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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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第五話 錆びた船名板

 尾道へ戻った紬は、すぐには潮待ち堂に入れなかった。


 店の前に立ち、格子戸に貼られた自分の字を見る。


 ――しばらく、旅に出ます。


 母の貼り紙の下に書き足したその文字は、夜の湿気を吸って少し波打っていた。母の字よりも角ばっていて、どこか落ち着きがない。今の自分そのものだと思った。


 呉から持ち帰った真鍮のプレートが、鞄の中で重かった。


 しおかぜ丸 売店。


 母が若い頃、立っていた場所の名札。


 たったそれだけの金属片なのに、紬にはそれが母の人生の一部を剥がして持ち帰ってきたもののように思えた。


 店に入ると、古い紙と珈琲の匂いがした。昨日までと同じ匂いのはずなのに、少しだけ違って感じる。潮待ち堂は、母が尾道に戻ってから始めた店だ。だがその原型は、船の売店にあったのかもしれない。


 本を並べること。

 誰かに言葉を渡すこと。

 待つ人のために、次の港まで預かること。


 母は、海の上で覚えたことを、この坂の途中に移したのだ。


 紬はカウンターの上にプレートを置いた。


 小さな音がした。


 金属が木に触れる音。


 その音を聞いた瞬間、相良造船所の薄暗い工場が蘇った。濡れた船体、油の匂い、錆びた船名板、相良悠介の硬い声。


 ――あの人のせいで、うちの親父は人生を狂わされた。


 最初にそう言った相良の顔には、長年抱えてきた恨みがあった。だが手紙を読んだ後、彼の顔からその恨みは少しずつ剥がれ落ちていった。代わりに残ったのは、行き場のない後悔だった。


 母は、恨まれていた。

 けれど本当は、救われてもいた。


 誰が正しくて、誰が間違っていたのか。そんなふうに分けられる話ではなかった。


 紬はプレートの文字を指でなぞった。


 しおかぜ丸。


 錆びた船名板を見たとき、母の若い姿が急に近づいてきた。売店に立つ母。乗客に本を差し出す母。嵐の夜、少年へ向かって走った母。


 一番逃げなかった子。


 相良正義は、そう言ったという。


 だが母はその言葉を信じられなかったのだろう。だから十年以上経っても、謝罪の手紙を書いた。感謝の手紙を書いた。出せないまま、文机の奥にしまった。


 紬は母の部屋へ行き、桐の小箱を開けた。


 残りの手紙を一通ずつ取り出す。


 しまなみ方面。

 今治。

 松山。

 小豆島。

 倉敷。

 福山。

 下関。

 門司。

 そして、宛名のない一通。


 順番はまだ完全にはわからない。けれど、それぞれの封筒の裏に書かれた日付を見ると、母が何度も同じ夜へ戻っていたことはわかった。


 事故の日。


 灰原の名簿にあった日。

 相良の父が修理へ向かった原因になった日。

 三原蒼が船を降りた日。


 そしておそらく、母が手紙を出せなくなった日。


 紬は相良から聞いた言葉を思い出す。


 ――三原蒼は、澪さんを置いて逃げたんだ。


 父かもしれない男。


 母が深く大切に思っていた人。


 その人は母を置いて逃げたのか。

 それとも、逃げるしかなかったのか。


 紬は自分の苛立ちが、母へ向いているのか、まだ見ぬ父へ向いているのか、わからなくなった。


 父がいないことは、ずっと当たり前だった。


 幼い頃、保育園の父の日の制作で、紬だけが母の絵を描いた。先生は困った顔をして、それでも「お母さんでもいいよ」と言った。友だちは無邪気に尋ねた。


「つむぎちゃんのお父さん、どこにおるん?」


 紬は答えられなかった。


 家に帰って母に聞いた。


「私のお父さんは?」


 母は少しだけ手を止めた。台所で味噌汁を作っていた。鍋から湯気が立っていた。


「遠くにおるよ」


「会える?」


「いつかね」


 その「いつか」は来なかった。


 母は、いつもそうだった。


 いつか話すね。

 いつか会えるかもしれんね。

 いつか、ちゃんと言うね。


 いつか。


 その言葉は、先延ばしではなく、母にとっては祈りだったのかもしれない。けれど、待たされる側にとっては、扉の前に立たされ続けることと同じだった。


 紬は小箱の中から、しまなみ方面の封筒を一通取り出した。


 宛先は、愛媛県今治市ではなく、その手前の島だった。


 白石灯子様。


 封筒の裏には、事故の日とは別に、母が二十歳の頃の日付が小さく書かれている。


 次はこの人なのだろう。


 母が三原蒼と婚約していたことを知っているかもしれない人。

 事故の前の母を知っている人。

 まだ何も失っていなかった頃の母を。


 紬は封筒を鞄へ入れた。


 そのとき、店の入口で控えめに戸を叩く音がした。


「紬?」


 聞き慣れた声だった。


 村上律だ。


 紬が戸を開けると、律が紙袋を持って立っていた。紺色のシャツに、少し濡れた髪。首からカメラを下げている。


「帰っとったんじゃな」


「うん。今さっき」


「貼り紙見たけえ、まだ旅に出とるんかと思った」


「旅って言っても、呉まで行って戻ってきただけ」


「充分、旅じゃろ」


 律は紙袋を差し出した。


「駅前で買った。パン。食べとらんじゃろ」


 図星だった。


 紬は朝からまともに食べていなかった。竹原で番茶を飲み、呉で相良と話し、帰りの電車では何も喉を通らなかった。


「ありがとう」


 律は店に入り、カウンターに腰を下ろした。紬が珈琲を淹れようとすると、律は少し笑った。


「澪さんの味には、まだ遠そうじゃね」


「飲む前から言わないで」


「顔に書いとる」


「濃すぎるのはわかってる」


 紬は湯を沸かし、豆を挽いた。昨日より少しだけ粉を減らした。湯を落とす手つきはぎこちない。母なら、もっと静かに淹れただろう。


 律はカウンターの上に置かれた真鍮のプレートを見つけた。


「これ、何?」


「呉で受け取った。母が乗っていた船の売店についていたんだって」


 律はプレートを両手で持ち、文字を読んだ。


「しおかぜ丸、売店……。すごいな」


「すごいのかな」


「残っとるだけで、すごいよ」


 律はプレートを窓際の光にかざした。


「ものって、残るんじゃな」


「人は残らないのに?」


 紬の声が少し尖った。


 律は責めるような顔をせず、プレートをそっと戻した。


「人も残るよ。こういうものとか、言葉とか、誰かの記憶の中に」


「記憶って、勝手だよ」


「うん」


「相良さんは、母を恨んでた。でも手紙を読んだら、少し変わった。灰原さんは母に感謝してた。野々村さんも母を大切に思ってた。みんな、それぞれ違う母を持ってる」


「紬もじゃろ」


 律が静かに言った。


 紬は珈琲を落とす手を止めた。


「私の母は、何も言わない人だった」


「それも、澪さんじゃろ」


「でも、他の人には手紙を書いてた」


「出せんかったけどな」


 律の言葉は淡々としていた。だからこそ、紬の中の苛立ちは少しだけ行き場を失った。


 紬は珈琲を二つのカップに注いだ。


 律が一口飲み、少し眉を上げた。


「昨日よりは、澪さんに近い」


「昨日飲んでないでしょ」


「想像」


「適当」


 二人の間に、短い笑いが落ちた。


 その笑いが思いのほか胸に沁みて、紬はカウンターの内側に立ったまま目を伏せた。


 誰かと普通に話すことが、こんなに難しいとは思わなかった。


 母の死後、弔問客に礼を言い、役所で手続きをし、書類に名前を書いた。けれどそれは会話ではなかった。ただ必要な言葉を交わしていただけだ。


 律はパンを紙袋から出し、皿に置いた。


「で、呉では何があったん?」


 紬は少し迷った。


 でも、話したかった。


 灰原のこと。相良造船所のこと。錆びた船名板のこと。相良悠介が母を恨んでいたこと。母が相良正義に救われていたこと。三原蒼という名前が出てきたこと。


 律は途中で口を挟まなかった。


 ただ、ときどき頷きながら聞いていた。


 話し終えると、店の中は夕方の色になっていた。窓の外の坂道を、買い物袋を下げた人がゆっくり上っていく。


「三原蒼、か」


 律が言った。


「知ってる?」


「名前は知らん。でも、写真館に古い港の写真が少し残っとるかもしれん。しおかぜ丸なら、親父の代のアルバムにあるかも」


「本当?」


「探してみる。確約はできんけど」


 律の実家は、尾道で古くから続く写真館だった。観光客向けの記念写真よりも、地元の家族写真や学校行事、祭り、港の風景を撮ってきた店だ。律が継いでからは、町の写真を撮り続けている。


「一緒に見る?」


 律が尋ねた。


「今から?」


「疲れとるなら、明日でも」


 紬はカウンターの上のプレートを見た。


 母の売店。

 母の船。

 母を置いて逃げたかもしれない男。


 知りたい。

 でも、知るのが怖い。


 また新しい母が増える。

 自分の知らない母が、自分より先に誰かと笑っている写真を見ることになるかもしれない。


 紬は小さく首を振った。


「今日はやめておく」


「わかった」


 律は無理に誘わなかった。


 そのことに、紬は少し救われた。


 夜、律が帰ったあと、紬はプレートを持って母の部屋へ行った。


 文机の上に、野々村絹枝からもらった鍵盤の欠片、灰原から渡された絵葉書、相良から受け取った真鍮のプレートを並べる。


 行、と書かれた鍵盤。

 言葉は、港を選ぶ、と書かれた絵葉書。

 しおかぜ丸 売店、と刻まれたプレート。


 母の過去が、少しずつ物になって増えていく。


 けれど肝心なところは、まだ空白のままだった。


 事故の夜、母は何を黙ったのか。

 三原蒼はなぜ逃げたのか。

 紬の父は、本当に蒼なのか。


 紬は文机の引き出しを、もう一度調べ始めた。


 一段目、二段目、三段目。桐の箱があった場所の奥に、指が触れた。木の底板が少し浮いている。


 紬は息を止めた。


 底板の端に爪をかけると、薄い板が外れた。


 隠し底。


 その下に、古い封筒が一枚だけ入っていた。


 十二通とは違う封筒だった。茶色く変色し、封はされていない。宛名もない。


 中から出てきたのは、一枚の古い写真だった。


 船の甲板で撮られた写真。


 若い母が写っている。竹原の資料館で見た写真よりも、少しくだけた表情をしている。隣には、背の高い青年が立っていた。黒い髪、細い目、白いシャツ。笑っているが、どこか影のある顔だった。


 写真の裏には、母の字で名前が書かれている。


 澪 二十歳

 蒼

 しおかぜ丸にて


 紬は写真を持つ手に力が入った。


 これが三原蒼。


 母が深く大切に思っていた人。

 父かもしれない人。

 母を置いて逃げたと言われた人。


 写真の中の母は、蒼の隣で笑っていた。


 紬が見たことのない笑顔だった。


 胸の奥に、鋭い痛みが走った。


 嫉妬に近かった。


 娘である自分が知らない母の笑顔を、この男は知っていた。

 母はこの男の隣で、こんなふうに笑っていた。


 母は、本当に自分に何もくれなかったわけではない。育ててくれた。店を守った。食事を作り、学校へ送り出し、東京へ行かせてくれた。


 それでも紬は、写真の中の笑顔に傷ついた。


 母には、娘に見せない顔があった。


 当たり前なのに、その当たり前が痛かった。


 写真の下に、もう一枚紙が入っていた。


 古いメモだった。


 そこには、母の字ではなく、誰か別の筆跡で短く書かれている。


 ――澪へ。

 今治で待つ。

 蒼


 日付は、事故の日から三か月後。


 紬は何度も読み返した。


 今治で待つ。


 相良悠介が言っていた。


 三原蒼は今治に縁がある、と。


 母は行ったのだろうか。

 蒼に会いに。

 それとも、行かなかったのだろうか。


 もし行っていたなら、なぜ蒼は紬の人生にいなかったのか。

 もし行かなかったなら、なぜ母はこのメモをずっと持っていたのか。


 窓の外で、夜の尾道が静かに沈んでいる。


 紬は写真を文机に置き、しばらく見つめた。


 若い母と、三原蒼。


 二人の間には、まだ事故の影が完全には落ちていないように見える。あるいは、落ちていても笑っているのかもしれない。


 どちらにせよ、紬にはわからなかった。


 知るには、次へ行くしかない。


 翌朝、紬は律の写真館へ向かった。


 まだ開店前だったが、律は中にいた。古いアルバムを何冊も机に広げている。


「来ると思った」


「どうして」


「昨日の顔」


 律はそれだけ言った。


 紬は何も返さず、写真を差し出した。


「これ、母の引き出しにあった。三原蒼だと思う」


 律は写真を受け取り、慎重に見た。


「いい写真じゃな」


「そういう感想?」


「写真屋じゃけえ」


 律は苦笑し、奥の棚から一冊のアルバムを持ってきた。


「親父が撮った港の写真に、しおかぜ丸が何枚かあった。人物までは期待せんで」


 アルバムをめくる。


 港。船。乗客。荷物。見送りの人々。白い船体に、しおかぜ丸の文字。


 紬はページを追ううちに、ある写真で手を止めた。


 しおかぜ丸の乗船口。


 乗客の列の端に、母がいる。売店の制服を着て、誰かに本を渡している。その少し後ろに、三原蒼らしき青年が立っている。


 そしてさらに端に、作業着姿の男性が写っていた。


「この人……」


 紬は写真に顔を近づけた。


 相良造船所で見た、相良悠介の面影に似ている。おそらく相良正義だ。


 相良正義は、母を見ていた。


 責める目ではない。

 見守るような目だった。


 律も写真を覗き込んだ。


「この人、誰?」


「相良さんのお父さん。母を救った人かもしれない」


「救った?」


「うん。でも、母はずっと自分が傷つけたと思っていた」


 紬は写真を見つめた。


 母は、人に許されていても、自分で自分を許せなかったのだろうか。


 相良正義が母を責めていないことを、母は知っていた。

 それでも謝罪の手紙を書いた。

 出せなかった。


 母が抱えていたものは、相手の怒りではなく、自分自身の中にある裁きだったのかもしれない。


 律はアルバムのページをもう一枚めくった。


「これ、見て」


 次の写真には、船の甲板で数人が並んで写っていた。母、灰原、相良正義、三原蒼、そして見知らぬ女性が二人。


 そのうちのひとりの裏に、律の父の字でメモが貼られていた。


 ――白石灯子 生口島

 しおかぜ丸常連客


 紬は息をのんだ。


 次の手紙の宛先。


 白石灯子。


 写真の中の女性は、若い母の隣で笑っている。髪を短く切り、日焼けした頬をしていた。母の肩に親しげに手を置いている。


 事故の前の母を知る人。


 母が三原蒼とどんなふうに過ごしていたのかを知るかもしれない人。


 紬は写真から目を離せなかった。


 律が静かに言った。


「行くんじゃろ、しまなみ」


 紬は頷いた。


「うん」


「車、出そうか」


「いいの?」


「写真も撮りたいし。白石さんのいる島、俺も行ったことある」


 紬は迷った。


 一人で行くべきだと思っていた。母の手紙を届ける旅は、自分が始めたことだから。


 けれど、呉線の窓に映った自分の顔を思い出す。知らないことばかりを一人で抱えて、少しずつ母に似ていくような怖さ。


 誰かが隣にいてもいいのかもしれない。


 紬は小さく頷いた。


「お願い」


 律は「了解」とだけ言い、アルバムを閉じた。


 写真館を出ると、朝の尾道は晴れていた。


 昨日までの雨が嘘のように、海が青い。坂の下で、船の汽笛が短く鳴った。


 紬は鞄の中の四通目の封筒に触れた。


 白石灯子様。


 母の物語は、呉の錆びた船名板から、しまなみの青い橋へ移ろうとしていた。


 母が逃げなかった夜の前に、母が笑っていた日々がある。


 紬はまず、それを知りたいと思った。


 母が何を失ったのかを知る前に、母が何を大切にしていたのかを。


 潮風が坂を上ってきた。


 その風の中に、ほんの少しだけ、船の匂いがした。


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