18
「やっちゃったなぁ……」
そう呟くエリサは、どろどろと蠢く黒い沼のようなところに一人で立っていた。
意識が途切れる瞬間、こちらに走ってくるクロードの姿があった。だが私が今ここに居るということは、彼は間に合っていない。
「バッドエンドフラグ避けようと思ってたのに、まさかこんなところで踏み抜いちゃうとは思わないよね。イザベラは残ってないと駄目だったかぁ……」
あの時主人公に声を掛けたのが私でなくイザベラだったら、きっと物語の強制力が発動して主人公は杖を落とし、何事もなく物語が進行したのだろう。
けれど、私はイザベラではない。たゆひつの悪役令嬢ではない、ただのモブなのだ。
「クロードが甦りの妙薬に気付けばワンチャンある……?」
独り言を呟いているうちに、いつの間にかエリサはエリサでなくなっていた。
前世の姿――遠見礁湖として呟いたエリサは、自分の姿が元に戻っていることに違和感を覚えない。
「ただクロードの前で説明してないからなぁ。一応お父様には何作ったか教えたけど、形も色も何も伝えてなかったし……やらかしたわ」
ともかく、反省会くらいしかすることがない。もう私には何も出来ないからだ。
ここは冥界。しかし、以前使ったような死者の門のような正式な出入口ではない。
死後の魂が行きつく先である冥界だが、時にはそこから這い上がろうとする者が現れる。俗に怨霊であったり悪霊であったりと呼ばれるそれは、生前の強い想いにより、死後の世界から生者の世界へと移動してしまうことがある。
ここは、その中間地点――生と死のはざまだ。
しかし中間といっても、それは死者にとっての中間であり、生者にとって死後の世界であることに変わりはない。
床に広がるどろどろの何か。それは怨霊に成り損なった魂たち。
いくつかのバッドエンドで主人公はここに辿り着き、ここで永遠を過ごすことになる。時間の感覚すらないはざまの世界で、死なずに漂い続け、そしていつか意識を失い魂として消化される――
その時に流れる文章は、「くらい、くらい、くらい――」だったか。礁湖はそんなことを思い出し、大きな溜息を吐いた。
「受け止めたのがジュリオ様だったら、どうなったんだろ」
たゆひつにそんなシーンはなかったので、想像でしかない。しかし主人公によって起動されたあの杖は、恐らく魔力を持つ誰が持っても暴走した。
その中で一番マシなのが主人公で、溢れる魔力を抑えることが出来る。しかし、陰属性魔法に適正があるお父様だったらどうなっただろう。
「エリサよりはマシだったかもしれないけど、それでもたぶん死んだのよね……」
陰の魔力に耐性のあるジュリオ・ヴァレンティならば、意識は保っていられたかもしれない。けれどまぁ、平静でいられたはずがない。主人公ですら魔力を押さえるので精一杯だったのだ。主人公以下の能力に設定されているジュリオ・ヴァレンティが耐えられたはずがない。
「なら、エリサの行動はたぶん正しかった。正解だった、はずなのよ」
エリサ・ヴァレンティの魔力はたいへん低い。それは主人公でなく、更に魔力の魔の字もないような娼婦から生まれたというのもあるが、父ジュリオ・ヴァレンティの魔力も低いというのはあるだろう。
魔力というのは掛け合わせて強くなる。故に主人公の家のような武闘派貴族は魔力の高い者同士を掛け合わせて子供を作っているが、魔法を用いず成り上がったヴァレンティ公爵家は違う。魔力が高くない者と、魔力を持たない娼婦の子――それがエリサだ。
「エリサの魔力量なら、死の扉が発動しても一人分あるかないか……」
主人公があの魔法を使ってしまえば、状況は違った。博物館全体を巻き込むほど広範囲に発動し、クラスメイトも無関係の人々も、大勢が死んでここに送られたはず。
――たゆひつのバッドエンドでは、そうだった。
しかし、エリサは違う。魔力は平凡、陰の魔法に適正すらない。それでも杖は無理矢理魔法を使ったが、最高の形とは全く反対の結果になったはずだ。
「……こっから、どうなるんだろうなぁ」
一度死を経験した礁湖は、あっさりとした気持ちで立っていた。
きっと、エリサの心はもう死んだのだ。ここには、傍観者であった礁湖しか居ない。
「誰かを救って生きなさい、か。――救って死んだら、駄目でしょ」
前世で育ててくれた祖母から、死ぬ前に必ず誰かを救いなさいと言われていた。
その通りに礁湖は生き、そして、死んだ。
――エリサは、どうだろう。
「ジュリオ様と、クロードと、セブ様と、リベリオと――」
少なくとも、攻略対象を4人救うことが出来た。主人公も合わせると、5人か。
「まぁ、上出来だったんじゃない? ――自業自得なわけだしね」
最初から壁の花に徹していれば、最初から物語に一切関わろうとしなければ、結果は違っただろう。イザベラが代わりに主人公を止めてくれたはずだ。
その結果にならなかったのは私のエゴで、エリサは巻き込まれただけ。
主人公が魅入られた王家の杖は、正しい意味で怨霊に魅入られている。強い負の感情を受けた杖が、怨霊にとって居心地のいい場所となってしまうからだろう。
歴代最高クラスの適正によって封印を解く主人公が居なければ、それはただの骨董品でいられた。だけど、主人公が博物館で出会ったことで、話は変わる。
封印処理を上回る適性によって杖はあっさり寝返り、怨霊の通り道になってしまう。冥界と現世のはざま――ここに住まう霊たちが、形を得て通れるほどに。
その結果主人公は怨霊に意識を乗っ取られ、死の扉を開けてしまう。それがあの場面から派生するバッドエンドの流れだった。
今回はエリサが死の扉を開けたことで、さほど被害は拡大しなかった――はずだ。
*
「……長いなぁ」
いつまで経っても、その時は来ない。
時間の感覚が消滅した世界で、一体どれほど待っていたのだろう。
分からない。10分かもしれないし、1時間かもしれない。ひょっとしたらもう1年経ってるかもしれない。
どろどろとした闇に浮かぶ礁湖は、自分が自分でなくなる時を待っていた。
ずっと、ずっと待っていた。
*
「エリサ!!」
その時に聞いた声を、私は一生忘れないだろう。
*
「エリサ! ……エリサ、見えるか!? 聞こえるか!?」
私を抱き上げるお父様が、必死に声を掛けてくる。
あぁ、聞こえてます。聞こえていますよお父様。私、エリサ・ヴァレンティはここにおります。
ぱくぱくと口が動くが、声が出ない。声の出し方を忘れてしまったかのようだ。
「あ……」
ようやく、微かに声が漏れた。
すると、口の中に違和感を覚えた。何か、どろりとしたものが流し込まれたような――
「ぁ痛……」
「どこが痛むんだ!?」
「喉が……」
「…………喉か」
お父様は小さく呟くと、顔を赤くして視線を逸らした。あれ、どういうことでしょう?
あら、そこに転がってるのは砕けた杖と甦りの妙薬の小瓶。流石クロード、私が薬を持ってたことに気付いたんですね。
でも、おかしいな。なんというか、私の口から微かに香るのは――
「…………飲ませました?」
お父様は、コクリと頷いた。
あっ、そうか。水薬のようなものだと思われたのか。振りかけるだけで効果があるものだけど、それを知ってるのは使ったことのある者だけ。当然、お父様もクロードも知っているはずがない。
霊体――魂が好むとされる香りの輝香水と、魂に最も近い形をしている命結晶によって生み出される甦りの妙薬という薬は、原料から想像出来る通り飲み薬などではない。
喉の違和感はそれだったか。でもまぁ、死ぬよりはマシですね。
「ありがとうございます。お陰で助かりました。私の他に犠牲者は――」
「いない。エリサだけだ」
「そうでしたか。それは良かったです」
まだ喉は痛むが、死ぬほどではない。重めの風邪くらいだ。
心配そうな顔をしたお父様に手を借りて立ち上がると、くるりと反転し、とある女生徒の方を向く。
女生徒は心配半分、謝罪半分といった表情で、言葉にならない言葉を漏らす。
「ご、ごめんなさい、何が起きたか分からなくて、でも、あの――」
「お黙りなさい」
「べ、弁償します! お薬も、杖も!」
「お黙りなさい! 子爵家ごときに払えるはずがないでしょう!? 今は亡き帝国とはいえ、国家の至宝なのですよ!?」
喉の痛みを堪え、限界ギリギリの声量で叫ぶ。ここで『私が弁償します』という選択肢を選ぶのが、裏ルートへの突入条件の一つだ。
――そう、頭を下げる女生徒の名は、ジーナ・バルト。たゆひつの主人公だ。
イザベラの台詞を告げ、心の中で溜息を吐いた。もうこの流れは変えようがないのだ。今の私に出来ることは、この物語を進行させることだけ。
主人公がやらかした時の準備は、確かにしていた。甦りの妙薬もそうだし、他にいくつも準備している魔導具もそうだ。だけどそれはこんなところで使うためではなかった。私が今物語を進行させている理由は、単純な話。お父様のためだ。
もしも校外学習の場で何か起きてしまえば、それは当然引率の責任となる。お父様だ。お父様の責任になってしまう。
私がお父様を外に連れ出したから対応が遅れた。私がイザベラを排除してしまったから、誰かが代役を務めるしかなくなった。
悪役令嬢イザベラ・グランドーリの代わりに動けるのは、この世界でエリサ・ヴァレンティただ一人。
表ルートを選択しなかった主人公は校外学習4度を通し、裏ルートに突入する。
そこには死霊と怨念渦巻く混沌の世界が待っている。そうなれば、ここに居る皆は、お父様は、どうなるか。
させない。私が、お父様を守るのだ。
イザベラの、主人公への執着を消してしまった私には、彼女の代役を務めるという役割が発生してしまう。それもきっと、これから先、ずっと。
(関わらないつもりだったのにぃ……)
声にならない私の悲鳴を、聞く者は居ない。




