35.最後の夜
決戦前夜。
リゼは自室でそわそわと落ち着かなかった。昼の間に明日の準備は済ませていたが、いよいよだと思うとじっとしていられない。自分が失敗すれば、作戦に大きな支障をきたす。重責を背負っている自覚があった。
『大丈夫だよ、リゼ。僕がついているんだから、負けるはずがない』
ヴェンヌの言葉に、フェンリルが大きく頷く。
『そうだぜ。城の守りは俺とウンディーネに任せな! 余裕で守り切ってやる。だから安心しろ』
「うん、そうだね」
精霊王たちの心強い言葉に、リゼはようやく深い呼吸ができた。リゼは何度か深呼吸を繰り返し、早鐘を打つ心臓を落ち着かせる。
その時、フェンリルの耳がピクリと動いた。ヴェンヌも扉の方に顔を向ける。
「どうしたの?」
『人が来た。足音からして、たぶん皇帝だ』
「え!?」
『お邪魔だろうから、僕たちは退室するね』
彼らはそう言うと、一瞬にして姿を消してしまった。
ルーファウスが訪ねてくるなど一か月以上ぶりだ。リゼはどんな顔をして会えばよいかわからず、あたふたとその場で右往左往した。
身なりはおかしくないか、髪は乱れていないか、慌てて確認する。せっかく落ち着いた心臓が、またうるさく鳴っている。
そうこうしているうちに、自室の扉を叩く音がした。
「リゼ」
続いて聞こえた、低く響く声。その声で名を呼ばれるのも随分と久しぶりだ。なんとも言えない気持ちになり、頬が勝手に赤く染まる。
リゼは急いで扉に向かい、小さく開けて顔をのぞかせた。見上げると、満月のように輝く金色の瞳と目が合う。彼はどことなく気まずそうな表情をしていた。
「どうされたのですか、こんな夜更けに」
「……最後に、会っておきたかった」
リゼの心臓が違う意味で跳ねた。一気に冷静になり、顔から熱が引いていく。
最後に、というのは、明日の戦いで互いに何かあればもう二度と会えないから、ということだろうか。
ルーファウスは一度、ブロイド公爵から命に関わるような一撃を食らっている。いくらルーファウスが強いと言えど、戦いで命を落とす可能性だって十分にあり得るのだ。
そう思うと急に怖くなり、リゼは小さく身震いをした。
「入っても?」
ルーファウスの伺うような声にハッとしたリゼは、「どうぞ」と言って部屋に招き入れる。彼はいつものように寝台の縁に腰かけ、リゼもいつものように彼の隣に座る。自分がどのようにふるまっていたのか思い出せないリゼは、少しばかり気まずさを感じた。
ルーファウスからの言葉をしばらく待ったが、彼は何も言い出さない。長い沈黙が、気まずさを助長させる。風が窓を揺らす音だけが、二人の間に響いていた。
リゼは沈黙に耐え兼ね、おずおずと尋ねる。
「あの……私、何かしてしまったのですよね。私が攫われたあの日の夜から、ぱたりとお通りがなくなったので、きっとそうなのだろうと思っておりました」
ルーファウスを見上げると、彼は苦しそうに眉根を寄せていた。やはり嫌われてしまったのだと思ったが、彼の表情からはどこか焦りと後悔も感じ取れる。その理由がリゼにはわからなかった。
「不快な思いにさせてしまい、大変申し訳――」
「違う、そうではない!」
リゼが頭を下げようとしたその時、突然ルーファウスに両肩を掴まれた。驚いてビクリと肩を跳ね上げると、彼は慌てて手を離した。
「ルーファウス様……?」
「すまない。そうではないんだ。会いに来れなかったのは、公務が立て込んでいたからだ。リゼのせいでは、決してない」
ではなぜ、作戦会議の時に目を合わせようとしなかったのか。そう尋ねたかったが、答えを聞く勇気は出なかった。
またしばらくの沈黙があったあと、ルーファウスが唐突に尋ねる。
「リゼは、これからの人生で、何かしたいことはあるか?」
「したいこと、でございますか?」
「ああ。聞かせてくれ。聞きたいんだ」
思ってもみない問いに、リゼは目を丸くする。しかし、ルーファウスの瞳は真剣で、話題に困った末の場つなぎの質問とは思えない。
「そうですね……」
いざ考えてみると、意外と思いつかないものだ。ウィンター王国にいたころは、早く自由になりたいとばかり思っていた。しかし、何不自由ない人並み以上の生活に身を置く今、これ以上望むものなどなかった。
(私が、やりたいこと……)
リゼは考えに考えた末、あることを思いついた。
「海が見てみたいです。これまで一度も見たことがなくて」
「海……か」
セレスティア帝国の南側は大海に面していて、そこには大きな港町がある。明日の戦いが無事終わったら、いつか行けるだろうかと、リゼはほのかに期待に胸を躍らせた。
「わかった。その願い、必ず叶えよう」
「本当ですか? ありがとうございます」
リゼは思わず顔を綻ばせた。海を見られることよりも、彼が自分の願いを叶えようとしてくれることが、とても嬉しかった。彼に嫌われたわけではないのだと、そう思えたから。
「リゼ、最後に、君に触れても?」
そう問うルーファウスの表情は硬い。どこか緊張しているような、何かを恐れているような、そんな表情。
またしても「最後」という言葉が出てきて、リゼは内心疑問に思ったが、あえて尋ねることはしなかった。尋ねてしまえば、彼がこの場から去ってしまうような気がしてならなかった。
リゼはまるでルーファウスを引き留めるかのように、彼の手に自分の手を重ねた。
「はい」
リゼはルーファウスを見つめる。
闇夜のような黒髪に、月のような金色の瞳。切れ長の目に、スッと通った鼻筋。美しく整った、何度も見たその顔に、なぜか玉座に座る彼を思い出す。
(……初めて会ったあの日からずっと、私はこの人に、惹かれ続けていたんだわ)
ストンと腑に落ちた途端、これからもずっと、この人のそばにいたいと思ってしまった。彼に求められまいとしていたのに、いつの間にか自分が彼を求めていた。
自らの想いを自覚したリゼは、息ができないほど、胸が苦しくなる。
(私は、欲張りになってしまったわ)
目を閉じると、彼と唇が重なる。
リゼはルーファウスに気取られないよう、ごく自然に自分の腹に触れ、避妊魔法を解いた。
そしてそのまま、彼に身をゆだねた。
――翌朝、リゼが目覚めた時には、隣にルーファウスの姿はなかった。彼の眠っていたであろう場所を触れると、シーツはすでに温もりを失い、ただひんやりとした冷たさがリゼを覆った。




