02
好きだからこそ、ラインハルトのことを想って身を引いた――のに。
「親父から聞いた。――俺の秘書官を辞めるって、どういうことだ」
どういうことかはこちらが聞きたい。
今日は、聖女との顔合わせじゃなかったのか。ラインハルトが留守にするから、わざわざ今日出て行くつもりでいたのに。
肩の上に手をつかれ、壁際に追い詰められた体勢に、「これが小説で読んだ壁ドンか……!」とのん気に思った。
「どういうこともなにも、文字通りよ。辞めさせていただきます」
「ダメだ。許さない」
頭ごなしに否定をするラインハルトに頬が引き攣る。
窓の外は暗い。常であれば輝いている星々は厚い雲に覆われて、絵の具を塗りたくったような夜空だった。まるで、サーシャの心情を表しているようで、苦虫を噛み潰した。
デスクランプしかついていない執務室は、目の悪いサーシャには不利だった。そもそも、ラインハルトを振り切って出て行けるとは思えない。
「部屋がもぬけの空だった」
「勝手に入ったの!? ……ここも、出て行くわ。貴方も、聖女様と結婚するんでしょう? なら、きっと私はいないほうがいいのよ」
肩を掴む手に力がこもる。
「……どういうことだ」
「貴方、聖女様と結婚するんでしょう? お父さんが言っていたわ。前向きに検討する、って。それって、ほとんど決定事項と変わらないじゃない」
「俺は結婚なんてするつもりはない」
「そういうことじゃないのよ! 聖女様と貴方が結婚することで、聖教会との繋がりを強くする、そういう意味も――」
強く、強く抱きしめられた。
カシャン、とメガネが音を立てて落ちる。
「ッ、はなし、」
黒髪が暗闇に乱れる。メガネに隠れていた瞳は透き通る蒼玉だ。そこらへんの街娘とは違う気品に溢れた百合の顔が露わになる。
白い肌が闇に映えた。細い顎を持ち上げて、ラインハルトは荒々しく小さな唇にかぶりつく。
「んっ、ふぁ……! や、らぁ、あ、インハル、ト……ッ!」
薄く開いた唇から熱い舌が入り込んでくる。
息もできないほど深いキスに、足が震えてその場に崩れ落ちてしまいそうになるのを抱きとめられた。
「なぁ、これでも俺から離れるっていうのか」
獰猛な獣、血に飢えた化け物に見えてしまった。
息ができなくて、真っ赤に染まった顔でラインハルトを睨みつける。
酸欠だけで赤面しているわけじゃない。キスなんて初めて。それなのにこんな深いのなんて、ロマンチックのカケラもない。
足が震えて、生まれたての小鹿みたいだ。
ラインハルトという男は、もっと紳士的で優しかった。今、目の前にいるのは誰だ? 本当に幼馴染だろうか?
獣のようにぎらついた瞳にサーシャが映し出される。
「俺から離れるなんて許さない」
憎しみすら滲むような声色だった。
辞表は受け付けない。今日は俺の部屋で寝ろ、と。掴まれた手首を引かれる。
彼が、こんなにも感情的になるとは思わなかった。
涼やかで、常に冷静な副団長殿。怜悧な瞳が素敵、なんてお嬢様方に言われているが、今のラインハルトには冷静の「れ」の字もなかった。
「俺は、サーシャを自由にするつもりはない」
バタン、と扉が閉まる。ガチャン、と外から鍵をかけられたのかドアノブをいくら捻っても扉は開かなかった。
思わず溜め息を吐いてしまう。今頃、街の宿に泊まっているはずだったのに。
副団長の執務室の隣に併設された仮眠室。枕はラインハルトの匂いがして、眠れない夜を過ごすことになった。




