第三話:名もなき高鳴り
私は、この山に住まうふくろう。
人間というのは、たった一度、魂を震わせる「音」を聴いただけで、昨日まで愛した庭が、急に書き割りの芝居小屋に見えてしまうものだ。
娘さん。その目に映る町の景色は、今どう見えますか?
極彩色の着物も、甘い菓子も、すべてが灰色に透けてはいませんか。
人は、自分の心の正体に、一番最後に気づくものです。
理由のわからない熱に浮かされ、あなたは今、自分でも知らない自分に手を引かれているのかもしれません。
〈宿場町 本陣〉
あの日から、暦を数えることしか手につかなくなっていました。
月に一、二度の山寺への代参。いつもは「義務」として淡々とこなしていたその日が、今は、遥か彼方の待ち遠しい、子供の頃のお祭りの日のように感じられます。
(……あと数日)
朝、目が覚めるたびに指を折る自分に、私は戸惑いを隠せませんでした。
なぜこんなにも、心がざわついているのか。
あの無口な野鍛冶に惹かれているのか、それとも、あの鋭い鉄の音とほとばしる火花に私の心をすくいあげてほしいのか。自分で自分が分かりません。
日常は、相変わらず凪のように静かなのに、私の心だけが白波のしぶきをあげています。
縁談の話は順調に進み、里の人々は私に「お幸せに」と微笑みかけます。
父上の私をいたわりながらも、世間体通りにおさめようとする言葉が、少し棘に感じます。
以前なら、その優しさに安堵していたはずなのに。今はそのすべてが、私の肌を通り抜けて消えていく色のない影のようで、時にそれが私を静かに刺すのです。
「お嬢様、今度の代参には、こちらの新しいお召し物を……」
下女の言葉に、私は思わず強く首を振りました。
「いいえ。……いつもの、歩きやすいものでいいわ」
心臓が不自然に脈打ちます。
きらびやかな衣装で着飾ることよりも、あの山の空気に、あの鍛冶場の煙に触れたい。
その衝動の正体を、私は「好奇心」という、自分を納得させるための安っぽい言葉で塗りつぶそうとしていました。
代参りの日。
昼下がりの陽光が、参道を白く照らしています。
私は、いつものように淑やかに、けれど内側では今にも駆け出したくなる足を必死に抑えながら、山道を登りました。
「……おや、今日は足どりが違いますな。毒が抜けて清々しきかな、お天道様も察して雲から顔を出してきました」
山門の下、ズイシンがいつものように、皮肉ともとれる鋭い観察眼を私に向けてきました。
私は目を合わせることができず、軽く会釈して早足で通り過ぎようとしました。
「……ズイシン様。今日は少し急ぎますの、また後ほど」
自分でも驚くほど、声が弾んでいました。
ズイシンは、私の背中に向けて低く笑いながら言いました。
「毒は時に薬にもなると申しますな。
過ぎる薬はまた毒となります、お気を付けくださいませ」
彼の言葉を振り切るように、私は石段へと歩を進めます。
参拝の作法など、もう頭にはありません。
本堂へ向かうふりをして、私の足は、吸い寄せられるようにあの「音」の方へと曲がりました。
常のお参りの時には、あの音を聞いたことはありません。
今日も、あの朝の音が幻であったかのように、鳥のさえずりだけが山の木々にこだましています。
道を間違えたのでしょうか。
あの朝霧に包まれた板葺きの小屋には行きつかず、いつの間にかぽっかりと木々の中に拓けた、陽ざしが一面に差し込む草はらに出ました。
膝元まであるような草草が、山からの緩やかな風を受けてなびいています。その穂先は陽光を浴びて、きらきらと瞬いているようです。
その緑の鮮やかさと菜花との対比が美しく、合間には野の花々が咲いていて、桃源郷のような光景が広がっていました。
その草はらの中に、あの闇の中に火花を生み出していた存在とは見違える、私が今まで気に留めることのなかった、ゼンという野鍛冶が佇んでおりました。
一目見て、私の中に温かい火が小さな火花を飛ばしたのを感じました。
これは恋なのか、はたまた仏門へ下る誘いなのか。
その答えを見い出す術を、私は持ちあわせておりませんでした。
ただ、この高鳴りだけが、今の私にとって唯一の「まこと」だったのです。




