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スピンオフ 一之介② 父の背中

 父の言葉が落ちると、道場の中はしんと静まり返った。


やがて門下生たちは互いに顔を見合わせ、小声で囁き合いはじめた。


だがそのざわめきの中で、私だけが石像のように固まっていた。喉の奥は焼けるように熱く、呼吸の仕方さえわからなくなっていた。


 父――佐一の眼光は鋭かった。


けれど、その瞳の奥には、いつもの厳しさとは異なる、深い哀しみのようなものが湛えられているように見えた。


あえて私と目を合わせぬようにも思えた。気づいているのだ、と私は直感した。


名乗り出ぬのか。今がその時ではないのか。


父は何も言わぬまま、その背中のすべてで、私にそう問いかけているようだった。


 私は腿の上で拳を固く握りしめていた。


腰のあたりから込み上げてくる震えを、必死に押し殺していた。


九歳の子どもが抱えるには、この罪はあまりに重かった。


だが、私の最大の罪は短刀を隠したことではなかった。父の信頼を裏切ったこと、そしてなお裏切り続けていることだった。


 その日の稽古が終わると、私は逃げるように道場を飛び出した。


神社の裏に隠したあの短刀が、闇の中で呪いのように鈍く光っている気がして、足がすくんだ。


 その夜のことだ。


寝所の襖越しに、父と母の話し声が漏れ聞こえてきた。


 「……一之介の様子が、おかしいのです」


 震える母の声だった。


父はしばらく沈黙していたが、やがて重々しく口を開いた。


 「わかっている。あの子が短刀を持っていると、密告があった。……分家の辰之進殿が、そう耳打ちしてきたのだ」


私は布団の中で息を呑んだ。耳を疑った。


 「そんな……あの子が、どうして」


 「……いや。あの子が盗んだのではない。これは分家の策略だ。しかし、あの子はいま己の弱さと戦っておる。ここで自分に打ち勝つことができれば、一之介の剣の道は開ける。私はあの子に、それを望んでいる」


 父の声は静かだった。


怒りも、失望もなかった。ただ、凪いだ海のような、揺るがぬ決意だけがあった。


 「私がやったことにする。……家宝を持ち出したのは、この佐一だと主に申し出よう」


 ――だめだ。


そう叫びたかった。布団を蹴って飛び起き、父の前に這いつくばり、自分がやったのだ、神社の裏に隠したのだと吐き出したかった。


だが、身体は金縛りにあったように動かなかった。口は凍りついたように開かなかった。


九歳の私は、「父はすべてわかっている」「これで収まるのなら、今さら出なくともよい」という、鬼の囁きに耳を貸してしまったのだ。


私は地獄へ落ちた。


 翌朝、事態は奇妙な方向へ向かった。


町じゅうに、ひとつの噂が風のように駆け巡ったのである。


――本家の主・黒田穂龍が、家宝の短刀を密かに売り払った。


道場は騒然となった。藩主から賜った品を売るなど、武士としてあってはならぬ不祥事である。


だが当の穂龍先生は、その噂を柳に風と受け流した。


 「物の値打ちなど、所詮は形あるものにすぎぬ。黒田流の真髄は、鋼を振るう者の心にある。短刀がどこへ行こうと、私の心はいささかも揺るがぬ」


そう言って先生は笑い、短刀の行方を探ろうともしなかった。


その泰然自若たる姿に、藩主までもが「さすがは穂龍」と感銘を受けたという。


結果、主への咎めは軽い謹慎のみで済んだ。


 父は出る幕を失い、すべてがこのまま水に流れるようにも思われた。


だが、分家の辰之進が黙って引き下がるはずもなかった。


本家を失脚させる好機を、主の精神論ひとつで潰されてたまるものか――そう考えたのだろう。


 ある雪の降る夕暮れ、父は主の屋敷に呼び出された。


そこには、冷ややかな笑みを浮かべた辰之進が控えていた。


 「……一之介。お前はここにいろ」


父は玄関先で立ち尽くす私に背を向けたまま、短くそう言った。


それが、私が見た「師範代としての父」の、最後の姿となった。

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