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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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4/17

第四話 呉線の窓に映る嘘

 呉線の窓に、紬の顔が映っていた。


 雨はまだ降っている。


 車窓の向こうでは、灰色の海が線路のすぐそばまで迫っていた。海と空の境目は曖昧で、遠くの島影も、水彩画を濡らしたように滲んでいる。ときおり波が防波堤に当たり、白く砕けるのが見えた。


 紬は窓に映る自分の顔を見つめた。


 母に似ている、と言われた顔。


 その顔が、電車の揺れに合わせて少しずつ歪む。窓ガラスに重なった海のせいで、自分が泣いているようにも見えた。


 実際には、泣いていない。


 泣くには、まだ怒りのほうが強かった。


 竹原の資料館で灰原正臣から聞いた話が、頭の中で何度も繰り返されている。


 嵐の夜。

 乗客名簿。

 黙ったこと。

 三原蒼。

 相良正義。


 そして、母の手紙の言葉。


 ――私は、言わなければならないことを言えませんでした。


 母は、何を言わなかったのか。


 紬は鞄の中に手を入れ、三通目の封筒に触れた。


 呉市。

 相良悠介様。


 封筒の裏には、母の字で二つの日付が書かれている。手紙を書いた日と、もうひとつ、事故の日と思われる日付。


 事故の夜に関わる人へ、母が十年以上経ってから書いた手紙。


 謝罪なのか。

 弁明なのか。

 それとも、また届かない「ありがとう」なのか。


 灰原は言った。

 呉へ行きなさい、と。


 野々村絹枝も言った。

 竹原へ行きなさい、と。


 みんな、答えを直接渡さない。母も、母の過去を知る人たちも、紬を次の場所へ送り出すだけだ。


 まるで、母の人生を駅ごとに降りて確認しろと言われているみたいだった。


 電車が大きく揺れた。


 海沿いの小さな駅を通り過ぎる。濡れたホームに誰もいない。駅名標の白が、雨の中にぽつんと立っている。


 紬はスマートフォンを開いた。


 東京の出版社に勤めていた頃の同僚から、メッセージが届いていた。


 ――落ち着いた?

 ――こっちは相変わらず。

 ――例の作家さん、新しい担当決まったよ。


 紬は画面を閉じた。


 新しい担当。


 自分のいた場所には、もう別の人が座っている。当たり前のことなのに、胸の奥が少しだけ冷えた。


 紬がいなくても、仕事は回る。

 母がいなくても、尾道の朝は来る。

 誰かが黙っても、船は港を出る。


 けれど、黙った言葉はどこかに残る。


 母の文机の引き出しに、十二通の封筒として残ったように。


 呉駅に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 雨は弱くなっていたが、空はまだ重い。駅前にはバスと車が行き交い、濡れた道路が鈍く光っていた。尾道や竹原とは違い、呉には港町の硬さがあった。海が近いのに、風景のどこかに鉄の匂いがする。


 紬は地図を確認し、相良悠介の住所へ向かった。


 駅から少し離れた場所に、小さな造船所があるらしい。現在は規模を縮小し、船の修理や金属加工を請け負っていると、検索結果に出ていた。


 道を歩くうちに、雨に混じって油の匂いがした。


 大通りを外れると、古い工場や倉庫が並ぶ一角に出た。錆びたシャッター、積まれた鉄材、濡れたロープ。水たまりに、曇った空が映っている。


 その奥に、「相良造船所」と書かれた看板があった。


 白い塗装はところどころ剥げ、文字の端が錆びている。敷地の中には、修理中らしい小型船が一隻、台座の上に載せられていた。船底の赤い塗装が雨に濡れて暗く見える。


 紬は入口の前で足を止めた。


 封筒を届けるだけ。


 自分にそう言い聞かせる。


 聞きたいことはある。山ほどある。でも、最初から問い詰めるつもりで来たわけではない。


 母の手紙を、届ける。


 まずは、それだけ。


 工場の奥から金属を叩く音がした。乾いた、鋭い音。しばらくすると、作業着姿の男性が顔を出した。


 四十前後だろうか。短く刈った髪に、無精ひげ。肩幅が広く、腕まくりした前腕に細かな傷がある。目つきは鋭いが、疲れているようにも見えた。


「何か用ですか」


 声は低かった。


「あの、相良悠介さんでしょうか」


「そうですが」


「突然すみません。朝倉澪の娘です」


 その名を出した瞬間、男性の顔つきが変わった。


 驚きではない。


 もっと硬いものだった。


 拒絶。


 紬はその変化をはっきり感じた。


「朝倉澪?」


「はい。母が先日亡くなりまして。遺品の中から、相良さん宛ての手紙が出てきました」


 紬は封筒を差し出した。


 相良悠介は、受け取らなかった。


 ただ、封筒を見た。


 宛名。

 差出人。

 切手。

 消印のない白い余白。


「今さら何だ」


 低い声だった。


「え?」


「今さら、手紙なんか寄越して、何になる」


 紬の手が宙に浮いたまま止まった。


「母をご存じなんですね」


「知ってますよ。忘れたくても忘れられない名前だ」


 相良は軍手を外し、近くの作業台に叩きつけるように置いた。


「あの人のせいで、うちの親父は人生を狂わされた」


 紬は喉の奥が固くなるのを感じた。


「母のせいで?」


「そう聞いてませんか」


「私は、何も」


「でしょうね」


 相良は短く笑った。笑いというより、息を吐き捨てたような音だった。


「あの人は、都合の悪いことは黙る人だったから」


 その言葉は、紬の胸に刺さった。


 否定したかった。

 けれど、できなかった。


 母は実際、何も話さなかった。父のことも、船のことも、事故のことも。


 相良はようやく封筒を受け取った。


 だが開けようとはしない。


「読まないんですか」


 紬が尋ねると、相良は封筒を握りしめたまま言った。


「読む必要がありますか」


「母が、あなたに宛てて書いたものです」


「生きてるうちに言えばよかったんだ」


 紬は言葉を失った。


 その通りだ、と思ってしまった。


 母が生きているうちに言えばよかった。

 手紙を出せばよかった。

 本人に会えばよかった。

 娘にも、話せばよかった。


 そうすれば、紬はこんなふうに雨の呉まで来なくてよかった。


 相良は封筒を作業台に置いた。


「帰ってください」


「待ってください。私は、母が何をしたのか知りません」


「なら、知らないままでいたほうがいい」


「でも、それは私の母のことです」


「だから?」


 相良の目が鋭くなった。


「娘なら、親のしたことまで知る権利がある? 知ったら何か償えるんですか」


「償うとか、そういうことでは」


「じゃあ、何ですか」


 紬は答えられなかった。


 何なのだろう。


 自分は何を求めているのか。


 母を理解したいのか。

 母を責めたいのか。

 父の手がかりを探したいのか。

 ただ、母に置いていかれた怒りの行き場を探しているだけなのか。


 工場の屋根を雨が叩いた。


 相良は背を向けかけたが、何かを思い直したように足を止めた。


「……あんた、朝倉澪の娘って言いましたね」


「はい」


「名前は」


「紬です。朝倉紬」


 相良は少しだけ目を細めた。


「紬」


 その名を、知っているような響きで繰り返した。


「母から聞いたことがあるんですか」


「いや」


 相良は顔をそらした。


「親父が、その名前を口にしたことがあっただけです」


「お父様が?」


「相良正義。灰原さんから聞いたんでしょう」


 紬は驚いた。


「灰原さんをご存じなんですか」


「昔、何度かここへ来ました。古い資料を借りたいとか何とか言って。親父は嫌がってましたけど」


「お父様は、事故に関わっていたんですよね」


 相良の表情が固くなった。


「聞いてるじゃないですか」


「名簿に名前があっただけです。詳しいことは、誰も話してくれません」


「みんな、いい人ですね」


 皮肉だった。


「本当のことを言えば、傷つく人間がいるって知ってるんでしょう」


「でも、知らないままでも傷つきます」


 紬は思わず言った。


 相良がこちらを見る。


「母は何も話さずに亡くなりました。父のことも、事故のことも、手紙のことも。私は今、母の知り合いを訪ねて、断片だけを拾っています。みんな少しずつ知っていて、少しずつ黙っている。そうされるたびに、自分だけ母の人生から締め出されていたみたいに思うんです」


 言葉が止まらなかった。


「あなたが母を恨んでいるなら、それでもいいです。母が誰かを傷つけたなら、聞くのは怖いです。でも、知らないまま母を信じることも、責めることもできない」


 相良は何も言わなかった。


 雨音と、遠くの機械音だけが響く。


 やがて相良は、工場の奥を顎で示した。


「少しだけなら」


「え?」


「中へ。雨も降ってるし」


 紬は一瞬迷い、頭を下げて敷地に入った。


 工場の中は、外より暗かった。


 天井は高く、鉄骨がむき出しになっている。工具、溶接機、ロープ、塗料缶、古い船具。油と鉄と海水の匂いが混じっていた。


 奥の壁に、古い船名板が立てかけられている。


 木製の板に、白い文字が刻まれていた。


 ――しおかぜ丸


 紬は足を止めた。


「それが、母が乗っていた船ですか」


「正確には、親父が修理を担当していた船です。何度も」


 相良は船名板を見ずに言った。


「廃船になるとき、親父が引き取ったんです。捨てられなかったんでしょうね」


 紬は船名板に近づいた。


 塗装は剥げ、端は欠けている。それでも文字は読める。


 しおかぜ丸。


 母が若い頃、売店に立っていた船。灰原が名簿を管理し、三原蒼が走り、相良正義が関わった船。


 写真の中で母が立っていた場所が、急に現実の重みを持ちはじめた。


「親父は、右足を悪くしました」


 相良の声が背後から聞こえた。


「事故のあとです。船を修理しているときに、足場から落ちた。直接、あの夜に怪我したわけじゃない。でも、あの事故がなければ、無理な修理もなかった」


「それを、母のせいだと?」


「親戚はそう言ってました。近所も。あの娘が余計なことをしたから、船会社が揉めて、修理が遅れて、親父が無理をしたって」


「余計なこと?」


「少年を助けようとしたことです」


 紬は息をのんだ。


 灰原の話とつながった。


 嵐の夜、少年が甲板で転び、海に落ちかけた。母が最初に気づき、走った。三原蒼も走った。


「母は、助けようとしたんですよね」


「そうでしょうね」


「それなのに、余計なことって」


「人は、結果が悪ければ何にでも理由をつけます」


 相良は工具棚にもたれた。


「あの夜、少年は助かった。でも三原蒼は怪我をした。船は損傷した。運航は止まった。修理が必要になった。親父は無理をした。足を悪くした。そういうふうにつなげれば、誰か一人を責める話にできる」


「母が、その一人だったんですか」


「少なくとも、本人はそう思っていたんでしょう」


「あなたは?」


 相良はすぐに答えなかった。


 工場の奥で、水滴が金属の上に落ちる音がした。


「子どもの頃は、そう思っていました」


 低い声だった。


「朝倉澪のせいだと。あの人のせいで、親父は足を引きずるようになった。造船所の仕事も減った。母は苦労した。俺も、学校帰りにここを手伝わなきゃならなかった」


 相良は自分の手を見た。


「子どもには、複雑な事情なんてわかりません。誰かを悪者にしたほうが楽だった」


 紬は黙って聞いていた。


「でも親父は、一度も朝倉澪を恨んでいるとは言わなかった」


「え?」


「むしろ、かばっていた」


 相良は船名板を見た。


「親父は言ってました。あの子は一番逃げなかった、と」


 紬の胸が強く鳴った。


 一番逃げなかった。


「じゃあ、どうしてあなたは母を」


「親父が恨まなくても、俺は恨めたんです」


 相良は苦い顔で笑った。


「情けない話ですがね。親父が誰も責めない分、俺が代わりに誰かを責めたかった。朝倉澪はちょうどよかった。何も言い返さない人だったから」


 紬は言葉を失った。


 何も言い返さない人。


 それは紬の知っている母でもあった。


 母は、反論しない。言い訳しない。自分が傷ついても、どこかで受け止めてしまう。


 それをやさしさだと思う人もいる。

 ずるさだと思う人もいる。

 責めやすさにしてしまう人もいる。


「母は、ここへ来たことがありますか」


 紬が尋ねると、相良は頷いた。


「一度だけ。俺が高校生の頃です」


「何をしに?」


「親父に会いに。でも俺が追い返しました」


 紬は相良を見た。


「追い返した?」


「親父はその日、病院でした。俺は留守番をしていた。朝倉澪が来て、親父さんに会えますか、と言った。俺は、会わせる必要はないと思った」


「母は何か言いましたか」


「何も」


 相良は目を伏せた。


「ただ、封筒を持っていました。あれと同じ白い封筒です。結局、渡さずに帰った」


 紬は作業台の上の封筒を見た。


 母は、ここまで来ていた。


 手紙を持って。


 会おうとしていた。


 でも、相良に拒まれ、何も言わずに帰った。


 その姿が目に浮かんだ。雨の日だったかもしれない。夏の暑い日だったかもしれない。母は工場の入口に立ち、白い封筒を手にし、相良の冷たい言葉を受け止めた。そして、いつものように少しだけ頭を下げて帰っていったのだろう。


 紬の中で、母への怒りと、相良への怒りが混ざった。


「どうして、そんなことを」


「さっき言ったでしょう。恨んでいたんです」


「でも、母は」


「悪くなかったかもしれない」


 相良は紬の言葉を遮った。


「今なら、そう思えます。でも当時は思えなかった」


 その正直さが、かえって痛かった。


 誰かを責める気持ちは、正しさだけで動いているわけではない。


 紬にもわかってしまう。


 母が何も言わなかったことを、紬は怒っている。けれどその怒りの中には、母を失った寂しさも、父を知らない悔しさも、自分が東京で失敗した惨めさも混じっている。


 責めやすい人を責めているだけなのかもしれない。


 母は、もう言い返さないから。


 相良は作業台の封筒を手に取った。


「読んでもいいですか」


「もちろんです。相良さん宛てです」


 相良は封を切った。


 紬は少し離れた場所に立った。今度も、読むつもりはなかった。


 相良は便箋を開き、最初の数行で眉を寄せた。読み進めるにつれて、表情が少しずつ変わった。怒りではない。困惑でもない。もっと複雑なものだった。


 最後まで読むと、相良はしばらく動かなかった。


 工場の外で車が通り過ぎる音がした。


「何て、書いてあったんですか」


 紬は小さく尋ねた。


 相良は便箋を見つめたまま言った。


「親父への手紙でした」


「あなた宛てではなく?」


「宛名は俺です。でも中身は、親父に言えなかったことと、俺への謝罪です」


「謝罪……」


「高校生の俺が追い返したことを、澪さんは責めていませんでした。むしろ、自分が来るのが遅すぎたと書いてある」


 相良は苦笑した。


「本当に、どこまで人に責められたいんでしょうね、あの人は」


 その声には、もう先ほどの刺々しさはなかった。


「母は、何を謝っていたんですか」


 相良は迷ったようだったが、便箋の一部を紬に見える向きに置いた。


「ここだけなら」


 紬は近づいた。


 母の字があった。


 ――相良さん。あの夜、私は相良正義さんに救われました。私が助けたのではありません。私はただ、目の前の子どもに手を伸ばしただけです。そのあと、何を言えばいいのかわからなくなった私に、相良さんは「黙って立っているのも仕事だ」と言ってくださいました。あの言葉がなければ、私はその場から逃げていたと思います。


 紬は唇を噛んだ。


 相良正義は、母を責めていなかった。


 救っていた。


 相良悠介が母を恨んでいる間、母はその父に感謝し続けていた。


 相良は次の箇所を指で示した。


 ――悠介さん。あなたが私を追い返した日のことを、私は今も覚えています。あなたは間違っていません。守りたい人が傷つけられたと思えば、人は誰かを遠ざけます。私はあなたに、もっと早く伝えるべきでした。お父様は、私を恨んでいなかったこと。むしろ私のほうが、お父様の言葉に救われていたこと。


 相良は便箋を伏せた。


「……最悪だ」


 小さく言った。


「え?」


「俺は、親父の代わりに怒っているつもりでした。でも親父は、怒っていなかった。澪さんは、それを知っていた。知っていて、俺には何も言わなかった」


「母は言おうとしたんです。あなたが追い返したから」


「そうですね」


 相良は反論しなかった。


「でも、それでも言うべきだった。俺も、澪さんも」


 その言葉は、母を責めているようで、自分自身にも向いていた。


 相良は便箋を丁寧に畳んだ。


「親父が死ぬ前、少しだけ変なことを言ったんです」


「何を?」


「紬という子が、いつかここへ来るかもしれん。そのときは、船名板を見せてやれ、と」


 紬は目を見開いた。


「私のことを?」


「俺は、意味がわかりませんでした。紬なんて名前、知り合いにいない。親父もそれ以上言わなかった」


「どうして父……相良さんのお父様が、私を知っていたんでしょう」


「澪さんが話したんでしょう。あるいは、手紙に書いてあったのかもしれない」


 相良は工場の奥へ歩いていった。


 しばらくして、古い木箱を抱えて戻ってきた。中には、錆びた金具や小さな船具が入っている。その底から、油紙に包まれたものを取り出した。


「親父が、これも渡せと言っていました」


 中に入っていたのは、小さな真鍮のプレートだった。


 しおかぜ丸 売店


 そう刻まれている。


 紬はそれを両手で受け取った。


 冷たい金属の感触が手に沈んだ。


「母のいた場所……」


「そうです」


 相良は船名板を見た。


「あの船の売店に付いていたものです。廃船のとき、親父が外した」


 紬はプレートを見つめた。


 母はここにいた。


 本を売り、珈琲を淹れ、手紙を預かり、人の顔を見ていた。


 その場所が、今は小さな金属片になって紬の手の中にある。


「ありがとうございます」


 紬は頭を下げた。


 相良は少し居心地悪そうに目をそらした。


「礼を言われることじゃないです。俺は、あなたのお母さんにひどいことをした」


「母も、言うべきことを言わなかったんだと思います」


 自分で言って、紬は少し驚いた。


 母をかばいきることはできない。

 相良だけを責めることもできない。


 物事は、思ったよりずっと絡まっている。


 誰かひとりを悪者にできれば楽なのに、母の手紙はそれを許してくれない。


 相良は三通目の手紙を封筒に戻した。


「この手紙、もらっていいですか」


「もちろんです」


「返事を書きます」


「母に?」


「はい。もう届かなくても」


 灰原と同じことを言う。


 届かなくても、書くことはできる。


 紬はその言葉を、また胸の奥で受け取った。


 工場を出る頃、雨はほとんど止んでいた。


 雲の切れ間から、淡い光が差している。濡れた船体が少しだけ明るく見えた。


 相良は入口まで見送ってくれた。


「朝倉さん」


「はい」


「ひとつ、言い忘れました」


 紬は振り返った。


「三原蒼のことです」


 その名前に、体が反応した。


「父かもしれない人ですね」


「俺にはわかりません。ただ、親父は三原蒼のことを、あまりよく言いませんでした」


「どうしてですか」


「逃げた、と言っていました」


「逃げた?」


「事故のあと、三原蒼は船を降りました。怪我をしたから仕方がない、という話になっていた。でも親父は、あいつは澪さんを置いて逃げたんだ、と言っていた」


 紬の手の中で、真鍮のプレートが冷たくなった。


「母を置いて」


「詳しいことは知りません。ただ、三原蒼のことを知りたいなら、今治へ行くといい」


「今治?」


「親父が昔、そう言っていました。三原蒼は今治に縁がある、と」


 今治。


 桐の箱の中の手紙を思い出す。


 たしか、今治宛ての封筒があった。


 でも、その前にまだ届ける場所がある。しまなみの島々。レモン農家。船の料理人。


 母の過去は、また次の場所へ紬を押し出す。


「ありがとうございます」


 紬はもう一度頭を下げた。


 相良は不器用に頷いた。


「こっちこそ。手紙を届けてくれて、ありがとう」


 駅へ戻る道で、紬は何度も振り返りそうになった。


 相良造船所の看板は、雨上がりの光の中でも古びて見えた。けれど工場の中には、まだ音があった。金属を叩く音。船を直す音。失われたものを、完全ではなくても形に戻そうとする音。


 母も、そうしていたのかもしれない。


 壊れたものを直すことはできない。

 でも、手紙を書くことはできる。

 本を選ぶことはできる。

 黙って立っていることも、誰かにとっては支えになる。


 それでも。


 紬は呉駅のホームで、鞄から真鍮のプレートを取り出した。


 しおかぜ丸 売店。


 プレートに、窓から差す光が反射した。


 母は逃げなかった。

 相良正義はそう言った。


 けれど、母は黙った。

 三原蒼は逃げた。

 そして紬は、何も知らされなかった。


 電車がホームに入ってくる。


 その窓に、また紬の顔が映った。


 母に似た顔。

 けれど、母ではない顔。


 紬はその顔に向かって、小さく呟いた。


「私は、逃げない」


 言ってから、胸が少し震えた。


 本当にそうできるかはわからない。


 東京からは逃げた。

 母の死からも、まだ逃げたい。

 知ることからも、何度も逃げたくなる。


 それでも今は、次の手紙を届けるしかない。


 電車の扉が開いた。


 紬は乗り込んだ。


 呉線の窓の外で、海が雨上がりの光を受けて、鈍く光っていた。

 その光の上を、遠く小さな船が一隻、ゆっくり進んでいた。


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