第六話 しまなみの青い橋
尾道を出る朝、空はよく晴れていた。
昨日までの雨が、町の輪郭を洗い流したようだった。坂の石段は乾きはじめ、屋根瓦は光を弾き、尾道水道の向こうに見える向島の稜線が、いつもより近くに見えた。
律の車は、潮待ち堂の下の道に停まっていた。
古い白の軽ワゴン。後部座席にはカメラバッグと三脚、空のフィルムケース、折りたたみの脚立まで積まれている。写真館の車というより、小さな移動暗室みたいだった。
「本当に来るの?」
紬が助手席の扉に手をかけたまま尋ねると、律は運転席でシートベルトを締めながら答えた。
「いまさら?」
「いや、迷惑かなと思って」
「迷惑なら、朝から車出さんよ」
「それはそうだけど」
「それに、しまなみは撮りたい場所が多い」
「ついで?」
「半分は」
律は真顔で言った。
紬は少しだけ笑い、助手席に乗り込んだ。
鞄の中には、四通目と五通目の手紙が入っている。
四通目。
白石灯子様。
生口島。
五通目。
森脇朔太郎様。
大三島。
どちらも、母が船で働いていた頃の知り合いらしい。
白石灯子は、律の写真館に残っていた古い写真に写っていた女性だった。若い母の隣で、肩に手を置いて笑っていた。母より少し年上に見えた。日焼けした頬、短い髪、強そうな目。
母が誰かと肩を寄せて笑っている写真を見たとき、紬は胸が痛んだ。
母にも友人がいた。
娘に見せない笑顔があった。
誰かに肩を預けられた時代があった。
それは当然のことなのに、紬には少し悔しかった。
車は尾道の町を抜け、向島へ向かう道へ入った。
海が右手に現れる。水面は朝の光を受けて、細かな銀色の欠片を散らしていた。フェリーがゆっくりと横切り、遠くで小さな汽笛が鳴る。
「橋で行く? フェリー?」
律が尋ねた。
「え?」
「向島まで。橋でも行けるけど、澪さんならフェリーに乗った気がする」
紬は窓の外の海を見た。
母が船で働いていたことを知ってから、尾道水道のフェリーの音が少し違って聞こえるようになった。短い距離を行き来するだけの船。それでも、岸と岸のあいだには、確かに水がある。
「フェリーがいい」
「了解」
律はハンドルを切った。
車ごとフェリーに乗り込むと、甲板の上に潮風が吹き込んできた。エンジンの低い音が足元から伝わる。ほんの数分の船旅だが、紬は窓を開けた。
潮の匂いがした。
母も、この匂いの中で働いていたのだろうか。
売店に立ち、揺れる船内で本を並べ、乗客の顔を見ていた。眠れない人、帰りたくない人、会いに行く人、別れてきた人。母はその人たちに、どんな本を選んだのだろう。
律が、運転席から海を見ながら言った。
「澪さん、船が似合うな」
「知ってたみたいに言うね」
「写真を見たから」
「写真だけで?」
「写真屋は、写真を信じるんよ」
「私は、写真が怖い」
律がこちらを見た。
「どうして?」
「写ってるものが、知らないことばかりだから」
若い母。
三原蒼。
相良正義。
白石灯子。
紬の知らない人たちが、紬の知らない母の隣で笑っている。写真は嘘をつかないのかもしれない。けれど、写真に写っていないものは、もっと多い。
その日、何を話したのか。
そのあと誰が泣いたのか。
笑顔の裏に何を隠していたのか。
写真は教えてくれない。
律は少し考えてから言った。
「写真は、答えじゃなくて入口じゃけえ」
「入口?」
「写っとるものを見て、写ってないものを考える。そういうものだと思う」
紬は海を見た。
フェリーはもう向島へ着こうとしていた。
入口。
母の手紙も、そうなのかもしれない。答えではなく、入口。開けたらすぐ真実にたどり着くわけではない。ただ、その先へ進むための小さな戸口。
向島を抜け、因島大橋へ向かった。
橋は青い空の下に、大きく弧を描いていた。車が橋へ入ると、海が一気に開けた。島と島の間を、風が走る。白い船が小さく見え、遠くの島影が何層にも重なっている。
しまなみの海は、尾道水道よりも広かった。
けれど、ただ広いのではない。島々が点のように浮かび、その点が橋で結ばれている。完全な陸でも、完全な海でもない。行けそうで、簡単には行けない。遠いようで、近い。
紬は、母の人生もこんな形だったのかもしれないと思った。
尾道、竹原、呉、島、今治、松山。
それぞれの場所に母の記憶があり、手紙が橋のようにそれらをつないでいる。
ただし、その橋を渡るのは母ではない。
紬だ。
「怖い?」
律が前を向いたまま尋ねた。
「何が?」
「知ること」
紬はすぐには答えなかった。
車の窓の外を、青い橋のワイヤーが規則的に流れていく。
「怖いよ」
正直に言った。
「母が悪い人だったら、どうしようと思う」
「うん」
「でも最近、それより怖いことがある」
「何?」
「母が、ただ弱い人だったらどうしようって」
律は黙って聞いていた。
「誰かを傷つけた悪人なら、怒れる。でも、誰かを守ろうとして黙って、自分を許せなくなって、それでも私を育てて、店を開いて、普通に笑っていた人だったら……どうしていいかわからない」
言葉にすると、胸の奥が痛んだ。
母を責めたい。
でも、責めきれない。
許したい。
でも、何を許せばいいのかわからない。
律は短く言った。
「弱い人を、弱いまま見てもいいんじゃない」
「母を?」
「うん。澪さんを、母親じゃなくて、ひとりの人として」
紬は窓の外へ視線を逃がした。
ひとりの人として。
それが難しい。
母は母でしかなかった。紬にとって、朝倉澪は最初から母だった。若い頃も、恋も、夢も、失敗も、逃げたい気持ちも、紬の前には存在しなかった。
でも今、その全部が封筒の中から出てこようとしている。
生口島へ着く頃には、昼前になっていた。
白石灯子の家は、島の少し高台にあるレモン農家だった。道沿いにレモンの木が並び、黄色い実がところどころに見える。葉の緑と空の青が、眩しいほどだった。
車を降りると、柑橘の匂いがした。
潮の匂いとは違う。明るく、少し苦く、鼻の奥をすっと抜ける匂い。
紬は鞄から四通目の手紙を取り出した。
白石灯子様。
律はカメラを手にしたが、すぐに構えることはしなかった。紬より半歩後ろに立っている。同行者ではなく、見守る人の距離だった。
庭先で、麦わら帽子をかぶった女性が脚立に乗っていた。
年齢は七十代前半だろうか。背筋が伸び、腕の動きがしっかりしている。短い白髪が帽子の下からのぞいていた。
「すみません」
紬が声をかけると、女性は振り返った。
「はい?」
「白石灯子さんでしょうか」
「そうじゃけど」
紬は一歩近づいた。
「朝倉澪の娘です」
女性の手から、摘みかけのレモンが落ちた。
土の上に、軽い音を立てて転がる。
「澪の……」
灯子は脚立からゆっくり降りた。紬の顔をまじまじと見つめる。
「あんた、澪に似とるね」
また言われた。
けれど今回は、不思議と嫌ではなかった。
「母は、先日亡くなりました」
灯子は帽子を取った。
皺の刻まれた顔に、深い影が落ちた。
「そう……。あの子、逝ったんね」
あの子。
七十を過ぎた女性が、母を「あの子」と呼ぶ。その響きに、紬は胸の奥を突かれた。母は、この人の前では今も若いままなのだ。
「遺品の中から、灯子さん宛ての手紙が出てきました」
封筒を差し出す。
灯子は受け取る前に、両手をズボンで拭った。土とレモンの匂いがする手だった。
「澪の字じゃ」
封筒を見ただけで、そう言った。
「読んでもええ?」
「もちろんです」
灯子は庭先の木陰にあるベンチへ向かった。紬と律も促されて座る。灯子は封を切り、便箋を開いた。
読み始めた灯子の顔に、最初は懐かしさが浮かんだ。次に、苦笑。やがて、目元が赤くなった。
「あの子、まだこんなこと気にしとったんね」
灯子は便箋を膝の上に置いた。
「澪らしい。ほんまに、ばかみたいに澪らしい」
「何が書いてあったんですか」
紬が尋ねると、灯子は便箋を見つめたまま言った。
「レモンを盗んだことを謝っとる」
「え?」
思いがけない言葉に、紬は聞き返した。
灯子は声を出して笑った。涙がにじんでいるのに、笑っていた。
「昔、この畑からレモンを三つ盗んだんよ。澪と、私と、蒼で」
「三原蒼さんと?」
名前が出た瞬間、紬の体が強ばった。
灯子はそれに気づいたように、紬を見た。
「蒼のことも、知りに来たんじゃね」
「はい」
「澪は、何も話さんかった?」
「何も」
「そうじゃろうね」
灯子は苦笑した。
「あの子は、楽しかったことほど、しまい込む子じゃった」
「楽しかったことを?」
「つらいことだけじゃないんよ。人は、嬉しかったことも隠すんよ。失ったあとで思い出すと、余計に痛いけえ」
紬は言葉を失った。
嬉しかったことも隠す。
母は、三原蒼との時間を忘れたくて話さなかったのではなく、忘れられないから話せなかったのかもしれない。
灯子はレモンの木を見上げた。
「澪と蒼は、よくここへ来た。船が島に寄る日、少し時間があると、坂を上がってね。私の父がこの畑をやっとった頃で、私は家を継ぐのが嫌で船の客室係になりたかった。でも結局、家に残った」
「母とは、船で?」
「そう。私は常連客からの知り合い。正確には、船に乗るたび売店に寄って、澪に本を選んでもらっとった。それから仲良くなった」
「母は、どんな本を?」
「最初に渡されたのは、旅の本じゃった。『行きたいなら、まず読むだけでも行ける』って澪が言ってね」
灯子は懐かしそうに笑った。
「あの子自身が、やっと尾道を出たばかりだったのに、人には遠くへ行けって言うんよ」
「母らしいです」
紬は小さく言った。
「蒼さんとは、どんな人だったんですか」
灯子の表情が少し変わった。
やわらかさの奥に、警戒のようなものが混じる。
「蒼は、風みたいな男じゃった」
「風?」
「そこにおると気持ちええ。でも、捕まえようとすると手の中に残らん」
紬は写真の中の三原蒼を思い出した。
細い目。影のある笑顔。
「母とは、付き合っていたんですか」
「付き合うなんて軽い言い方では足りんね。二人は、将来を約束しとった」
胸の奥が、どくんと鳴った。
「婚約、ですか」
「指輪も見たよ。安い銀の指輪じゃったけど、澪は大事そうにしとった。船を降りたら、今治で暮らすと言ってた」
今治。
相良の言葉と、隠し底から出てきたメモが重なる。
――今治で待つ。
蒼
「どうして今治だったんですか」
「蒼の知り合いがいた。タオル工場で働き口を紹介してもらえるとか言ってたね。蒼は、船の仕事を長く続ける気はなかった。澪も、いつか本の店をやりたいと言っとった」
「母が、そんなことを」
「うん。小さな店。古本と珈琲。海が見える場所。あんたの店、その夢の形じゃろう?」
紬は答えられなかった。
潮待ち堂は、母が尾道に戻ってから仕方なく始めた店だと思っていた。父のいない娘を育てるための、生活の手段だと。
でも、違ったのかもしれない。
母は本当に、古本と珈琲の店をやりたかったのかもしれない。
ただ、その隣にいるはずだった人が、三原蒼だっただけで。
灯子は便箋を一枚めくった。
「ここ、あんたにも聞かせたほうがええね」
そう言って、母の手紙を読み始めた。
「灯子さん。あの日、あなたが私にくれたレモンの苗は、結局うまく育ちませんでした。尾道の店の裏に植えたけれど、三年目の台風で折れてしまいました。それでも私は、あの苗を植えた日のことをよく覚えています。蒼が、いつか店の庭でレモンの花が咲いたら、そこが私たちの港になると言いました」
紬は息を止めた。
私たちの港。
母には、そんな未来があった。
灯子は読み続けた。
「私はその未来を信じていました。信じていたからこそ、あの夜のあと、何も選べなくなりました。蒼を責めることも、追うことも、待つことも、忘れることもできませんでした」
灯子の声が少し震えた。
「あなたは私に、蒼は逃げたのではなく、逃げるしかなかったのだと言ってくれました。けれど私は、長い間その言葉を受け取れませんでした。逃げたのは蒼だけではありません。私もまた、蒼の痛みから逃げたのです」
灯子はそこで便箋を下ろした。
紬は何も言えなかった。
蒼は逃げた。
でも、逃げるしかなかった。
母も逃げた。
蒼の痛みから。
「蒼さんは、事故で怪我をしたんですよね」
「そう。腕と肩をひどくやった。しばらく船には戻れんかった」
「それだけですか」
灯子は紬を見た。
「それだけ?」
「相良さんは、蒼さんが母を置いて逃げたと言っていました。でも母の手紙には、蒼さんの痛みから逃げたと書いてある。怪我だけじゃないんですよね」
灯子は長く黙った。
レモンの葉が風に揺れる。律は少し離れた場所で、カメラを下げたままこちらを見ていた。撮らない。その判断がありがたかった。
「蒼はね、事故の前から追い詰められていた」
灯子はゆっくり話し始めた。
「家の借金があった。詳しくは知らん。でも、蒼はいつもどこかから逃げてきたような顔をしとった。澪だけが、それに気づいていた」
「母が」
「澪は、蒼を救いたかったんよ。自分も尾道から出てきたばかりじゃったから、逃げたい人の気持ちがわかったんじゃろうね」
「でも、救えなかった」
「人は、人を完全には救えんよ」
灯子の声は静かだった。
「澪はそれを、あの夜に知った」
紬は膝の上で手を握った。
「その事故で、蒼さんは何をしたんですか」
灯子は便箋を畳んだ。
「それは、私から全部は言えん」
まただ。
紬の中に苛立ちが起きた。だが、以前ほど強くはなかった。
なぜなら、灯子の顔にためらいだけでなく、悲しみがあるとわかったから。
「誰なら言えるんですか」
「森脇さん」
「五通目の宛先の?」
「そう。森脇朔太郎。船の食堂にいた人。あの夜、蒼のすぐそばにいた」
紬は鞄の中の五通目を意識した。
大三島。森脇朔太郎様。
「森脇さんは、今も大三島に?」
「たぶんね。食堂をやめてから、島で小さな店をしていたはず。まだ生きとれば、だけど」
灯子は自嘲気味に笑った。
「みんな、年を取ったけえね。澪だけが、私の中では若いままじゃ」
紬は写真の中の母を思った。
若い母。笑う母。三原蒼の隣に立つ母。
「母は、幸せだったんでしょうか」
問いは、自然に口から出た。
灯子は少し驚いたように紬を見た。
「船にいた頃の母は」
「幸せだったよ」
灯子は迷わず言った。
「全部が幸せではなかった。怖いことも、苦しいこともあった。蒼のことでもたくさん泣いた。でも、澪は船に乗って、自分の足で生き始めた。あれは幸せだったと思う」
紬の胸に、熱いものが広がった。
母には、幸せな時間があった。
それは紬が生まれる前の時間だった。
紬の知らない時間だった。
でも、それがあったから、母は紬を産み、潮待ち堂を始めたのかもしれない。
灯子は庭のレモンをひとつもぎ、紬に渡した。
「持って帰りんさい」
「いいんですか」
「昔、澪が盗んだ分のひとつじゃと思えばええ」
そう言って笑った。
紬も、少し笑った。
手のひらのレモンは、思ったより重かった。
灯子の家を出るとき、律が車のそばで空を撮っていた。
「撮ってたの?」
紬が尋ねると、律はカメラを下ろした。
「空だけ」
「人は?」
「今日は撮らん」
「どうして」
「今の紬は、撮られたくなさそうだったから」
紬は少し驚き、それから目を伏せた。
「ありがとう」
車に乗り込むと、レモンの香りが車内に広がった。
律はエンジンをかけた。
「次は大三島?」
「うん。森脇朔太郎さん」
「食堂の人か」
「事故の夜、蒼さんのそばにいたって」
律は頷き、車を出した。
生口島から大三島へ向かう橋は、さらに大きく見えた。青い海の上に、まっすぐ伸びる橋。車が上り坂に差しかかると、島と海が一望できる。
紬は窓の外を見た。
母と蒼も、この海を見たのだろうか。
船の上から。
港から。
あるいは、未来の店の庭に咲くはずだったレモンの花を思いながら。
五通目の封筒を、紬は膝の上に置いた。
森脇朔太郎の店は、大三島の港近くにあった。
看板には「もりわき食堂」とある。古びた木の扉、白い暖簾、軒先に干された魚。昼時を過ぎていたせいか、店内に客は少なかった。
厨房の奥から出てきたのは、小柄な老人だった。背中は少し丸いが、目の光は強い。手には包丁を持っていた。
「すみません。森脇朔太郎さんですか」
「そうじゃが」
「朝倉澪の娘です」
老人の包丁を持つ手が止まった。
刃先に水滴が光る。
「澪の娘……」
森脇はまじまじと紬を見た。
「そりゃあ、似とる。目元がそっくりじゃ」
紬は封筒を差し出した。
「母から、手紙です。出されないまま残っていました」
森脇は包丁を置き、両手を布巾で拭いた。封筒を受け取ると、何も言わずに奥の座敷へ案内した。
店の奥は、港が見える小さな部屋だった。
森脇は手紙を開け、黙って読み始めた。
灯子とは違い、表情はほとんど変わらなかった。だが、最後の一枚を読む頃、肩が少し震えていた。
「澪は、まだ自分を責めとったんか」
森脇は低く言った。
「母は、何を責めていたんですか」
紬はもう、遠回しに尋ねる気になれなかった。
森脇はしばらく黙ったあと、港を見た。
「あの夜、蒼は逃げたんじゃない」
紬は息を止めた。
「逃げたんじゃ、ない?」
「あいつは、澪を逃がそうとしたんじゃ」
森脇の声は、かすれていた。
「どういうことですか」
「嵐で船が揺れた。少年が甲板で転んだ。澪が走った。蒼も走った。そこまでは聞いとるじゃろ」
「はい」
「少年は助かった。だが、そのあと船内で揉めた。少年の母親が、船会社の責任にしようとした。甲板に出られる状態だったのが悪い、乗員が見ていなかったのが悪い、と」
「母は?」
「澪は、自分が少年を見かける前から、その子が甲板に出ようとしていたことを知っていた。止めようとしたが、売店に客が来て一瞬目を離した。そのことを言えば、自分の責任になると思った」
「でも、それだけなら」
「それだけじゃない」
森脇は手紙を握りしめた。
「その少年を甲板へ誘ったのが、蒼だった」
紬は声を失った。
「蒼さんが?」
「悪意じゃない。少年が泣いていて、海を見れば落ち着くと思ったんじゃろう。だが嵐が近づいとった。蒼は判断を間違えた」
紬の胸の中で、点がつながり始めた。
蒼が少年を甲板へ連れ出した。
少年が転んだ。
母が助けに走った。
蒼も走った。
船は揉めた。
「母は、それを黙ったんですか」
「そうじゃ」
森脇は深く頷いた。
「澪が本当のことを言えば、蒼は責任を問われた。船には戻れんかったかもしれん。家の借金もあった。あいつはもう、ぎりぎりじゃった」
「だから母は黙った」
「蒼を守るために。だが、そのせいで澪自身が責められた。何も言わない女だと。現場にいたのに証言しないと」
「蒼さんは?」
声が震えた。
「蒼さんは、母を守らなかったんですか」
森脇は苦しそうに目を閉じた。
「蒼は、守れんかった。自分のことで精一杯じゃった。怪我もして、借金取りも追ってきていた。事故のあと、蒼は今治へ行った。澪に来いと手紙を出したはずじゃ」
紬は隠し底から見つけたメモを思い出した。
――澪へ。
今治で待つ。
蒼
「母は、行かなかったんですね」
「途中までは行ったと聞いた」
「途中?」
「だが、戻った。蒼を追えば、蒼の弱さも、自分が黙った意味も、全部引き受けることになる。澪はまだ若かった。無理じゃったんよ」
森脇は、手紙を静かに畳んだ。
「そのあと、澪が身ごもっていたと聞いた」
紬の指先が冷たくなった。
「私を?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「父親が誰かは、澪の口から聞いたことはない。だが、蒼は自分の子だと思っていた」
紬は息がうまく吸えなかった。
蒼は、自分を知っていたかもしれない。
母を待っていたかもしれない。
でも母は行かなかった。
「どうして母は、私に何も言わなかったんですか」
答えのない問いだとわかっていた。
それでも聞かずにいられなかった。
森脇は、紬をまっすぐ見た。
「澪は、あんたを蒼の代わりにしたくなかったんじゃろう」
「代わり?」
「蒼を待つために生まれた子、蒼を許すために育てる子、蒼を思い出すための子。そういうものに、あんたをしたくなかったんじゃないか」
紬の胸が、苦しく締めつけられた。
母は、父を隠した。
紬から父を奪った。
そう思っていた。
けれど、母は紬を父の影から離そうとしていたのかもしれない。
それが正しかったかどうかは、まだわからない。
でも、そこに母なりの願いがあったことだけは、少しだけ見えた。
森脇は立ち上がり、厨房から小さな包みを持ってきた。
「澪が好きだった。鯛めしのおむすびじゃ。持っていきなさい」
「そんな、いただけません」
「手紙の礼じゃ」
森脇は頑固な顔で言った。
「それと、今治へ行くなら真鍋郁子を訪ねるとええ。蒼が預けたものを持っとるはずじゃ」
「預けたもの?」
「指輪じゃ」
紬は言葉を失った。
「澪に渡すはずだった指輪。蒼は、最後まで持っていられんかったんじゃろう」
店を出ると、夕方の海が赤く染まり始めていた。
律は車のそばで待っていた。紬の顔を見ると、何も聞かずに助手席の扉を開けた。
車に乗ってから、紬はようやく息を吐いた。
「今治に行く」
そう言うと、律は静かに頷いた。
「うん」
「蒼さんが、指輪を預けた人がいる」
「うん」
「たぶん、そこへ行けば、母が行かなかった未来がわかる」
律はエンジンをかけた。
車は港を離れ、今治へ向かう橋へ進んでいく。
夕暮れのしまなみ海道は、青ではなく、淡い金色に染まっていた。海は静かで、島々の影が長く伸びている。
紬は膝の上のレモンと、森脇からもらったおむすびの包みを見た。
母が笑っていた場所。
母が盗んだレモン。
母が守ろうとした男。
母が行かなかった今治。
橋の上で、紬は思った。
母の人生は、一本の道ではなかった。
渡った橋もあれば、渡らなかった橋もある。
そして今、紬は母が渡れなかった橋の続きを走っている。




