第15話 王宮での攻防
ゲオルク・フォン・エッケルト伯爵への一ヶ月の謹慎処分。
それは、レオポルトの勝利を決定づけたかのように見えた。王からの明確な支持を得て、法廷で敗北を喫したゲオルク。その沈黙は、すべてが終わったことを意味するはずだった。
しかし、老練な政治家がただ大人しく蟄居しているはずがない。
牙を折られた獣は、残った爪をいっそう鋭く研ぐ。失った権力を取り戻すために。砕かれた名誉を修復するために。そして何よりも、自分を追い詰めた若者への報復を果たすために。
エッケルト伯爵邸の書斎は、失われた栄光の残照に満ちていた。
代々受け継がれた油絵が壁面を飾り、古い家紋が深く刻まれた黒檀の机が部屋の中央に据えられている。王国の歴史を綴った革装丁の書物が、天井まで届く書棚にびっしりと並び、その背表紙の金文字が燭台の光を鈍く弾いていた。窓際には先々代の当主が愛用したという天球儀が置かれ、その真鍮の表面が時の流れとともに飴色に変わっている。部屋の隅々に至るまで、保守派貴族としての自負が染み渡った空間だった。
その書斎に、保守派の重鎮たちが集結していた。
侯爵、伯爵、子爵。王国の伝統と秩序を重んじる、そうそうたる顔ぶれである。彼らの中には、王家の傍系にあたる血筋の者も含まれていた。全員が何らかの理由でレオポルトのデパート計画に不満を抱いている。既得権益の喪失を恐れる者、商人との競合を嫌う者、民衆への権力の拡散を危険視する者。それぞれの立場は異なれど、この計画が脅威であるという認識だけは一致していた。
謹慎中のゲオルクは、見た目にはやつれていた。外出を禁じられた二週間の間に、頬はやや落ちくぼみ、白い顎髭は手入れが行き届かず伸び放題になっている。上等な室内着の襟元も乱れがちで、以前の端然とした佇まいは影を潜めていた。だが、その奥に燃える目だけは、むしろ以前よりも強い炎を宿している。敗北と屈辱が、彼の内側で新たな怒りの火種となり、くすぶり続けていたのだ。
「皆様」
ゲオルクの声は、鉛のように重く響いた。かつての朗々とした弁舌ではなく、地の底から湧き上がるような、呪術師の詠唱にも似た低い響きだった。
「まず、この度はご足労をいただき、心より感謝申し上げます。謹慎中の身でありながら、これだけの方々にお集まりいただけたこと……それ自体が、我々の結束の強さを何よりも雄弁に証明しております。王がいかに処分を下そうとも、この絆だけは断ち切れぬということです」
ゲオルクは一呼吸置き、書斎に集まった面々を一人ひとり見渡した。燭台の炎が彼らの顔を照らし、その陰影が壁面の肖像画と重なり合っている。
「ヴァイスハルトのデパート計画は、もはや一企業の事業などではありません」
彼は言葉を選びながら、ゆっくりと語り始めた。一語一語が、着実に聞き手の胸の奥へ浸透するよう計算された口調である。
「あれは、王国の根幹を揺るがす毒です。じわりじわりと体内に回り、気づいた時にはもう手遅れになっている類いの、恐ろしい毒なのです」
この表現は客観的な事実ではなく、感情に訴えかける修辞だった。だが、その力は莫大だった。書斎に集った貴族たちの顔に、一様に緊張が走るのが見て取れる。
「考えてもみてください。あの建物がひとたび完成すれば、民衆は貴族の仲介なしに商品を手に入れる術を得るのです。価格は『透明』なるものにされ、我々が長年にわたって築いてきた商取引の構造は根底から覆される。そして何より恐ろしいのは……民衆がそれを『当然の権利』だと思い始めることです。一度芽生えたその意識は、二度と摘み取ることができません」
ゲオルクの太い指が、机上の古い家紋を無意識になぞった。三百年の歴史を刻んだ獅子と盾の紋様が、指先の下でかすかに凹凸を主張している。
「民衆に過度な力を与え、貴族の権威を失墜させ、ひいては王権をも脅かす危険思想の温床なのです。この国の秩序は、階級制度の上に成り立っております。その秩序を揺るがす行為は、王国全体の安定を根本から脅かすことに他なりません。我々が何もしなければ、三百年かけて積み上げてきたものが、あの若造一人の手で崩されてしまうのです」
彼はさらに声を低め、まるで秘密を打ち明けるかのように身を乗り出した。
「諸侯の皆様。私はこの二週間、この書斎に閉じ込められ、ひたすら考え続けました。なぜ王は、あの男の言葉に惑わされるのか。なぜ我々の声は陛下の御心に届かないのか。そしてようやく、答えに辿り着いたのです。我々が個別に動いていたからです。一人ひとりの散発的な反対は、王にとっては些末な不満に過ぎない。だが、我々が一つの声として立ち上がれば、王とて無視できぬ力になる。いや、無視することが許されぬ力になるのです」
保守派の長老格であるヴィルヘルム侯爵が、深い皺の刻まれた顔を厳しく歪めた。七十年以上の歳月が彫り込んだその顔には、幾多の政変と権力闘争を生き延びてきた者だけが持つ、苛烈な迫力が宿っている。白髪を後ろに撫でつけた頭部は、枯れた大木の幹のように硬質で、その下に光る小さな目は、鷹のそれを思わせた。
「ゲオルク伯の言う通りだ」
彼の声は、権威そのものだった。王国の古い家格を代表する者の、有無を言わさぬ重さを帯びている。
「近頃の王都の空気は変わった。庶民どもが妙に活気づき、身の程をわきまえない言動が増えている。以前であれば、そのような下賎な振る舞いは即座に鎮圧されたものだ。それが今では、市場で大声で値切り交渉をし、広場で政治の話をし、酒場で貴族の悪口を言う者まで出てきておる。たかが十年前には考えられなかった光景だ」
彼の言葉には、失われた時代への深い郷愁が込められていた。自分たちの言葉が絶対だった時代。民衆が黙って頭を垂れた時代。秩序と服従が表裏一体だった、あの安定した世界への渇望である。
「先日、私の領地から上がってきた報告を聞いて愕然としたよ。農民の小倅が、市場で私の代官に向かって『この価格は不当ではないか』と口答えしたと言うではないか。たかが農民の子が、代官に物申すなど、十年前には天地がひっくり返っても起きなかった。あれはヴァイスハルトの影響だ。あの男が撒いた種が、もう芽を出し始めている。根を張る前に引き抜かねば、やがてこの国を覆い尽くす雑草になるぞ」
ヴィルヘルムは杖の石突きを床に打ちつけた。硬い音が書斎に反響し、居並ぶ貴族たちの背筋が伸びる。
「このまま放置すれば、やがて民衆は我々の統治そのものに疑問を持ち始める。それは王国三百年の歴史を否定する行為に等しい。儂は、この老骨に代えても、そのような事態を許すわけにはいかん。死んだ後の世で、先祖に顔向けができなくなる」
別の伯爵が付け加えた。五十代の男で、飾り気のない軍服に似た上着を身につけている。
「王は、あの成り上がりの甘言に惑わされておられるのだ。陛下の聡明さを疑うわけではないが、あの男の弁舌には妙な説得力がある。言葉巧みに理想を語り、数字を並べ、相手の感情に訴えかける。あれは生まれ持った才覚というよりも、詐欺師の手管だ」
その言葉には、無責任さと同時に、王への忠告という気遣いも感じられた。自分たちは王の判断の過ちを正すために集まったのだという信念が、彼らの行動を支えている。
「先代の王であらせられたフリードリヒ二世陛下ならば、このような危険な計画は即座にお止めになられたはずだ。フリードリヒ陛下は、貴族と王権の均衡こそが国家の礎であると常々仰せであった。あの方の御世であれば、ヴァイスハルトのような男には最初の謁見すら許されなかったであろうに。今の陛下は……いささかお人好しが過ぎる」
彼は嘆息して首を振った。
「我々臣下が、正しき道をお示しせねばならぬ。王をお諫めすることは、不忠ではない。むしろ、それこそが真の忠義というものだ。王が誤った道を歩まれようとしている時に沈黙することこそ、臣下としての怠慢に他ならぬ」
不満の声が堰を切ったように次々と上がった。
「民衆が知識を得たら、貴族のやることに片端から文句をつけるようになるぞ。今でさえ厄介なのに、これ以上賢くなられては手に負えん」
「すでにその兆候は出ている。私の領地の農民が、年貢の計算を自分で確かめたいなどと言い出したのだ。読み書きを覚えたばかりの者が、何百年も続いてきた制度に口を挟むなど、世も末ではないか」
「透明な価格表示だと。それは商人の利益を根こそぎ奪う行為だ。交渉こそが商売の醍醐味であり、そこに駆け引きがあるからこそ市場は回るのではないか」
「左様。価格を固定すれば、商取引の妙味が失われる。我々の領地から出荷される品物の利幅も、当然のことながら狭まることになるのだぞ。年間でどれほどの損失になるか、試算しただけでも背筋が寒くなる」
「公開図書室だと。下層民に知識を与えるな。読み書きができぬ方が統治しやすいのは自明の理だ」
「まったくだ。歴史が証明している。民衆が書物を読み始めると、次に起こるのは必ず革命だ。どの国も、どの時代も、例外なくそうだった。ヴァイスハルトは、自ら火薬庫の前で松明を振り回しているようなものだ」
「しかもあの男は、図書室を誰でも無料で利用できると宣っているらしいではないか。無料だと。知識とは、血統と教育によって得られるべき特権であって、施しのように路上で配るものでは断じてない」
それらの言葉は、一見すれば時代遅れの価値観にすぎない。だが、彼らの中ではそれは揺るぎない正論であり、王国を守るための唯一の道筋として響いていた。
不満の声が十分に書斎を満たしたのを見計らい、ゲオルクは機を逃さず切り出した。彼の政治的な嗅覚は、怒りに曇ってなお鋭さを失っていない。
「ならば、連名で上奏文を提出しましょう」
その一言に、集まった貴族たちの目が一斉に光った。書斎の空気が、一瞬にして変わる。
「我々保守派の総意として、デパート建設の危険性を訴え、即刻中止を求めるのです」
それは切り札の提示だった。上奏文は、王に対する最も格式の高い嘆願書である。複数の有力貴族が連名で署名を据えるとなれば、その重みは計り知れない。王とて、一個人の不満ならば退けられようが、王国の主柱たる大貴族たちの総意を無視することは容易ではないのだ。
「具体的に申し上げましょう。上奏文には、デパート建設が王国の階級秩序に与える脅威を理路整然と詳述し、建設の即時中止を求める。加えて、ヴァイスハルト男爵の政治的影響力に対する我々の懸念を明記する。そして、我々の署名の重みを王に思い知らせるのです。侯爵家二家、伯爵家五家、子爵家三家。この王国の貴族社会を支える主柱が一斉に声を上げれば、それは嘆願というよりも、事実上の宣告に等しい」
ヴィルヘルム侯爵が重々しく頷いた。
「うむ。文面は、あくまで陛下への忠言という体裁を崩してはならんぞ。我々は反逆者ではない。王国の行く末を憂える忠臣として、御前に進言するのだ。その格式を保たねば、逆に我々の立場が危うくなる。言葉尻を捉えられて不忠の誹りを受けるようなことがあっては本末転倒だからな」
ゲオルクは深く頷いた。
「無論です、侯爵閣下。文面は私が起草いたします。慇懃なる忠言でありながら、王が無視できぬ重みを持たせる。礼を失せず、されど一歩も退かぬ。それが、この上奏文の肝でございます」
「王とて、我々全員を敵に回すことはできまい」
ゲオルクの口元に、狡猾な笑みが浮かんだ。それは自らの勝利を確信する者の笑みであり、追い詰められた者が最後の賭けに出る時の、危うい高揚でもあった。
「税収の四割を占める領地を持つ我々が、一致団結して異を唱える。それがどれほどの圧力になるか……王も宰相も、よくご存じのはずです。我々は武器を取るのではない。この国を支える柱として、柱が軋む音を王にお聞かせするのです。その軋みに耳を塞ぐことが、果たして賢明な統治と言えましょうか」
数日後、十名の有力貴族による署名が入った上奏文が、国王アルフレート三世の元へ届けられた。
その文書は、単なる紙の束などではない。王国の政治的パワーバランスを可視化した、重い重い一撃だった。
厚手の羊皮紙に丹念に記された内容は、慇懃無礼でありながら痛烈な警告に他ならない。表面上の丁寧さは相手を敬う礼儀の体裁を保ちつつ、その実質は抜き身の刃のように鋭い圧力を突きつけている。
『恐れ多くも、陛下におかれて、デパート建設事業に関してご再考いただきたく、ご進言申し上げます。当事業は、王国の秩序を破壊する暴挙であると、我々は深く懸念いたします。民衆に過度な権利を与え、身分制度の厳格性を損なうことは、長年この国を支えてきた貴族階級の権威を失墜させ、ひいては王国全体の統治構造を危うくするものと考えます。何卒、陛下におかれては、直ちに建設中止のご英断を願いたし』
その文書は、丁重でありながら決然としていた。複数の大貴族による連名の嘆願は、事実上の最後通牒に近い。
王宮の玉座の間。
朝の光が高い天窓から差し込み、大理石の床に長い光の帯を描いている。だが、その明るさとは裏腹に、部屋の空気は重く沈んでいた。
王は、その文書を握りしめたまま、玉座で頭を抱えていた。肘掛けに片肘をつき、額に手を当てるその姿は、統治者というよりも、四方からの圧力に押しつぶされようとしている一人の老人のそれである。
保守派貴族は、王国の屋台骨だ。彼らの支持なくして政権運営は成り立たない。税収の大部分は彼ら領主の領地からもたらされるものであり、軍事力の基盤もまた彼らの私兵に依存している。その彼らが一堂に会して反対の意を示したのだ。無視することなど到底できはしない。
だが一方で、レオポルトが掲げる改革のビジョンにも、王は強く心を惹かれていた。
透明性。公平性。そして民衆の繁栄。
それらは停滞した王国に新しい風を吹き込み、国力を底上げする可能性を秘めている。王はそのビジョンを信じたいと思っている。いや、信じるべきだと確信に近いものを抱いている。
だが、信じることと実現することは別の問題だった。
「……板挟みだな」
王の呟きには、深い疲労が満ちていた。それは単なる睡眠不足の疲労ではなく、統治者としての責任の重さが骨身に沁みる、あの種の消耗である。
「十名だぞ、リヒテンシュタイン。十名の大貴族が連名で異を唱えている。ヴィルヘルム侯爵まで名を連ねているではないか。先王の御世から王家に仕えてきた、あのヴィルヘルムがだぞ。あの老人が動いたということは、保守派が本気だということだ」
王は上奏文をもう一度見つめ、首を横に振った。
「余は改革を信じている。だが、改革のために国を二つに割るわけにはいかん。この国は一つでなければならぬ。分裂した王国に未来はない。それが王として、余に課せられた最低限の責務だ」
傍らの宰相リヒテンシュタインが、静かに口を開いた。七十を過ぎた老人の身体は痩せ細っているが、その眼差しには王をも凌ぐ政治的経験が映っている。半世紀以上にわたって王宮に仕え、三代の王に仕えてきた男の目だ。
「彼らは、王国の伝統を守ろうとしているのです。その忠誠心自体は疑うべくもございません」
宰相の言葉は、保守派貴族たちへの敬意を含んでいた。長年の経験で彼らの本質を知り尽くしている。彼らは純粋な悪意から動いているのではなく、王国への執着から行動しているのだ。その執着の形が歪んでいるだけで、根底にある忠義そのものは本物である。
「ヴィルヘルム侯爵をはじめ、署名された方々は皆、先代、先々代の御世から王国を支えてこられた柱石でございます。彼らの言葉を軽んじることは、この国の歴史そのものを軽んじることに等しい。その重みは、いかなる改革の理念をもってしても否定すべきではございません」
宰相は一拍置いた。その間に、王の表情を注意深く窺っている。
「しかしながら、陛下。歴史に敬意を払うことと、歴史に縛られることは、まったく別の話でございます。陛下もよくご存じのはず。先代のフリードリヒ陛下もまた、治世の後半には改革の必要性をひしひしと感じておられました。ただ、お体が許さず、実行に移す前に崩御なされた。あの方が枕辺で陛下に託された最後の言葉を、私は今でも覚えております。『この国を、次の百年に耐えうる国にせよ』と。あの方の果たせなかった願いを、今、陛下が引き継いでおられるのだと、老臣はそう理解しております」
「だが、変化を拒み続ければ国は腐る。停滞は死に等しい。……どうすればよい、リヒテンシュタイン」
王の問いかけには、統治者が腹心に向ける真摯な相談の誠実さが満ちていた。
「余に本音を言え。この上奏文を退けるべきか。それとも、ここは一歩引いて保守派に譲歩すべきか。余は……正直なところ、迷っている。どちらの道にも犠牲がある。どちらを選んでも、誰かが傷つく。それが分かっているから、踏み出せないのだ」
宰相は老練な瞳を細めた。数秒の沈黙の後、彼は答えた。
「バランス、でございます」
「バランスか」
「左様。この局面で必要なのは、どちらか一方を完全に退けることではございません。保守派を排除すれば、陛下は貴族社会全体を敵に回すことになる。ヴァイスハルト男爵を見捨てれば、改革の灯は永久に消え失せる。どちらも選んではなりません。そして、どちらも切り捨ててはなりません。両方を残しつつ、均衡を保つ。それが、今この瞬間に陛下がなすべきことかと存じます」
宰相は玉座に一歩近づいた。
「ヴァイスハルト男爵をお呼びになりませ。保守派の重鎮たちの面前で、彼の真意を問いただすのです」
宰相の戦略は明確だった。
「彼が本当にこの国を憂えているのか、それとも単なる野心家で、民衆を扇動して己の権力を築こうとしているのか。白黒をはっきりつければ、双方も納得せざるを得ますまい。見る者たちもまた、そこで判断の材料を得られるのです」
宰相はさらに言葉を重ねた。
「もしヴァイスハルト男爵が、保守派の面前で彼らの懸念に真正面から答えることができれば、それは彼の器量の証明となります。逆に、空論しか語れぬ夢想家であることが露呈すれば、その場で化けの皮が剥がれる。いずれの結果であっても、陛下は公正な裁定者としてお振る舞いになれる。どちらに転んでも、陛下の御威光は傷つきません」
王は宰相の顔をじっと見つめた。老いた二人の目が交差し、その間に言葉にならない信頼の糸が張り巡らされている。
「……なるほど。つまり、余が裁くのではなく、彼ら自身に決着をつけさせるということか」
「御明察でございます。陛下はあくまで場をお設けになる。そして、双方の言葉をお聞きになり、この国にとって最善の道をお選びになる。それこそが王の在り方であり、いずれの陣営からも恨みを買わぬ唯一の方法でございます」
王は決断した。宰相の言葉に心の底から納得したからではない。何もしないという選択肢が自分には残されていないと気づいたからだった。
「よかろう。ヴァイスハルト男爵を呼べ。即座にな」
王は立ち上がり、窓の外に広がる王都を見下ろした。朝の光の中で、無数の屋根が連なり、その向こうに建設中のデパートの鉄骨がかすかに見える。
「そして保守派の面々にも通達せよ。三日後、謁見の間にて、ヴァイスハルト男爵と直接対話の場を設けると。欠席は認めん。全員の出席を、余の名において命じる。一人たりとも逃げることは許さぬ」
宰相は深く頭を下げた。
「直ちに手配いたします。……陛下、必ずや、この国にとって正しい答えが見つかるものと信じております」
「余もそう願っている。……心からな」
三日後、レオポルトは再び王宮の謁見室に立っていた。
そこには王と宰相、そして彼を敵視する保守派貴族たちがずらりと並んでいる。
高い天井から差し込む光が、磨き上げられた大理石の床を白く照らし、壁面に掛けられた歴代の王の肖像画が、この場の歴史的な重みを無言で主張していた。玉座の両脇には王家の旗が垂れ、その紋章の金糸が朝日を受けて静かに輝いている。
ヴィルヘルム侯爵を筆頭に、十名の貴族が一列に並び、瞬きもせずにレオポルトを見つめていた。その視線は、獲物を値踏みする狩人のそれだ。正面に立つ若い男爵が、自分たちの前でどれほどの力を見せるのか。あるいは、どこで馬脚を現すのか。その瞬間を見逃すまいとする、老練な目が十対。
謹慎中のゲオルクの姿はない。王宮への登城を禁じられた処分の下では、この場に現れることはできないのだ。だが、その意志を継ぐ者たちが代理人として陣取っており、ゲオルクの不在を補って余りある圧力を放っている。
その空気は、戦場に似ていた。剣も槍もないが、言葉と頭脳による、最も危険で最も緻密な闘争の場。一言の失言が命取りとなり、一つの論理の綻びが致命傷になり得る、そういう種類の戦いである。
レオポルトは優雅に一礼した。その動作は深く、しかし卑屈ではない。相手の力量を正しく理解した上での敬意を示す、正面から対峙する者の作法だった。
「陛下、お呼びいただき恐悦至極に存じます」
レオポルトは顔を上げ、謁見の間をゆっくりと見渡した。
「そして、ご列席の諸侯の皆様方にも、ご挨拶申し上げます。本日、このような場でお話しする機会を賜りましたこと、光栄に存じます。皆様方が王国の重鎮であり、この国の歴史と伝統を体現される方々であることは、私も重々承知しております。その皆様方の前で申し述べる機会をいただけたことに、深く感謝いたします」
王が重々しく口を開いた。玉座に座したまま、背筋を伸ばし、統治者としての公式な場にふさわしい厳かさを纏っている。
「ヴァイスハルト男爵。ここにいる貴族たちから、そなたのデパート建設に対する強い懸念が寄せられている」
王は上奏文を机の上に置いた。丁寧に、しかし重く。その置き方一つで、この文書の持つ意味を周囲に知らしめている。
「十名の連名による上奏文だ。いずれも王国を代表する大貴族ばかり。税収の四割を担う領地を持つ方々だ。その重みは、そなたにも分かるだろう」
王は一呼吸置いた。
「王国の秩序を乱す、とな。……そなた、どう答える」
その問いかけは、単なる質問ではなかった。レオポルトに対する最後の試験であり、ここでの受け答えが今後のすべてを決定づける分水嶺だった。王は、この場で相手の本質を見抜こうとしている。
「言い訳は聞かぬぞ。余が聞きたいのは、そなたの真意だ。飾りのない言葉で述べよ」
レオポルトは顔を上げ、堂々と答えた。その声に躊躇はなく、しかし相手を傷つけまいとする慮りも失われていない。
「陛下。まず、上奏文をお寄せになった諸侯の皆様方のご懸念に、深く敬意を表します。王国を憂える心から発せられた言葉であることは、疑いようもございません。その真摯さに対し、私は正面からお答えする義務がございます」
レオポルトは一歩前に進み出た。足音が大理石の床に小さく響く。
「その上で、はっきりと申し上げます。私のデパートは秩序を乱すものではございません。むしろ、真の意味で秩序を強化するものです」
その返答は、保守派の主張を真っ向から否定しながらも、彼らの基本的な価値観である「秩序」という言葉を自らの論の軸に据えている。相手の土俵に立ちながら、その土俵の意味そのものを塗り替えようとする、大胆な弁論だった。
「なぜ強化と申すか。ご説明させてください。現在の王国の商取引は、透明性を著しく欠いております。民衆は適正な価格を知る術がなく、不当な取引に泣き寝入りしている。その不満は、目に見えぬ形で日々蓄積しております。蓄積した不満は、あるとき突然、暴発する。それこそが、真の意味での秩序の崩壊ではありませんか。私が防ごうとしているのは、まさにその暴発なのです」
「強化だと」
ヴィルヘルム侯爵が声を荒げた。その声には、若い貴族の僭越さに対する激しい反発が露わになっている。
「詭弁を弄するな」
侯爵は身を乗り出し、杖を握る手に力を込めた。
「民衆に不相応な力を与えれば、彼らは増長し、やがて貴族の権威など見向きもしなくなる。それこそが秩序の崩壊であろうが。お前の言う強化とやらは、下から上への圧力を増やすことに他ならぬ。それのどこが強化なのだ。逆だ。弱体化だ」
その論理は、ある意味では正しかった。歴史の中で、民衆の力が増すとともに貴族の権威が相対的に低下してきたのは事実だからだ。
「ヴァイスハルト男爵。貴殿は若い。まだ三十にも満たぬ小僧だ。七十年以上この国を見てきた儂から言わせれば、貴殿の論は机上の空論に過ぎん。書物と数字だけで世の中を動かせると思ったら大間違いだぞ。儂はこの目で見てきたのだ。民に力を与えようとした為政者がどうなったかをな。隣国のヴァルデン公国で何が起きた。民衆に権利を認めた結果、暴動が起き、公爵家は追放されたのだ。一族郎党、国外に放逐された。歴史から学べ、若造」
レオポルトはヴィルヘルムの方へ向き直った。身体の向きを変える動作は滑らかで、相手から逃げるのではなく、正面から受け止める意志を示している。
「侯爵閣下。ご指摘ありがとうございます。確かに、歴史の中には、民衆の力の増大とともに貴族の権威が揺らいだ例が数多くございます。そのご指摘は正当なものであり、軽視すべきではないと私も考えております」
レオポルトは、まず相手の論拠を認めることから始めた。否定ではなく承認から入る。そうすることで、聞き手の防壁を一枚剥がす。
「ヴァルデン公国の例も、私はよく存じております。あの事件は確かに悲劇でした。しかし、侯爵閣下。あの暴動の原因は、民衆に権利を与えたことではございません。権利を与えると見せかけておきながら、実際には搾取を続けたことにあるのです。公爵家は形だけの改革を行い、その裏で増税を重ねた。民衆に希望を抱かせておいて、それを裏切った。民衆の怒りは、権利の獲得から生まれたのではなく、偽りの約束への絶望から生まれたのです」
レオポルトは一歩も退かずに続けた。
「つまり、民衆が反乱を起こしたのは、豊かになったからではありません。貧困のまま放置され、絶望の淵に追い込まれたからこそ立ち上がったのです。順序が逆なのです、閣下。豊かさが反乱を生むのではない。貧しさこそが反乱の種を撒くのです」
レオポルトは言葉に力を込めた。その力は、空虚な熱弁ではなく、深い確信から湧き出るものだった。
「民衆が豊かになれば、消費が増え、経済が回り、結果として税収も増えます。王国全体が富み、強くなるのです。豊かな民衆は、秩序を破壊しません。なぜなら、守るべきものを持っているからです。何も持たぬ者は失うものがない。だから暴れる。しかし、豊かさを手にした者は、その豊かさを守ろうとする。それが、最も強固な秩序の基盤ではありませんか」
彼は机の上に置かれた上奏文に一瞥をくれ、再び諸侯に向き直った。
「具体的な数字を申し上げましょう。私の試算では、デパートが完成し、三年間の運営を経た後、王都の商取引量は現在の一・五倍に増加いたします。それに伴い、商業税の税収は年間で金貨三千枚以上の増加が見込まれます。その恩恵は、王家のみならず、領地を持つ貴族の皆様方にも及ぶのです。なぜならば、王都の経済が活性化すれば、地方から王都への物流も増加し、各領地の生産物への需要が高まるからです。皆様方の領地で生産される穀物、木材、鉱石、織物。それらすべての需要が増え、価格が上がり、領地の収益が向上する。これは、理想論ではございません。算術に基づいた予測です」
レオポルトは諸侯の表情を一人ひとり確かめるように、ゆっくりと視線を動かした。
「そして、貴族の権威とは、民衆の貧困と無知の上に成り立つべきものではございません。むしろ逆です。豊かな民を導き、守ることこそが、真の貴族の役割ではないでしょうか。無知な民を支配するのは、それほど難しいことではない。しかし、知識を持ち、自ら考える力を持った民衆を導くには、より高い知性と、より深い見識が求められます。それこそが、三百年の歴史を持つ皆様方にこそふさわしい、真に誇り高い営みではありませんか」
その論理は、相手の価値観を尊重しながらも、その価値観を新しい形へと再構築するものだった。権力の放棄ではなく、権力の質的変化を提案している。貴族であることの意味そのものを、根底から問い直す言葉だった。
「侯爵閣下。貴殿は七十年以上、この国を見守ってこられた。その経験と知恵は、何ものにも代えがたい財産でございます。私が申し上げたいのは、その比類なき経験を、新しい時代にこそ活かしていただきたいということです。貴族が民衆を導く形は、時とともに変わるかもしれません。しかし、導くという本質は決して変わらないのです」
「き、貴様……」
ヴィルヘルムの顔が朱に染まった。その紅潮は怒りの色であると同時に、自分の論理が切り崩されつつあることへの焦りの色でもあった。
「我々を侮辱するか。伝統ある貴族の矜持を、商売人の理屈で語るな」
侯爵は声を張り上げた。杖を握る手が白くなるほど力が込められている。
「三百年だぞ。三百年の間、我々の祖先がこの国を守り、育て、血と汗を流して支えてきたのだ。それを、昨日今日男爵位を得たような者に、真の貴族の役割などと説教されるいわれはない。貴殿は何を知っている。領地を治める苦労を知っているのか。飢饉の年に民を食わせるために、自らの蔵を開く覚悟をしたことがあるのか。凶作が続いた時に、自分の食い扶持を削ってでも領民にかゆを配った経験が、貴殿にはあるのか」
場が騒然とした。複数の貴族が、侯爵の言葉に同調して声を上げる。
「その通りだ」
「伝統を軽んじるなど許されぬ」
「この若造め、礼儀というものを知らんのか」
「侯爵閣下の仰る通り、この男は貴族の何たるかを何も分かっておらぬ」
「成り上がりが、分を弁えよ」
「我々の祖先が血を流して築いた秩序を、商人の論理で踏みにじるつもりか」
声の嵐が謁見の間を満たした。高い天井に反響し、壁面の肖像画の額縁がかすかに揺れるかのようだった。
その嵐の中で、レオポルトは揺るがなかった。両足を肩幅に開き、背筋を伸ばし、微動だにしない。彼の視線は静かに王へ向けられた。下位の者が上位の者に裁きを求める、その沈黙の訴えかけ。
同時に、レオポルトはもう一つのことに気づいていた。玉座の脇に控える数名の若手貴族が、小さく頷いているのが視界の端に映った。彼らは古い慣習に疑問を抱き始めている世代だ。変化への不安と、新しい可能性への期待が、その胸の内で揺れ動いている。その頷きは微かだが、レオポルトにとっては未来への確かな手応えだった。
王が手を挙げ、場を制した。その動作は短いが、絶対的な権威を帯びている。
「静まれ。……静まれと申しておる」
玉座の間が水を打ったように静まり返った。
王はゆっくりと玉座から身を起こし、居並ぶ貴族たちを見渡した。その目は、一人ひとりの顔を確かめるように動いている。
「双方の言い分は、余は十分に聞いた。諸侯の懸念も、ヴァイスハルト男爵の志も、いずれも王国を想う心から出ているものと、余は受け止めている。どちらの言葉にも真実があり、どちらの立場にも正当性がある。それは余も認めるところだ」
「ヴァイスハルト男爵」
王はレオポルトの方を見た。その眼差しには、統治者としての鋭い判断力と、一人の人間としての誠実さが共存している。
「そなたは、心から王国の繁栄を願っているのか」
その問いかけは、理屈を超えた場所に踏み込むものだった。
「先ほどの議論は見事だった。論理も数字も隙がない。だが、余が聞きたいのはそこではない。そなたの心の奥にあるものだ。数字や理屈を全部取り払った後に、何が残るのか。そなた自身の言葉で答えよ。なぜ、そこまでしてこの国のために尽くそうとする。そなたは男爵だ。領地を治め、静かに暮らすこともできたはずだ。なぜ、わざわざ火中の栗を拾うような真似をする。なぜ、これほどの敵を作ってまで、この道を歩もうとするのだ」
レオポルトは王の目を真っ直ぐに見つめ返した。その視線に曇りはなく、逃げ場のない誠実さだけが宿っている。
「はい」
その一語は、全てを語っていた。
「私の命に代えても、必ずこの国を繁栄させてみせます。デパートはそのための礎です。透明性が信頼を生み、信頼が取引を活性化させ、民衆の生活が豊かになり、それが強固な国家を築く。私はそう信じております」
レオポルトはさらに続けた。声の調子が変わった。論理の鎧を脱ぎ、その奥にある生身の人間の声が現れている。
「陛下がお尋ねになった理由を、正直に申し上げます。私がこの道を選んだのは、野心からではございません。私は……この国の市場を歩いた時、ある光景を目にしたのです。一人の母親が、幼い子どものために一個のパンを買おうとしていました。しかし、提示された価格は不当に高かった。母親はそれを知る術がなく、黙って支払いました。なぜなら、その価格が正当かどうかを判断する知識を、彼女は持っていなかったからです」
レオポルトの声は静かだが、謁見の間の隅々にまで届いた。
「あの母親の背中が、私の原点です。あの小さな背中が、重すぎる荷物を黙って背負い続ける姿が、私をこの道に導きました。あの光景を変えたい。あの母親が、正当な価格で安心してパンを買える世界を作りたい。それが、私のすべての出発点です」
レオポルトの目が、かすかに潤んでいるように見えた。だが、その声は震えていない。
「そして何より、私はこの国の民衆を信じています。彼らは、機会さえ与えられれば、自分たちの力で立ち上がることができる。知識を得れば、自分たちの未来を切り拓くことができる。その可能性を信じることが、この国への真の愛国心ではないでしょうか」
レオポルトは諸侯の方へ向き直った。
「そして、諸侯の皆様方にも申し上げたい。私は皆様方の敵ではございません。断じて、敵ではない。私が望んでいるのは、貴族の権威を破壊することではなく、この国全体が豊かになることです。その中で、貴族の皆様方が果たすべき役割は、減るのではなく、むしろ増えるのです。より豊かで、より複雑な社会を導くには、より高い知性と、より深い慈悲が求められます。それを担えるのは、三百年の歴史と教養を持つ皆様方をおいて他にはおりません。私は、皆様方の力を必要としているのです」
王は長い沈黙に沈んだ。
その沈黙の間に、王は多くのことを考えていたに違いない。保守派との関係。民衆の期待。王国の未来。先代の遺言。そして、自分自身の信念。
宰相リヒテンシュタインが、静かに口を開いた。
「陛下。……老臣として、一つだけ申し上げてもよろしゅうございますか」
王が頷くと、宰相は居並ぶ貴族とレオポルトの双方に向けて語った。
「私は五十年以上、王宮に仕えてまいりました。その間、幾多の議論を見てきた。権力を巡る争い、利権を巡る暗闘、理想を巡る衝突。数え切れぬほどの言葉の応酬を、この耳で聞いてまいりました。しかし、今日のこの場ほど、双方が真剣にこの国の未来を案じている議論を、私は他に知りません。それだけで、この国にはまだ希望があると、老いた身ながら感じておるのです」
「……分かった」
王の声は静かだが、その中に決定的な響きが宿っていた。統治者としての最終判断を下す、あの種の声だ。
王は立ち上がった。玉座の間にいるすべての人間が、その一挙一動を見つめている。
「余の裁定を申し渡す。双方の言い分を聞き、余は熟考した。保守派諸侯の懸念は正当なものであり、余はそれを決して軽んじはしない。三百年の歴史は、一朝一夕に積み上がったものではない。その重みを、余は理解している」
王は一呼吸置き、謁見の間を見渡した。
「しかし、同時に、この国が変わらねばならぬこともまた、動かしがたい事実だ。停滞した国は、やがて内側から腐る。先代の王もそれを感じておられた。余に託された使命は、この国を次の百年に耐えうる国にすることだ」
「建設を続けてよい」
保守派貴族たちが一斉に息を呑んだ。その反応は、予期していなかった判断への動揺を如実に示している。幾人かの顔には驚愕が浮かび、別の者は唇を噛み締め、また別の者はじっと玉座を睨んでいた。
ヴィルヘルム侯爵が何か言いかけたが、王は手を上げてそれを制した。
「侯爵。そなたの忠言は、余の胸に深く刻まれている。だが、余は王として、この国の未来を選ばねばならぬ。過去の栄光にしがみつくことは、余にはできん。それは、先代の王が余に託した使命でもあるのだ。先代もまた、変わりゆくこの世界の中で、王国が取り残されることを恐れておられた。その恐れを、余は受け継いでいる」
レオポルトは深く頭を下げた。その礼の深さには、王の決断への心からの感謝と敬意が込められている。
「ありがたき幸せ。本当に、ありがとうございます、陛下。この御恩は、必ずや成果をもってお返しいたします。陛下のご決断が正しかったと、この国の民衆の笑顔が証明する日を、私は必ず実現してみせます」
「ただし」
王は釘を刺すように付け加えた。その声には、信頼と同時に、監視の目が注がれ続けるという警告が含まれていた。
「民衆が暴走せぬよう、監視は怠らぬことだ。そなたは定期的に余へ報告せよ。運営状況、民衆の反応、財務の推移、すべてを包み隠さずな。一つでも隠し事があれば、余は即座に裁定を覆す。その覚悟はあるな」
王はさらに言葉を重ねた。
「そして、保守派の諸侯にも言っておく。余は、そなたたちを敵とは見なしておらぬ。そなたたちの懸念を踏まえた上での判断だ。もしヴァイスハルト男爵のデパートが、本当に王国の秩序を乱すようなことがあれば、余は躊躇なく中止を命じる。その点は、約束する。だから今は、余の判断を信じてほしい」
「御意」
レオポルトの返答は即座だった。王の条件を一片の留保もなく受け入れることは、王への絶対的な信頼を示す行為でもある。
「月に一度、詳細な報告書を陛下に提出いたします。建設の進捗、財務状況、民衆の反応、商取引の変化、すべてを数字と事実に基づいてご報告いたします。透明性は、デパートの理念であると同時に、私自身の行動原則でもございます。陛下の御前に、隠すものは何一つございません。帳簿の一行に至るまで、陛下のご覧に供する所存です」
保守派貴族たちは悔しげに顔を見合わせたが、王の裁定が下った以上、これ以上の異議申し立ては許されない。
ヴィルヘルム侯爵は深い溜息をつき、杖に体重を預けた。
「……陛下の御裁定に従います。しかし、忘れぬでいただきたい。我々は、この国を愛するがゆえに声を上げたのだということを。その事実だけは、歴史に刻んでいただきたい」
王は静かに頷いた。
「忘れぬ。そなたたちの忠義は、この国の宝だ。その忠義があればこそ、余もまた安心してこの決断を下すことができたのだ」
保守派の面々は無言で引き下がった。その足取りには、次の機会を虎視眈々と狙う者の不穏な計算が隠れている。今日は退いた。だが、退いたことと諦めたこととは、まったく別の話なのだ。
謁見を終え、王宮の長い回廊を歩いていたレオポルトは、不意に背後から呼び止められた。
「待て、ヴァイスハルト」
冷たく、硬質な声だった。石畳を叩くような鋭さを持つその声は、レオポルトのすぐ後ろから発せられている。
振り返ると、そこにはフェリックスによく似た面立ちの青年貴族が立っていた。
アルトハイム子爵家の長男、エーリク。
三十代前半の彼は、弟とは対照的な雰囲気を纏っている。よく手入れされた短い金髪、鋭角的な顎の線、隙のない姿勢。軍人のような端然とした佇まいの中に、氷のような無表情を貼り付けてレオポルトを見下ろしていた。その目には、弟に対する兄としての権威と、その権威が脅かされていることへの焦燥が複雑に絡み合っている。
容貌は、年齢の差を除けばフェリックスとよく似ていた。同じ色の目、同じ形の鼻、同じ金色の髪。しかし、その眼差しはまるで別物だ。フェリックスの瞳には希望と純粋さが宿っているが、エーリクの瞳に映るのは計算と猜疑心だけだった。
「何かご用ですか、エーリク殿」
レオポルトは相手が敵意を抱いていることを十分に読み取りながらも、声の調子は穏やかに保った。これは戦闘であって、暴力ではない。
「王宮の回廊で呼び止められるとは、穏やかではありませんね。謁見の場にもいらっしゃったのですか」
エーリクはレオポルトに詰め寄り、低い声で囁いた。周囲の近衛兵や通りがかりの文官に聞こえないよう、計算された距離と音量である。
「お前は、弟を誑かした」
その声には、確信が満ちていた。一片の疑いもない断定。彼は、レオポルトとフェリックスの関係を、一方的な支配と操縦だと見なしている。
「甘い言葉でそそのかし、家族と引き裂いた。……絶対に許さん」
その最後の一言は、誓約であり、脅迫でもあった。
「フェリックスは子どもの頃から、夢ばかり見る甘い奴だった。地に足がつかず、理想ばかり語り、現実の厳しさから目を背ける。そういう弟だった。だが、それでも家にいれば守ってやれた。俺の目の届く場所にいれば、傷つかずに済んだ。……それが、急に家を出ると言い出した。自分の力で生きるなどと、聞いたこともない台詞を吐いてな。あれはフェリックスの言葉ではない。お前が吹き込んだのだろう」
エーリクの目が鋭く細まった。
「あの子は人を疑うことを知らない。善意しか見えない。裏を読む力がない。だからこそ、お前のような人間に利用される。舌先三寸の言葉で理想を囁き、その気にさせ、気づいた時にはもう戻れない場所まで連れていく。兄として、それを黙って見過ごすわけにはいかんのだ」
「誑かしてなどいません」
レオポルトは毅然と言い返した。その声には、不当な非難を退ける強さと、相手の誤解を正したいという真摯さが同居している。
「フェリックス様は、ご自身の意志で、ご自身の足で歩き出したのです。私が強要したのではなく、彼が自ら選んだ道です。私はただ、その道を示しただけにすぎません。歩くと決めたのは、彼自身です」
レオポルトは相手の目を真っ直ぐに見つめた。
「エーリク殿。貴殿の弟君は、貴殿が思っているよりも遥かに聡明で、遥かに強い人間です。彼が家を出たのは、私に唆されたからではない。この国の現状を見て、自分にできることがあると信じたからです。彼は夢を見ているのではございません。夢を現実に変えようとしているのです。その違いを、どうかご理解いただきたい」
「意志だと」
エーリクは嘲るように笑った。その笑い方は、相手の言葉を完全に否定する意志を剥き出しにしている。
「あいつはただの夢見がちな馬鹿だ。お前の口車に乗せられて、利用されているだけに過ぎん。いずれ、そのことに気づく時が来よう。その時、あいつは後悔するのだ。全てを失い、家にも帰れず、一人で途方に暮れるあいつの姿が、もう目に浮かぶようだ」
エーリクの声は低く、しかし確かな怒りを帯びていた。
「お前のデパートとやらが失敗した時、あいつはどうなる。家を捨て、家名を汚し、全てを賭けた先にあるのが廃墟だったら、その時、あいつを受け止めるのは誰だ。お前か。お前に、その覚悟があるのか。あいつの人生を丸ごと背負う覚悟が、本当にあるのか」
エーリクは一歩さらに詰め寄った。二人の間の距離は、もう腕一本分もない。
「それに、お前の言う意志とやらは、所詮は若さゆえの無鉄砲だ。フェリックスはまだ二十代前半だぞ。世の中の厳しさも、人の醜さも、何一つ知らない。そんな未熟な人間の意志を盾にして、自分の責任から逃げるなど、卑怯者のすることだ」
エーリクの言葉には、弟への見下しと、同時に弟への深い心配が交錯していた。彼なりの方法で弟を守ろうとしている。ただし、その「守る」という行為の形が、レオポルトの考えるそれとは根本的に異なっているのだ。エーリクにとっての「守る」は、危険から遠ざけること。レオポルトにとっての「守る」は、危険に立ち向かう力を与えること。同じ言葉が、まったく別の意味を指している。
「貴殿は、弟君を何も理解していない」
レオポルトの瞳に強い光が宿った。それは対抗の光ではなく、誤解を正すことへの揺るぎない意志の光だった。
「彼は誰よりも純粋で、誰よりも誠実です。この国の未来を本気で憂い、自分の手で何かを変えたいと心の底から願っている。彼の理想は決して甘い妄想などではなく、この国を救う現実的な道筋なのです。それが見えないのは、貴殿が弟君を過去の姿でしか見ていないからだ」
レオポルトは一歩前に出た。その動作は挑発ではなく、相手と対等な視線で話し合う姿勢を示すものだった。
「エーリク殿。貴殿の問いにお答えしましょう。もしデパートが失敗したら、フェリックス様をどうするかと。私は、全責任を負います。彼をこの道に巻き込んだのは私です。成功しても失敗しても、その責任から逃げるつもりは毛頭ございません。彼が路頭に迷うことがあれば、私が最後の一枚の衣服を脱いでも彼を守る。それだけの覚悟は、とうに済ませております」
レオポルトの声は静かだが、鋼のような硬さを帯びた。
「しかし、失敗はさせません。させるつもりもない。フェリックス様が全てを賭けて信じてくれたものを、私は命を賭けて実現する。それが、彼の信頼に対する私の答えです」
レオポルトはさらに言葉を重ねた。
「そして、もう一つ。フェリックス様が未熟だと仰いましたね。確かに、彼は若い。経験も浅い。しかし、彼には貴殿にないものがある。変化を恐れぬ勇気です。自分の信じるもののために、安全な場所を捨てて飛び出す覚悟です。それは未熟さではございません。それは、この国が今最も必要としている強さです」
レオポルトの視線が鋭くなった。
「彼を見下すことは、私が許しません」
その言葉には、相手を敵と見なす決意が込められていた。しかし同時に、相手を排除するのではなく、理解させようとする努力もまた失われていない。
「だが、誤解はしないでいただきたい。私は貴殿と敵対したいわけではない。貴殿はフェリックス様の兄上だ。彼が最も認めてほしいと願っている人間です。彼は何度も、兄上のことを私に話してくれました。剣術の達人で、馬術も見事で、いつも自分の手本だったと。その言葉を聞くたびに、私は貴殿への敬意を深めてきました。いつか、貴殿自身の目で弟君の成し遂げたものを見ていただきたい。その時、貴殿が下す判断を、私は信じております」
エーリクの拳が震えた。
その震えは、感情的な怒りと、自分の判断が誤っているのではないかという直感的な恐怖が入り混じったものだった。殴りかかりたい衝動を、理性の皮一枚で抑え込んでいる。握りこぶしの中で、爪が掌の肉に食い込んでいた。
「……黙れ」
エーリクは絞り出すように言った。
「お前に、兄弟の何が分かる。お前に、家族の絆の何が分かるというのだ。あいつは俺の弟だ。俺が守るべき人間だ。お前ではない。お前のような赤の他人が、あいつの人生を左右する権利など、どこにもないのだ」
数秒の睨み合いが続いた。回廊を吹き抜ける風が、二人の間を冷たく通り過ぎていく。
エーリクは吐き捨てるように言った。
「……覚えておけ、ヴァイスハルト」
彼は背を向けて歩き始めた。軍人のように規則正しい足取り。だが、その背中には未来への不安と、弟との関係がもう元には戻らないのではないかという諦めが滲んでいた。
「お前は必ず後悔する。弟を巻き込んだことをな」
エーリクは数歩進んだところで、一瞬だけ足を止めた。振り返りはしなかった。回廊の石柱が作る影の中に、その横顔がかすかに見える。
「……あいつが泣く日が来たら、その時は俺がお前を許さん。それだけは、覚えておけ」
その言葉は、呪詛というよりも、自分自身に向けた誓いのような響きがあった。
遠ざかる背中を見送りながら、レオポルトは重いため息をついた。その息には、一つの局面の終わりと、別の局面の始まりを予感させるものが含まれていた。
「フェリックスの家族か……」
レオポルトは自分の言葉を反復した。回廊の石壁に、午後の陽光が斜めに差し込んでいる。
「彼の目には、確かに弟への愛があった。形は歪んでいるが、紛れもなく愛だ。だからこそ、厄介なのだ。憎しみならば対処のしようがある。だが、歪んだ愛は、どう扱えばよいのか……」
根深い確執。貴族の家格と個人の自由の衝突。そして、兄弟の間に横たわる理解の溝。それらは単なる個人的な問題にとどまらず、この国全体が直面している課題の縮図でもあった。
だが、いつかは正面から向き合わなければならない問題だ。レオポルトは、その覚悟を胸の内で固めた。
屋敷に戻ると、書斎でフェリックスが待っていた。
窓際の椅子に腰かけていたが、落ち着かない様子で何度も姿勢を変えている。机の上には読みかけの書物が開いたまま置かれているが、ページは一枚もめくられた形跡がなかった。王宮での結果を知りたいという不安と期待が入り混じり、とても読書どころではなかったのだろう。
「閣下、お帰りなさいませ」
レオポルトの姿を認めた瞬間、フェリックスは椅子から飛び上がるように立ち上がり、駆け寄ってきた。
「王宮はいかがでしたか。保守派の貴族たちは、どのような反応を示されたのですか」
不安そうな表情で、矢継ぎ早に質問が飛び出す。
「ずっと気が気ではありませんでした。閣下が出発されてから、もう何時間も経ったような気がして……。実際にはどれくらいだったのでしょうか。ヴィルヘルム侯爵も出席されていたのでしょう。あの方は先代の王にも仕えた方だと聞いています。あの方を相手にされるのは、さぞ大変だったのではありませんか。いえ、大変に決まっていますよね。あの侯爵は、王宮でも最も手強い論客だと、父上が以前申しておりました」
フェリックスは落ち着きなく、レオポルトの周りを歩き回った。
「それに、十名の連名の上奏文……あれだけの圧力を受けて、王はどのようなご判断を。まさか、建設中止を命じられたのでは……。いえ、閣下のお顔を見る限り、そうではなさそうですが……。でも、もしかしたら条件つきの承認だったとか、期限を区切られたとか……」
「王の再承認を得たよ」
レオポルトは簡潔に答えた。その短い一文が持つ重みを、フェリックスは一瞬で理解した。
「建設は続行だ」
「おお……。良かったです……」
フェリックスの顔に、安堵の笑みがゆっくりと広がった。こわばっていた肩の力が抜け、目尻に皺が寄る。それは自分たちの計画が継続されることへの喜びであり、何よりも、自分の選択が間違いではなかったという確認だった。
「本当ですか……。ああ、本当に良かった……。閣下、あなたはやはり凄い方です。あの保守派の重鎮たちを相手に、王の御信頼を改めて勝ち取られたのですね。十名の大貴族の連名に対して、たった一人で立ち向かわれて……」
フェリックスは胸に手を当て、大きく息を吐いた。
「正直に申し上げます。私は怖かったのです。閣下が王宮に向かわれた後、一人でこの書斎にいて、もしかしたら全てが終わるのではないかと。家を出て、家名を捨てて、全てを賭けた道が、ここで途絶えるのではないかと。何度も、その恐怖に押し潰されそうになりました。本を開いても一行も読めず、茶を淹れても一口も飲めず、ただ窓の外を眺めて時間が過ぎるのを待つだけでした」
フェリックスは目を潤ませながらも、明るい声で言った。
「でも、閣下なら大丈夫だと。閣下なら必ず道を切り拓いてくださると。そう信じて待っていました。そして、その信頼は裏切られなかった。今日ほど、自分の判断が正しかったと思えた日はございません」
「それと……」
レオポルトは一瞬ためらった。しかし、隠すべきことではないと判断し、口を開いた。
「君の兄上に会ったよ」
フェリックスの表情が凍りついた。笑みが消え、目の輝きが瞬時に翳る。
「……兄上が」
その声は、かすかに震えていた。
「何か、言っていましたか」
フェリックスの手が、無意識のうちに胸元の服地を握りしめた。
「いえ……聞かなくても、分かります。きっと、私のことを夢見がちな馬鹿だと。お前は利用されているだけだと。兄上は、いつもそうでした。私が何かを始めようとするたびに、お前には無理だと。身の程を知れと。子どもの頃からずっと、そうやって私の翼を折ってきたのです」
フェリックスは俯いた。金色の前髪が目元に影を落とす。
「剣術の大会で勝てなかった時、兄上は『お前には才能がない。別の道を探せ』と言いました。馬術の試験に落ちた時は、『アルトハイム家の恥だ』と。学問で良い成績を取った時でさえ、『本の虫になるな。貴族は行動で示すものだ』と。何をしても、認めてもらえなかった。何を成し遂げても、兄上の基準には届かなかったのです」
フェリックスの声が小さくなった。
「でも……兄上が怒るのは、私を心配してくれているからだと……そう思いたいのです。たとえ、その心配の仕方が、私を否定することでしかなくても。たとえ、その愛情が、鎖のように私を縛るものであっても」
レオポルトは一瞬迷った。正直に全てを伝えるべきか、それとも言葉を選んで衝撃を和らげるべきか。
その葛藤の中で、レオポルトはフェリックスの力を信じることにした。彼はもう子どもではないのだから。
「君のことを心配していたよ」
その答えは事実であり、同時にある種の解釈を含んでいた。
「言葉は厳しかったが、あれは君を案じているからこそだ。家族だからな。本当の思いは、その厳しさの奥に隠れているものだ」
レオポルトはフェリックスの傍の椅子に腰を下ろした。
「エーリク殿は、こう言っていた。あいつが泣く日が来たら許さない、と。その言葉の裏にあるのは、憎しみではない。恐れだよ。大切な弟が傷つくことへの、純粋な恐怖だ。不器用な男だが、君のことを彼なりに愛しているのだと、私はそう感じた」
フェリックスは俯いたまま、唇を噛んだ。長い沈黙が書斎に満ちた。窓の外で、庭木の葉がかすかに風に揺れる音だけが聞こえている。
「……でも、兄上は僕を認めてくれません」
その声には、長年にわたって積み重なった劣等感と孤独が滲んでいた。兄の期待に応えられない自分。兄の基準に決して届かない自分。そうした思いが、二十数年の人生を通じて彼の心の基調低音となり、今もなお鳴り続けている。
「子どもの頃から、兄上はいつも正しかった。剣術も馬術も学問も、何をやっても兄上が上だった。父上も母上も、兄上を誇りにしていました。食卓での話題はいつも兄上の活躍で、私のことが話に上ることは滅多になかった。私は、いつもその影にいたのです。何をやっても兄上に届かない。何を言っても、お前にはまだ早い、の一言で片づけられる。だから私は、自分にしかできないことを探し続けました。兄上の得意な剣や馬ではなく、兄上が関心を持たない世界の中に、自分の居場所を。そして、閣下に出会ったのです」
フェリックスは顔を上げた。目には涙が溜まっているが、その奥には揺るぎない何かが灯っている。
「閣下の下で働くことは、兄上に反抗するためではありません。私自身の道を見つけるためです。私が私であるための、唯一の道なのです。……でも、兄上がそれを理解してくれる日が、本当に来るのでしょうか」
「いつか、必ず分かってくれる日が来る」
レオポルトはフェリックスの肩に手を置いた。
「君が成し遂げたことを見れば、彼も認めざるを得なくなるさ。人間は、目の前の現実には逆らえない。君が実現したもの、君が作り出した価値を見れば、兄上だって理解するようになる。それは明日かもしれないし、一年後かもしれない。だが、必ずその日は来る」
レオポルトの言葉には、確信が宿っていた。
「フェリックス。君はもう影に隠れる必要などない。君はすでに、自分自身の光を持っている。デパートの設計において、君が提案した民衆への案内システムは、私一人では決して思いつかなかったものだ。あの発想は、君の優しさと、人の心を読み取る力から生まれたものだ。それは弱さではない。この事業の核心なのだ」
レオポルトは微笑んだ。
「それまで、君は君の信じる道を往けばいい。そして僕も、君とともに歩いていく」
レオポルトの表情が真剣さを増した。
「約束しよう。君の兄上がこの目で見て、弟は正しかったと認める日を、必ず実現する。そのために、まずはこのデパートを成功させる。君と一緒にな」
フェリックスは涙をこらえ、顔を上げた。その瞳には、以前よりも確かな決意の光が宿っている。涙の膜の向こうで、その光は静かに、しかし力強く輝いていた。
「……はい。ありがとうございます、閣下」
その返答は、主君への忠誠の言葉ではなく、同志への感謝の言葉だった。
フェリックスは袖で目元を拭い、深く息を吸い込んで、背筋を伸ばした。
「私はもう迷いません。閣下のお傍で、この国のために全力を尽くします。そしていつか、兄上にも胸を張って言えるようになります。私は正しい道を歩いていたのだと。その日のために、今日からまた、前に進みます」
一方、その同じ夕刻。アルトハイム子爵邸。
帰宅したエーリクは、父である子爵の書斎を訪ね、王宮での一件を報告していた。
その口ぶりは淡々としている。感情を排した、事実のみの伝達だ。だが、その淡々とした語り口の裏に、整理のつかない感情が渦巻いていることを、エーリク自身は気づいていたかもしれないし、気づいていなかったかもしれない。
「……ヴァイスハルトは手強い男です。王の御信頼も厚く、簡単には崩せません」
エーリクの声に、不本意ながらも相手への敬意がかすかに混じっていた。
「謁見の場でも堂々としていました。ヴィルヘルム侯爵の追及にも一歩も退かず、むしろ侯爵を論理で押し返していた。あの場にいた全員が、否応なしにあの男の弁舌に引き込まれていたと思います。正直に申し上げれば、あの手腕は見事なものでした。不本意ではありますが、認めざるを得ません」
エーリクは窓際に立ち、腕を組んだ。窓の外には、夕暮れの王都が広がっている。
「弟も完全に彼の側についているようです。説得は難しいかもしれません」
エーリクは一呼吸置いて、付け加えた。
「廊下でヴァイスハルトと対峙しました。あの男は、フェリックスのことを本気で案じているように見えました。演技であれば大した役者ですが……あの目は、嘘をつく者の目ではなかった。いえ、しかし、それでも信用するわけにはいきません。人を操る者ほど誠実に見えるものですから。そう、きっとそうに違いない」
最後の言葉は、相手を否定するためというよりも、自分自身を説得するための言葉に聞こえた。
淡々と報告するエーリクに対し、父である子爵は忌々しげに鼻を鳴らした。
「ふん、所詮は成り上がりだ」
子爵は革張りの肘掛け椅子に深く座り、ワイングラスを傾けながら言った。その声には、若い世代に対する蔑視と、自分たちの時代が終わりつつあることへの恐怖が入り混じっている。
「いずれボロが出る。その時、フェリックスも目を覚まして泣きついてくるだろうよ。その時には、我々は見たことかと言ってやればいい。親の言うことを聞かなかった罰だとな」
子爵はもう一口ワインを含み、天井を見上げた。暖炉の炎が、天井の漆喰に揺れる影を映し出している。
「あの愚かな次男坊は、昔から手がかかった。お前のように聡明であれば、こんな心配はせんで済んだのだがな。いつまで経っても夢ばかり見おって。現実を見ろと何度言い聞かせたことか。あの子にはアルトハイム家の血が流れているはずなのに、どうしてこうも違うのか。母親に似たのだろうな、あの甘さは」
子爵は首を振り、ワイングラスをテーブルに置いた。
「だがな、エーリク。あの男が王の御信頼を得ているという事実は厄介だ。王が直々に建設続行を裁定されたとなれば、正面から潰すのは難しくなる。ゲオルク伯が謹慎を終えた後に改めて策を練る必要があるだろう。我々アルトハイム家は、表立っては動かん。だが、情報だけは集めておけ。ヴァイスハルトの弱みを、必ず見つけ出せ。人間であれば、必ずどこかに隙がある」
その言葉は、失われた権力を取り戻す瞬間への期待と執念で満たされていた。
「……そうですね」
エーリクは同意の言葉を口にしたが、心の中では別のことを考えていた。
王宮の謁見室で目にしたレオポルトの眼差し。あの場で保守派の重鎮たちに臆することなく、自らの信念を語り続けた若い男爵の瞳。そこに嘘はなかったと、エーリクの直感は告げている。
同時に、フェリックスがレオポルトを見つめる時の目も思い出される。家にいた頃には一度も見たことのなかった、あの生き生きとした輝き。
その両者の目に映るものは、誠実さだった。そして、その誠実さの前では、自分が振りかざす家族の権威も、貴族としての格式も、何の力も持たないのだという事実が、エーリクの胸を締めつけている。
胸の奥に、説明のつかない違和感が残っていた。それは、自分たちが守ろうとしている「貴族としての誇り」が、本当に守る価値のあるものなのかという、根本的な疑問だった。認めたくはない。認めるわけにはいかない。しかし、その疑問は一度芽生えてしまえば、もう消すことができない。
王宮の廊下で対峙したレオポルトの目。
あの男の瞳の奥に宿っていた、混じりけのない確信。
そして、家を出て行った日のフェリックスの背中。あの細い背中には、迷いではなく、決意が映っていた。振り返りもせずに歩き出した、あの後ろ姿。
「弟よ……お前は、本当に幸せなのか」
窓の外に浮かぶ冷たい月を見上げながら、エーリクは誰にともなく問いかけた。
その問いかけは弟への心配であり、同時に、自分自身への問い直しでもあった。
「お前が選んだ道の先に、何があるのか。俺にはまだ分からない。だが……あの男の目は、嘘をつく者の目ではなかった。それだけは……認めざるを得ない」
エーリクは拳を握り、そして、ゆっくりと開いた。掌に、先ほど自分の爪がつけた半月形の跡が、赤く残っている。
「だが、まだ信じない。信じるわけにはいかないのだ。お前が本当に幸せだと、この目で確かめるまでは。お前の笑顔が本物だと、この目で見届けるまでは」
自分たちが守ろうとしている「貴族の誇り」と、弟が目指そうとしている「新しい世界」。
どちらが正しいのか。どちらが王国の未来のためになるのか。
今の彼にはまだ答えが出せなかった。
だが、その答えがやがて彼の人生を大きく変える日が来ることを、エーリクはどこかで感じ取っていた。月明かりが窓から差し込み、書斎の床に細長い光の帯を描いている。その光の帯の先に何があるのか、今はまだ見えない。
見えないが、確かにそこに、何かがある。
エーリクは窓を閉め、暗い廊下へと足を踏み出した。




