第一話 ゾンビ予報
テレビでは、この土砂降りの雨を「催花雨」と紹介していた。
花を咲かせ、春を告げる雨なんだとか。
けれど、朝から通勤電車に揺られているわたしにとっては、ただの雨だ。
隣に立つ人の傘の先が、ふくらはぎに当たって冷たい。
湿気を吸った衣類と、生乾きの匂いが車内にこもり、不快指数は上がる一方。
イヤホンから流れる流行りのポップスだけがやたら軽やかで、自分で選んだはずなのに、ひどく鼻についた。
『まもなく、月並。月並。お出口は、左側です』
電車が重たげに揺れ、ドアが開く。
雪崩のように押し出される人の流れに身を任せ、わたしもホームへ降りた。
家を出た時より、雨は小降りになっていた。
けれど、ビル風にあおられた細い雨が、横から容赦なく吹きつけてきて、相変わらず鬱陶しい。
──それより何より、いちばん煩わしいのは、これだ。
深夜に発生した緑桃雲のせいで、ゾンビが発生している。
今も改札の外を、二、三体のゾンビがずるずると足を引きずりながら通り過ぎた。
前歯が発達しているのと、肌に灰色の毛があるのを見るに、おそらく溝鼠の死骸から成ったタイプだ。
害獣系はゾンビウイルス以外にも病原菌を持っている可能性が高い。噛まれるのは御免だ。
駅員が一人、その旨を拡声器で注意していた。ご苦労様です。
さて、わたしもさっさと労働に向かわなければ。
傘を開く音に反応して、ゾンビが一体こちらを向いた。
「見てんじゃねぇよ」
悪態をつき、わたしは雨の中へ歩き出した。
*
「おはようございます。えー、ご存知の通り、本日はすでにゾンビが発生しております。しかも、悪天候により自然消滅は期待できません。乾燥シェルターへの誘導業務を優先してください」
月並市役所生活環境課 環境衛生美化係──通称、ゾンビ対応係。
朝は、日辻 洋 課長の朝礼から始まる。
三十六歳、二児の父。
課長の服には、時々どこかしらにシールが貼られている。娘たちのいたずらだ。
今日はシャツの襟元に、ハートのキラキラシールが輝いていた。本人は、まったく気づいていない。
わたしは、同期の内勤事務である杏川唯加と、こっそり目配せをする。
お互い、笑いをこらえるように唇を巻き込んだ。
「今日は一日、止みそうにないですね。とりあえず、商店街と通学路を優先でお願いします」
課長がモニターの天気予報に目を向けると、それにつられるように、全員の視線もそちらへ集まる。
一日中、天気予報を流しっぱなしのモニターには、朝から晩まで傘のマークが並んでいた。
「では、そういうことで。今日も一日、ご安全に」
いつもの締めの言葉を合図に、職員たちはばらばらと持ち場へ散っていく。
わたしは、新人教育を任された新卒の鳳 梨仁くんに声をかけた。
「今日は誘導車を使うから、車の鍵、借りてきて」
「はい!」
元気よく返事をした鳳くんは、車両管理を担当するベテラン事務員──桜田紅子さんのデスクへ、のしのしと歩いていった。
その姿は、他課の女子職員たちから「クマみたいでかわいい」と密かに評判らしい。
わたしはロッカーから作業着を取り出して羽織り、パンプスを防水スニーカーに履き替えた。
「番さん、午前は西商店街から行きます」
「はいよ」
乾燥シェルターの管理主任である橘 番平さんに声をかけ、腕に誘導係の腕章をつける。
「誘導、行ってきます」
ホワイトボードに『はっか、おーとり 誘導 昼戻り』と書き込み、駐車場へ向かった。
*
【街をきれいに 月並市役所】と車体に書かれた山葵色のバンに乗り込み、運転席へ腰を下ろす。
助手席では鳳くんが、まだぎこちない手つきで後部座席の備品を確認していた。
「誘導棒よし。ドライヤーよし。ジャバラよし」
研修通り、ひとつひとつ指差し確認をする様子が、いかにも新人らしくて、少しだけ微笑ましい気持ちになる。
「はい、全部オッケーだね? じゃ、行くよ」
キーを回すと、軽い振動が足元から立ち上がった。
駐車場を出て、街道へ合流する。
速度が安定したところで、ダッシュボード脇のスイッチに手を伸ばした。
外付けスピーカーの電源を入れると、ほどなくして童謡『お猿のかごや』が流れ始めた。
ゾンビは視力が弱く、音のする方向へ引き寄せられる習性がある。
だが、なぜこの選曲なのかは分からない。
試行錯誤の末、ゾンビの反応が最も良かったのがこれだったらしい──と、課長が言っていた。
童謡は一定の間隔で途切れ、機械的なアナウンスが差し込まれる。
『こちらは、月並市役所 ゾンビ誘導車です。
ごみは密閉型コンテナ、または屋内のごみ置き場に出してください。
ゾンビ化抑制のため、ご協力をお願いいたします』
それが二度繰り返され、再び童謡に戻った。
ワイパーが一定のリズムで雨粒を払う合間に、ふと歩道へ目をやると、電柱の陰から一体、音に引かれるようにゾンビが顔を出していた。
濡れた髪が肌に張り付き、据わらない頭をぐらぐらと揺らしている。
「……ほんとに効果ありますね、この歌」
隣で鳳くんが、感心したように呟いた。
三十年前、気象現象のひとつに【ゾンビ】が加わった。
ゾンビは、空を覆う緑桃色の雲から降る雨によって発生する。
この雨は湿度や空気の性質を変質させ、一定時間さらされた特定の有機物をゾンビ化させる。
ただし、生きている人間や動物、無機物に影響はない。
対象となるのは、"死んだ肉"だ。
たとえば、弁当の唐揚げや焼き魚といった食べ残しや、放置された動物性の肉。あるいは、ネズミや野良猫などの死骸。
それらが人型のゾンビへと変化し、街を歩き回る。
見た目はグロテスクだし腐敗臭もするが、慣れてしまえば、それほど危険なものではない。
脳も身体も腐っているせいで、思考能力はなく、動きも鈍い。
速さで言えば、幼稚園児でも十分に逃げ切れるレベルだ。
しかも、乾燥にめっぽう弱い。
晴れた日なら、放っておいても二、三時間で消える。風が強ければ、さらに早い。
体表が乾いてひび割れ、やがて粉状になって消滅する。
だが、雨や梅雨のような湿度の高い日には、そうもいかない。
そのため、街の各所には【乾燥シェルター】が設置されている。
見た目は無骨な物置のような設備で、中にゾンビを収容し、温風を当てて強制的に乾燥させる仕組みだ。
そして、わたしたちゾンビ対応係の主な仕事は、その乾燥シェルターの運用と、ゾンビの誘導である。
月並西商店街は、安くてうまい飲食店が軒を連ね、食べ歩き客で賑わう場所だ。
だがその分、食べこぼしやポイ捨ても多く、害獣を引き寄せてしまう。
その結果、裏路地やゴミ置き場で発生したゾンビが、気づけば数を増やし、のろのろとアーケードへ流れ込んできてしまう。
その影響で、今日は客足もまばらだ。
それでも、買い物袋を提げたまま足早に通り過ぎる人や、店先で様子を窺う店員の姿は、疎らとはいえ見受けられる。
雨脚はさらに強まり、アーケードの屋根を打つ音が一段と大きくなった。
カフェや喫茶店の窓際席には、雨宿りがてらの客が並び、ぼんやりと外を眺めていた。
鳳くんを下ろし、わたしは徐行でバンを走らせた。
ハザードを点けたまま、商店街の中央をゆっくりと進んでいく。
この通りの反対側に乾燥シェルターがあるので、音で引き寄せて、まとめてあちらへ誘導する算段だ。
案の定、ゾンビたちの大半は、ふらふらとこちらへ向かってくる。
だが、いつも数体は言うことを聞かない。
「鳳くん、あっち」
右手のカフェの前で、ガラス窓にベッタリと張り付いているゾンビが一体。
濡れた手のひらが、ぎゅう、と音を立てそうなほど密着していて、内側の様子を覗き込もうと顔も半分ほど押しつぶされている。
窓際の席では、スーツ姿の中年男性がコーヒーを飲んでいた。
ゾンビを見て露骨に顔をしかめると、新聞を読むフリで視界を遮っていた。
「うわ、窓がベタベタだ。これは掃除が大変そうですね」
要らぬ心配をしながら、鳳くんが誘導棒をゾンビの腕に差し入れる。
ぬちゃっと湿った音がして、腕が窓から剥がれた。
「すみません、失礼します」
ゾンビ相手にひと声かけると、今度は体の向きを変えようと棒を当てる。
ゾンビはゔーゔーと唸りながら、未練がましく、もう一度だけ窓へ手を伸ばした。
「あ、だめですだめです」
鳳くんはその手を、ためらいなく棒で軽く叩いて引き戻す。
新人ながら容赦がなくて、大変よろしい。
そのまま群れの方へぐいぐいと押し込むと、ゾンビは腕をだらりと下げ、ずるずるとバンについて来た。
趣味の悪いパレードみたいに、ゾンビの行列を引き連れて通りを進んでいくと、
「ちょっと、兄ちゃん。路地のも頼むよ」
八百屋のおじさんが、ゾンビ避けに掛けられた透明のビニール暖簾の向こうから、鳳くんに声をかけてきた。
どうやら、細い路地に何体か溜まっているらしい。
「かしこまりました。順次、対応いたします」
鳳くんは礼儀正しく一礼し、列から遅れかけている個体へ誘導棒を差し出す。
軽く小突くと、ゾンビの体がわずかによろけた。
「あ、すみません」
反射的に謝りつつも、すぐに気を取り直し、今度は少し控えめに押し直す。
まだぎこちなさはあるが、飲み込みは悪くない。
何より、ゾンビ相手に物怖じしないのがいい。
わたしも新人の頃はそうだったが、生まれた時から見慣れていても、いざ至近距離で向き合うと、その醜悪さに気後れしてしまうものだ。
ましてや、棒で突くなど、接触するとなればなおさら勇気がいる。
押されたゾンビは、鳳くんに歯を剥いて威嚇したが、彼はそれも平然と受け流していた。
だが、その一体をきっかけに、周囲のゾンビまでが鳳くんへと牙を向け始める。
わたしは、スピーカーの音量を上げた。
大音量の『お猿のかごや』に意識を引かれ、ゾンビたちはまんまと再び列を成し、バンの後ろをついてくる。
エッサ、エッサ、エッサホイ、サッサ。
通りを抜け、バンを所定の位置に寄せて停めた。
エンジンを落とすと、童謡も止む。
代わりにゾンビたちのざわめきが一気に押し寄せてきた。
湿った足音と、間の抜けた低い呻き声。
わたしは乾燥シェルターの操作盤に手を伸ばし、密閉扉のロックを解除する。
重たい音を立てて扉がゆっくりと開くと、内部の無機質な空間が、ぽっかりと口を開けた。
「はい、どんどん入れてこ」
鳳くんに短く声をかけ、シェルター内のスピーカーの電源を入れる。
ここでも『お猿のかごや』が、朗らかに流れ出した。
その音に引かれるように、ゾンビたちは疑うこともなくシェルターの中へ歩いていく。
立ち止まる個体には、誘導棒で肩口を軽く押し、動きを促す。
鳳くんも反対側で間合いを取り、横へ逸れそうな個体を棒で突いて進路へ戻していた。
「鳳くん、もう一押し」
「了解です」
入口付近が詰まり始める。だが、ここで止めるわけにはいかない。
二人でタイミングを合わせ、満員電車の駅員よろしく、最後尾の群れを扉でぐっと押し込む。
ぐぐ、と押し返される抵抗はほんの一瞬。
やがて均衡が崩れ、ゾンビたちは雪崩れるように中へ収まった。
何体かの指先が、扉の隙間から外へ出たがるように飛び出してくる。
──ちょっと、イソギンチャクみたい。
わたしは誘導棒で、それらをひとつずつ押し戻した。
「鳳くん、操作やってみて。メモは見て大丈夫だよ」
「はい!」
鳳くんは胸ポケットから小さなメモ帳を取り出し、該当のページまでぱらぱらとめくった。
乾燥シェルターに取り付けられたモニターには、中でひしめき合うゾンビたちの姿が映っている。
その中にゾンビ以外が紛れていないか、鳳くんは画面の端から端まで、慎重に視線を走らせた。
「……異物混入なし、確認しました」
「うん、オッケー。そのまま次」
わたしが促すと、鳳くんは操作パネルに手を伸ばし、温風のスイッチをオンに切り替える。
ヴン、と低い駆動音が響き、ほぼ同時に密閉扉の自動ロックが作動した。
シェルター内部では、風がゆっくりと立ち上がり始めていた。
最初はそよ風程度だったものが、やがて衣擦れのような音を伴い、ゾンビたちの体を撫でていく。
鳳くんはモニターから目を離さないまま、横に設置されたタイマーへと視線を移した。
「完了予定、三十分後です」
「じゃあ、それも入力しておいて」
「はい!」
課の共有アプリを立ち上げ、手元の端末に数値を打ち込む。
入力欄には、日時、処理番号、収容数、そして完了予定時刻が並んでいる。
鳳くんは一つひとつ確認しながら入力し、最後に送信ボタンを押した。
「入力完了しました」
「うん、ありがとう。問題ないね」
ゾンビの数が少ない現場では、誘導から乾燥までワンオペになることもある。
いずれは鳳くんにも任せるつもりだが、この様子なら、その日も遠くはないだろう。
「とりあえず、さっき苦情あった裏手のゾンビを誘導──」
言いかけたところで、作業着のポケットの中でピッチが細かく震えた。
取り出して画面を確認する。発信元は日辻課長だ。
「はい、薄荷です」
『お疲れ様。ごめんね、忙しいのに。いまって四号機だよね? 恢さんが取り急ぎ、粉塵回収したいらしいんだけど対応できる?』
恢さんは、農業肥料を扱う民間企業の社員だ。
シェルターで乾燥処理されたあとのゾンビは、やがて細かな粉塵となる。
それを回収し、肥料として再利用しているのが、この会社である。
元々この粉塵は廃棄されていたが、近年、非常に栄養価が高いことが判明し、農家や家庭菜園向けの肥料として注目を集めるようになった。
役所としても、これまで処分費を支払っていたものを引き取ってもらえる上、対価まで得られる。
向こうも行政価格で安価に仕入れられるので、互いにウィンウィンの関係だ。
とはいえ、ここ一ヶ月ほどは緑桃雲の発生が少なかったから、仕入れが滞っているのだろう。
「はい、大丈夫です。三十分後に処理完了予定なので、その後でしたら引き渡し可能です」
わたしは課長に了承の返事をし、通話を切った。
「鳳くん、ジャバラ出してくれる?」
「はい!」
鳳くんに後部座席から細長い袋を運び出してもらう。
可搬型留置フェンス──ゾンビを一時的に閉じ込めておくための簡易的な囲いだ。
地面に置いて引くだけで蛇腹状に広がるため、わたしたちは通称“ジャバラ”と呼んでいる。
「とりあえず、ここに路地のゾンビを誘導していこう」
あそこの路地なら、それほど数はいないはずだ。
わたしはカッパを羽織り、誘導棒を手に取った。
乾燥完了のアラームが、ピーッと高い音で鳴った。
内部モニターで、残留ゾンビがいないことを確認する。
「開けてもらっていい?」
「はい!」
鳳くんが操作パネルに手を伸ばし、密閉扉を解錠する。
重い音とともに扉がわずかに開き、むわりとした熱気が流れ出てきた。
シェルターにこもった温風の余熱が抜けるのを待ってから、わたしはバンへ戻り、火かき棒と使い捨ての防塵マスクを取り出した。
鳳くんと並んで、床に残った粉塵をかき集めていく。
さらさらと乾いた音を立てて寄せられるそれは、無臭で、もはや元の形を想像させるものではない。
緑と桃色の粉が混ざり合い、まだらな色を作っている。
子どもの頃に買った、練って遊ぶ駄菓子に似ていると、いつも思う。
「どうも、お疲れ様でーす」
開いたままのシェルターの扉から、ひょいと顔が覗いた。恢さんだ。
派手な金髪に、先端まできっちり作り込まれた長いネイル。
上下グレーの地味な作業着のはずなのに、彼女が着るとなぜか様になって見えるから不思議だ。
「お、今日は豊作っすね」
床に広がる粉塵を一瞥して、嬉しそうに中へ入ってくる。
鳳くんは初対面なので、わずかに緊張した面持ちで名刺を差し出した。
「あ、どうもどうも」
恢さんはそれを両手で受け取り、すぐに自分の名刺も差し出す。
【株式会社リジェネ・アース 生産管理部 恢 澄】
「よろしくでーす。あたし、回収作業でよく来るんで」
名刺交換を終えるや否や、恢さんはそのまま作業に加わった。
ネイルを傷つけないよう、器用に火かき棒を扱いながら、粉塵を手際よく一箇所へ寄せていく。
恢さんはとにかく話し上手で、作業中も手は止めず、口も止まらない。
鳳くんにも話題を振ってくれるおかげで、現場の空気が一気に賑やかになった。
わたしはそういうのが得意じゃないから、正直かなり助かっている。
「あとは吸引するんで、適当で大丈夫でーす」
恢さんの言葉に、手を止める。
ある程度のところで切り上げて、シェルターを一旦出た。
マスクを外し、雨の日特有の湿った空気を吸い込む。
恢さんは、自分の軽トラの荷台に積んだ回収機のスイッチを入れ、金属製の太いホースを持ち上げた。
先端のノズルを床に向けると、粉塵の山が、キュオオオ……という負圧音とともに吸い込まれていく。
回収された粉は、そのまま荷台の密閉タンクへ送られる仕組みらしい。
【粉塵回収機 リーパー】
この機械ができる前は、業務用の掃除機で地道に回収してはトン袋に詰めていたので、開発者には感謝しかない。
「この後は、橘さんとこですか?」
わたしが尋ねると、恢さんはノズルを収納しながら「そうなんすよ」と頷いた。
「今日は一日巡回するんで、乾燥終わったらまた連絡もらえると助かりまーす」
軽トラのドアを軽快に閉めると、エンジン音を響かせて、そのまま颯爽と次の現場へ向かっていった。
静かになったシェルターには、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、しとしと降る雨の音だけが残る。
「……じゃ、こっちもやろうか」
わたしは粉まみれの手袋を外し、ジャバラの簡易囲いへ目を向ける。
中では、誘導されて一時的に留められていたゾンビたちが、相変わらず落ち着きなく揺れていた。
屋根のない路地にいたせいで、ゾンビたちはしとどに濡れている。
乾燥には、少し時間がかかりそうだ。
「はい!」
鳳くんがうなずき、誘導棒を構えた。
二人でタイミングを合わせ、ジャバラの開口部を広げる。
シェルター内部から流れる『お猿のかごや』を目がけて、ゾンビたちは抵抗もなく中へ入っていった。
「異物混入なし、確認」
モニターに目を走らせ、そのまま操作パネルへ指を滑らせる。密閉扉の自動ロックがかかり、内部の送風機が低く唸りを上げ始めた。
鳳くんが手元の端末に完了時刻を入力する。
「完了予定、えーと……四十分後、と」
「オッケー。じゃあ、一回役所に戻ろうか」
わたしも腕時計に目を落とす。
針は十二時を少し回ったところを指していた。ちょうどいいタイミングだ。
「お昼、どうします?」
「社食」
あっさり答えると、鳳くんは「今日の日替わり、チーズインハンバーグですよ!」と笑った。
*
役所に戻ると、日辻課長が自席で愛妻弁当を広げていた。
二段の弁当箱にはごま塩ごはんと、きれいに巻かれた卵焼きや煮物が詰められていて、いつもながらおいしそうだ。
課長は時折、箸を止めてはパソコンに向かい、何かを打ち込んでいる。
残業を減らすために昼休憩を削るというのは、効率的なのかどうなのか。
「あ、おかえり」
口の中のものを飲み込んでから、課長が顔だけこちらに向ける。
「ただいま戻りました」
軽く頭を下げてから、わたしは鳳くんのほうを振り返った。
「悪いけど、ホワイトボードの予定、消しておいてくれる?」
「はい、了解です」
鳳くんは、運動部みたいな大きい水筒で水分補給をしながら、課内のボードへ向かう。
わたしは財布と歯ブラシの入ったミニトートを手に、そのまま食堂へ足を向けた。
ちょうど昼時とあって、食堂は賑わっている。
トレイの触れ合う音や誰かの笑い声が、廊下にも漏れ聞こえていた。
カウンターで日替わり定食を頼むと、湯気の立つ味噌汁の香りがふわりと鼻をくすぐる。途端に、ぐぅとお腹が空いてきた。
トレイを手に空いている席を探していると、窓際のカウンターに見慣れた後ろ姿を見つけた。
杏川だ。
隣の席にトレイを置いて腰を下ろすと、彼女は箸を止めてこちらを見る。
「おつかれ」
「あ、おかえり。今日は多かったでしょ?」
「まあね。魚介類の残飯系が、ちょっと増えてた感じ」
そう答えてから、味噌汁を一口すする。
じんわりとした熱が、体の内側に静かに落ちていった。
「あぁ、それね。浅川鮮魚店がイカの串焼きとか、食べ歩き用の販売を始めたのよ。その食べこぼしが原因だと思う」
杏川は去年まで観光課にいた名残で、街の最新情報に詳しい。
「西商店街の残飯系に、新顔登場ってわけ」
そう言って、ポリポリと音を立てて沢庵をかじる杏川に、わたしは無言で頷いた。
ゾンビにもいくつか種類があって、それぞれに特徴がある。
わたしが今朝見た溝鼠のゾンビは害獣系。
体表に毛が残り、歯が異様に発達している個体が多い。
しかも、その動物由来の病原菌をそのまま持っていることがあるから、噛まれた場合の危険度は一番高い。
一方で、食べこぼしやポイ捨てされた食品から発生するのが残飯系。
元になった食材の特徴が、中途半端に残っている。
例えば唐揚げなら、表皮が衣のようにざらついて、じわじわと油が滲んでくる個体もある。
今日、商店街に多かったのは魚介由来の残飯系だ。
体表には鱗や吸盤の名残が浮き出ていて、乾ききる前の個体は、ぬめりを引くこともある。
わたしは味噌汁をもう一口すすりながら、今朝の光景を思い返す。
手足がやたら長い個体がいたが、あれがイカの串焼きだろう。
「放置したらゾンビになるって分かってんのに、何で片付けないかなぁ」
「まぁ、慣れからくる怠慢だよね。仮にゾンビになっても乾燥すればいいでしょ、みたいな」
「その乾燥業務はこっちが負担してるんですけどね」
「それね。わざわざ電話してきて“ゾンビ出てますけど”って、その前にゴミ捨てのルール守れよって感じ」
箸でミニトマトを転がしながら、ぐちぐちとぼやく。
赤いそれはつるりと逃げて、仕方なくフォークに持ち替えた。
「しかもさ、“急いでるんで”とか言うよね。いや、こっちも急いでるけど?」
「いちいち個別対応もしてらんないしね。こっちにも段取りってもんがあるんだし」
言いながら、フォークでチーズインハンバーグを切る。とろりと溶けたチーズが糸を引いて、湯気と一緒に肉の匂いが立ちのぼった。ささくれたった心に染みる。
「勤務時間外は対応不可って断ったら、税金泥棒とか言ってきたりさ」
「そんなに言うなら民間のシェルターに頼めば良いのに」
杏川との会話は大体この、市民のマナーを問う愚痴になる。
しかし、これはゾンビ対応係に限ったことではない。
周りのテーブルからも、断片的に同じ単語が聞こえてくる。
どこも似たようなクレームを受けて、似たような疲れ方をしているのだ。
窓の外は、まだ細かい雨が降り続いている。
ガラス越しの街は輪郭を失って、信号の色だけがぼんやりと滲んでいた。
午後の空気もしっかりと湿気を含んでいる。
視線を戻し、わたしはチーズインハンバーグを一口頬張った。
社食はあまり好きじゃないと言う人もいるが、わたしは普通においしいと思う。
「午後も出る?」と杏川が聞く。
「当たり前じゃん。今日はフル稼働だよ」
「だよね。ま、定時まではせっせと働いてやりますか」
杏川は開いていたスマホのゲーム画面を閉じ、最後の一口をかき込んだ。
食べ終えるとすぐに「お先に」と、トレイを手に席を立つ。
ふと食堂内を見やると、鳳くんが他課のおばちゃんたちに囲まれて、にこにことお菓子をもらっていた。
けれど実のところ、鳳くんは甘いものが苦手だ。あれはこのあと、杏川と紅子さんの胃に収まることになる。
……まあ、そんなことはどうでもいいけど。
わたしは午後のことをぼんやり考えながら、黙々と箸を進めた。
*
午後イチは、再び鳳くんを伴って、大型スーパー周辺を手早く巡回した。
昼の買い出し客がひと段落した時間帯で、駐車場に停められた車の数もまばらだ。
スーパーやモールの多くは、民間の乾燥シェルター会社と個別に契約している。ここもそのひとつだ。
開店前にまとめて処理されるのが常で、この時間帯までゾンビが残っていることはほとんどない。
いるとすれば、隙間を縫って入り込んだ個体か、あるいは相当数が一気に発生した場合くらいだ。
「やっぱり大型店舗は対応が早いですね」
助手席の鳳くんが、少し気の抜けた声で言う。
「まぁね。客足に直結するわけだし」
そう返しながら、わたしはアクセルを踏み込んだ。
続けて、通学路のエリアを巡回する。
この辺りは住宅街で数こそ多くないが、家の敷地内に入り込まれたり、細い道で詰まって渋滞を起こされたりすると厄介だ。
それに、できれば小学生の下校時間前に誘導を終えておきたい。
危険だからというのも勿論あるが、一番の理由はそれじゃない。
小学生は、誘導列のゾンビに平気でちょっかいをかけてくるからだ。
大声で童謡を歌って気を逸らしたり、後ろから傘でつついたり、「誘導棒貸して!」とせがんできたり。
学校の先生たちも見回りをして注意はしてくれるものの、本人たちはあくまで“お手伝い”のつもりの子が多くて、これがまた厄介だ。
正直、ゾンビより小学生をさばくほうがよほど手間がかかる。
だから、鳳くんには申し訳ないが、ここはわたし主導で進めさせてもらう。
周辺住民に配慮して、スピーカーはあまり大音量では鳴らせない。
そのため、わたし自身を囮にして誘導していく。
ゾンビたちは、とにかく人間を噛んで感染を広げたいという生殖本能と、新鮮な肉を求める食欲──その二つの欲求に脳を支配されている。
なので、目の前で“生きた肉”がうろつけば、意識は単純にこちらへ向く。
「鳳くん、先にシェルター開けといて」
「はい、お気を付けて!」
バンに乗り込む背中を見送ってから、わたしはわざと誘導棒で音を立て、ゾンビたちの視界に入る位置へ出た。
連中はすぐにこちらへ顔を向ける。
濁った眼球がぎょろりと動き、歯を剥き、だらりと腕を伸ばす。
ずる、ずる、と足裏を引きずって、わたしを追ってくる。
雨の日の利点は、カラスやスズメといった鳥が少ないことだ。
余計な横やりが入らない分、ゾンビたちの意識がぶれにくい。
わたしは雨に打たれながら、腰のホルダーから簡易捕捉網ユニットを引き抜いた。
トリガーを引くと、圧縮ガスの音とともに、筒先から網が弾ける。
展開した細い繊維がゾンビの上半身に絡みつき、縁に仕込まれた重りが足元へ落ちて、動きを鈍らせる。
グリップ下の巻き取りレバーを引くと、接続されたリードが軋みながら収縮し、ゾンビをこちらへ引き寄せた。
続けて二体、三体と捕縛し、計五体のゾンビを、多頭飼いの犬の散歩よろしくリードで引きながらシェルターへ向かう。
ゾンビの数が少ない時は、この方法で誘導する。
「はいはい、いいから、早く歩いて」
ゾンビに言葉は通じないけど、ついぼやいてしまう。
ゾンビは身体が腐敗している分、何せ歩くのが遅い。
そのくせ、わたしへの威嚇はやめない。
「だから、そういうの要らないから」
転ばせない程度に、ぐいっと強めにリードを引く。
……まあ、これがゲームや映画に出てくる“走れるタイプ”だったら、こんな悠長なことは言っていられないだろう。そう思えば、こっちのほうがマシなんだけど。
先にスタンバイしてくれていた鳳くんと合流し、手早くゾンビを乾燥シェルターへ誘導する。
鳳くんが操作に入るのを横目で確認しながら、わたしは端末を立ち上げ、共有アプリを開いた。
昼休憩前に乾燥をかけていた四号機には、橘さんの名前が表示されている。
進捗は「乾燥完了・清掃中」。備考欄には「リジェネ回収」の文字。
どうやら恢さんが、また粉塵の回収に入っているらしい。
作業が終わり次第、次はこちらに回ってくるだろう。
「ちょっと待機しようか」
鳳くんに声をかけると、「ですね」と素直に頷いた。
そう時間はかからないだろう。
次の現場へ向かって戻るより、この近くで時間を潰した方が効率的だ。
わたしたちはバンに乗り込み、通りの角にあるコンビニへ車を寄せた。
「カフェラテと、ブラックをアイスで」
鳳くんの分もまとめて会計し、カップを受け取る。
コーヒーマシンが稼働する間だけひと息ついて、再びバンへ戻った。
作業着のままコーヒーを飲んでいると、ご親切な市民が役所に一報してくることがある。
そのため、コンビニでゆっくりするわけにもいかないのだ。
乾燥シェルターの近くまで戻り、エンジンを切る。
途端に、屋根を叩く雨音がはっきりと浮かび上がった。
規則的なようでいて、ときどき大粒がひときわ強く音を立てる。
ぼんやりとそれを聞きながら、目を閉じる。
ゾンビ誘導で火照っていた頭が、ゆっくりと冷めていくのを感じた。
「外回りの特権ですねぇ」
ブラックコーヒー片手に、鳳くんがのんびりと言う。
「そうねぇ。でも、これは待機っていう立派な仕事の一環だから」
わたしはスマホを取り出し、習慣のように天気予報アプリを開いた。
降水確率、気温、風速──そして、ゾンビ発生確率。
今週末、ゾンビ発生確率80パーセントの表記を見つけて、げんなりする。
場合によっては休日出勤もあり得る。
できれば、この予報は外れてほしいところだ。
「緑桃雲の発生って、どうやって予測してるんですかね?」
「さぁ? 気象予報士にでも聞かないと分かんないね」
文系脳にそんな話を振られても、正直困る。
仕組みはよく分からないが、頭のいい人たちが予測してくれる。
わたしは、その結果をアプリやテレビで見ているだけだ。
けれど──「なぜ発生するのか」という根本的な部分については、専門家の間でも、未だにはっきりしていない。
最初に観測されたのは、カリブ海の小さな島国だった。
空に、あり得ない色の雲が現れて──その雨によって、最初のゾンビが確認された。
当時は、ひどい騒ぎだったらしい。
ニュースは一日中その話題で持ちきり、専門家と称する人たちが好き勝手に終末論を語った。
人類滅亡だの、パンデミックだの、果ては神罰だの。
緊急事態宣言、外出禁止、ロックダウン。
スーパーの棚からは食料が消え、街からは人の気配が消えた。
それまでゾンビはフィクションの中の存在でしかなかったのだから、当然だ。
見た目は最悪だし、噛まれれば面倒なことにもなる。
でも、動きは鈍いし、乾燥にめっぽう弱い。
対策さえ分かれば、どうにでもなる相手だった。
それに気づいてからの人類は、驚くほどの適応力を発揮した。
各国で対応マニュアルが整備され、専用の設備が開発され、保険や補償制度まで整えられていった。
気がつけば、“ゾンビ対応”なんて項目が役所の業務一覧にしれっと並んでいる。
雨が降れば傘を差すように、ゾンビが出たら何をすべきか──今では当たり前の常識だ。
「……慣れって、大事よね」
ぽつりとこぼすと、鳳くんは「ですねぇ」と気のない相槌を打った。
*
“待機”のあと、恢さんの回収を手伝い、他の現場をいくつか巡回してから、役所に戻った。
今日のゾンビ数は平均か、やや少ないくらい。
交通の妨げや、噛まれる被害も報告されていない。
緑桃雲の発生は久しぶりだったのに、平和に終われたのはラッキーだ。
鳳くんと今日の振り返りをして、簡単な書類を片付けているうちに、気が付けばもう定時になっていた。
定時間際に鳴りがちな問い合わせの電話も、今日はない。
余計な仕事を頼まれる前に、さっさと帰ってしまおう。
役所を出ると、雨はすっかり止んでいた。
濡れたアスファルトが街灯をぼんやりと映し、空気は少しだけひんやりしている。
少し先で、一体のはぐれゾンビが、道行く人に噛み付こうとしては、あっさりと避けられていた。
誰も悲鳴を上げるでもなく、足を止める者もいない。
明日になれば、朝日に乾かされて消えるだろう。
「おつかれ~。ね、駅前のカフェで何か食べて帰ろ。お腹減っちゃってさ」
後ろから肩を叩かれて振り返ると、杏川だった。
先に帰ったものだと思っていたが、どうやら化粧直しをしていたらしい。
「うん、ケーキがいい。甘いもの食べたい」
そう答えると、杏川は「でしょ?」と嬉しそうに笑った。
わたしたちは濡れた路面を避けながら、並んで駅の明かりへと歩き出した。
2026.05.04




