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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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第六話 しまなみの青い橋

 尾道を出る朝、空はよく晴れていた。


 昨日までの雨が、町の輪郭を洗い流したようだった。坂の石段は乾きはじめ、屋根瓦は光を弾き、尾道水道の向こうに見える向島の稜線が、いつもより近くに見えた。


 律の車は、潮待ち堂の下の道に停まっていた。


 古い白の軽ワゴン。後部座席にはカメラバッグと三脚、空のフィルムケース、折りたたみの脚立まで積まれている。写真館の車というより、小さな移動暗室みたいだった。


「本当に来るの?」


 紬が助手席の扉に手をかけたまま尋ねると、律は運転席でシートベルトを締めながら答えた。


「いまさら?」


「いや、迷惑かなと思って」


「迷惑なら、朝から車出さんよ」


「それはそうだけど」


「それに、しまなみは撮りたい場所が多い」


「ついで?」


「半分は」


 律は真顔で言った。


 紬は少しだけ笑い、助手席に乗り込んだ。


 鞄の中には、四通目と五通目の手紙が入っている。


 四通目。

 白石灯子様。

 生口島。


 五通目。

 森脇朔太郎様。

 大三島。


 どちらも、母が船で働いていた頃の知り合いらしい。


 白石灯子は、律の写真館に残っていた古い写真に写っていた女性だった。若い母の隣で、肩に手を置いて笑っていた。母より少し年上に見えた。日焼けした頬、短い髪、強そうな目。


 母が誰かと肩を寄せて笑っている写真を見たとき、紬は胸が痛んだ。


 母にも友人がいた。

 娘に見せない笑顔があった。

 誰かに肩を預けられた時代があった。


 それは当然のことなのに、紬には少し悔しかった。


 車は尾道の町を抜け、向島へ向かう道へ入った。


 海が右手に現れる。水面は朝の光を受けて、細かな銀色の欠片を散らしていた。フェリーがゆっくりと横切り、遠くで小さな汽笛が鳴る。


「橋で行く? フェリー?」


 律が尋ねた。


「え?」


「向島まで。橋でも行けるけど、澪さんならフェリーに乗った気がする」


 紬は窓の外の海を見た。


 母が船で働いていたことを知ってから、尾道水道のフェリーの音が少し違って聞こえるようになった。短い距離を行き来するだけの船。それでも、岸と岸のあいだには、確かに水がある。


「フェリーがいい」


「了解」


 律はハンドルを切った。


 車ごとフェリーに乗り込むと、甲板の上に潮風が吹き込んできた。エンジンの低い音が足元から伝わる。ほんの数分の船旅だが、紬は窓を開けた。


 潮の匂いがした。


 母も、この匂いの中で働いていたのだろうか。


 売店に立ち、揺れる船内で本を並べ、乗客の顔を見ていた。眠れない人、帰りたくない人、会いに行く人、別れてきた人。母はその人たちに、どんな本を選んだのだろう。


 律が、運転席から海を見ながら言った。


「澪さん、船が似合うな」


「知ってたみたいに言うね」


「写真を見たから」


「写真だけで?」


「写真屋は、写真を信じるんよ」


「私は、写真が怖い」


 律がこちらを見た。


「どうして?」


「写ってるものが、知らないことばかりだから」


 若い母。

 三原蒼。

 相良正義。

 白石灯子。


 紬の知らない人たちが、紬の知らない母の隣で笑っている。写真は嘘をつかないのかもしれない。けれど、写真に写っていないものは、もっと多い。


 その日、何を話したのか。

 そのあと誰が泣いたのか。

 笑顔の裏に何を隠していたのか。


 写真は教えてくれない。


 律は少し考えてから言った。


「写真は、答えじゃなくて入口じゃけえ」


「入口?」


「写っとるものを見て、写ってないものを考える。そういうものだと思う」


 紬は海を見た。


 フェリーはもう向島へ着こうとしていた。


 入口。


 母の手紙も、そうなのかもしれない。答えではなく、入口。開けたらすぐ真実にたどり着くわけではない。ただ、その先へ進むための小さな戸口。


 向島を抜け、因島大橋へ向かった。


 橋は青い空の下に、大きく弧を描いていた。車が橋へ入ると、海が一気に開けた。島と島の間を、風が走る。白い船が小さく見え、遠くの島影が何層にも重なっている。


 しまなみの海は、尾道水道よりも広かった。


 けれど、ただ広いのではない。島々が点のように浮かび、その点が橋で結ばれている。完全な陸でも、完全な海でもない。行けそうで、簡単には行けない。遠いようで、近い。


 紬は、母の人生もこんな形だったのかもしれないと思った。


 尾道、竹原、呉、島、今治、松山。


 それぞれの場所に母の記憶があり、手紙が橋のようにそれらをつないでいる。


 ただし、その橋を渡るのは母ではない。


 紬だ。


「怖い?」


 律が前を向いたまま尋ねた。


「何が?」


「知ること」


 紬はすぐには答えなかった。


 車の窓の外を、青い橋のワイヤーが規則的に流れていく。


「怖いよ」


 正直に言った。


「母が悪い人だったら、どうしようと思う」


「うん」


「でも最近、それより怖いことがある」


「何?」


「母が、ただ弱い人だったらどうしようって」


 律は黙って聞いていた。


「誰かを傷つけた悪人なら、怒れる。でも、誰かを守ろうとして黙って、自分を許せなくなって、それでも私を育てて、店を開いて、普通に笑っていた人だったら……どうしていいかわからない」


 言葉にすると、胸の奥が痛んだ。


 母を責めたい。

 でも、責めきれない。

 許したい。

 でも、何を許せばいいのかわからない。


 律は短く言った。


「弱い人を、弱いまま見てもいいんじゃない」


「母を?」


「うん。澪さんを、母親じゃなくて、ひとりの人として」


 紬は窓の外へ視線を逃がした。


 ひとりの人として。


 それが難しい。


 母は母でしかなかった。紬にとって、朝倉澪は最初から母だった。若い頃も、恋も、夢も、失敗も、逃げたい気持ちも、紬の前には存在しなかった。


 でも今、その全部が封筒の中から出てこようとしている。


 生口島へ着く頃には、昼前になっていた。


 白石灯子の家は、島の少し高台にあるレモン農家だった。道沿いにレモンの木が並び、黄色い実がところどころに見える。葉の緑と空の青が、眩しいほどだった。


 車を降りると、柑橘の匂いがした。


 潮の匂いとは違う。明るく、少し苦く、鼻の奥をすっと抜ける匂い。


 紬は鞄から四通目の手紙を取り出した。


 白石灯子様。


 律はカメラを手にしたが、すぐに構えることはしなかった。紬より半歩後ろに立っている。同行者ではなく、見守る人の距離だった。


 庭先で、麦わら帽子をかぶった女性が脚立に乗っていた。


 年齢は七十代前半だろうか。背筋が伸び、腕の動きがしっかりしている。短い白髪が帽子の下からのぞいていた。


「すみません」


 紬が声をかけると、女性は振り返った。


「はい?」


「白石灯子さんでしょうか」


「そうじゃけど」


 紬は一歩近づいた。


「朝倉澪の娘です」


 女性の手から、摘みかけのレモンが落ちた。


 土の上に、軽い音を立てて転がる。


「澪の……」


 灯子は脚立からゆっくり降りた。紬の顔をまじまじと見つめる。


「あんた、澪に似とるね」


 また言われた。


 けれど今回は、不思議と嫌ではなかった。


「母は、先日亡くなりました」


 灯子は帽子を取った。


 皺の刻まれた顔に、深い影が落ちた。


「そう……。あの子、逝ったんね」


 あの子。


 七十を過ぎた女性が、母を「あの子」と呼ぶ。その響きに、紬は胸の奥を突かれた。母は、この人の前では今も若いままなのだ。


「遺品の中から、灯子さん宛ての手紙が出てきました」


 封筒を差し出す。


 灯子は受け取る前に、両手をズボンで拭った。土とレモンの匂いがする手だった。


「澪の字じゃ」


 封筒を見ただけで、そう言った。


「読んでもええ?」


「もちろんです」


 灯子は庭先の木陰にあるベンチへ向かった。紬と律も促されて座る。灯子は封を切り、便箋を開いた。


 読み始めた灯子の顔に、最初は懐かしさが浮かんだ。次に、苦笑。やがて、目元が赤くなった。


「あの子、まだこんなこと気にしとったんね」


 灯子は便箋を膝の上に置いた。


「澪らしい。ほんまに、ばかみたいに澪らしい」


「何が書いてあったんですか」


 紬が尋ねると、灯子は便箋を見つめたまま言った。


「レモンを盗んだことを謝っとる」


「え?」


 思いがけない言葉に、紬は聞き返した。


 灯子は声を出して笑った。涙がにじんでいるのに、笑っていた。


「昔、この畑からレモンを三つ盗んだんよ。澪と、私と、蒼で」


「三原蒼さんと?」


 名前が出た瞬間、紬の体が強ばった。


 灯子はそれに気づいたように、紬を見た。


「蒼のことも、知りに来たんじゃね」


「はい」


「澪は、何も話さんかった?」


「何も」


「そうじゃろうね」


 灯子は苦笑した。


「あの子は、楽しかったことほど、しまい込む子じゃった」


「楽しかったことを?」


「つらいことだけじゃないんよ。人は、嬉しかったことも隠すんよ。失ったあとで思い出すと、余計に痛いけえ」


 紬は言葉を失った。


 嬉しかったことも隠す。


 母は、三原蒼との時間を忘れたくて話さなかったのではなく、忘れられないから話せなかったのかもしれない。


 灯子はレモンの木を見上げた。


「澪と蒼は、よくここへ来た。船が島に寄る日、少し時間があると、坂を上がってね。私の父がこの畑をやっとった頃で、私は家を継ぐのが嫌で船の客室係になりたかった。でも結局、家に残った」


「母とは、船で?」


「そう。私は常連客からの知り合い。正確には、船に乗るたび売店に寄って、澪に本を選んでもらっとった。それから仲良くなった」


「母は、どんな本を?」


「最初に渡されたのは、旅の本じゃった。『行きたいなら、まず読むだけでも行ける』って澪が言ってね」


 灯子は懐かしそうに笑った。


「あの子自身が、やっと尾道を出たばかりだったのに、人には遠くへ行けって言うんよ」


「母らしいです」


 紬は小さく言った。


「蒼さんとは、どんな人だったんですか」


 灯子の表情が少し変わった。


 やわらかさの奥に、警戒のようなものが混じる。


「蒼は、風みたいな男じゃった」


「風?」


「そこにおると気持ちええ。でも、捕まえようとすると手の中に残らん」


 紬は写真の中の三原蒼を思い出した。


 細い目。影のある笑顔。


「母とは、付き合っていたんですか」


「付き合うなんて軽い言い方では足りんね。二人は、将来を約束しとった」


 胸の奥が、どくんと鳴った。


「婚約、ですか」


「指輪も見たよ。安い銀の指輪じゃったけど、澪は大事そうにしとった。船を降りたら、今治で暮らすと言ってた」


 今治。


 相良の言葉と、隠し底から出てきたメモが重なる。


 ――今治で待つ。

 蒼


「どうして今治だったんですか」


「蒼の知り合いがいた。タオル工場で働き口を紹介してもらえるとか言ってたね。蒼は、船の仕事を長く続ける気はなかった。澪も、いつか本の店をやりたいと言っとった」


「母が、そんなことを」


「うん。小さな店。古本と珈琲。海が見える場所。あんたの店、その夢の形じゃろう?」


 紬は答えられなかった。


 潮待ち堂は、母が尾道に戻ってから仕方なく始めた店だと思っていた。父のいない娘を育てるための、生活の手段だと。


 でも、違ったのかもしれない。


 母は本当に、古本と珈琲の店をやりたかったのかもしれない。


 ただ、その隣にいるはずだった人が、三原蒼だっただけで。


 灯子は便箋を一枚めくった。


「ここ、あんたにも聞かせたほうがええね」


 そう言って、母の手紙を読み始めた。


「灯子さん。あの日、あなたが私にくれたレモンの苗は、結局うまく育ちませんでした。尾道の店の裏に植えたけれど、三年目の台風で折れてしまいました。それでも私は、あの苗を植えた日のことをよく覚えています。蒼が、いつか店の庭でレモンの花が咲いたら、そこが私たちの港になると言いました」


 紬は息を止めた。


 私たちの港。


 母には、そんな未来があった。


 灯子は読み続けた。


「私はその未来を信じていました。信じていたからこそ、あの夜のあと、何も選べなくなりました。蒼を責めることも、追うことも、待つことも、忘れることもできませんでした」


 灯子の声が少し震えた。


「あなたは私に、蒼は逃げたのではなく、逃げるしかなかったのだと言ってくれました。けれど私は、長い間その言葉を受け取れませんでした。逃げたのは蒼だけではありません。私もまた、蒼の痛みから逃げたのです」


 灯子はそこで便箋を下ろした。


 紬は何も言えなかった。


 蒼は逃げた。

 でも、逃げるしかなかった。


 母も逃げた。

 蒼の痛みから。


「蒼さんは、事故で怪我をしたんですよね」


「そう。腕と肩をひどくやった。しばらく船には戻れんかった」


「それだけですか」


 灯子は紬を見た。


「それだけ?」


「相良さんは、蒼さんが母を置いて逃げたと言っていました。でも母の手紙には、蒼さんの痛みから逃げたと書いてある。怪我だけじゃないんですよね」


 灯子は長く黙った。


 レモンの葉が風に揺れる。律は少し離れた場所で、カメラを下げたままこちらを見ていた。撮らない。その判断がありがたかった。


「蒼はね、事故の前から追い詰められていた」


 灯子はゆっくり話し始めた。


「家の借金があった。詳しくは知らん。でも、蒼はいつもどこかから逃げてきたような顔をしとった。澪だけが、それに気づいていた」


「母が」


「澪は、蒼を救いたかったんよ。自分も尾道から出てきたばかりじゃったから、逃げたい人の気持ちがわかったんじゃろうね」


「でも、救えなかった」


「人は、人を完全には救えんよ」


 灯子の声は静かだった。


「澪はそれを、あの夜に知った」


 紬は膝の上で手を握った。


「その事故で、蒼さんは何をしたんですか」


 灯子は便箋を畳んだ。


「それは、私から全部は言えん」


 まただ。


 紬の中に苛立ちが起きた。だが、以前ほど強くはなかった。


 なぜなら、灯子の顔にためらいだけでなく、悲しみがあるとわかったから。


「誰なら言えるんですか」


「森脇さん」


「五通目の宛先の?」


「そう。森脇朔太郎。船の食堂にいた人。あの夜、蒼のすぐそばにいた」


 紬は鞄の中の五通目を意識した。


 大三島。森脇朔太郎様。


「森脇さんは、今も大三島に?」


「たぶんね。食堂をやめてから、島で小さな店をしていたはず。まだ生きとれば、だけど」


 灯子は自嘲気味に笑った。


「みんな、年を取ったけえね。澪だけが、私の中では若いままじゃ」


 紬は写真の中の母を思った。


 若い母。笑う母。三原蒼の隣に立つ母。


「母は、幸せだったんでしょうか」


 問いは、自然に口から出た。


 灯子は少し驚いたように紬を見た。


「船にいた頃の母は」


「幸せだったよ」


 灯子は迷わず言った。


「全部が幸せではなかった。怖いことも、苦しいこともあった。蒼のことでもたくさん泣いた。でも、澪は船に乗って、自分の足で生き始めた。あれは幸せだったと思う」


 紬の胸に、熱いものが広がった。


 母には、幸せな時間があった。


 それは紬が生まれる前の時間だった。

 紬の知らない時間だった。

 でも、それがあったから、母は紬を産み、潮待ち堂を始めたのかもしれない。


 灯子は庭のレモンをひとつもぎ、紬に渡した。


「持って帰りんさい」


「いいんですか」


「昔、澪が盗んだ分のひとつじゃと思えばええ」


 そう言って笑った。


 紬も、少し笑った。


 手のひらのレモンは、思ったより重かった。


 灯子の家を出るとき、律が車のそばで空を撮っていた。


「撮ってたの?」


 紬が尋ねると、律はカメラを下ろした。


「空だけ」


「人は?」


「今日は撮らん」


「どうして」


「今の紬は、撮られたくなさそうだったから」


 紬は少し驚き、それから目を伏せた。


「ありがとう」


 車に乗り込むと、レモンの香りが車内に広がった。


 律はエンジンをかけた。


「次は大三島?」


「うん。森脇朔太郎さん」


「食堂の人か」


「事故の夜、蒼さんのそばにいたって」


 律は頷き、車を出した。


 生口島から大三島へ向かう橋は、さらに大きく見えた。青い海の上に、まっすぐ伸びる橋。車が上り坂に差しかかると、島と海が一望できる。


 紬は窓の外を見た。


 母と蒼も、この海を見たのだろうか。


 船の上から。

 港から。

 あるいは、未来の店の庭に咲くはずだったレモンの花を思いながら。


 五通目の封筒を、紬は膝の上に置いた。


 森脇朔太郎の店は、大三島の港近くにあった。


 看板には「もりわき食堂」とある。古びた木の扉、白い暖簾、軒先に干された魚。昼時を過ぎていたせいか、店内に客は少なかった。


 厨房の奥から出てきたのは、小柄な老人だった。背中は少し丸いが、目の光は強い。手には包丁を持っていた。


「すみません。森脇朔太郎さんですか」


「そうじゃが」


「朝倉澪の娘です」


 老人の包丁を持つ手が止まった。


 刃先に水滴が光る。


「澪の娘……」


 森脇はまじまじと紬を見た。


「そりゃあ、似とる。目元がそっくりじゃ」


 紬は封筒を差し出した。


「母から、手紙です。出されないまま残っていました」


 森脇は包丁を置き、両手を布巾で拭いた。封筒を受け取ると、何も言わずに奥の座敷へ案内した。


 店の奥は、港が見える小さな部屋だった。


 森脇は手紙を開け、黙って読み始めた。


 灯子とは違い、表情はほとんど変わらなかった。だが、最後の一枚を読む頃、肩が少し震えていた。


「澪は、まだ自分を責めとったんか」


 森脇は低く言った。


「母は、何を責めていたんですか」


 紬はもう、遠回しに尋ねる気になれなかった。


 森脇はしばらく黙ったあと、港を見た。


「あの夜、蒼は逃げたんじゃない」


 紬は息を止めた。


「逃げたんじゃ、ない?」


「あいつは、澪を逃がそうとしたんじゃ」


 森脇の声は、かすれていた。


「どういうことですか」


「嵐で船が揺れた。少年が甲板で転んだ。澪が走った。蒼も走った。そこまでは聞いとるじゃろ」


「はい」


「少年は助かった。だが、そのあと船内で揉めた。少年の母親が、船会社の責任にしようとした。甲板に出られる状態だったのが悪い、乗員が見ていなかったのが悪い、と」


「母は?」


「澪は、自分が少年を見かける前から、その子が甲板に出ようとしていたことを知っていた。止めようとしたが、売店に客が来て一瞬目を離した。そのことを言えば、自分の責任になると思った」


「でも、それだけなら」


「それだけじゃない」


 森脇は手紙を握りしめた。


「その少年を甲板へ誘ったのが、蒼だった」


 紬は声を失った。


「蒼さんが?」


「悪意じゃない。少年が泣いていて、海を見れば落ち着くと思ったんじゃろう。だが嵐が近づいとった。蒼は判断を間違えた」


 紬の胸の中で、点がつながり始めた。


 蒼が少年を甲板へ連れ出した。

 少年が転んだ。

 母が助けに走った。

 蒼も走った。

 船は揉めた。


「母は、それを黙ったんですか」


「そうじゃ」


 森脇は深く頷いた。


「澪が本当のことを言えば、蒼は責任を問われた。船には戻れんかったかもしれん。家の借金もあった。あいつはもう、ぎりぎりじゃった」


「だから母は黙った」


「蒼を守るために。だが、そのせいで澪自身が責められた。何も言わない女だと。現場にいたのに証言しないと」


「蒼さんは?」


 声が震えた。


「蒼さんは、母を守らなかったんですか」


 森脇は苦しそうに目を閉じた。


「蒼は、守れんかった。自分のことで精一杯じゃった。怪我もして、借金取りも追ってきていた。事故のあと、蒼は今治へ行った。澪に来いと手紙を出したはずじゃ」


 紬は隠し底から見つけたメモを思い出した。


 ――澪へ。

 今治で待つ。

 蒼


「母は、行かなかったんですね」


「途中までは行ったと聞いた」


「途中?」


「だが、戻った。蒼を追えば、蒼の弱さも、自分が黙った意味も、全部引き受けることになる。澪はまだ若かった。無理じゃったんよ」


 森脇は、手紙を静かに畳んだ。


「そのあと、澪が身ごもっていたと聞いた」


 紬の指先が冷たくなった。


「私を?」


「たぶんな」


「たぶん?」


「父親が誰かは、澪の口から聞いたことはない。だが、蒼は自分の子だと思っていた」


 紬は息がうまく吸えなかった。


 蒼は、自分を知っていたかもしれない。

 母を待っていたかもしれない。

 でも母は行かなかった。


「どうして母は、私に何も言わなかったんですか」


 答えのない問いだとわかっていた。


 それでも聞かずにいられなかった。


 森脇は、紬をまっすぐ見た。


「澪は、あんたを蒼の代わりにしたくなかったんじゃろう」


「代わり?」


「蒼を待つために生まれた子、蒼を許すために育てる子、蒼を思い出すための子。そういうものに、あんたをしたくなかったんじゃないか」


 紬の胸が、苦しく締めつけられた。


 母は、父を隠した。

 紬から父を奪った。


 そう思っていた。


 けれど、母は紬を父の影から離そうとしていたのかもしれない。


 それが正しかったかどうかは、まだわからない。

 でも、そこに母なりの願いがあったことだけは、少しだけ見えた。


 森脇は立ち上がり、厨房から小さな包みを持ってきた。


「澪が好きだった。鯛めしのおむすびじゃ。持っていきなさい」


「そんな、いただけません」


「手紙の礼じゃ」


 森脇は頑固な顔で言った。


「それと、今治へ行くなら真鍋郁子を訪ねるとええ。蒼が預けたものを持っとるはずじゃ」


「預けたもの?」


「指輪じゃ」


 紬は言葉を失った。


「澪に渡すはずだった指輪。蒼は、最後まで持っていられんかったんじゃろう」


 店を出ると、夕方の海が赤く染まり始めていた。


 律は車のそばで待っていた。紬の顔を見ると、何も聞かずに助手席の扉を開けた。


 車に乗ってから、紬はようやく息を吐いた。


「今治に行く」


 そう言うと、律は静かに頷いた。


「うん」


「蒼さんが、指輪を預けた人がいる」


「うん」


「たぶん、そこへ行けば、母が行かなかった未来がわかる」


 律はエンジンをかけた。


 車は港を離れ、今治へ向かう橋へ進んでいく。


 夕暮れのしまなみ海道は、青ではなく、淡い金色に染まっていた。海は静かで、島々の影が長く伸びている。


 紬は膝の上のレモンと、森脇からもらったおむすびの包みを見た。


 母が笑っていた場所。

 母が盗んだレモン。

 母が守ろうとした男。

 母が行かなかった今治。


 橋の上で、紬は思った。


 母の人生は、一本の道ではなかった。


 渡った橋もあれば、渡らなかった橋もある。


 そして今、紬は母が渡れなかった橋の続きを走っている。


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