第一話:暁の鉄、露の境界
想像してほしい、聞いたことのない音を。
何よりも心地よく、心が奮わされる。
――そんな音。
私が聞いたあの音が、全てを変えた。
……ホー ……ホー。
私は、この山に住まうふくろう。
夜の帳が下りる頃に目覚め、人の営みの移ろいを、ただじっと見つめている。
物語の始まりは、まだ冷たい朝靄が立ち込める頃。
山あいの静寂をいつものように無骨に、しかし優しく目覚めさせる、あの鉄を打つ音が聞こえてくるところから……。
カァン、カァン……
あなたにも聞こえるはず、 あの音が。
【宿場町 大名が泊まる旅籠 本陣】
その時、私は足袋の先から伝わる土の冷たさも、感じられていませんでした。
私は本陣(参勤交代の大名宿)の一人娘として育ちました。
両親共に愛情深く、時に厳しく、私はその親の愛に応える事を喜びとして生きてきました。もちろん、今でも。
父上は仕事一本の真面目な性格、母上は社交上手で才色兼備、私の憧れの女性像。そんな両親を私は心から尊敬しております。
ただ時々、私の心は虚しさに襲われるのです。
自分ではこんなに恵まれていて、なんと傲慢で欲深な女なのかと自己嫌悪に陥ります。
そのような時にこそ両親の愛に応えたいと気を張るのですが、余計に心が拒むのです。
夜な夜な帳簿をつけながら頭を抱える父上。社交の場でふと虚な眼差しで空を見る母上。そして家の者が寝静まってから深刻に話す両親の声。
それが私に、幸せとは何かと疑問を投げかけるのです。
十九の歳はとうに嫁に出る頃を過ぎていて、良きご縁を吟味した両親の愛情の表れでもありますが、幼き頃から習い事も礼儀作法も授けてくれた両親の期待に、私は応えるだけの器量が備わったのでしょうか。
私は本陣の暮らしの中に、ずっと不安を感じておりました。
この先、本陣の一人娘として、婿をとって家業を継ぎ、母上のように宿場町の社交を担っていけるのか。
前の晩、父上が語った縁談の話が、まだ耳の奥で澱みのように残っていました。「お前の幸せを思ってのことだ」。父上のその言葉が、私を型に流し込み、本陣の娘という役割を完成させるための、最後の一押しに聞こえたのです。
私の不安は渦を巻き、堰を破って溢れ出たのです。
″代参に行きます。後のことは、よしなに〟
書き置き一つ、朝六つ(午前六時)前の鶏が鳴く頃、私は勝手口を抜けて、月に一、二度お参りに行く山寺へ向かいました。
代参りは、歳の頃を過ぎた私にとっては世間へのお披露目、美しい着物を着て、淑やかに歩き、誰かの期待に応えるための儀式とも言うべきもの。
けれど今朝は違います。私はただ、私自身をどこかへ連れ出したかった。
東の山は、今にも顔を出そうとする陽を背に、空を照らす後光を放っていました。
西の空はまだ瑠璃色が残っていて、その夜と昼の混ざり合った境が、まるであの世とこの世のようでした。
本陣の裏手を流れる小川に沿って、まだ眠りの中に沈む宿場町を背に急ぎ足で進みます。
町外れの古い石橋を渡ると、そこからはもう、私の知る「本陣の娘」としての世界ではありません。
川のせせらぎが次第に遠のき、道は緩やかに山の方へと折れます。
いつもの道なのに、朝のほんのりと湿った空気が私のざわついた心を冷やしてくれるようです。
畑を横目に畔を通り、古い墓地を抜けた先の坂道は、木の根が剥き出しになった山道へと変わり、しばらく続いた鬱蒼とした林の脇から、天を突くように真っ直ぐな石段が姿を現します。
その石段の手前、霧の中からぬうっと、見慣れた人影が現れました。
ズイシン――里では一之介と呼ばれる男です。
「おやおや、こんな朝早く何者かと思えば、見慣れた本陣のお嬢様ではございませんか。
おなご独りが、お天道様と一緒に、慌てて山へ上がるなんぞ、誰ぞ大大名のお越しの支度かな?」
いつもの、あしらうような声。
かつて鬼退治の英雄と讃えられた男は、今や山門の脇に巣くう偏屈な番人と呼ばされています。寺の和尚様だけがこの男をズイシンと呼び、月の代参りにはいつも、この石段の下で言葉を交わす、慣例の顔なじみとなっておりました。
「ズイシン様、そこを退いて。今朝は……どなたの顔も、見たくないのです」
ズイシンはこの山へ上がるものをことごとく見張っております。何人も山の上、その奥へ入らせないためだとか。私はその理由を存じ上げませんが、私の知らない昔の因縁がおありのようで、町の噂話として聞いたことがあります。
その男が今、山門の重い扉のように私の前に立ちはだかっております。
広げた足を動かそうともせず、私の顔を覗き込んでふっと力なく笑いました。私はズイシンの目が一瞬変わったのを感じました。
「お嬢様……、いけませんな。そのご様子で今山に上がれば、悪しき物の怪を呼び込むことになりますぞ。……しかし、まあ良い。ただ気を付けなされ、山の毒は強いですからな」
彼はひらりと身をかわし、参道脇の陰に消えました。
私はズイシンの言葉を振り払うようにして、石段を駆け上がりました。
誰もいない石段。杉の木立が空を遮り、闇と光が混ざり合う。
その時でした。
――カァン
空気を切り裂くような、鋭く、それでいて澄んだ音が山に響きわたりました。
お寺の鐘でも、誰かの呼び声でもなく。それは、鉦を叩くような、胸の奥に響き渡る音でした。
――カァン、カァン、カァン
私の心に重く立ち込めていた霧が、一瞬で晴れたような気がいたしました。
私の心はすぐさまその音に支配され、あれほどざわついていた気持ちが静まり返り、急ぎ足も力なくその場に歩を止めました。
空間に吸い寄せられるように、私は石段を外れ、音の方へと吸い込まれていったのです。
草むらを分け、古い石段の脇を抜けると、奥まった場所に小さな建物がありました。
黒く煤けた土壁と、板葺きの屋根から伸びる煙突に、白く立ち昇る煙が見えます。そして、開かれた扉の向こうに、「火」が見えました。音と共に弾け合う何かが、閃光を飛ばして冷たい朝の青に、鮮烈な朱色の火花を散らしています。
そこには上半身を露わにし、無心に槌を振るう男の背中がありました。
ゼンと呼ばれる、野鍛冶の男です。
昔、町で鍛冶屋をしておりましたのが、今は一人、山で暮らしているのだとか。町の人は誰もその素性を知りません。代参りの昼日中に見かける彼は、いつも無口で、土くれた野菜を運んでいるか、薪を背負っている姿ばかり。私もそんな彼を気に留めたことはありませんでした。
けれど、そこにいたのは私が知る男とは別人のようでした。
一打ちごとに、鉄が赤く歌い、彼の腕の筋肉が波打つ。その横顔には、誰に媚びるでもなく、誰を恐れることもない、孤高の威厳を備えていました。
私は息をすることを忘れ、閃光の中に等間隔で続く音を耳の奥で感じながら、ただその火と闇の境界線で鞭打つ腕筋を見つめていました。
男は背を向けたまま、最後の一打ちを「ドン」と重く響かせました。
その瞬間、私の体は凍りついたように動けなくなったのです。




