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第六話:境界の残照、英雄の疼(うず)き

〈山寺 仏殿縁側〉


 「ズイシンというのはわしが戒名としてあやつに与えたもの。心の髄、真の髄。


娑婆しゃばの嘘は人のさがじゃ。仏門に下ればもはや不要、捨てよと。一之介は死んだ、あとはお前の真を生きよと。


 結局あやつは、あの石段脇に収まった。山を禁足地とし、誰一人山の奥へ入らぬよう、呪いを自らの糧とするように。


わしはそんなことが、あやつの真とは思えんのじゃが……」


私はただ聞いているだけ。和尚様の横顔が哀しげに見えました。


 「ズイシンは鬼などいなかったと、鬼退治は嘘だと申した。


しかし確かにその首飾りを手にしていた。あれは五日のうちに作れる代物ではない。


ズイシンは何者かに会い、それを授かったのだ。


ズイシンが何者に出会ったにしろ、あやつは自分の嘘が暴かれることを心底恐れている。それが故にあの石段にへばりついておる。それほどに恐れる理由はわしにもわからんが、今のあやつにとっては、それが全てなのじゃ」


 石庭の向こうの山から鳥のさえずりが響いています。


傾きだした陽光が、薄く広がりだした雲に薄絹のように覆われて、白くぼんやりと空を染めています。


 あの顔なじみであるズイシンと、先ほどお会いしたばかりのゼンさん。


私の知らない過去を覗き見て、私は大きな雲の中へ迷い込んだような、不思議な感覚に陥っておりました。


 「トキ殿、あなたはまだ若く、しかも今まさに巣を飛び立とうとなさる鳥だ。あまり山に入りすぎると道に迷うて帰れなくなりますぞ。今は、わしの話だけに留め、心をお納めなされ」


 私は縁側から見える石庭の向こう、山の稜線のその向こうに広がる空を眺めながら、和尚様のその言葉を、遠い山に返すこだまのように聞いておりました。


私は今、何を見せられ、何を突き付けられているのだろう……。



〈山門 石段下の山道〉


 陽は西に傾き、涼しげな風が木々の間を抜けて私の首元をすり抜けてゆきます。


石段を下り、抱えたお野菜の重みが私を現世うつしよへと引き戻そうとするようでした。


 ゼンさんの畑、和尚様の話……。まるでお伽噺の中に迷い込んだような心持ちで山道を抜けようとしたその時、脇に座すズイシンの姿が目に入りました。


 いつもなら軽口で通してくれるはずの男が、今日は微動だにせず、抜き放つ一歩手前の刀の柄に手を置いています。そこには、かつて異形と対峙した「英雄」の、鋭く刺すような気配がありました。


 「……ズイシン、さま?」


私の顔をじっと見つめるその瞳。過去のどこかでその「何か」に触れて山を下りた、一之介という一人の侍がそこにいました。


 「……その顔。いけませんな。まるきし山の氣にてられちまってる」


ズイシンの声は、低く、呪詛のように響きました。


 「何があったかは知りません。ゼンが何を言ったかも。……だが、そのまま里へ降りてはならねえ。お嬢様が今感じているそれは、里ではただの『毒』だ」


私の胸に、針が刺すような痛みと共に、見透かされたような感覚によって、咄嗟に私のすべてを覆い隠そうとする衝動が走りました。


 「お嬢様、お忘れですか。貴女は日が明ければまた、大名の列を迎える本陣の娘だ。役割を果たし、婿をとり、家を繋ぐ。それが貴女の運命だ。


……あそこにいる男は、何も持たず、何にも縛られず、ただ『在る』だけで生きていける。だが、我々は違う。誰かを欺き、役割を演じ、泥を啜ってでも『人間』の枠の中に留まらねばならぬのだ」


ズイシンが一歩、私に詰め寄ります。その瞳には、隠し続けてきた三十年分の「嘘の痛み」が澱のように滲んでいました。


 「あいつは触れてはならない蜜のごとく甘い、世迷の毒です。


……自分を見失いなさんな。お嬢様がうつつを抜かせば抜かすほど、本陣の掟は歪み、ご両親が苦労を重ねて持ち上げた縁談が無に帰す。


……貴女のお遊びが、誰の犠牲の上に成り立つとお考えですか!」


 「そんな……私は、私は……」


 「帰りなされ。そして、その瞳の火を消しなされ。本陣の娘として、死んだ魚のような目で、お世辞を笑って見せなされ。……それが、この人の世で生きるということだ」


 ズイシンは道を空けましたが、その背中は酷く震えていました。私を否定することで、彼は自分自身の「正しかったかもしれない過去」を必死に殺しているようでした。一之介という嘘を殺すことで、ズイシンの真が報われるかのように。


 


 と、その時、町の方から、急を知らせる半鐘の音が響きました。


参勤交代の大名行列が予定より早く到着するという知らせです。本陣は大騒ぎになるでしょう。


私はズイシンに深くお辞儀をして、急ぎ足でその場を離れました。背後で、彼が力なく石段に座り込み、地面を見つめるのを視界の端に捉えながら……。


 


 私は、この山に住まうふくろう。


ズイシンの心は、トキを突き放したことで、皮肉にもかつてないほど「緩んで」いた。


まことを生きようとするがゆえに、嘘は毒となり人を蝕んでいく。


嘘もまた人のまこと。


里は騒がしく、山は沈黙を守る。


混ざり合うはずのなかった二つの世界で、娘さんは何を見るかな。

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