第二話 ゾンビの尊厳
月並市役所生活環境課 環境衛生美化係──ゾンビ対応課の電話が鳴る。
朝礼が終わったばかりで、まだ誰もメールチェックすらしていない時間だ。
杏川が、露骨に嫌そうな顔で受話器を取った。
「はい、ゾンビ対応係です。あ、いつもお世話になっております。はい、はい──」
器用に声だけ2トーン上げて、愛想よく応対している。
途中で杏川は、わたしにちらりと視線を寄越し、無言で手元のメモ帳をこちらに向けてきた。
『ZSF ゾン権 座り込み』
この単語の並びだけで、だいたいの状況が見える。
わたしは午前中に片づけるつもりだった書類を、一度ファイルへ戻した。
受話器の向こうでは、まだ何か言っているらしいが、杏川は「はい」「承知しました」と機械的に相槌を打ちながら、すでに諦めたような顔になっていた。
やがて通話を終えると、ふう、と気怠げに息を吐く。
「……今日、番さん午前休だから回ってくるよ」
「でしょうね」
言いながら、すでに腰が重い。
杏川は椅子を蹴るように立ち上がると、そのままメモをひらひらさせながら日辻課長のデスクへ向かった。
「課長、これ」
差し出されたメモを見た瞬間、課長は「げっ」と、実に正直な声を出した。
取り繕う気はゼロである。
そのまま額を軽く押さえ、数秒だけ現実逃避してから、ゆっくりと顔を上げる。
そして今度は、わたしに向かって手招きをした。
「……ちょっと来てくれる?」
嫌です、とは言えるはずもなく。
わたしは心の中でだけため息をつき、席を立った。
サバイバルゲーム施設《ZOMBIE STRIKE FIELD》。通称ZSF。
フィールド内にゾンビを放ち、よりスリルのあるサバイバルゲームが楽しめる施設だ。
エアガンにカラー弾を装填し、ゾンビを撃破した数を競う遊びも用意されている。
この施設は全国各地に展開しており、同様のコンセプトを掲げた施設も他にいくつか存在する。
ここで扱われているゾンビは、外部から連れて来られたものと、人為的に作られたものが混在している。
人為的な個体は、屋外の私有地に生肉を放置し、緑桃雲の雨に晒すことで意図的に発生させたものだ。
ゾンビたちは、施設内の高湿度環境を維持した専用区画に保管され、一定期間ごとに入れ替えが行われる。
その際には、市の乾燥シェルターが貸し出され、処理や管理に利用されている。
「やってる、やってる」
わたしは鳳くんを伴って、ZSF月並店へ向かった。
開業してまだ二年ほどの新しい施設で、黒を基調にしたガラス張りのエントランスが目を引く。
夜になるとライトアップも派手で、一角にはバーまで併設されている洒落た場所だ。
その入口前に、十人ほどの老若男女が陣取っていた。
手を繋いで円を作るように座り込み、通路をしっかりと塞いでいる。
全員、緑とピンクのマーブル模様のTシャツで揃えていて、遠くからでも嫌でも目に付いた。
「……あれが噂の?」
「そう。今後も関わることになると思うから、覚悟しといて」
近付くと、Tシャツの胸元にプリントされたロゴが読めた。
《ゾンビの権利を守る会》——略してゾン権。
その名の通り、ゾンビにも生きる権利や、自由を享受する権利があると訴える団体だ。
「あ、お疲れ様です」
ガラス扉の内側から、ZSF店長の乾さんが出てきた。
座り込みの集団をなんとか跨ぎながら、こちらへ向かってくる。
普段はそれなりに整えているはずの髪もやや乱れ、顔にははっきりと疲労が浮かんでいた。
「毎度すみません。俺が言っても、全然聞いてくれなくて」
「いえ……まぁ、誰が言っても同じだと思いますけど」
言えば聞く相手なら、そもそもここで何度も座り込んだりはしない。
「あ、先に紹介しておきますね。新しく入った鳳です」
「鳳です。よろしくお願いします」
ゾン権の人たちと話を始める前に、済ませておいた方がいい。
二人は軽く会釈を交わし、そのまま名刺交換に入る。
「サバゲー、やったことあります?」
「はい。去年、友達とここに来ました。撃破数を競うやつですけど」
乾さんの顔に、ほんの少しだけ光が戻る。
鳳くんも楽しそうに応じていて、話はそのままフィールドの構造や人気アトラクションにまで広がりかけた。
——が、今はそれどころじゃない。
「で、今日はどのくらい粘ってるんですか?」
わたしが目線で座り込みの一団を示すと、乾さんはすぐに現実へ引き戻された。
「もう三時間くらいですかね……スタッフより先に来てたんで」
従業員入口は塞がれていないため、出入り自体はできているようだが、お客様をそこから通すわけにもいかない。
座り込んでいる面々は、こちらに気付いているはずなのに、黙りを決め込んでいた。
「じゃあ、ちょっと説得してみましょうか」
「あ、はい、お願いします」
軽く作業着の襟を正してから、わたしは座り込みの輪へ歩み寄る。
鳳くんには実地に見て学んでもらうため、半歩後ろについてもらった。
改めて集団を見渡すと、十人のうちほとんどが見知った顔だった。
常連、という言い方もどうかと思うけど、顔ぶれに新鮮味はない。
その中から、銀縁の眼鏡をかけた痩せぎすの中年女性に声をかける。
「雨宮さん、おはようございます」
なるべく低姿勢で呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
きっちり結んだ髪に、相変わらず隙のない表情。
完全に想像だけど、“PTA会長を十年やってます”みたいな雰囲気がある。
「……おはようございます。本日も業務、ご苦労様です」
丁寧だが、柔らかさのない声で挨拶が返ってくる。
この人が、《ゾンビの権利を守る会》のリーダー、雨宮霧子さんだ。
彼女たちは定期的に、役所やこうしたサバイバルゲーム施設の前で、デモや座り込みといった抗議活動を行っている。
リーダーの性格もあってか、その頻度はほぼ一定だ。
そろそろ来る頃だとは思っていた。
正直なところ、警察に通報して排除してもらうこともできる。
ただ、それをやると余計に話が大きくなるし、後処理も面倒だ。
だから一応、本当に一応だけど、こうして言い分を聞く時間を挟むことになっている。
いつもは番さんがうまく対応してくれるのだが、今日は不在だ。
説得は苦手分野だから、正直かなり億劫だった。
「今日は、どのようなご意見で?」
わたしが遠慮がちに切り出すと、雨宮さんの目が一気に鋭くなった。
待っていました、と言わんばかりの眼光だ。
「決まっています。この施設における、非人道的なゾンビの扱いについてです」
「……そうなんですね。あの、営業妨害になりますので、座り込みは少し……」
できるだけ角を立てないように話を進めるが、雨宮さんはぴくりとも表情を変えない。
「では、不当な労働を課されているゾンビたちを解放してください」
「いや、それはちょっと難しいかと……」
「ゾンビたちが可哀想でしょう? ゲームの的にされるなんて、不謹慎です」
周囲のメンバーも、ウンウンと頷き始めた。
手を繋いだまま、同意の圧をかけてくる。
「不謹慎……な部分も分かりますけど、まぁ、人ではないですし」
なるべく好意的に作り笑いを浮かべると、空気が一段、きゅっと張り詰めた。
「その認識が間違っているんです」
雨宮さんの声が、はっきりと強くなる。
「元がどうであれ、ゾンビたちは人間です。二足歩行をして、きっと痛みを感じ、心もあるはずです。それが、家畜同然の扱いで、ゾンビを放つだの、銃で撃つだの……どうかしているわ!」
びし、と言葉に力が乗る。
後ろのメンバーからも、「そうだそうだ」と声が上がった。
今日は、エンジンのかかりがいい。
ちらりと周囲に目をやると、通りかがりのカップルが野次馬顔で様子を窺っていた。
彼女の方はスマホを構え、撮影する気満々だ。やめてほしい。
「そういったご意見も存じ上げていますが、」
とりあえず一度、柔らかく受ける。
ここで頭ごなしに否定すると、長引くだけだ。
「施設側も管理はきちんとしていますし、安全面も——」
「安全の問題ではありません!」
食い気味に遮られる。
論点をずらす作戦は、あっさり失敗に終わった。
「尊厳の問題です。彼らは利用されるために存在しているわけではないんです」
言い切る雨宮さんの目は、本気だ。
冗談でもパフォーマンスでもなく、本当にそう信じている人の目——わずかに血走っている。
ゾンビより、怖い。
「でも、外に出ても乾燥して砂塵になるだけですよ。うちにいた方が長生きはできてる」
たまらず、といった様子で乾さんが横から口を挟んできた。
営業時間が迫っていることもあって、気持ちが急いているのだろう。
「自由を奪って、対価もなく働かせているでしょう!」
雨宮さんがすぐさま噛みつく。
声のトーンが一段上がり、後ろの会員たちの空気も一気に熱を帯びた。
「そうだ!」「搾取だ!」
全員が、手を繋いだまま立ち上がった。
そのまま横一列に並び、示し合わせたように施設の自動ドアの前を塞ぐ。
中にいるスタッフが、困ったようにこちらを窺っているのが見える。
「だったら、おたくらが引き取って、一年中じめじめしたゾンビの楽園でも作ったらいい」
乾さんも苛立ちのまま、本音をぶつけてしまう。
言った瞬間に「あ、まずい」という表情に変わった——けど、もう遅い。
「屁理屈だ!」「心がない!」
「命を何だと思ってるんだ!」
案の定、ゾン権側に火がついた。
さっきのカップルの他にも、興味本位で足を止める野次馬が、じわじわと増えている。
スマホを構えている人も、ひとりやふたりじゃない。
レンズ越しに切り取られるこの状況が、ろくでもない形で拡散される未来が、容易に想像できる。
ほんと、勘弁してほしい。
せめて、わたしの顔にだけはモザイク加工を施してください。
「じゃあ、自然に乾燥して消滅するのを、ただ待てばいいんですか?」
そのとき、鳳くんがすっと前に出た。
──これ以上、事態をややこしくしないでくれ。
わたしは慌てて彼の腕を掴んだが、彼は引こうとしなかった。
「そうよ、あなたたち役所の方々もです。乾燥シェルターで無理やり命を奪うなんて、言語道断です」
雨宮さんも、一歩も引かずに主張する。
鳳くんはそれを遮らず、最後まで聞いてから口を開いた。
「交通インフラが乱れて生活に支障が出ても、救急車や消防車の進路が塞がれて救命が間に合わなくても、お年寄りや小さな子どもが逃げ遅れて餌食になっても——それでも、ゾンビを放置しておくのが人道的なんですか?」
ゆっくりと言葉を区切り、積み上げるように、鳳くんは言った。
周囲のざわめきが、引き潮のようにすっと静まる。
「それは……共存の方法を考えれば……」
雨宮さんの反論には、わずかな震えが混じっていた。
さっきまでの勢いが、ほんの少しだけ鈍っている。
「でしたら、その方法が思い付いたら、お声がけください」
鳳くんは、間を置かずに続ける。
「解決策を考えるのも、立派な抗議活動だと思います」
百八十センチの上背に、大学相撲で鍛えた体躯。
そのせいか、言葉以上の迫力があった。
怒鳴っているわけでもないのに、逃げ場を失わせるような圧。
会員たちが顔を見合わせ、小さくざわつき始めた。
「そ、そんなの上の人間が考えるべきだろう」
誰かがそう声を上げると、鳳くんはほんのわずかに首を傾げた。
「いいえ。誰が考えてもいいはずです」
やわらかな口調のまま、きっぱりと言い切る。
「ゾンビの尊厳について問題視しているのは、あなたたちなんですから」
ぐ、と何人かが言葉に詰まる。視線が、そろって足元へ落ちた。
「今はネットでいくらでも発信もできますし、画期的な案であれば、社会を動かせるほどの賛同者も得られます」
雨宮さんのメガネに、笑っているのか、それとも真顔なのか判然としない鳳くんの顔が、鈍く反射する。
「ここで通路を塞ぐより、よほど多くの人に届きますよ」
あくまで穏やかな態度だ。
けれど、その内側からは、相手への軽蔑と抑圧がかすかに匂っていた。
わたしは思わず拍手喝采したくなるのを、ぐっと堪えて、ゾン権の面々を見つめた。
さっきまであれだけ勢いのあった空気が、嘘みたいにしぼんでいく。
誰も声を上げない。
落ち着きなく目を泳がせて、隣同士で小さく探り合っている。
代わりに残ったのは、「どうする?」と無言で押し付け合うような、居心地の悪さだった。
「……非常に不愉快です! このことは、月並市役所に抗議いたしますからね! 失礼します!」
耐えきれなくなったように、雨宮さんが声を張り上げた。
首元まで真っ赤に染まった顔が、ヒステリックに歪む。
彼女は勢いよく踵を返すと、会員たちを置き去りにしたまま立ち去っていった。
取り残された会員たちは、一拍遅れて慌ててその背を追う。
こんな形で解散するのは、きっと初めてなのだろう。
戸惑いが、ばらついた足取りにありありと表れていた。
「鳳くん、やるじゃん」
そう言って、わたしは思わず、隣に立つ乾さんと軽くグータッチを交わした。
警察の介入もなく、しかも営業時間の十五分も前に、あの厄介な集まりを解散させたのだ。
いつもなら番さんが、根気強く「今日のところは」と宥め続け、来店したお客さんにまで「良心は痛まないの?」と絡む会員を引き剥がし、最終的には警察を呼ぶことになる。
それを思えば、上出来どころじゃない。
「えー、全然ですよ。むしろ、しゃしゃり出ちゃって、すみません。役所に抗議するって言われちゃいましたし」
鳳くんは少し困ったように眉を下げて、頭の後ろをかく。
さっきまであれだけ場を押さえ込んでいたのに、すっかり好青年の顔だ。
「いいの、いいの。ゾン権からの抗議なんて、日常茶飯事だから」
雨宮さんはあの見た目通り、マメな人だ。
何かあれば、いや、何もなくても、ファックスだの手紙だの電話だの——思いつく限りの手段で、ほとんど毎日のように役所へ“お気持ち”を送りつけてくる。
正直に言って、相手をしていたらキリがない。
「それに、サバゲー施設のゾンビ利用に関しての答えにはなってないですし……」
鳳くんは、まだどこか腑に落ちない様子でそう言った。
だが次の瞬間、乾さんに「本当に助かりました」と熱のこもった声で握手を求められ、戸惑いながらもその手を取っていた。
「今日、この場を収めてくれただけでいいの。本当に」
わたしが念を押すように言うと、乾さんも「ええ」と深く頷く。
それを見て、鳳くんはようやく肩の力を抜いたように、「……なら、よかったです」と、晴れやかな笑みを見せた。
*
役所に戻ると、日辻課長は顔を上げて「早かったね」と目を丸くした。
完全に昼を回ると思っていた顔だ。
──まぁ、それはわたしも同じだったけど。
杏川に至っては露骨に二度見をして、「ついに放棄した?」と口パクしてくる。
今すぐ詳細を話したいのは山々だが、先に業務を優先する。
鳳くんを隣に呼び、記入項目を説明しながら報告書をまとめていく。
事務作業はあまり得意ではないらしく、背中を丸めてキーボードを打つ手つきも、なかなか慣れない様子だ。
「ここは、ぼかして書いておこう。角が立つから」
「はい……なるほど」
数十分かけて仕上げ、日辻課長に提出する。
課長はざっと目を通し、「うまく収めたね」と一言だけ評価すると、書類を置いてこちらを見た。
その目には好奇心がありありと浮かんでいる。
時計はちょうど十二時を指していた。昼休憩の時間だ。
「それで、一緒にお昼はどうかな?」
課長の提案に、わたしは鳳くんと目を合わせ、「ご馳走様です」と頷いた。
ちょうど午前休を取っていた番さんも出勤してきたので、そのまま皆で食堂へ向かった。
課長は愛妻弁当、番さんはB定食の白身魚の南蛮漬。
わたしと杏川、鳳くんは日替わり定食の酢豚にした。
社食は給料天引きなので、代わりに課長には自販機で缶コーヒーを奢ってもらった。
少し遅れて紅子さんも合流する。
ダイエット中らしく、コンビニのおにぎり一個だけだ。
ゾンビ対応係が顔を揃え、テーブルを囲む。
新人の鳳くんと、今年異動してきた杏川は初参加で、どこかそわそわした様子だ。
ゾン権のデモや座り込みに対応した日は、昼休憩がてらフィードバックを行うことが多い。
もっとも、“フィードバック”とは名ばかりで、実際のところはゾン権への不満を言い合う場、というのが実情だけど。
今日のネタは、きっと喜ばれる。
わたしはまず、今朝のZSF座り込み騒動の顛末を話し、みんなで鳳くんを大いに褒め称えた。
ゾンビ対応係は、日々ゾン権から何かしらの迷惑を被っているので、それを言い負かしたとなれば、胸がすっとするというものだ。
「俺はもう、お役御免だな」
番さんがカカカッと笑うと、鳳くんは首を横に振って「やめてくださいよ~」と否定した。
耳の辺りが赤くなっているあたり、本気で照れているのが分かる。
「今日は本当に初めてだったし、単純に疑問に思った事を口にしちゃっただけなんですよ。二度目は通用しないと思いますし……」
「でも、しばらく大人しくなりそうじゃない?雨宮さんって変に真面目だから、本当に解決策を考えるんじゃないかしら?」
紅子さんがおにぎりの袋をめくりながら、少し身を乗り出す。
「確かに」と、杏川も頷く。
「まあ、画期的なアイデアなら、聞くだけ聞いてあげてもいいんじゃないですか」
「それはいいが、ほだされて寝返ったりしないでくれよ?」
冗談めかした口調だったが、番さんの目にはわずかに神妙な色が差していた。
無理もない。前例があるのだ。
感情移入しすぎて、ゾン権側へ回った職員が、実際にいた。
——というか、それが雨宮さんなんだけど。
わたしが配属される五年も前の出来事で、詳しい経緯までは知らない。
それでもこの話は係内にとどまらず、他部署にまで広く知れ渡っている。
もともと雨宮さんは、ゾンビ対応係の内勤事務だったらしい。
当時から、ゾン権の抗議電話や手紙は頻繁に届いており、その多くを彼女が受け持っていた。
真面目で正義感が強い性格は、当時からだ。
適当にあしらうことも、手を抜くこともできず、いつも真正面から向き合っていたという。
ゾン権の主張にも、一応ながら筋の通った部分はある。
「ゾンビにも心がある」——そんな言葉を繰り返し聞くうちに、彼女は少しずつ、あちら側に傾いていったのだろう。
そして、役所を退職。
ゾン権に入会し、今ではリーダーにまでなっている。
「何も分からんかった30年前は、世界中がえらいことになったんだ。死人もいっぱい出た。ゾンビを好き勝手に跋扈させて良い事なんて何もないんだ」
今度は冗談を抜きに、番さんが言った。
「本当にね」
紅子さんが小さく重ねる声にも、実感が滲んでいる。
わたしはまだ生まれていない頃の話だし、課長でさえ当時は小学生くらいだったはずだ。
それでも、教科書や役所に残る資料を見れば、どれほどの惨状だったのかは、嫌でも伝わってくる。
今みたいにゾンビを管理できている状態が、どれだけ恵まれているのか。それが、よく分かる。
「ゾン権以外にも反対団体はいますからね。今後も毅然とした対応でお願いします」
課長が軽く締めに入り、途中で止まっていた昼食が再開された。
わたしも、少し冷めかけた酢豚を口に運ぶ。
「それにしても、サバゲー施設への抗議は根強いですね」
杏川が味噌汁をすすりながら、ぼやいた。
「考えてみれば、ゲームや映画でもゾンビは不遇ですよね。イメージ向上のためには、そこにも抗議すべきなんじゃないですか?」
「“この作品はフィクションです。実在のゾンビとは関係ありません”」
鳳くんの疑問に、杏川が軽口で返す。
コンプライアンスに厳しいご時世だ。まったくあり得ないとは言い切れない。
「そうなったら、また面倒くさいぞ。今度は映画館かゲームセンターに座り込むぞ、連中」
番さんの口から白身魚の欠片が飛ぶ。
課長が「落ち着いて」と言いながら、台布巾でそれを拭き取った。
「まぁ、残虐性は否定できませんよね。元が唐揚げやハムだったらまだあれですけど、害獣系のゾンビは……動物の死骸にカラー弾を撃ち込むかって考えたら、そんなことしませんし」
わたしの言葉に、みんなも「うーん」と何とも言えない顔で頷いた。
残飯でも死骸でも、処理はする。
だから、ゾンビを乾燥シェルターにかけること自体に疑問を持ったことはない。
けれど、それを遊びに使うとなると、賛否が分かれるのも当然だ。
「でもさ、海外だとサバゲーももっと過激なんでしょ?」
杏川が「SNSで見たんだけど」と言う。
鳳くんがスマホで海外のサバゲー施設のサイトを開いた。
「向こうはカラー弾じゃなくて、実弾やナイフも使えるみたいです。ゾンビも、グリズリーやワニの死骸を元にした、大型個体を放つエリアがあるとか」
画面を覗くと、ゾンビの檻の前で、ライフルを手にしたミリタリー服のおじさん二人が、笑顔でポーズを決めていた。
「それは……さすがに日本じゃ、反対団体じゃなくても問題視されるわね」
紅子さんが、やや引き気味に言う。
けれど、誰も「それはダメだ」と否定はしなかった。
結局のところ、ゾンビはゾンビだと割り切っている面子だ。
好きにすればいい、という感覚がどこかにあるのだ。
もし、雨宮さんがまだゾンビ対応係にいたら——きっと、信じられないと爆発していただろう。
「日本じゃ、その辺歩いてるゾンビにBB弾撃っても怒られるからな」
「それは、BB弾の方が危ないからですよ」
番さんと鳳くんのやりとりに、思わず笑ってしまう。
——今後は、この二人にゾン権の相手をしてもらおう。
そう思って横目で見ると、どうやら課長も同じことを考えていたらしい。
「次の担当は決まりだね」
にこやかに、そう言った。
*
その日の夕方、デスクに戻って問い合わせメールを開くと、案の定というべきか、雨宮さんからの抗議文が届いていた。
鳳くんの対応が高圧的だったことへの指摘に始まり、サバイバルゲームの非人道性についての持論。
今日も超大作だ。スクロールバーがやたら長く感じる。
ただ、いつもなら必ず触れてくる乾燥シェルターの件が、今回はどこにも見当たらない。
鳳くんの言葉が、多少なりとも引っかかっている証拠だ。
「……ああ、これこれ」
横から覗き込んできた紅子さんが、画面を見て、ため息まじりに笑った。
「雨宮さんらしいわ」
呆れたようにそう言うと、飴をふたつ、わたしにくれた。
──あとはよろしく、という餞別だ。
わたしは保存してある『貴重なご意見ありがとうございます』の定型文を開く。
いつもなら、そのまま送信して終わりだ。
けれど今日は、ほんの少しだけ指を止めて、
『解決策を心待ちにしております』
そう一文を付け足してから、送信ボタンを押した。
2026.05.04




