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第13話 クララの決断

 クララ・ノイマンは、あの日以来、眠れぬ夜を過ごしていた。


 深夜の工房。ガス灯の火がかすかに揺れ、天井の低い空間に橙色の影を落としている。古い本が棚という棚に詰め込まれたこの場所は、さながら忘れられた聖堂のようだ。埃と紙とインクの匂いが入り混じり、空気そのものが年月の重みを帯びていた。


 揺らめくランプの灯りが、机の上に広げられた一冊の古書を照らし出す。


 ページは破れ、インクは滲んでかすれ、表紙は無残に剥がれかけていた。製本の糸は所々で解け、背表紙はしなしなに反り返っている。誰がどう見ても、もはや用を成さない廃棄物にしか見えないだろう。


 だが、クララの瞳には、その本の可能性しか映らない。


 丁寧に、時間をかけて修復すれば、この本は蘇る。傷んだ紙を慎重に剥がし、新しい糊で接着し直し、糸を通し、背表紙を補強する。その過程は、医師が瀕死の患者を治療するのと本質的に何も変わらない。あるいは、父が何度も口にしていたように。


「『本は生きている。傷ついた本は、傷ついた人間と同じだ。時間をかけて、愛情を注いで、丁寧に手当てをすれば、必ず蘇る』……そう言ってたよね、父さん」


 クララは手元の本の背表紙を指でなぞりながら、亡き父の言葉を口にした。その声は、誰に聞かせるでもなく、薄暗い工房の空気に溶けていく。


「でも父さん。人間は本と違って、一度壊れたら元には戻らない。父さんの心が壊れた時、私には何もできなかった。……どんなに丁寧に手当てしても、父さんは蘇らなかった」


 指先が背表紙の裂け目をたどる。この本はまだ救える。糸を通し直し、糊を塗り、圧をかけて乾かせば、誰かが再びページをめくり、そこに綴られた物語に心を震わせることができるようになる。


 そのために、クララは毎夜毎夜、傷んだ本たちと向き合っていた。


 ランプの焔がひときわ大きく揺れ、壁に映る影が伸びた。


 その揺らぎに合わせるように、記憶の中の声が蘇る。


『公共図書室の司書長を任せたい』


 レオポルトの声だ。耳の奥で、何度も、何度も繰り返される。その声の響きには、夢のような軽やかさと、現実の重みが同時に宿っていた。


『誰でも無料で本を読める場所を作る。貧しい子供たちも、庶民も、すべての人間が等しく知識にアクセスできる場所を』


 それは、クララが幼い頃から思い描いてきた世界そのものだった。


 貧しい家庭の子供たちが目を輝かせて本を読む光景。知識という名の翼を手に入れ、自分たちの可能性に気づき、狭い世界の外へと羽ばたいていく姿。そのような場所がこの王国に存在したら、どれほどの人間の運命が変わるだろうか。


 だが、心の奥底に深く刺さった棘が、素直に頷くことを拒んでいた。


 貴族への、根深く、絶対的な不信感だ。


「……貴族の言葉なんて、信じられるわけがない」


 クララは修復中の本を閉じ、両手で額を押さえた。ランプの灯りが指の隙間から漏れ、顔に縞模様の影を落とす。


「あの男爵様の目は、確かに優しかった。声にも嘘の匂いはしなかった。……でも、父さんを陥れたあの貴族だって、最初は優しかったんだ。父さんの技術を褒めて、信頼しているふりをして、そして都合が悪くなった瞬間に……」


 唇を噛む。古い痛みが、歯の跡と一緒に蘇ってくる。


「ヴァイスハルト男爵。あの人は、本当に違うのだろうか。それとも、また同じことの繰り返しなのだろうか。私は……また裏切られるのが怖い。一度味わったあの絶望を、もう一度経験する勇気が、私にはない」


 椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。煤けた梁の木目が、ランプの光に照らされてぼんやりと浮かんでいる。


 かつて、クララの父は王宮に仕える優秀な書籍修復師だった。


 名をハインツ・ノイマンという。真面目で、誠実で、仕事に対して一切の妥協を許さない男だった。古い聖典や貴重な歴史書を、まるで魔法のような手際で蘇らせる父の手を、クララは幼い頃から誇りに思っていた。その手は大きく、節くれ立っていて、糊とインクの匂いが染みついている。だが、その手から生み出される仕事は、どこまでも繊細で、美しかった。


 父の仕事場には、王国中から修復の依頼が舞い込んでいた。貴族の家に伝わる古文書、寺院の聖典、学術院の蔵書。その傍らで、クララは見よう見まねで修復技術の基礎を学んだ。糊の練り方、紙の継ぎ方、糸の通し方。父の手の動きを目で追いながら、同じ動作を自分の小さな手で繰り返す。それが、クララの最初の学校だった。


「父さんはよく言ってたわ。『クララ、本を直すということは、過去と未来を繋ぐということだ。この本を書いた人はもう生きていないかもしれない。でも、俺たちがこの本を直せば、百年後の人間がこの言葉を読むことができる。それは、時間を超えた対話なんだよ』って」


「私はその言葉が大好きだった。父さんの手が動くのを見るのが好きだった。傷んだ紙を慎重に剥がして、新しい糊で接着し直して、一ページ一ページを生き返らせていく。その作業を見ていると、まるで魔法を見ているようだった。……小さな私にとって、父さんは世界で一番の魔法使いだったの」


 貴族たちも、父を称賛していた。少なくとも、表向きは。


「君の技術は王国一だ」


「こんな傷んだ書籍を見事に蘇らせるとは、素晴らしい仕事ぶりだ」


「我が家の家宝も、お前に任せたい。他の修復師では不安でな」


「ノイマン殿、あなたのおかげで我が家の三百年前の家系図が蘇りましたぞ。感謝の言葉もない」


 その言葉の数々は、ノイマン家の食卓に希望と安定をもたらしていた。クララは、自分たちは特別なのだと信じていた。能力さえあれば、身分など関係ない。庶民であっても、腕一本で貴族たちに認められ、大切にされるのだと。


「父さんは嬉しそうだった。食卓で、母さんに報告する時の顔を覚えている。『ほら見ろ、クララ。腕さえ磨けば、身分なんて関係ないんだ。俺たちは庶民だが、腕で貴族たちに認められている。大事なのは生まれじゃない、技術と誠実さだ』って。……あの頃の父さんは、本当に幸せそうだった。私も母さんも、父さんの笑顔を見ているだけで、それだけで十分だったの」


 だが、ある日、すべてが崩壊した。


 ひとりの貴族が、王家の秘蔵書である古代魔法書を盗み出し、闇市場で売り捌こうとしたのだ。その魔法書は王国の独立を左右するほどの価値を持つ古文書であり、厳重な管理下に置かれていたはずのものだった。


 計画が露見し、王城内が大騒ぎになった時、その貴族は平然と父に罪をなすりつけた。


『卑しい修復師ごときが、金欲しさにやったに違いない。奴には王城全体の書庫への出入りを許していたのだから、十分に可能な犯行だ』


『この下層民の欲望に勝る罪は、王国には存在しない』


『修復師という職業上、書物の価値を知り尽くしている。動機は十分だ。むしろ、これまで盗まなかったことの方が不自然ではないか』


 証拠などなかった。父の無実を示す何百もの記録が存在していた。だが、貴族の言葉は絶対であり、庶民の弁明など、誰の耳にも届かなかった。むしろ、懸命に無実を主張する父の姿は、「黒い心から必死の言い訳をしている」と解釈された。弁明すればするほど、疑いは深まった。


「父さんは何度も言ったの。『私は三十年間、一冊の本も盗んだことはありません。すべての修復記録があります。どうか、記録を確認してください』って。何度も何度も、声が枯れるまで繰り返して。……でも、誰も記録なんか見なかった。見る必要がなかったのよ。貴族の言葉と庶民の言葉、どちらが重いかは最初から決まっていたんだもの」


 父は一日にして職を追われ、名誉を剥奪され、泥棒の汚名を着せられたまま王城を追い出された。


 その時の父の顔を、クララは忘れることができない。


 絶望と、「人間を信じていた自分が愚かだった」という諦念。その二つだけが、父の顔面に刻まれていた。怒りですらなかった。怒る気力さえ、あの瞬間に奪われてしまったのだ。


「王城を出る時、父さんは一言も喋らなかった。ただ、私の手を握って、黙って歩いた。……その手が震えていたのを、私は一生忘れない。あの大きくて器用だった手が、まるで枯れ葉のように震えていたの。あんなに強かった父さんの手が。あんなに確かだった父さんの手が」


 その後、父は貧民街で細々と修復の仕事を続けた。王城からの依頼はもう来ない。市井の商人たちから持ち込まれる小さな仕事ばかりだ。報酬は、かつての何分の一にも満たなかった。


 心労と貧困が、少しずつ父の体を蝕んでいった。医者にかかることもできず、薬を買う金もなく、日に日にやせ細っていく父の背中を、クララはただ見つめていることしかできなかった。


 そして父は、静かに息を引き取った。


 最期の言葉を、クララは正確に覚えている。一字一句、骨に刻むようにして。


『もう誰も信じるな。貴族とは、この世でもっとも醜い生き物だ。彼らの笑顔も、褒め言葉も、すべては我々を支配するための道具に過ぎない』


 それは遺言であり、呪いであり、何よりもクララの心に深く焼き込まれた絶対の真理だった。


「父さんは最期に、こうも言った。『だがな、クララ。本だけは裏切らない。本に書かれた言葉は、千年経っても変わらない。人間は嘘をつくが、本は嘘をつかない。だから、本を守れ。人間を信じるな。本を信じろ』って……」


「貴族にとって、私たちは使い捨ての道具でしかない……」


 父の棺の前で誓ったその言葉が、今もクララを縛りつけている。それは彼女の人生哲学となり、行動原理となり、新しい人間関係を築くことを許さない鎖となっていた。


 だが。


 レオポルトの瞳には、あの貴族たちのような冷たい色はなかった。


 その眼差しに映っていたのは、権力の高みから民衆を見下ろす傲慢さではない。真っ直ぐで、痛いほどの誠実さだけが、あの若い瞳の奥に静かに燃えていた。その光の正体を、クララはまだ理解できない。だが、理解できないからこそ、余計に心が揺れる。


「……あの人は、本当に信じられるのだろうか」


 修復道具を置き、窓の外を見つめた。夜空には雲がかかり、星はほとんど見えない。


「あの男爵様が私に司書長を任せたいと言った時、その瞳に嘘はなかった。……少なくとも、私にはそう見えた。でも、父さんだって、あの貴族の言葉に嘘はないと信じていた。人の目は、見たいものを見るようにできている。私の目が信じたいと思っているだけで、真実はまた別のところにあるのかもしれない」


 深いため息をつき、再び修復中の本に視線を落とした。ランプの芯が一段短くなり、灯りがわずかに弱まっている。


「でも……あの人は建設現場で、職人たちと同じ服を着て、同じ泥にまみれていたという。貴族がそんなことをする理由は、普通なら存在しない。演技だとしたら、あまりにも手の込んだ芝居だわ。泥にまみれるところまで演じる貴族が、この世にいるものかしら」


 ふと、レオポルトが別れ際に言った言葉が蘇る。


『本当に信じられるか分からなければ、確かめてください。貧民街の子供たちに聞いてみてください。その反応を見てください。そして、あなた自身の直感を信じてください』


「確かめろ、か……」


 クララは呟いた。


「あの人は私に選択権を与えた。強制しなかった。説得すらしなかった。ただ『確かめてください』と言っただけだった。……それだけでも、今まで出会った貴族とは違う。命令でも、懇願でもなく、選択を委ねた。……あんなことをする貴族を、私は知らない」


 その言葉に導かれるように、翌日の昼下がり、クララは貧民街の路地裏を歩いていた。


 通りの両側には、傾きかけた木造の家屋がひしめいている。洗濯物が軒先から垂れ下がり、排水溝からは淀んだ水の匂いが立ち上っていた。石畳は割れ、その隙間から雑草が顔を出している。


 路地の奥で、子供たちが遊んでいた。


 泥だらけの服。擦りむいた膝。伸び放題の髪。衣食の足りぬ環境で育つ彼らの外見は、この国の貧困の現実を何よりも雄弁に物語っていた。だが、その瞳だけは澄んでいる。闇の中に残された星のように、小さく、しかし確かに光っていた。


「ねえ、みんな」


 クララは膝をつき、子供たちと目線を合わせた。同じ高さに身を屈めることで、上から見下ろす関係ではなく、対等な関係を作ろうとしていた。


「もし、好きなだけ本を読める場所があったら……行ってみたいと思う?」


 子供たちは一瞬きょとんとして、互いの顔を見合わせた。本。読める。無料で。その三つの言葉の組み合わせは、貧民街の子供たちにとって、あまりに現実離れした概念だった。


「本……? お姉ちゃん、本って、あの高いやつ?」


 ひとりの少年が首を傾げた。八歳か九歳だろう。前歯が一本欠けていて、頬に泥がついている。


「市場で見たことあるよ。すっごく分厚くて、金色の字が書いてあって……でも、あんなの触ったら怒られるって、母ちゃんが言ってた。お前みたいな汚い手で触るなって、店のおじさんに追い払われたこともある」

「怒られないわよ。もし、誰でも自由に触って、開いて、読んでいい場所があったとしたら? 汚れた手でも、裸足でも、誰にも怒られない場所が」


 次の瞬間、子供たちの顔が輝いた。


「本! 読みたい!」


 前歯の欠けた少年が飛び跳ねる。その跳躍は、抑えつけられていた何かが一気に弾けるような勢いだった。


「俺、一度だけ本を見たことある! 商人のおじさんが帳簿をつけてるのを後ろから覗いたんだ。あの中に書いてある模様みたいなのが、全部意味があるんだろ? すげえよな! あの模様が読めたら、おじさんが何書いてるかわかるんだろ?」

「字を覚えたいの! お店の看板とか、市場の値札とか、いつか自分で読めるようになりたい!」


 おさげ髪の少女が身を乗り出した。十歳くらいだろうか。服は何度も繕った跡があり、裾が擦り切れているが、眼差しだけは鋭く、真っ直ぐだった。


「母ちゃんがね、市場で買い物する時、値段がわからなくて困ってるの。看板に何か書いてあるんだけど、読めないから、いつも店のおじさんに聞かなきゃいけない。でも、おじさんが嘘の値段を言ってるかもしれないでしょ? 母ちゃん、前に一度ごまかされたことがあるの。すごく怒ってたけど、証拠がないからって泣き寝入りしてた。だから、自分で読めるようになりたいの! 母ちゃんの代わりに、私が値段を確かめてあげるの!」

「お話を聞きたい! 騎士様の冒険とか、遠い国の物語とか、ドラゴン退治の話とか!」


 別の少年が興奮で言葉を重ねていく。六歳か七歳の小さな子で、兄らしい年上の少年の服の裾を握りしめながら、目だけは爛々と輝いている。


「俺のじいちゃんがさ、昔、旅の吟遊詩人から物語を聞いたんだって。勇者が悪い竜を倒して、お姫様を助ける話。じいちゃん、その話を何十回も俺に聞かせてくれたんだ。でもさ、同じ話ばっかりじゃ飽きるだろ? 本があれば、もっとたくさんの話が読めるんだろ? 百個くらいあるのかな、物語って」

「あたしは、お花の絵が描いてある本が読みたい!」


 小さな女の子が、指を折りながら言った。五歳くらいだろう。髪に花の代わりに草の茎を挿している。


「きれいなお花の名前を全部覚えたいの。それからね、算数の本も読みたい! 市場で、おつりが合ってるかどうか、自分で計算できるようになりたいの。母ちゃんが、いつもごまかされてるって言うから。あたしが計算できるようになったら、母ちゃんを守ってあげるの」

「俺は地図が見たい! この国がどんな形をしてるのか、海の向こうに何があるのか、知りたいんだ!」

「あたしはお料理の本! 母ちゃんがいつも同じものしか作れないって言ってるから、新しいお料理を教えてあげたい!」


 子供たちは口々に叫び、クララを取り囲んだ。


 その光景は、飢えた者が水を見つけた時の興奮に似ていた。だが同時に、それは純粋で、清廉な、知識への渇望そのものでもある。暗い部屋の片隅に残された、消えることを拒む炎。


 クララは目頭が熱くなるのを堪えた。


 父が生きていたら、この光景をどう感じただろうか。きっと、あの節くれ立った大きな手で子供たちの頭を撫でながら、目を細めて笑っただろう。「ほら見ろ、クララ。本の力だ」と。


「……そう。やっぱり、みんな読みたいんだね」


 声が震えそうになるのを、必死に押さえた。


「みんな、本を読みたいんだ。知りたいことがたくさんあるんだ。……父さん、聞いてる? この子たちは、知識に飢えているの。食べ物と同じくらい、いえ、もしかしたらそれ以上に……」


 ひとりの少女が、クララのスカートの裾をぎゅっと握りしめた。七歳か八歳だろうか。大きな瞳に、期待と不安が同じ分量だけ溶け合っている。何度も洗濯された薄い服を着ていて、袖口の繊維がほつれていた。


「お姉ちゃん、本当にそんな場所ができるの……?」


 その声は、小さくて、かすれていて、それでいて、どこまでも真剣だった。


「前にね、隣のおじちゃんが、『今度いいことがある』って言ってたの。でも、何もなかった。大人の『いいこと』は、だいたい嘘なんだって、お兄ちゃんが言ってた」


 少女は一度唇を結び、それからクララの目を真っ直ぐに見上げた。


「……でも、お姉ちゃんは嘘つかないよね?」


 クララは即答できなかった。


 レオポルトの言葉を信じたい自分と、信じることを許さない自分が、喉の奥でぶつかり合っている。


「……まだ、分からないの。でも、できるかもしれない」


 曖昧な答えだった。だが、その曖昧さの中にこそ、クララの正直さがあった。


「お姉ちゃんが『分からない』って言うのは、嘘つきの人とは違うね」


 少女はにっこりと笑った。前歯が一本だけ生え変わりかけていて、笑うとその隙間が見える。


「嘘つきの人は、いつも『絶対大丈夫』って言うもん。お姉ちゃんは正直だから、きっといい人だよ」


 その笑顔は、花が咲く瞬間のように唐突で、鮮やかだった。


「できたら、絶対行く! 約束!」


 少女は小指を差し出した。


「指切り! お姉ちゃん、指切りしよ!」


 クララは一瞬ためらった。約束。それは、この少女にとってどれほどの重みを持つ言葉だろう。大人たちの約束が何度も裏切られてきた経験を持つこの子が、それでもなお差し出す小指の意味を、クララは痛いほど理解していた。


 それから、小さく微笑んで、自分の小指を少女の小指に絡めた。


「……約束ね」

「うん! 約束! 破ったら、針千本のますよ!」


 周囲の子供たちが一斉に笑った。


「俺も約束する! 本が読める場所ができたら、毎日通うぞ!」

「あたしも!」

「俺もだ! 毎日行って、全部読むんだ!」

「全部は無理だよ、本ってすっごくいっぱいあるんだから!」

「じゃあ半分!」

「半分でも無理だって!」


 子供たちの笑い声と、言い合う声が路地裏に響き渡る。


 その約束の言葉たちが、クララの心の最後の砦を溶かした。


 少女の頭を優しく撫でた。柔らかいが、櫛の通っていない髪だ。その感触が、指先を通じて心まで届いてくる。この子たちの頭を撫でる手は、かつて父が自分の頭を撫でてくれた手と、同じ温度をしているだろうか。


「父さん……。この子たちの顔を見て。この子たちは、知識を求めている。文字を知りたがっている。物語に飢えている。……父さんが守ろうとした本の力を、この子たちは知らずに求めているの。この子たちのために、私は……」


 迷いは、消えていた。


 消えたのではない。子供たちの声が、迷いを押し流してしまったのだ。


「もう一度、あの人に会おう。そして、確かめよう。その覚悟が本物かどうかを。本当に、この子たちのために動こうとしているのかを」


 クララは子供たちに手を振り、路地裏を後にした。


「お姉ちゃん、また来てね!」

「約束、忘れないでね!」

「本の場所ができたら、教えてね!」

「お姉ちゃーん! 指切りしたからね!」


 子供たちの声が背中に降り注ぐ。その声のひとつひとつが、クララの足を前へ前へと押していた。



 数日後。


 クララは、ヴァイスハルト男爵邸の門前に立っていた。


 黒い鉄の門扉。その両脇の石柱にはヴァイスハルト家の紋章が刻まれている。手入れの行き届いた庭園では、薔薇が整然と列をなし、中央の噴水が水を静かに噴き上げていた。石造りの屋敷の正面には何本もの白い石柱が立ち並び、入口の扉は鋳鉄の細工で飾られている。


 すべてが、権力と富を象徴していた。


 かつて父を絶望の淵に追いやった「貴族の世界」が、そこにある。


 足がすくむ。踵を返して帰りたいという衝動が、腹の底から湧き上がってくる。この屋敷の空気そのものが、クララの体に染みついた恐怖を呼び覚ましていた。石柱の白さ。門扉の冷たさ。庭園の完璧な秩序。そのすべてが、「ここはお前の来る場所ではない」と告げているように感じられた。


「……父さん。私は今、貴族の屋敷の前に立っている。父さんが『二度と近づくな』と言ったあの世界の入口に」


 だが、立ち止まったまま、目を閉じた。


 瞼の裏に浮かぶのは、子供たちの笑顔だ。あの少女の小指の感触が、まだ自分の小指に残っている。


「……でも、父さん。私はここに来なきゃいけないの。あの子たちとの指切りの約束を守るために」


 目を開く。門扉を見据える。


 意を決して、鉄の門を叩いた。硬い金属の音が、庭園の静寂を破って響き渡る。


 すぐに扉が内側から開き、銀髪の執事が姿を現した。年齢は四十代半ばだろうか。背筋がまっすぐに伸び、威厳に満ちた佇まいでありながら、その物腰には相手を萎縮させない柔らかさが漂っている。


「クララ・ノイマン様ですね」


 執事エーリッヒ・ランベルトは、まるで王国の高貴な客人に対するかのように、深々と一礼した。その礼の角度は、形式的な浅さではなく、心からの敬意を表すものだった。


「お待ちしておりました。どうぞ、中へ」


 クララは一瞬、面食らった。


「……様? 私は庶民ですが」

「はい、存じ上げております。クララ・ノイマン様。旦那様は、訪れるすべての方を等しくお迎えするよう申しつけております。身分による呼称の区別は、この屋敷では行っておりません」

「……そんな屋敷が、この王国にあるとは思いませんでした」

「左様でございますか。しかし、存在しております。どうぞ、こちらへ」


 エーリッヒは穏やかな足取りで先導した。その歩調は意図的にゆっくりとしている。クララの緊張を察して、歩く速度を合わせているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。


 廊下を歩きながら、エーリッヒが口を開いた。


「ノイマン様、一つお伝えしてもよろしいでしょうか」

「何ですか」

「旦那様は、本日のお越しを大変楽しみにしておられました。昨夜から何度も、応接室の花を活け直しておりました。花の配置ひとつにも、お客様への敬意を込めたいとのことでございます」

「……貴族が、庶民の訪問のために花を活け直す?」

「はい。旦那様は、そのような方でございます。付け加えますと、花瓶の位置を四度変えておられました。私が数えた限りでは」


 その言葉に、クララは小さな驚きを覚えた。四度。花瓶の位置を四度変える貴族がいるということ自体が、彼女の常識の外にあった。


 通された応接室は、クララの工房が丸ごと入りそうなほど広かった。


 厚みのある絨毯が床一面に敷かれ、その織りの精緻さから帝国製であることが窺える。磨き上げられた調度品、壁に掛けられた古い絵画、窓際に置かれた陶器の花瓶。エーリッヒの言った通り、花瓶には新鮮な白い花が活けられていた。


 しかし、クララの目はそれらを素通りして、一箇所に釘付けになった。


 部屋の片隅に、小さな本棚がある。そこには、明らかに古い、修復が必要な書物が何冊か並べられていた。


「……この本たち」


 クララは思わず歩み寄った。職業的な本能が、意識よりも先に体を動かしていた。


 手を伸ばし、一冊の背表紙に触れる。指先が、紙と革の状態を自動的に診断していく。


「背表紙の接着が剥がれかけている。……この本は、少なくとも百年は経っている。でも、きちんと保管されているわ。湿度管理も悪くない。誰かが、大切にしてきたのね。直射日光を避けて、風通しの良い場所に置いていた。……この本を管理していた人は、本の扱いを知っている」


 エーリッヒが、静かに答えた。


「旦那様のお母様が残された蔵書でございます。旦那様は、修復できる方を長年探しておられました」


 クララは本棚から一冊を手に取り、慎重にページを開いた。紙の手触り、インクの褪色具合、綴じ糸の劣化度合い。そのすべてを、指先と目が同時に読み取っていく。


「この紙質……王国産の上質紙だわ。インクの褪色具合からして、八十年から百年前のもの。綴じ糸はまだ原型を留めているけれど、あと数年放置すれば完全に切れる。……修復は可能です。時間はかかりますが、必ず蘇らせることができます」

「そのようにお伝えすれば、旦那様はさぞお喜びになるかと存じます」


 クララは本を丁寧に元の位置に戻し、勧められた椅子に浅く腰掛けた。膝の上で両手を固く握りしめる。その力の入り方は、緊張と、覚悟を同時に表していた。


 程なくして扉が開き、レオポルトが入ってきた。


「クララさん、よく来てくれました」


 声は温かく、歓迎の意に満ちている。だが、押しつけがましさはない。客人の緊張を読み取り、それを増幅させないように注意を払っている声だった。


「お忙しい中、お時間をいただき感謝します。お茶をお持ちしますか? エーリッヒ、クララさんにお茶を」

「かしこまりました」

「あ、いえ、お構いなく……」

「いいんです。お茶を飲みながらの方が、話しやすいでしょう。何も急ぐ必要はありませんから。ゆっくりで構いません」


 クララは椅子から立ち上がった。


 深く息を吸う。その呼吸の中に、人生を賭ける覚悟を込める。


「男爵様。……私はまだ、あなたのお話を受けると決めたわけではありません」


 震える声を必死に抑えながら、言葉を紡いだ。その声の震えは、弱さからくるものではない。この瞬間の重みを理解している者の、自然な反応だった。


「ですが、ひとつだけ伺いたいことがあります。お答えいただけますか」

「何なりと。何でも聞いてください」


 レオポルトの返答には、一瞬の躊躇もなかった。


「何でも、というのは本当ですか。不快な質問でも」

「不快かどうかは関係ありません。あなたが聞きたいことには、すべて答える義務が私にはあります。……あなたの信頼を得るためには、何も隠すべきではないと考えていますから」


「なぜ……」


 クララは立ったまま、レオポルトを見つめた。全身全霊で相手を量ろうとする強い意志が、その眼差しに宿っている。


「なぜ、あなたは図書室を作りたいのですか」


「お金にもならない、何の得もしない事業に、なぜそこまでこだわるのですか。貴族のあなたが、庶民のために……そんなことが、本当にあるはずがない」


 その言葉は、クララが抱いてきた貴族への不信感の総決算だった。


「正直に申し上げます。私は貴族を信じていません。父が貴族に裏切られて以来、ただの一度も。あなたがどれほど優しい言葉を並べても、私の心の中の何かが、それを嘘だと叫ぶのです」


 声が、わずかに震えた。


「……ですから、せめて理由だけは聞かせてください。なぜ、あなたは無料の図書室などというものを作ろうとするのか。その理由に嘘がなければ……少なくとも、聞く耳だけは持てるかもしれません」


 レオポルトは一歩、前に出た。相手との距離を縮める、その一歩。


「利益だけが目的ではないからです」


 迷いのない声だった。修辞でも、事前に用意された台詞でもない。心からの言葉だけが持つ、飾り気のない響きがある。


「私は、この歪んだ王国の構造を変えたい。生まれによる貧富の差を縮め、誰もが平等に教育を受け、自らの人生を選び取れる社会にしたいのです。……図書室は、そのための最初の、そしてもっとも重要な種まきです」

「種まき……?」

「ええ。種を蒔かなければ、花は咲きません。図書室という種を蒔くことで、知識という花が咲く。その花から実がなり、次の世代の種になる。……百年後のこの国を変えるための、最初の一粒の種なのです」

「百年後……。あなたは百年先のことを考えているのですか」

「ええ。商売は一年で利益を出せます。建物は三年あれば完成する。しかし、教育の成果は十年、二十年、百年という単位でしか測れないものです。だからこそ、今すぐに始めなければ間に合わない」


 レオポルトは続けた。その声の温度が、一段下がる。


「クララさん。あなたのお父上が無実の罪を着せられたのは、貴族と庶民の間に、知識という力の差があったからです」


 クララの表情が、一瞬にして凍りついた。


「……父のことを、知っているのですか」

「はい。申し訳ありませんが、事前に調べさせていただきました。あなたを信頼し、大切な仕事を任せるためには、あなたのことを知る必要がありました」

「勝手に調べたのですか」


 クララの声に、怒りの色がにじむ。


「ええ。その点については、お詫びします。しかし、隠したまま話を進めるよりも、正直にお伝えした方が、あなたへの敬意になると判断しました。知っていることを知らないふりをするのは、もう一つの嘘ですから」


 クララは唇を噛んだ。怒りと、その正直さに対する奇妙な安堵感が、胸の中でぶつかり合っている。嘘をつかれるよりはましだ、と思う自分がいた。そう思ってしまう自分が、少し悔しかった。


 レオポルトは、その沈黙を待ってから、声を落とした。


「お父上が識字教育を受けていたとしても、もし、貴族たちの言葉を記録し、証拠として提示する制度があったなら。もし、庶民にも弁護を求める権利があることが広く知られていたなら。……お父上の人生は、変わっていたかもしれません」


「図書室を作ることで、次の世代は、自分たちの力で人生を切り拓くことができるようになる。知識という力を手にすることで、不当な支配から自らを守れるようになるのです。それが、私の望むことです」


 レオポルトはさらに踏み込んだ。


「クララさん。もしお父上の時代に、庶民が自由にアクセスできる法律書があったら。もし、王城内の出入り記録を庶民自身が確認できる制度があったら。お父上は、自分の無実を証明する手段を持っていたかもしれない。……知識がないことで奪われる命と尊厳が、この国にはあまりにも多いのです」


「そして、それを変えるために、私はあなたの力を借りたい。あなたは本を愛し、本を直し、本の価値を誰よりも知っている。あなたほど、図書室の司書長にふさわしい人間はこの国にいません」


 クララは唇を噛みしめた。


 言葉では、何度でも誠実さを装うことができる。悪意に満ちた貴族でさえ、必要とあらば優しい言葉を並べる。父を陥れたあの貴族も、そうだった。


「……言葉では、なんとでも言えます」


 クララの声には、悔しさが満ちていた。信じたいのに信じられない。その葛藤が、声を細く、硬くしている。


「貴族の方が、本当に私たち庶民のために動くなんて……私には信じられません。これまでの人生で、そんなことが起きたことがないからです。あるのは、裏切りと、失望と、絶望だけです」


「父を褒めた貴族たちも、きっと本心から褒めていたのでしょう。少なくともあの瞬間は。でも、都合が悪くなった瞬間に、彼らは手のひらを返した。……あなたも同じかもしれない。今は優しい言葉を並べているけれど、いつか何かの拍子に、私を切り捨てるのではないか。……その恐怖が、どうしても消えないのです」


 拒絶の言葉だった。だが、それは「信じたい」という叫びの裏返しでもあった。本当に信じられないなら、この場に来ていない。ここに立っていること自体が、クララの中にまだ希望が残っていることの証明だった。


 レオポルトは静かに言った。


「あなたが信じられないのも無理はありません。……過去に、ひどい裏切りを受けたのですから」


 クララは息を呑んだ。心の最奥に秘めた傷を、この男は正確に見抜いている。


「……なぜ、それを……」

「エーリッヒに調べさせました」


 レオポルトは隠さなかった。その正直さが、逆にクララを戸惑わせる。隠さないということ自体が、ひとつのメッセージなのだ。


「お父上は優秀な修復師だったそうですね。王城で尊敬され、多くの貴族から信頼を得ていた。だが、ある貴族の不祥事の身代わりとされ、無実の罪を着せられて職を追われた。その後、貧民街で細々と仕事を続けられて、心労と貧困によって……」


 レオポルトは一度、言葉を止めた。その一呼吸は、相手の悲しみを踏みにじらないための間だった。


「……亡くなられた」

「……」

「それが、あなたの貴族不信の根源ですね」

「はい」


 クララの声は、もう震えていなかった。震えを通り越して、硬く、冷たくなっていた。


「その貴族の名は、ブレンナー伯爵です。……今でも、王宮の近くに豪邸を構えて、何食わぬ顔で暮らしています。父の人生を奪った男が、何の罰も受けずに。毎日美味いものを食べ、柔らかいベッドで眠り、使用人に囲まれて暮らしているのです。父が冷たい部屋で息を引き取ったあの夜と、同じ空の下で」

「ブレンナー伯爵……」


 レオポルトの声に、かすかな鋭さが混じった。


「その名前は覚えておきます」

「覚えておく? 何のために」

「いつか、お父上の名誉を回復するためです。今すぐにはできません。しかし、デパートが完成し、図書室が機能し始め、この国の構造が変わり始めたら……不当な罪を着せられた人々の名誉を回復する仕組みも、作ることができるはずです」


 クララの瞳から、涙が溢れた。


 止められなかった。


 触れられたくない、けれど誰かに知ってほしかった傷跡。長年、心の奥底に秘めてきた、言葉にすることすら怖かった悲しみ。それが、この男の声によって言葉を与えられた瞬間、堰が切れたのだ。


「……名誉の回復なんて……今さら……」

「今さらではありません。お父上の名誉は、お父上だけのものではない。あなたのものでもあるのです」


 レオポルトの声が、静かに、しかし揺るぎなく続いた。


「あなたが『泥棒の娘』と陰で呼ばれてきたことを、私は知っています。……その呼び名を消すことは、あなたのこれからの人生のためにも、必要なことだと考えています」


「……っ」


 クララは声を失った。


「泥棒の娘」。


 その三文字は、幼い頃から何度も浴びせられてきた呪いだ。市場で。路地裏で。時にはすれ違う見知らぬ人間から。ひそひそ声で、あるいは面と向かって。その度にクララは唇を噛み、拳を握りしめ、泣かないように耐えてきた。泣いたら負けだと思っていた。泣いたら、父が泥棒だったことを認めたことになると思っていた。


「……そうです」


 クララは、もう隠すことをやめた。感情が、堰を決壊させるように溢れ出していく。


「本当にそうです。父は、無実でした。それなのに、誰も信じてくれなかった。証人も、証拠も、父の三十年の人格も、すべてが無視されて、ただ『貴族の言葉だから真実』として扱われた。……貴族たちは、父を見下ろすような目で見ていたんです。『下層民が何を言っても無駄だ』という確信を持った目で」


「父は三十年間、一度も不正をしなかった。一冊の本も私物化しなかった。どんなに高価な書物を扱っても、一銭も余分にいただかなかった。修復が終われば、必ず自分の手で依頼主に届けて、丁寧に頭を下げていた。……それなのに、たったひとりの貴族の嘘で、すべてが奪われたんです。三十年の信頼が、三十秒で崩壊した。……あまりにも、あまりにも不公平じゃないですか……」


 激情をぶつけるクララの前で、レオポルトが動いた。


 突然、その場に片膝をついたのだ。


 臣下が王に捧げるような、あるいは罪人が赦しを請うような姿勢だった。


 クララは息を呑んだ。


「男爵様……っ? 何を……」

「立ってください! 貴族が庶民の前で膝をつくなんて……! そんなことをしたら、あなたの立場が……!」


 レオポルトは顔を上げなかった。深く頭を垂れたまま、沈痛な声で言った。


「申し訳ありませんでした」


 その声は、応接室の空気を震わせた。


「同じ貴族として、あなたの父上を傷つけ、絶望させたことを、心からお詫びします。……その苦しみが、その後の人生全体を蝕んだことを、今、深く理解しています」

「私はブレンナー伯爵ではありません。しかし、同じ貴族という階級に属する者として、その階級が犯した罪から目を逸らすことはできません。お父上が味わった絶望は、貴族制度そのものが生み出した悲劇です。……その構造を変えなかった者すべてに、責任がある」


 クララは混乱した。


 この男は何をしているのか。自分たちを支配する側にいるはずの貴族が、なぜこのような姿勢を取るのか。頭が追いつかない。感情が追いつかない。


「な、何を……あなたが謝ることでは……」


 声が途切れた。感情の大波が、言葉を根こそぎ奪っていく。


「あなたは父を陥れた人間ではないでしょう!? なぜ、あなたが謝るのですか!? そんなことをされたら、私は……私は、どうすればいいの……」


 レオポルトは顔を上げた。


 その瞳が、濡れていた。


 クララは目を見張った。貴族が泣いている。この男は、他人の痛みに対して、本当に涙を流している。


「いいえ。特権階級の横暴を見過ごし、その恩恵にあずかっている以上、私にも連帯責任があります」


 ゆっくりと立ち上がりながら、続けた。


「クララさん。私が泣いているのは、同情からではありません。怒りからです。お父上のような誠実で優秀な人間が、ただ庶民であるという理由だけで、人生を奪われた。……その怒りが、私の涙の正体です」

「怒り……?」

「ええ。私は、この国の構造に怒っているのです。身分が高いというだけで嘘が通り、身分が低いというだけで真実が踏みにじられる。……そんな世界を、私は許すことができない」

「……だからこそ、私は償いたいのです。図書室を作り、あなたの父上のような誠実で優秀な人々が、知識という武器を持って自らを守れるようにしたい。二度と、あのような理不尽な悲劇を生まないために」


 レオポルトは、まっすぐにクララの目を見た。


「そしてもし可能であれば、あなたにも、この事業を通じて、貴族という存在への信頼を、少しでも取り戻してほしいのです」

「すべての貴族を信頼してほしいとは言いません。ただ、少なくともひとり……この私だけは、あなたを裏切らないと約束します。もしいつか私がその約束を破ったなら、その時は、あなたの手で私を告発してください。その権利を、あなたに差し上げます」


 クララは両手で顔を覆い、泣き崩れた。


 父が死んで以来、何年もの間、凍りついていた心が、熱い涙とともに溶けていく。その涙は、悲しみだけを運んでいるのではなかった。長く抑圧されていた怒りも、誰にも打ち明けられなかった孤独も、名付けようのない何かも、すべてが一緒に流れ出していた。


「父さん……。聞いてる? 貴族が……貴族が、父さんのことを謝ってくれてるの。父さんが正しかったって、認めてくれているの。……遅すぎるけど……遅すぎるけど、でも……」


 長い嗚咽のあと、クララは涙を拭って顔を上げた。


 その目には、新しい光が宿っていた。迷いの光ではない。決意の光だ。


「……分かりました」


 声が変わっていた。それまでのか細さは消え、清廉で、芯の通った響きに変わっている。


「お引き受けします。……私が、デパートの図書室の司書長になります」


 レオポルトは安堵の息を吐き、微かな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます……。その言葉を聞くことができて、本当に」

「ただし」


 クララはきっとレオポルトを見据えた。弱者の目ではない。対等なパートナーとして立とうとする者の目だ。


「条件があります」

「何なりと」

「図書室の運営は、すべて私に任せてください。選書も、規則も、どの本をどう配置するかも、すべて私が決めます。あなたは口を出さないでください」


 その要求は、仕事を任されるということ以上の意味を含んでいた。信頼の証であり、対等な立場の宣言だった。


「図書室は、私の領域です。あなたがデパートの経営者であるように、私は図書室の長です。商品の仕入れにあなたが口を出さないのと同じように、蔵書についても、私の判断を最優先にしてください」

「もちろんです」

「それから、予算については、最低限の金額を保証してください。運営が始まってから『採算が合わないから廃止する』などとは言わせません。図書室は利益を生む場所ではありません。人を育てる場所です。その価値を、金額で測ることはできないはずです」

「同意します。図書室の年間予算は、デパート全体の経費とは別枠で確保します。具体的な金額は、クララさんと相談のうえで決めましょう」

「そして、もうひとつ。どんなに汚れた服を着ていても、どんな身分の子でも、決して拒まないと約束してください。その約束が守られているかどうか、私は常に監視します」


 クララは一歩前に出た。


「ひとつも例外なく、です。裸足の子供が来ても、泥だらけの老人が来ても、文字がひとつも読めない大人が来ても。……誰ひとりとして、門前払いにしない。それだけは、絶対に譲れません」


 レオポルトは破顔した。


「もちろんです。図書室はあなたの城です。あなたの王国です。好きなように治めてください。その代わり、この場所を訪れるすべての人に、知識の扉を開くという責任だけは、共に背負わせてください」

「クララさん、あなたの条件は、すべて私自身が望んでいたことと重なっています。図書室は、あなたの手で育ててください。私は、その環境を整えることに徹します。そしてもし私が約束に反することをした時は、遠慮なく、面と向かって言ってください。あなたの言葉こそが、私を正す力になるのですから」


 クララは、ようやく笑みを浮かべた。


 小さな笑みだった。だが、そこには復讐ではなく、建設へ向かう者だけが持つ光があった。


「……ありがとうございます。信じてみます。まだ完全にではないけれど……少しずつ」

「それで十分です。信頼は、一日で築くものではありませんから」

「ひとつだけ、聞いてもいいですか」

「何でも」

「先ほど、あなたは泣いていました。あれは……本当の涙でしたか」


 レオポルトは一瞬黙り、それから正直に答えた。


「本当の涙です。……お父上の話を聞いて、私自身の過去の過ちを思い出したからです。私も、かつて人を傷つけたことがある。その記憶が、あなたのお父上の痛みと重なって……」

「……そうですか」


 クララは小さく頷いた。


「貴族の涙を見たのは、初めてです。……本物かどうかは、これからの行動で判断します」

「望むところです」


 レオポルトが手を差し出した。


 クララは、恐る恐る、しかししっかりとその手を握り返した。


 貴族の手は、思ったよりも温かかった。そして、思ったよりもごつごつしていた。


「……この手、荒れていますね。本当に現場で働いているんですね」

「ええ。図面を引きすぎて、ペンだこも増えました」

「……父の手も、こんなふうに荒れていました。修復の糊と紙で」

「似た者同士かもしれませんね。手を使って何かを作り出す者として」


 クララは小さく笑った。今度の笑みは、先ほどより少しだけ温かい。



 それからは、具体的な打ち合わせが始まった。


 クララは水を得た魚のように生き生きと提案を重ねていった。さきほどまで涙に濡れていた目が、今は別人のように輝いている。


「蔵書は実用書を中心にしましょう。物語だけでなく、農業や工作の技術書も必要です。……そして、それらを実際に使える形で配置したい」

「素晴らしい。実践的な知識を与えることで、より多くの人間が自分たちの生活を改善できるようになる」

「具体的には、一階を物語と読み聞かせの空間にして、二階を実用書と技術書の閲覧室にしたいと考えています。一階で本に親しんだ子供たちが、成長して二階に上がる。……そういう動線を作りたいんです。読書の入口は楽しさであるべきで、実用は、その先にあるもの」

「なるほど。成長に合わせた空間設計ですね。建築的にも実現可能です。オスカーに伝えて、図書室の内装設計に反映させましょう」

「それから、法律に関する本も置きたいのです。庶民が自分たちの権利を知るための、わかりやすい法律解説書を。難解な法律用語ではなく、日常の言葉で書かれたもの」


 レオポルトの目が鋭く光った。


「……それは、重要な提案ですね」

「ええ。父が陥れられた時、私たちは自分たちの権利を知らなかった。弁護を求める権利があることすら知らなかった。……知識がなければ、人は自分を守ることすらできないのです。法律を知っていれば、少なくとも不当な扱いに対して声を上げることができる」

「同感です。法律書は必ず蔵書に加えましょう。そして、定期的に法律の専門家を招いて、相談会も開きたい」

「子供向けの本棚は低くして、表紙が見えるように並べたいんです。字が読めない子でも、絵を見て自分で選べるような配置に」

「視覚情報も、知識への入口として重要です。採用しましょう」

「本棚の高さは、五歳の子供の目線に合わせたいです。具体的には、地面から六十センチの高さ。しゃがまなくても、背伸びしなくても、自分の手で取れる位置。……自分の力で本を選ぶという経験が、子供たちの自信になるのです。誰かに選んでもらうのではなく、自分で手を伸ばして、自分で決める。その小さな成功体験が、知識への扉を開く鍵になります」

「六十センチ。具体的な数字ですね。……クララさん、あなたはすでに何年もこの構想を温めていたのでしょう」

「……ええ。父が亡くなった後、いつか自分で図書室を作りたいと思っていました。でも、庶民の私には場所もお金もなかった。……だから、あなたの提案を聞いた時、正直に言えば、心が震えました。夢が、他人の口から語られるとは思わなかったから」

「字が読めない子のために、読み聞かせの時間も作りたい。毎週、定期的に、誰かが声に出して本を読み上げる時間を」

「クララさん、それは本当に素晴らしい。実は、私も同じことを考えていたところです。読み聞かせを通じて、文字を知らない大人たちも、言葉の美しさや知識の喜びに触れることができる」

「ええ。子供たちだけでなく、大人たちのための読み聞かせも行いたいのです。市場の主婦たち、引退した老人たち……。文字が読めない人々が、図書室から排除されてはいけません。声で届けることで、文字を持たない人々にも知識の扉を開くことができます」

「それから、読み聞かせの担当者は、できれば庶民から選びたいのです。貴族ではなく、同じ庶民の言葉で語りかけることが大切です。同じ立場の人間から学ぶ方が、心に入りやすい。……知識を与える側と受ける側の間に、上下関係があってはいけないと考えます」

「見事な見識です。クララさん、あなたは司書である前に、教育者ですね」

「教育者だなんて、大袈裟です。……ただ、父がいつも言っていたことを、受け継ぎたいだけです。『知識に貴賤なし。学ぶ者に身分なし』と」

「素晴らしいお父上だ。……その志を、この図書室で実現しましょう」

「あとひとつ。これは我儘かもしれませんが……」

「何ですか」

「図書室の入口に、一枚の銘板を掲げたいのです。父の名前を刻んだ銘板を。『この図書室は、書籍修復師ハインツ・ノイマンの志を継いで建てられたものである』と。……父の名前を、この場所に残したいのです。泥棒の汚名ではなく、修復師としての誇りある名前を」


 レオポルトは深く頷いた。


「必ず、掲げましょう。お父上の名前が、この図書室の礎石となります」


 クララの目から、再び涙がこぼれた。だが今度は、悲しみの涙ではない。何かが始まろうとしている予感が、胸の奥で温かく灯る、そんな涙だった。


 レオポルトはクララの提案のすべてに、真剣に耳を傾け、的確な応答を返した。その応答は、上司が部下を褒めるようなものではなく、対等なパートナーが互いの知恵を持ち寄るそれだった。



 数日間の打ち合わせを終え、クララが屋敷を後にした夕刻。


 レオポルトは書斎の窓辺に立ち、執事のエーリッヒに向かって呟いた。


「クララは味方になってくれた。これで、庶民の心を直接拾い上げることができる」


 その声には、重要な局面を乗り越えた安堵が滲んでいた。


「図書室は、単なる本の倉庫ではない。庶民が知識を手に入れ、自ら考え、判断する力を養う場所だ。帝国のデマ工作に対する、最大の防波堤になる」

「……旦那様」


 エーリッヒは慎重な口調で切り出した。元王宮密偵としての懸念は、主人への忠誠とは別の次元で存在している。


「よろしいのですか。彼女は……第一周目では、最後にあなたを糾弾した人物です。それがために、あなたは……」


 言葉を濁した。革命の暴動の中でレオポルトが処刑台に送られた経緯を、エーリッヒは一部始終知っている。


「旦那様が第一周目で処刑台に送られた際、民衆の前でもっとも激しくあなたを告発したのが、彼女でございました。『この男は庶民の味方を装い、自らの利益のために我々を利用した』と。……その言葉が、民衆の怒りに火をつけたのです」

「本当に、信じきってしまって大丈夫でしょうか」


 レオポルトは窓の外を見つめたまま答えた。視線の先には、建設中のデパートの骨組みが見える。夕日を受けて、鉄骨が赤銅色に染まっていた。


「エーリッヒ。お前の懸念は理解している。そして、それは正当な懸念だ」

「では、なぜ……」

「第一周目で彼女が離反したのは、俺が彼女の心の傷を理解せず、ただ金で雇った道具として扱ったからだ。彼女は親しい仲間ではなく、便利な庶民として見なされていた。そのことに気づいた時、彼女の心は冷えたんだ。……当然の報いだったんだよ」


 レオポルトの言葉には、過去の失敗を直視する苦さが滲んでいる。


「第一周目の俺は、クララの父親のことを知らなかった。彼女の不信感の根源を理解しなかった。ただ『有能な司書が必要だから』という理由で雇い、仕事だけを求めた。……彼女の心を見ようとしなかったんだ」

「それが、離反の原因だったと」

「ああ。帝国のデマ工作が始まった時、クララは真っ先に俺を疑った。なぜなら、俺は彼女にとって『信頼できる仲間』ではなく、ただの雇い主に過ぎなかったからだ。雇い主が不都合な時に人を切り捨てるのは、彼女にとっては自明のことだった。……父親が切り捨てられたように」

「だが今回は違う。俺は彼女の過去を知り、痛みを共有し、対等な仲間として迎え入れた。……だから、同じ轍は踏まない」

「仮に、それでも裏切られた場合は」

「その時は、俺の見る目がなかったということだ。だが、エーリッヒ。人を信じることを恐れて、誰も味方にできないのでは、何ひとつ変えられない。信じるリスクと、信じないリスク。……俺は、信じるリスクを取る」


 エーリッヒは主人の横顔を見つめ、静かに頭を下げた。


「……旦那様は、強くなられましたな。第一周目の、あの血気盛んな青年ではなく」

「二度目の人生だからな。少しは学習しないと格好がつかない」


 その返答は謙虚だが、確実な成長を示すものだった。


「しかし、旦那様。ひとつだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」

「何だ」

「本日、クララ様が応接室の本棚をご覧になった時の表情を、私は観察しておりました」


 エーリッヒの声が、わずかに温度を変えた。


「あの方は、本を見た瞬間に、すべての警戒心を忘れておられました。緊張も、不信感も、恐怖も、すべてが消えて、ただ修復師としての本能だけが前面に出ていた。紙の状態を指先で確かめ、インクの褪色を目で診断し、綴じ糸の劣化度合いを一目で見抜いておられました。……あのような顔をする人間は、嘘がつけません。本に対する愛情が、人間性の核にある方です」

「エーリッヒ。お前も、彼女を信じる気になったということか」

「信じる、とまでは申しません。しかし、観察の結果として、裏切りの可能性は低いと判断いたしました。……元密偵の勘でございますが」

「お前の勘は、大抵当たるからな」

「恐れ入ります。……では、紅茶をお持ちいたしましょうか」

「ああ、頼む。……今日は、美味い茶が飲みたい気分だ」

「本日は特別に、旦那様のお母様がお好きだった茶葉をお淹れいたしましょう」

「……ありがとう、エーリッヒ」



 一方。


 貧民街への道を歩くクララの足取りは、来た時とはまるで違っていた。


 行きは鉛のように重かった足が、今は地面を蹴るように軽い。それは肉体的な疲労が癒えたからではなく、心が長年背負い込んでいた重荷から、少しだけ解放されたからだった。


「あの人は、本気だ」


 独り言が口をついて出る。夕暮れの路地に、その声が小さく響いた。


「本当に、世界を変えようとしている。貴族だからではなく、人間だから。誠実な心を持ったひとりの人間として」


 夕陽が路地を黄金色に染めていた。建物の隙間から差し込む斜めの光が、クララの髪を赤く照らしている。長く伸びた影が、石畳の上を前へ前へと進んでいく。


「あの人は泣いていた。父さんの話を聞いて、本当に泣いていた。……あんな涙を流す人間が、嘘をついているとは思えない。いえ、まだ完全には信じていない。でも……少なくとも、可能性を閉ざさないでいよう。その可能性に、賭けてみよう」


 遠くで、子供たちの笑い声が聞こえた。夕暮れの中で遊ぶ子供たちの声は、風に乗って路地を渡ってくる。


「あの子たちとの指切りの約束。……あの約束を守るために、私はあの屋敷に行った。そして今、守れる道が見えた」


 歩きながら、すでに頭の中は図書室の設計で一杯になっている。


「蔵書は最低でも五百冊から始めたい。子供向けの絵本が百冊、物語が百冊、実用書が百冊、技術書が百冊、法律と歴史が百冊。……修復が必要な古書は、私が直す。新しい本は、男爵様の予算で仕入れる。読み聞かせは週三回。火曜と木曜と土曜の午後。子供の部は午後二時から、大人の部は午後四時から……」


 具体的な数字が次々と浮かんでくる。夢想ではない。実現の計画だ。


「父さん」


 クララは空を見上げた。夕焼けの残照の向こうに、星がひとつ、早々と光り始めている。


「私、もう一度だけ信じてみることにしたよ。……貴族を。人間を。そして、あの男のビジョンを」


「父さんは言ったよね。『人間を信じるな。本を信じろ』って。……でも父さん、今日私が見たのは、本を信じる人間だった。本の力を信じ、知識の力を信じ、それをすべての人間に届けようとする人間だった。……父さんが本を愛したのと同じように、あの人も本の力を信じている」


「だから父さん。ごめんね。父さんの最期の言葉に、少しだけ背くことになるけど……」


 立ち止まった。


「でも、父さんが本当に望んでいたのは、『人間を信じるな』ということじゃなくて、私が傷つかないことだったんでしょう? ……大丈夫。もし裏切られても、今度は自分で自分を守れる。父さんが教えてくれた本の力で。知識の力で」


 その決断が、父の呪いを解く最初の一歩であることに、クララ自身はまだ気づいていない。


 だが、彼女の胸には、確かに新しい火が灯っていた。


 図書室を作り、子供たちに本のページをめくる喜びを教える。知識という種を蒔き、いつかそれが芽吹いて、父が夢見たような公正な世界を築く力になるように。


「私が、やるんだ」


 クララは拳を握りしめ、前を見据えた。


「父さんの名前を刻んだ銘板が、図書室の入口に掲げられる。泥棒の汚名を着せられた修復師ハインツ・ノイマン。……その名前が、知識の殿堂の入口に刻まれるの。父さん、あなたの名前は、汚名ではなく、誇りとして残る。……必ず」


 父が成し遂げられなかった夢を、レオポルトと共に叶えるために。父の無念を晴らすために。そして、あの路地裏の子供たちとの約束を守るために。


「あの子たちが待ってる。指切りの約束をした、あの子たちが。……だから私は、走る。止まっている暇はない」


 夕陽が沈みかけている。だが、空にはもう新しい星が見えていた。


 彼女の戦いが、今、始まった。それは剣ではなく、知識という光で世界を照らす戦いだった。

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