第五話:境界の毒、英雄の残響
私は、この山に住まうふくろう。
寺というのは、善きものも悪しきものも、等しく引き寄せる所。
そんな混沌を、ほどよく均すのが和尚の役目。
今日ばかりは、その古びた数珠が存分に役に立つことでしょう。
〈山寺 仏殿の前〉
「今日はお日柄が良いですな、トキ殿」
和尚様のその声で、私ははっと我に返りました。
虚ろな心持ちのまま登った石段の横に、風呂敷に包んだゼンさんの野菜をそっと置き、山門をくぐったそこに、和尚様がいらっしゃいました。
月の代参りにはいつもありがたい説法と共に、私の近況にも親身に耳を傾けてくださる、私にとって最も心おきない存在です。
「和尚様、ごきげんよう」
「ほう、トキ殿。何か良いことでもありましたか? 声がいつになく鳥のように艶やかで、呼気が通っておられる」
私は、頬がぽっと赤らむのを感じました。見透かされたような気恥ずかしさに、思わず顔を伏せます。
「ははは、よいよい。此度の縁談が良縁である証ですな。本陣も安泰、なによりじゃ」
「……和尚様、違います。縁談のことではございませんの」
「ほう、と申すと?」
「和尚様は……あの野鍛冶のゼンさんをご存じでしょう? 今、あの方の畑に寄って参りましたの」
和尚様の柔和な笑みが、ふと止まりました。その瞳が、深淵を覗き込むような静かな光を帯びます。
「ふむ、ゼンのところへか。
……トキ殿、山の水は里よりも濃い。時に里の者には強すぎることもある……」
私はその言葉に、強く既視感を覚えました。ズイシンが言った「山の毒は強い」という言葉。
「和尚様も、ズイシン様と同じようなことをおっしゃる」
「なるほど、ズイシンか。あやつこそ、その山の水に中てられた身。この三十年、その水にあやつは侵され続けておる。
トキ殿、もしかすると、あなたは……あの二人に、呼ばれたのかもしれませんな」
その言葉の意味を問う間もなく、和尚様は静かに奥へと手招きされました。
山門から延びる石畳の先に、厳かに佇む仏殿。
和尚様が先に、建物前の階段隅に下駄を置き、私もそれに倣って雪駄を並べます。正面戸口へ階段を上り、長く突き出した軒の下、暖かい陽光を遮り、影が涼やかな風を首筋に運んできます。
暗い仏殿の中へ入ると、和尚様は板間の真ん中に鎮座する釈迦牟尼仏へお辞儀をし、右の戸口から再び外に出て、石庭と裏山の見える縁側の片隅に私を座らせました。線香の香りと、ひんやりとした板の感触。和尚様は、遠い山並みを見つめながら語り始めました。
「ゼンはな、あなたが生まれる少し前、どこからともなく町に現れた。
最初は言葉も話せず、人の習慣を持っておらなんだ。
しかしそれが、瞬く間に人の振る舞いを覚え、信頼を得、町の中に溶け込んだ。
……だが、幾年か過ぎた頃じゃのう。奴を妬むものが現れ、また、騙すものもいた。挙句に利用しようとするものまで現れたのじゃ。
あやつは自ら町を離れ、山の裾野に籠ってしまった。惜しむ者は多かったがの……。
ゼンはな、町の水より、山の水を選んだのじゃ」
私は、石庭の砂紋を見つめながら、その数奇な運命を思いました。
「そして、ズイシン――一之介だが。あやつとは童子の頃からの仲でな。昔から気が小さく、虫も殺せぬ臆病者じゃった。それが剣を持てば他を抜きん出るとは、天の采配とは皮肉なものよ」
「……では、鬼退治の話は?」
「うむ、あれはわしもズイシンも若かりし頃の話じゃ。
町には災いが続いてのう、皆鬼の仕業と噂したのじゃ。そこである時、鬼退治に腕の立つ者を立てることになり、一之介が推された。気が弱いあやつは断ることもできず、皆もそれをわかっていてあやつを推したのじゃ。
町を救うため、あやつは死を覚悟して山へ上がった。
それがどうじゃ、五日も経たぬうちに、鬼退治の証だと『首飾り』を持って帰ってきた。
以来災いも収まり、あやつは英雄となった……が、わしには、どうにも腑に落ちなんだ」
和尚様は、そこで一度言葉を切り、深く溜息をつきました。
「ある夜、一之介がわしの元へ来て、震えながら吐露したのじゃ。
鬼などいなかった。いたのは山の神だ。
この首飾りは奪ったものではなく、授かった『呪い』なのだ、とな」




