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第十話:雨の匂い、蘇る記憶の音

〈宿場町の鍛冶場〉


 夕刻、薄黒い雲はすっかり空を覆い、一時は止んだ雨も、静かな霧雨に変わっていました。


本降りになる前に到着した大名一行の熱気に、町は浮き足立つように色めき立っています。この雨では、一行は少なくとも一日は足止めを食うでしょう。それを見越したかのように、黒田様は町の鍛冶場にゼンを繋ぎ留め、鉄を打つよう命じていました。


 炭と鋼、そして抜き身の刀を提げた見張りたち。その中心で、ゼンさんはつちを握ろうともせず、切り取られた窓から見える雨空を、言葉を忘れた石のように見つめていました。


私は母上の言いつけを振り切り、傘の下、鍛冶場の外でゼンさんの様子を伺っておりました。すると突然、背後から低い声が響きました。


 「お嬢様、夜の外出は物騒です。本陣へ戻りなさい」


そこには雨笠をかぶった、お侍の姿がありました。


 「ズイシン様……なぜここに」


 「ふん。もはや道理じゃありませんよ。人間、考えて動くより、気持ちが先に動いちまう時がある。……俺はここでやらなきゃならんことがある。おそらくは、そういうことでしょう」


 石段でうなだれていたズイシンの姿はもうそこにはありませんでした。


薄暗い光の中で、ズイシンの目の奥が、研ぎ澄まされた刃のように鋭く光っているのを私は見ました。それは同時に、私の心にも覚悟という火を灯したのです。


 


私が何とかゼンさんと話がしたいと申し上げますと、ズイシンも、それに手を貸すとおっしゃってくれました。


 「……いいかいお嬢様。ときはそんなに長くねぇ。見張りは俺が引きつける。細かいことは後にして、肝心なとこをしっかりぶつけてきな」


ズイシンの低い声に、私は深く頷きました。


 


 ズイシンが見張りに歩み寄り、軽口を叩き始めました。かつての「英雄」の顔見知りに、見張りたちが油断した隙を突き、私は工房の中へと滑り込みました。


 押し寄せる炭火の熱気。鉄と、焦げた土の匂い。その奥に、二十年前と同じ、孤独な背中がありました。


 「ゼンさん……」


 「……お嬢様。あなたが来て良いところではないはずだ」


 「ごめんなさい、わかっています。でも、どうしてもゼンさんにお話しておきたくて」 私はそっと隣に腰を下ろしました。


 「覚えていらっしゃいますか。……十五年前、あの日も雨が降っていました。本陣の庭で、あなたが黒田様に追い詰められていた、あの日のことを」


 「……覚えております。忘れるはずもございません」


ゼンさんは視線を落としたまま、静かに、噛み締めるように頷きました。


 「あれは……、あなたが私に山のこと、父や母のことを思い出させてくれた時です。


あの頃――私は町に馴染めず、人に疲れ、鉄を打つことにも力を失いかけていました。


そこへ黒田様から私を召し抱えたいとの申し入れがありました。しかし私は、刀は打たないと申し上げて……。黒田様は不敬だとおっしゃり、私をお手打ちになさろうとされた……、そしてそこにあなたが……」


 私はそれで失っていた記憶の欠片を全て取り戻しました。


 父上が贔屓にしていた鍛冶屋、それがゼンさんでした。


元々身寄りのなかったゼンさんを、父上はその腕を見込んで引き入れました。


近くに工房を構え、本陣の包丁はみなゼンさんがこしらえたもの。もちろん、本陣以外でも、町の多くの人がゼンさんの打ち物を愛用し、皆に重宝されていました。


私にとって、ゼンさんはいつも傍にいてくれた兄のような存在。


にこにこと笑いかけてくれて、一緒に歌を唄ったり、近くの神社まで手を引いて連れていってくれたり。


それが私には当たり前で、朗らかな、ゆりかごのような存在でした。


 それがあの日、大雨の中、刀を抜こうとするお侍の前に、ゼンさんはひれ伏しておりました。


私は驚きと恐怖の中、無性に込み上げる涙と共に咄嗟に駆け出し、私の小さな体でゼンさんに抱きつきました。


 『だめ! 斬っちゃだめ!』


雨と涙にまみれながら、私は叫び続けていたのです。


 


 ああ……、私はどうしてこんな大切なことを、記憶の奥底に仕舞い込んでしまっていたのでしょう。


私の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちました。私は、ゼンさんの節くれ立った手を、両手で包み込みました。


ゼンさんは一瞬、戸惑うように指を動かし、やがて私の手を、静かに握り返しました。


ゼンさんは続けます。


 


 「……私は、赤ん坊の時に山に捨てられました。


私を拾い、育ててくれた父と母がいますが、人ではありません。私は人の情を知らずに育ちました。そんな私が独り立ちの歳頃、産みの親の事や、里のことを知りたくなりました。そうしてこの町へやってきたのです。


 最初は言葉もわからず、人並みのことは一切できませんでした。そんな私を引き受けてくれたのがあなたのお父上様です。主は読み書きも、里の慣習も全て教えてくださいました。そして工房も授けてくださり、私を人並みに育ててくれました。


あなたがお生まれになったのは、私が町に来て程無くした頃です」


 私は涙を拭いながら静かに耳を傾けていました。ゼンさんの声が、炉の火に温められて、ゆっくりと響きます。


 「お嬢様、あなたは私に初めて、愛おしさを授けてくださりました。


大事にしたいと強く思う気持ちです。あなたの成長と、私に微笑みかけるその笑顔が、私に山の父と母のことを思い出させてくれました。きっと父と母が私に向けただろう想い。そしてきっと、産みの親もまた私に向けたであろう想い。そこに計り知れない事情があっただろうこと。


あの時、あなたが私に泣きながらしがみついた時、私は人の情というものを知ったのです。


 私は……あなたを、悲しませたくない。……たとえ、この腕を失うことがあったとしても」


 私はその瞬間、ゼンさんの中に強い覚悟を感じて、言葉が先をつきました。


 「逃げましょう、ゼンさん。ズイシン様が、外で待っています」


ズイシン様


私の必死の訴えに、ゼンさんは静かに首を振りました。


その顔には、以前のような静かさはなく、ある決意を秘めた硬い笑みが浮かんでいました。


 「……いや。このまま逃げれば、あなたの家も、ズイシン殿にも、るいが及ぶ。……打たねばなりません。黒田様に、終わりの音を届けるために」


ゼンさんはすっと立ち上がって、自分から炉に近づき、ふいごに手をかけました。私は、その横顔を見て、お任せしてよいのだと確信しました。


 私は、この山に住まうふくろう。


長き時を経て、二つの欠片が一つになった。


男は女の涙で、自らが人間であることを思い出し、女は男の覚悟で、自らを縛る鎖を断ち切った。


炉に火が入る。だが、それは武器を作る火ではない。


過去を焼き尽くし、未来を響かせるための、祈りの火。

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