人だけの罪ではなく、社会の欠陥でもあります。その欠陥を正すことが、私の目標でもございますので」

「よかろう。社会奉仕刑とする。ヴァイスハルト、お前は面白い男だな」

「恐れ入ります、陛下」



 王宮からの帰り道。


 午後の柔らかな日差しの中を走る馬車の中で、レオポルトはエーリッヒに向かって静かに口を開いた。その声には、一つの局面を乗り越えたことへの安堵と、まだ終わっていないという警戒が同居している。


「これでゲオルクは一時的に手足を縛られた。だが、一ヶ月後には戻ってくる」

「ええ。あの男の執念深さは尋常ではございません。必ず報復の手を考えるでしょう」


 エーリッヒの予測は的確だった。敗北を喫した権力者は、その後、より苛烈な復讐を企てる傾向がある。


「しかし旦那様、今回の一件で、ゲオルク伯爵の信用は王宮内で大きく毀損されました。貴族たちの間でも、あの醜態は長く語り継がれるでしょう。報復を企てるにしても、以前ほどの協力者は得られないはずです。面と向かって手を貸そうという者は激減したかと」

「協力者が減っても、金はある。エッケルト家の財力を甘く見てはいけない。賠償金の四百五十枚を支払ってなお、あの家には十分な蓄えがあるだろう。それに、奴には最後の手段が残っている」

「最後の手段……とは」

「帝国だ」


 レオポルトの脳裏に、エドヴァルト・シュタイナーの笑顔が浮かんだ。穏やかで友好的でありながら、その奥にすべてを計算し尽くした冷徹さを隠し持つ、あの狩人の笑顔が。


「ゲオルクは、王国内の権力だけでは俺を倒せないと悟ったはずだ。次は外部の力を借りようとする。帝国の工作員であるエドヴァルト・シュタイナーと手を組めば、この国の内側と外側の両方から同時に攻撃を受けることになる」

「それは……極めて危険な組み合わせですね。ゲオルク伯爵の王国内での人脈と、帝国の資金力・情報力が合わさるとなれば、これまでとは比較にならない脅威となります」

「毒を食らわば皿まで、というやつだ。ゲオルクにとって、もはや後退という選択肢はない。王の面前で恥をかかされ、名誉を傷つけられた以上、奴は自滅か復讐か、そのどちらかしか選べない。来るぞ、エーリッヒ。次は帝国の手が動く」

「対策は、すでにお考えですか」

「穀物の備蓄だ。帝国が仕掛けてくるのは食糧危機だ。穀物を買い占め、パンの値段を吊り上げ、民衆の怒りを煽る。それが帝国の常套手段であり、第一周目で俺が最も痛い目に遭った一手でもある。それを未然に防ぐことが、今の最優先事項だ。マルクスとの農村直接契約を急ぎ、デパートの地下倉庫の建設を前倒しにする」

「地下倉庫の前倒しですか。オスカー棟梁に相談する必要がございますが、工期にはさらなる負担がかかります」

「承知している。だが、建物の完成よりも、民衆の食卓を守ることの方が重要だ。第一周目では、飢えた民衆が建物を焼いた。あの悲劇を繰り返すわけにはいかない。建物は遅れても建てられる。だが、飢えて死んだ人間は生き返らない」

「承知いたしました。マルクス殿とオスカー棟梁に、本日中に連絡を取ります」

「頼む。それから、フェリックスにも伝えてくれ。貴族社会の中で、ゲオルクの動向を監視する目が必要だ。フェリックスなら、若い貴族たちのネットワークを通じて情報を集められるだろう」

「フェリックス様は、先日の一件以来、旦那様への忠誠を一層強くされております。必ず協力してくださるでしょう」

「ああ。俺たちの仲間は、確実に増えている。ゲオルクが仲間を失っていくのとは対照的にな。だが、油断はできない。仲間が増えるほど、守るべきものも増えるのだから」

「左様でございます。……旦那様、紅茶をお淹れいたしましょうか。本日は、長い一日でございました」

「ああ、頼む。熱いのを一杯もらえるか」


 馬車の窓の外を、午後の王都が流れていく。その街並みの向こうに、建設中のデパートの鉄骨が陽光を受けて輝いていた。



 その頃、謹慎を命じられた屋敷で、ゲオルクは怒り狂っていた。


 書斎の棚に飾られていた高価な磁器製の壺を床に叩きつけ、砕け散った破片が絨毯の上に散乱している。ワインの瓶が倒れ、深紅の液体が白い絨毯に染みを広げていた。その赤い染みが、まるで血溜まりのように見える。


 革張りのソファに体当たりし、壁に拳を叩きつけ、獣のような唸り声を上げ続けている。六十年の人生で蓄えてきた品格も体裁も、すべてが剥がれ落ちていた。


「おのれ、おのれヴァイスハルト……ッ」


 その声は、もはや人間のものというよりも、断末魔の獣の咆哮に近かった。


「この私が、あんな小僧に屈辱を味わわされるとは。あの玉座の間で、貴族たちの前で、犯罪者扱いされるなど。三百年の名門の当主がだぞ。あり得ん。あってはならんことだ」


 側近が恐る恐る声をかけた。


「伯爵様、お気を静めてくださいませ。お体に障ります」

「静めろだと。お前に私の屈辱がわかるか。三百年の名門の当主が、王の面前で犯罪者扱いされたのだぞ。あの玉座の間にいた貴族どもの、蔑むような視線が……。あの目が、今も頭から離れぬのだ。憐れむような、嘲笑うような、あの目が」


 ゲオルクは壁に拳を叩きつけた。石壁に鈍い音が響き、拳の皮が裂けて血が滲んだ。だが、痛みなど感じている様子はない。


「三十年間……三十年間、あの玉座の間で王を支えてきた。どれだけの法案を通し、どれだけの条約を結び、どれだけの危機を乗り越えたか。その全てが、あの小僧の一言で、水泡に帰した。三十年の忠勤が、一日で消えたのだ」

「伯爵様、まだ終わったわけではございません。謹慎は一ヶ月です。一ヶ月後には再び登城が叶います。その時に」

「一ヶ月後だと。一ヶ月もあれば、あの建物はさらに高くなっている。民衆の支持はさらに強まっている。一ヶ月という時間は、あの小僧にとっては好機だが、私にとっては牢獄に等しい」


 四十年にわたって王国の権力構造の頂点に近い位置を占めてきた男。その男が、一日にして失墜させられた。その落差の大きさが、彼の精神を内側から蝕んでいた。


「……だが、まだ手はある」


 突然、ゲオルクの声が静まった。荒れ狂っていた嵐が一瞬にして凪いだかのような、不気味な沈黙だった。


「王国の力だけでは、あの小僧は倒せない。王があの男を庇護している以上、国内での工作には限界がある。ならば、外の力を借りるまでのことだ」


 彼は血走った目で、控えていた密使を睨みつけた。その目には理性の光はもはやなく、純粋な怒りと絶望だけが揺らめいている。


「エドヴァルト・シュタイナーに連絡を取れ」


 ゲオルクの声は嗄れ、嘶くような響きを帯びていた。


「今すぐにだ。帝国との協力関係を本格的に強化する旨を伝えろ。一刻の猶予もならん」

「伯爵様、帝国との密約は、万が一露見すれば反逆罪に」

「反逆罪だと。もう遅い。私は既に王の面前で恥をかかされた。これ以上、何を失うというのだ。名誉も信頼も、すべて奪われた。ならば、復讐以外に、この私に何が残っている。答えてみよ」


 側近たちは恐怖に震えながらも、主人の狂気を止めることができなかった。止めようとした者は、ゲオルクの怒号に射竦められ、口をつぐむしかなかったのである。


「シュタイナーに伝えろ。私は何でも提供する。王宮の内部情報、貴族社会の人脈、ゲオルク家の財力、すべてを帝国に差し出す用意がある。その代わり、ヴァイスハルトのデパートを、あの忌まわしい建物を、この世から消し去ってくれとな」

「かしこまりました」


 密使は、異常な興奮状態にある主人の指示を黙って受けた。逆らうことなど、できるはずもない。そしてその夜のうちに、ゲオルク家からの使者は、帝国の商務使節団が逗留する宿舎へと馬を走らせたのである。


「……ヴァイスハルト。お前は私を破滅に追い込んだ。だが、覚えておけ。破滅した者ほど恐ろしいものはないぞ。失うものがない人間は、何でもする。何でもできる。それがどういうことか、思い知らせてやる」


 ゲオルクは割れたワインの瓶を拾い上げ、残った酒を直接口に流し込んだ。赤い液体が唇からこぼれ、白いシャツを醜く染めていく。


 その姿には、かつての名門貴族の面影はどこにもなかった。



 数日後。


 ゲオルクからの密書を受け取ったエドヴァルト・シュタイナーは、宿舎の窓辺に立ち、薄い笑みを浮かべていた。


 手元の蝋封を剥がし、丁寧に折り畳まれた手紙を広げる。その内容に目を通すにつれ、笑みは深くなっていく。獲物が自ら罠に飛び込んでくるのを見た狩人の、静かな満足の笑みだった。


「……落ちたな、ゲオルク」


 手紙を指先で軽く弾く。その動作には、相手を見下す冷淡さが満ちていた。


「プライドの高い保守派の重鎮が、ついに外国の力に縋るか。滑稽だな。三百年の忠誠を謳っていた男が、自国を売り渡そうとしている。自覚はあるのか。いや、ないのだろうな。怒りに我を忘れた人間は、自分が何をしているのか理解できなくなるものだ」


 エドヴァルトは密書をもう一度読み返した。窓から差し込む月明かりが、便箋の上に青白い光を落としている。


「王宮の内部情報、貴族社会の人脈、ゲオルク家の財力……すべてを提供する用意がある、か。なるほど。追い詰められた人間ほど、差し出すものが多くなる。自分の価値がどれほど下がっているかにも気づかないまま、全てを賭けようとする。愚かだが、こちらとしてはありがたい」

「しかし、使えるものは使える。ゲオルクの持つ情報には、それなりの価値がある。王宮の内部構造、派閥の力関係、王の判断の癖……。帝国の諜報網だけでは手の届かない種類の情報が、向こうから転がり込んできたわけだ」


 エドヴァルトは手紙をロウソクの炎にかざした。羊皮紙の端が茶色く変色し、やがて小さな炎が紙を舐め始める。証拠は、常に消さなければならない。それが諜報員の鉄則だ。


「ゲオルクは知らないだろうが、彼がどれほど情報を差し出そうと、帝国にとって彼自身は使い捨ての駒に過ぎない。放火犯を雇うような杜撰な男が、帝国の精密な作戦の中枢に組み込まれることはない。だが、彼が王国内で混乱を起こしてくれる間に、こちらの本命の作戦を進めるには都合がいい。目くらましとしては、上等な部類だ」

「使える駒が増えるのは悪くない」


 エドヴァルトの瞳の奥で、複雑な計算が弾かれていた。彼の頭脳は、常に数手先を読んでいる。


「レオポルトは、ゲオルクの放火を王宮で告発してみせた。見事な一手だ。あの男は、敵の攻撃を逆に自分の味方へと転換する天才だ。放火という危機を、王の信頼を勝ち取る好機に変えた。犯人にすら食事を与え、社会奉仕刑を求めた。あれは慈悲深さではない。戦略だ。敵を味方に変え、自分の陣営を際限なく拡大していく。帝国式の諜報教本には、このタイプの敵に対する明確な対処法は記されていない」


 窓の外には、王都の夜景が広がっている。星の光の下で、無数の屋根が影を連ね、その向こうに建設中のデパートの鉄骨が聳えていた。


「レオポルトも、ゲオルクも、盤上の駒に過ぎない。王国そのものが、帝国にとっては一つの盤面だ」


 灰になった手紙の残骸が、床に散らばった。エドヴァルトの靴底が、その灰を無造作に踏みにじる。


 彼は従者を呼んだ。


「ゲオルク伯爵への返書を用意しろ。内容は、『協力の申し出を歓迎する。詳細な打ち合わせのため、秘密裏に会合を設けたい。日時と場所は追って連絡する』だ。慇懃な文面で頼む。相手の自尊心をくすぐるような書き方でな」

「承知しました」

「それから、本国への報告書も用意しろ。内容は……」


 エドヴァルトは一瞬、言葉を止めた。本国からの指令が脳裏をよぎる。穀物の買い占め。食糧危機の誘発。飢えた民衆の暴動。その混乱に乗じた政治介入。


「……内容は、『作戦は次の段階に移行する。王国内の協力者を確保した。食糧作戦の準備に入る』だ」


 従者が退室した後、エドヴァルトは一人、暗い部屋で立ち尽くした。


 ロウソクの炎が揺れ、壁に大きな影を落としている。その影は、まるで別の人間のように揺らめいていた。


「食糧作戦……。穀物を買い占め、パンの値段を三倍に吊り上げ、民衆を飢えさせる。……母さんと妹を殺した、あの飢餓を、今度は俺自身の手で作り出すのか」


 その声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。唇が動いているだけで、声になっていたかどうかすら怪しい。


 エドヴァルトは窓枠に手をつき、夜空を見上げた。星々は何も知らぬ顔で瞬いている。あの星の下のどこかに、今夜も空腹を抱えて眠る子供がいるのだろう。かつての自分のように。


「さて、始めようか。王国の自滅という名の喜劇を。その主役を務めるのは、誰だ。レオポルトか、それとも民衆か。いや、もしかすると、俺自身かもしれんな」


 その独り言には、帝国の工作員としての本質が滲んでいた。完全な虚無主義。すべてを盤上の駒と見なす冷徹な視点。そして、その盤面を動かすことへの、暗い快感。


 だが、次の瞬間、エドヴァルトは自分の言葉を、自分で否定した。


「……いや、違う」


 声が変わっていた。さきほどまでの冷たい計算者の声ではない。もっと深いところから絞り出された、別の誰かの声だった。


「俺は喜劇だと言った。だが、飢える民衆にとっては悲劇だ。パンを求めて泣く子供たちにとっては、地獄だ。それを喜劇と呼べるのは、人間ではない。獣だ」


「俺は獣なのか。帝国が飼い慣らした獣か」


 その問いに答える者は、誰もいなかった。ロウソクの炎だけが、沈黙の中で小さく揺れ続けている。


「……考えるな。任務を遂行しろ。それだけでいい。それだけで……」


 言い聞かせるように呟いたその声は、しかし、どこか空虚な響きを帯びていた。


 エドヴァルトは自分自身の内側で、何かが軋み始めていることに気づいていないふりをしている。帝国への忠誠と、人間としての良心。その二つが、少しずつ、しかし確実にずれ始めていた。任務を遂行する自分と、それを拒もうとする自分。その二人のエドヴァルトが、一つの体の中でせめぎ合っている。


 いや、もしかしたら、気づき始めているのかもしれない。


 気づいていて、なお目を逸らしているだけなのかもしれない。


 窓の外で、月光に照らされたデパートの鉄骨が、夜の闇の中で静かに輝いていた。まだ骨組みだけの、未完成の巨塔。だがその輪郭は、確かに空に向かって伸びている。


 あの建物が完成した時、この街はどう変わるのだろう。


 エドヴァルトは、その問いを自分に許さなかった。許してしまえば、任務を続ける理由が揺らぐからだ。


 彼はロウソクの炎を指で摘まんで消した。


 闇が部屋を満たした。


 鉄骨の輝きだけが、窓の向こうに残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ