第二話:視線の楔(くさび)
私は、この山に住まうふくろう。
月は沈み、空が白み始める。
そこは超えてはならない結界の内側。
紛れ込んだ一輪の徒花は、もはや蕾に戻ることはない。
鍋から立ち上る湯気のごとく、鉄を打つ火花のように。
〈山門の下 ゼンの鍛冶場〉
硬い鉄のぶつかる音が、ガシンと私の体に響きわたり、金縛りのようにして一歩も動けなくなりました。
自分自身の足が、地面の上に立っているのを忘れるほどです。
鍛冶場の入り口から離れた茂みに立ち尽くした私の肌にさえも、爆ぜた火花の熱が届くように感じられました。
それまで鳴り響いていた鉄の音がピタリと止み、静寂が、恐ろしく感じられます。
彼――その野鍛冶は、金敷に赤く光る鉄を置いたまま、ゆっくりと、しかし確実に『私の存在』を捉えました。
彼が背負う熱気が、目に見えない大波となって私を押し戻そうとしています。
(――離れよ)
声は聞こえない。けれど、彼の背中が、握られた槌が、そして立ち昇る煙さえもが、そう拒絶しています。
女が近づいてはいけない聖域に、私は不用意にも近づいてしまった。まるで罠にかかった小鹿のように、為す術なくそこに留め置かれるだけ。
ただ「不純を許さぬ」という無垢な拒絶が、そこにあるようでした。
彼がゆっくりと首を巡らせ、私の方へ目線を向けました。
夜明けの薄い光と、炭火を背にしたうす暗い影からでも、私を射抜くその視線がはっきりと感じられます。
山の木々の隙間から差し込む朝の陽光が、だんだんと強さを増しています。その光を浴びて、彼の目にも光が灯ったような気がしました。
そこには宿場の殿方たちが見せる、品定めするような視線ではない。父上から向けられる、慈しみと支配の混ざった視線でもない。ただ、そこに「在る」ものを、ありのままに見つめる光。私の着物も、家柄も、親の期待も、彼にとって何の価値もない、評価のない「無」なのです。
心臓の音が、耳元でうるさいほどに鳴っています。
私は動けずにいました。
謝ることも、逃げ出すこともできず、ただ、剥き出しの自分を晒されているような恥ずかしさと、見たこともない強烈な光に当てられて、恍惚の中にいるかのようでした。
どのくらいの時間が流れたのか……。
彼は私の存在を確かめると、興味を失ったかのように再び金敷に向き直り、大きく腕を振り上げて鉄を打ち始めました。
――カァン
一打ち。
それが、私への「立ち去れ」という合図でした。
呪縛が解けたように、私は一歩、後ずさり、それから一度も振り返らず、朝霧の立ち込める草むらの道を駆けていました。
「……だから言ったでしょうに。毒が強いと」
石段の脇、影の中からズイシンの声が聞こえた気がしましたが、答える余裕はありませんでした。
家に帰り着き、いつものように静まり返った座敷に腰を下ろした時、ようやく私の呼吸は整いました。
障子の外からは、下女たちが朝の支度をする日常の音が聞こえてきます。
母が様子を伺いに話しかけてくるのも、私の耳には届きませんでした。
目蓋の裏には、あの赤い火花と、ゼンという男の鋭い眼差しがこびりついて離れません。指先をそっと重ねてみても、ずっとかすかに震えているのです。
あれは、なんだったのか。
あの野鍛冶の目。彼が見つめていたのは、本陣の娘としての私ではなく、ただの「私」だった。
日常という名の薄絹に包まれた私の暮らしが、音を立てて裂けていくような気がしました。
恐ろしいはずなのに、胸の奥で、かつてない好奇心の灯が小さく爆ぜていました。




