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スピンオフ 一之介① 家宝の短刀

 その男は、私の耳もとで囁いた。


「おぬし、今もあの家宝の短刀を持っているのではないか」


 ――まさか。


 心臓がひとつ大きく跳ね、指先からすっと血の気が引いた。


この男は知っているのか。三十年近く、私が喉の奥に刺さった棘のように隠し続けてきた、あの忌まわしい出来事を。


 越中の黒田。


その名を聞いて、ようやく合点がいった。


かつて私が学んだ道場、本家ではなく分家の黒田か。


だとすれば、この男はいったい、どこまで知っているというのだ。


 あれは、私が九歳の時だった。


何もかもが狂い始めたあの日を、忘れられるはずもない。


剣術の稽古に明け暮れる毎日。


その日も私は、本家の師範代を務める父の背を追い、門下生たちに交じって汗を流していた。


私は決して器用な子ではなかった。ただ、愚直であることだけが取り柄だった。剣の道に嘘はつけぬと、幼いながらに信じていたのである。


 だが、その日、災厄はすでに私の足もとまで忍び寄っていた。


 稽古を終えて荷をまとめようとした時、見覚えのない包みが紛れ込んでいるのに気づいた。


一目見ただけで、言い知れぬ不吉が背筋を走った。中を確かめるまでもなかった。触れてはならぬものが、そこにある――そんな予感だけが、はっきりとあった。


 当時、私のいた道場は、越中に名を馳せる黒田流の一派であった。


道場主・黒田穂龍すいたつ先生は、清廉にして質実剛健、物の値打ちより人の精神を重んじる御方で、藩主からの信任も篤かった。


それに対して、分家の主・黒田辰之進は、剣の腕こそ確かであったが、野心深い男だった。本家の下に甘んじる立場を、常々苦々しく思っていたのだろう。


今にして思えば、あれは分家が仕掛けた卑劣な罠に違いない。


だが、九歳の私にそんな策謀を見抜けるはずもなかった。


すぐに父へ、あるいは先生へ打ち明ければよかった。


ただそれだけのことが、なぜできなかったのか。私はその時はじめて、自分の性根の脆さを知った。


 帰り道、山手の神社の裏手まで来た私は、人の気配がないのを確かめてから、震える手で包みを解いた。


現れたのは、息を呑むほど見事な拵えの短刀だった。ひと目で悟った。藩主から賜ったという、あの道場の家宝に違いなかった。


なぜその時、隠してしまったのか。


その悔恨は今なお私を責め続けている。


一度逃した機は、二度と戻らぬ。


雪玉が坂を転がるように、事は取り返しのつかぬ深淵へ向かっていく。あの時の私は、まだそれを知らなかった。


 私はその短刀を、神社の縁の下の湿った暗がりに、そっと押し込んだ。


 それからの日々、私は生きた心地がしなかった。


だが、数日が過ぎても道場に騒ぎはなく、誰ひとり何も言い出さない。


愚かな私は、このまま何事もなく幕が引かれるのではないかと、浅はかな安堵すら抱き始めていた。


 暗雲が垂れ込めたのは、ひと月も経たぬ頃だった。


師範代である父が、門下生たちを神妙な面持ちで集めて言った。


 「しばらく前から、あるべき物が失われておる。誰ぞ、心当たりのある者はおらぬか。些細なことでもよい。見知らぬ者を見た、あるいは何かを預かっている、そのようなことでも構わぬ。いつでも私のところへ来なさい」


 父の視線が、ほんのわずかに揺れたように見えた。


その瞬間、私は自分の血が凍りつく音を聞いた。

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