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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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第七話 今治、ほどけた婚約指輪

 今治へ入る頃、空は夕暮れの色を失いはじめていた。


 しまなみ海道の最後の橋を渡り終えると、海は少しずつ背後へ遠ざかっていった。かわりに、道路の両側に町の灯りが増えていく。工場、住宅、コンビニ、古い看板、信号待ちの車列。


 尾道とも、竹原とも、呉とも違う町だった。


 海の気配は残っている。けれど、そこには暮らしの匂いが濃く混じっていた。洗濯物の匂い、夕飯の匂い、工場の油の匂い。船の上ではなく、陸の上で明日も続いていく生活の匂い。


 紬は助手席で、膝の上の紙袋を見つめていた。


 白石灯子にもらったレモン。

 森脇朔太郎にもらった鯛めしのおむすび。

 そして、鞄の中には今治宛ての六通目の手紙。


 真鍋郁子様。


 森脇は言った。

 蒼が指輪を預けた人だ、と。


 母に渡すはずだった婚約指輪。

 母が受け取らなかった未来。

 あるいは、受け取りたかったのに受け取れなかった未来。


 紬は鞄の上から封筒に触れた。


「今日は泊まる?」


 律が運転しながら尋ねた。


「うん。もう遅いし」


「宿、取れるかな」


「さっき駅前のビジネスホテルを予約した」


「手際いいな」


「元編集者なので」


「関係ある?」


「締切前の宿と交通手段だけは、異様に早く押さえられる」


 律が少し笑った。


 その笑いにつられて、紬もほんの少しだけ口元を緩めた。


 笑えることが、不思議だった。


 白石灯子のレモン畑で、母と蒼が将来を約束していたことを知った。森脇食堂で、母が蒼を守るために沈黙したことを知った。自分の父が三原蒼かもしれないという可能性は、もう仮説ではなく、体の近くまで迫っている。


 それなのに、人はお腹が空く。

 宿を予約する。

 車内でどうでもいい会話をする。


 大きな秘密を知っても、世界は壊れない。

 壊れるのは、心の中にあった母の形だけだ。


 ホテルに荷物を置いたあと、二人は駅前の小さな食堂に入った。律は焼豚玉子飯を頼み、紬はうどんを頼んだ。湯気の向こうで、律が割り箸を割る。


「食べられそう?」


「たぶん」


「無理せんでええよ」


「大丈夫。森脇さんのおむすびも、あとで食べる」


「あれ、うまそうだった」


「律の分もあるよ」


「森脇さん、俺のこと見えてたんかな」


「車で待ってただけなのにね」


「島の人は、見とるよ」


 律はそう言って、水を飲んだ。


 紬はうどんを少しすすった。出汁の味がやさしい。胃がようやく温かいものを受け入れた気がした。


「律は」


 紬は箸を止めた。


「お父さんのこと、どう思ってる?」


「急に?」


「写真館、継いだんでしょ」


「うん」


「継ぎたかったの?」


 律は少し考えた。


「半分は、継ぎたかった。半分は、継がされたと思ってた」


「今は?」


「今は、どっちでもいいかな」


「どっちでもいい?」


「継ぎたかった自分もいるし、継がされたと思って不貞腐れてた自分もいる。どっちかだけを本当の気持ちにしなくてもいい気がしてる」


 紬は箸を持つ手を見つめた。


「母も、そうだったのかな」


「何が?」


「蒼さんのところへ行きたかった気持ちも、行かないと決めた気持ちも、どっちも本当だったのかな」


 律はうなずいた。


「たぶん」


「でも、行かなかったことで、私には父がいなかった」


 それを言うと、胸が小さく痛んだ。


 父がいないことを、普段はそれほど意識していなかった。もう慣れたつもりだった。けれど今、自分の知らないところに父だったかもしれない人の輪郭が現れると、慣れたはずの空白が急に深くなる。


 律はしばらく黙っていた。


 そして静かに言った。


「それは、怒っていいと思う」


 紬は顔を上げた。


「怒っていい?」


「うん。澪さんの事情を知ることと、紬が傷ついたことは別じゃろ」


 その言葉は、紬の中にゆっくり入ってきた。


 母にも事情があった。

 母は弱かった。

 母は紬を守ろうとしたのかもしれない。


 それでも、紬が父のことを知らずに育った痛みが消えるわけではない。


 どちらかだけを選ばなくていいのかもしれない。

 母を理解したい気持ちと、母に怒りたい気持ち。

 どちらも、自分のものとして持っていていいのかもしれない。


 その夜、ホテルの部屋で、紬はなかなか眠れなかった。


 机の上に、六通目の手紙を置く。


 真鍋郁子様。


 封筒の裏には、母の字で日付が二つ書かれている。ひとつは手紙を書いた日。もうひとつは、事故から三か月後の日付だった。


 隠し底から出てきた蒼のメモと同じ頃。


 ――澪へ。

 今治で待つ。

 蒼


 母は、今治へ来たのだろうか。


 森脇は、途中までは行ったと聞いた、と言った。


 途中とは、どこまでなのだろう。


 駅まで。

 橋の手前まで。

 真鍋郁子の家の前まで。

 あるいは、蒼のすぐ近くまで。


 紬はスマートフォンで真鍋郁子の住所を確認した。今治市内の古い住宅地。タオル工場が多い地域の近くだった。


 明日、会う。


 そう決めて、ようやく灯りを消した。


 けれど眠りに落ちる直前、母の若い笑顔が浮かんだ。


 写真の中で三原蒼の隣に立つ母。

 紬の知らない母。

 紬の知らない未来を、まだ信じていた母。


 翌朝、今治の空は薄曇りだった。


 ホテルの窓から見える町は、派手ではないが、どこかしっかりしていた。工場の煙突、低い家並み、遠くに見える山。昨日まで走ってきたしまなみの海は、もう直接は見えない。


 律はロビーで待っていた。


「眠れた?」


「少し」


「顔に少しって書いてある」


「律も、写真屋じゃなくて占い師になれるね」


「写真屋も顔を見る仕事じゃけえ」


 真鍋郁子の家へ向かう前に、律は車で少し遠回りをした。


 タオル工場が並ぶ一角を通る。白い建物、倉庫、看板。作業着姿の人が出入りしている。どこかで機械の規則正しい音がした。


「蒼さんは、ここで働くつもりだったんだね」


 紬が言うと、律は頷いた。


「船を降りて、陸の生活を始めるつもりだったのかもな」


「母と一緒に?」


「そうじゃろうね」


 その言葉を聞いて、紬は窓の外を見つめた。


 母は、ここで暮らす可能性があった。

 尾道ではなく。

 潮待ち堂ではなく。

 今治で、三原蒼と。


 もし母が今治へ来ていたら、紬はここで生まれていたかもしれない。朝倉ではなく三原という姓だったかもしれない。父のいる食卓で育ち、母の過去を疑うこともなかったかもしれない。


 けれど、その場合、潮待ち堂は存在しない。

 尾道の坂の店も、母が選んだ本も、紬を見送った駅も。


 人生は、選ばなかったものの上に立っている。


 そのことが、少し怖かった。


 真鍋郁子の家は、古い平屋だった。


 庭には洗濯物が干され、白いタオルが何枚も風に揺れている。玄関の脇に、小さな鉢植えが並んでいた。レモンではなく、紫陽花だった。


 紬は呼び鈴を押した。


 しばらくして、戸が開く。


 出てきたのは、小柄な老女だった。白髪を短く整え、薄い灰色のカーディガンを羽織っている。目が大きく、表情は穏やかだが、芯の強さを感じさせた。


「どちらさま?」


「突然すみません。真鍋郁子さんでしょうか」


「はい」


「朝倉澪の娘です」


 郁子の顔から、すっと表情が消えた。


 驚いたのではない。

 長い間しまっていた箱の蓋を、不意に開けられたような顔だった。


「澪さんの……」


「はい。母が亡くなりまして、遺品の中から真鍋さん宛ての手紙が出てきました」


 紬は封筒を差し出した。


 郁子はそれを見つめ、両手で受け取った。


「そう。澪さん、亡くなったの」


 声は静かだった。


「お上がりなさい」


 家の中は清潔だった。畳の部屋に、低い机。壁には古いカレンダーと、額に入った刺繍。窓際には、たたまれたタオルが山のように積まれている。


 郁子はお茶を出し、手紙を膝に置いた。


「読むのが怖いですね」


 そう言って、かすかに笑った。


「皆さん、そう言います」


 紬が言うと、郁子は頷いた。


「手紙は、時間を連れてきますから」


 郁子は封を切った。


 便箋を広げ、ゆっくり読み始める。


 そのあいだ、紬は部屋の隅に置かれた小さな木箱に目を留めた。蓋には布がかけられている。何の変哲もない箱なのに、なぜか気になった。


 郁子は最後まで読むと、長く息を吐いた。


「澪さんは、最後までまじめな人だったのね」


「母を知っているんですか」


「ええ。一度だけ、会いました」


「一度だけ?」


「そう。今治駅で」


 紬の背筋が伸びた。


「母は、今治まで来ていたんですか」


「来ていました。蒼さんを訪ねて」


 郁子は手紙を畳み、机の上に置いた。


「でも、会わずに帰った」


「どうしてですか」


「蒼さんに会う前に、私と話してしまったから」


 紬は息をのんだ。


「真鍋さんは、蒼さんとどういう関係だったんですか」


「親戚です。遠い親戚。蒼さんの母方の縁でね。あの人が今治へ来たとき、しばらくうちの工場で働けるようにしたのは私の夫でした」


「蒼さんは、ここにいたんですね」


「ええ。短い間でしたが」


 郁子は窓の外の白いタオルを見た。


「蒼さんは、傷だらけでした。体も、心も。腕が思うように動かなくて、仕事も長くは続きませんでした。でも、澪さんが来ると信じていた」


 紬は唇を噛んだ。


「母は、なぜ会わなかったんですか」


「私が、余計なことを言ったからです」


 郁子は静かに言った。


「余計なこと?」


「蒼さんは、あなたを幸せにできる状態ではない、と」


 部屋の空気が重くなった。


「そんなことを、母に?」


「ええ」


 郁子は逃げなかった。


「私は、澪さんのことをほとんど知りませんでした。若くて、お腹に子どもがいるかもしれない女性が、蒼さんを訪ねてきた。蒼さんはその頃、借金のことでまだ追われていました。怪我も治りきっていない。仕事も不安定。私は思ったんです。このまま二人が一緒になれば、みんな不幸になると」


 紬の胸に、怒りが湧いた。


「それを、母に言ったんですか」


「言いました」


「母は何て?」


「何も」


 また、何も。


「ただ、私の話を最後まで聞いて、駅のベンチにしばらく座っていました。それから、蒼さんに会わずに帰った」


「蒼さんは?」


「待っていました。何日も」


 郁子は目を伏せた。


「私が、澪さんは来なかったと伝えました」


「母が来たことは?」


 郁子は答えなかった。


 その沈黙だけで、わかった。


「言わなかったんですね」


「ええ」


 紬の手が震えた。


「どうして」


「言えば、蒼さんは追いかけたでしょう。怪我も、借金も、何もかも放り出して」


「それでも、言うべきだったんじゃないですか」


「そうですね」


 郁子は、まっすぐ紬を見た。


「今なら、そう思います」


 あまりに素直に認められて、紬は言葉に詰まった。


「当時の私は、自分が正しいと思っていました。若い二人を現実から守っているつもりでした。けれど、本当は二人から選ぶ機会を奪っただけだったのかもしれません」


 紬は母の手紙を見た。


「母は、そのことを恨んでいましたか」


 郁子は首を横に振った。


「手紙には、私を恨む言葉はありませんでした。むしろ、感謝が書かれていました」


「感謝?」


「私があのとき厳しいことを言ってくれたから、自分は紬さんを一人で育てる覚悟ができた、と」


 紬は何も言えなかった。


 母は、また誰かに感謝している。


 自分の人生を変えられたかもしれない相手にさえ。


 それは強さなのか。

 弱さなのか。

 諦めなのか。

 それとも、母なりの生き延び方だったのか。


 郁子は立ち上がり、部屋の隅の木箱を持ってきた。


「これを、あなたに渡す日が来るとは思いませんでした」


 紬は息を止めた。


 郁子が布を外し、木箱の蓋を開ける。


 中には、小さな紙包みがあった。


 郁子はそれを開いた。


 銀色の指輪が二つ。


 片方は少し大きく、片方は細い。どちらも高価なものには見えない。長い時間のせいで、表面はくすみ、細かな傷があった。


「蒼さんが、預けていきました」


「母に渡すはずだった指輪ですか」


「ええ」


 郁子は細いほうの指輪を手に取った。


「本当は、澪さんに渡すつもりだった。でも澪さんは会わずに帰った。蒼さんはしばらく待って、それからこの指輪を私に預けました」


「なぜ」


「もし澪が戻ってきたら渡してほしい、と」


 紬は指輪を見つめた。


 戻ってきたら。


 母は戻らなかった。


 蒼は待った。

 母は帰った。

 郁子は黙った。


 誰も完全に悪くない。

 だからこそ、誰も完全には救われなかった。


「蒼さんは、その後どうなったんですか」


「今治を出ました。仕事が続かず、借金の件もあって。しばらくして、松山にいたと聞きました。そのあと、私は詳しく知りません」


 松山。


 次の手紙の宛先が、紬の頭に浮かぶ。


 母が一時期暮らしていた下宿。元大家。妊娠していた時期。


「母は、この指輪のことを知っていたんでしょうか」


「おそらく、知りません」


 郁子は指輪を箱ごと紬の前に置いた。


「あなたが持っていきなさい」


「私が?」


「ええ。澪さんに渡せなかったものだから」


「でも、これは母のもので」


「だからです」


 紬は手を伸ばせなかった。


 指輪を受け取ることが怖かった。


 これは、母が選ばなかった未来だ。

 母が蒼と暮らし、紬が父を知って育つ未来。

 あるいは、母も蒼も傷つきながら、それでも一緒に沈んでいったかもしれない未来。


 どちらにせよ、その未来はもう存在しない。


 なのに指輪だけが、ここに残っている。


 郁子は静かに言った。


「物は、ときどき残酷です。人が諦めたあとも、平気な顔で残ってしまう」


 紬はゆっくりと箱を受け取った。


 指輪は軽かった。


 驚くほど軽かった。


 こんな軽いものに、母はどれだけ長く縛られていたのだろう。


「母は、今治に来たことを私に一度も話しませんでした」


「話せなかったのでしょうね」


「どうして、みんな話せなかったで済ませるんですか」


 声が揺れた。


 郁子は黙って紬を見た。


「話せなかった、黙るしかなかった、若かった、弱かった。そう言われるたびに、母を責められなくなる。でも私は、知らないまま育ったんです。父のことを聞いても、母は遠くにいるとしか言わなかった。いつか話すと言って、話さなかった」


 涙が出そうになった。


 紬はそれをこらえた。


「母にも事情があったのはわかります。でも、私の空白はどうすればいいんですか」


 郁子の顔が苦しそうに歪んだ。


「ごめんなさい」


 それは、母の代わりではなく、郁子自身の謝罪だった。


「私は、あなたの空白を作った一人です」


 その言葉に、紬は息を止めた。


 郁子は深く頭を下げた。


「澪さんと蒼さんだけではありません。私も、黙った。大人の顔をして、若い二人の人生を勝手に決めた。その結果、あなたは父を知らずに育った。ごめんなさい」


 紬は何も言えなかった。


 怒りはあった。


 でも、目の前で七十を過ぎた女性が頭を下げている。その背中は小さく、長い時間を背負っているように見えた。


 許します、とは言えない。

 許せません、とも言えない。


 ただ、指輪の入った箱を両手で握った。


「母の手紙、読ませてもらえますか」


 紬が言うと、郁子は頷いた。


「もちろん」


 便箋を渡される。


 紬は初めて、相手に許されて母の手紙を読んだ。


 母の字が、静かに並んでいる。


 ――真鍋さん。あの日、あなたが私に言った言葉を、私は長い間恨んだことがあります。どうして会わせてくれなかったのか。どうして蒼が私を待っていると教えてくれなかったのか。そう思った夜もありました。


 紬は息を詰めた。


 母は恨んでいた。


 ちゃんと、怒っていた。


 そのことに、なぜか救われた。


 ――けれど、紬を産んでから、私は少しずつ考えが変わりました。あの日もし蒼に会っていたら、私は蒼の痛みを引き受けることに必死になり、この子を見る目を失っていたかもしれません。あなたが正しかったとは今も言い切れません。私が正しかったとも思いません。ただ、あの日の選択の先で、私はこの子を抱きました。


 文字が滲んだ。


 紬は瞬きをした。


 ――だから、私はあなたを恨むことをやめます。許すという偉そうな言葉ではなく、ただ、あの日の私たちはみな弱かったのだと思うことにします。蒼も、あなたも、私も。そして弱かった私が、それでも母になれたことを、今は少しだけ誇りに思っています。


 紬は便箋から目を離せなかった。


 弱かった私が、それでも母になれたこと。


 母は自分を強い人間だとは思っていなかった。

 正しい選択をしたとも思っていなかった。

 ただ、弱いまま紬を抱いた。


 その事実が、紬の胸に静かに落ちた。


 郁子の家を出るとき、白いタオルが風に揺れていた。


 紬は指輪の箱を鞄に入れた。レモン、おむすび、真鍮のプレート、絵葉書、鍵盤の欠片。母の過去の欠片が、旅をするたびに増えていく。


 律は車の前で待っていた。


 紬の顔を見て、何かを察したように助手席の扉を開ける。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


 紬は正直に言った。


「でも、行ける」


「次は?」


「松山」


 紬は鞄の中の七通目を思った。


 松山の元下宿屋。

 母が妊娠中に暮らしていた場所。

 母が紬を産む前の最後の逃げ場。


 車が今治の町を離れる。


 窓の外に、タオル工場の白い建物が流れていく。どこかで洗い上げられた布が風に揺れている。ほどけた糸のように、白いタオルが何枚も空へ向かって広がっていた。


 紬は鞄の中の指輪を思った。


 二つでひとつだったはずのもの。

 渡されなかったもの。

 ほどけた約束。


 けれど、ほどけたから終わりではないのかもしれない。


 糸はほどけたあと、別の形に結び直されることもある。


 母は蒼と結ばれなかった。

 けれど紬を産んだ。

 潮待ち堂を開いた。

 十二通の手紙を書いた。


 車窓の向こうで、今治の町が少しずつ遠ざかっていく。


 紬は小さく呟いた。


「お母さん、怒ってたんだね」


 その声は、母への呼びかけでもあり、自分自身への確認でもあった。


 母は聖人ではなかった。

 何もかも受け入れた人ではなかった。

 恨み、迷い、怒り、それでも紬を抱いた人だった。


 その母のほうが、紬には少しだけ近く感じられた。


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