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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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第三章 竹原、保存地区の雨

 尾道を出たとき、空はまだ明るかった。


 けれど電車が東へ進むにつれて、窓の外の色は少しずつ鈍くなっていった。海は灰色に近い青へ変わり、低い雲が山の端にかかっている。線路沿いの家々は、どこか息をひそめているように見えた。


 紬は窓際の席に座り、鞄の中の封筒を何度も確かめた。


 広島県竹原市。

 灰原正臣様。


 二通目の手紙。


 母が書き、封をし、切手まで貼ったのに、最後まで出さなかった手紙。


 封筒の角は少しだけ丸くなっていた。何度も手に取られたのかもしれない。出そうとして、やめる。鞄に入れて、戻す。郵便ポストの前まで行って、引き返す。そんな母の姿を想像すると、胸の奥がざわついた。


 母は、何を怖がっていたのだろう。


 相手に届くことか。

 それとも、返事が来ることか。


 電車が小さく揺れた。


 紬は窓に映る自分の顔を見た。寝不足の目。薄く結んだ口。母に似ていると言われたことは何度もある。葬儀の日も、弔問客のひとりが言った。


「澪さんの若いころにそっくりじゃね」


 そのときは、曖昧に笑って頭を下げた。


 似ていると言われても、嬉しくなかった。

 母のことを何も知らないまま、顔だけ似ていると言われるのは、知らない服を無理に着せられるようだった。


 けれど昨日、野々村絹枝の家で聞いた十八歳の母を思い出すと、その言葉は少し違って聞こえた。


 海を見ていた母。

 足踏みオルガンを鳴らした母。

 尾道を出たかった母。


 もし自分が母に似ているのなら、自分もまた、何かを我慢しているのだろうか。


 竹原駅に着く少し前、雨が降り始めた。


 細い雨だった。窓ガラスに小さな粒がつき、外の景色を滲ませる。駅のホームに降りると、湿った空気が肌にまとわりついた。


 紬は折りたたみ傘を開いた。


 駅前は静かだった。観光案内の看板があり、古い町並み保存地区への矢印が出ている。母の手紙の宛先は、その近くにある資料館だった。


 石畳の道を歩く。

 雨に濡れた瓦屋根が黒く光っている。白壁の蔵、格子戸の家、軒先の古い看板。尾道とは違う静けさがあった。坂ではなく、道がゆっくり奥へ続いている。海の匂いは薄い。かわりに、濡れた木と土の匂いがした。


 観光客は少なかった。


 店の軒下で雨宿りをする老夫婦。カメラを首から下げた若い女性。傘を差して歩く制服姿の学生。時間が少しゆっくり流れているようだった。


 紬は地図を見ながら、目的の資料館へ向かった。


 それは、古い商家を改装した小さな建物だった。入口の横に、手書きの札がある。


 ――瀬戸内航路と暮らしの資料室


 開館中、と書かれている。


 紬は傘をたたみ、戸を開けた。


 中は薄暗く、木の床が雨の湿気を吸っていた。壁には古い航路図や船の写真、切符、乗船券、港の絵葉書が並んでいる。ガラスケースの中には、船内で使われていた食器や売店の値札、古い時刻表が展示されていた。


 その奥で、ひとりの男性が書類を整理していた。


 白髪混じりの髪。背筋はまっすぐしているが、動きはゆっくりしている。年齢は七十前後だろうか。濃紺のカーディガンを着て、首から眼鏡を下げていた。


 紬が入ったことに気づくと、男性は顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


「あの、灰原正臣さんはいらっしゃいますか」


 男性の手が止まった。


「私ですが」


 紬は鞄から封筒を取り出した。


「突然すみません。朝倉澪の娘です」


 その名前を口にした瞬間、空気が変わった。


 灰原正臣は、しばらく何も言わなかった。驚いたというより、遠くの音を聞いたような顔だった。


「澪さんの……娘さん」


「はい。母が先日亡くなりまして」


 紬は言い慣れた言葉を、また少しだけ噛みしめるように言った。


「遺品を整理していたら、この手紙が出てきました。灰原さん宛てです」


 封筒を差し出す。


 灰原はすぐには受け取らなかった。宛名を見つめ、差出人の文字を見つめ、やがて両手でそっと受け取った。


「澪さんの字だ」


 小さな声だった。


「ご存じなんですね」


「ええ。忘れようがありません」


 灰原は封筒を胸元に寄せた。


「亡くなられたのは、いつですか」


「先週です」


「そうですか」


 灰原は目を伏せた。


 資料館の外で、雨音が少し強くなった。格子戸の向こうで、石畳に雨が跳ねている。


「どうぞ、こちらへ」


 灰原は奥の小さな部屋へ紬を案内した。そこには丸いテーブルと椅子が二脚あり、壁際には古い本棚があった。背表紙の色褪せた本が並んでいる。航海記、民俗誌、郷土史、写真集。


 灰原は湯を沸かし、番茶を出してくれた。


「こんなものしかありませんが」


「ありがとうございます」


 湯のみを両手で包むと、冷えた指先が少しずつほどけていった。


 灰原は封筒をテーブルの上に置いたまま、しばらく眺めていた。


「開けないんですか」


 紬が尋ねると、灰原は苦笑した。


「怖いんでしょうな」


「怖い?」


「手紙というものは、開けたら相手が戻ってくるでしょう。声も、顔も、そのとき言えなかったことも」


 その言い方は、どこか母に似ていた。


 言葉を簡単に扱わない人の声だった。


「母とは、船で一緒だったと聞きました」


「野々村先生から?」


「はい」


「そうですか。絹枝先生はお元気でしたか」


「ええ。昨日、お会いしました」


 灰原は少し微笑んだ。


「澪さんに船を勧めたのは、あの先生でしたからね」


「母は、どんなふうに働いていたんですか」


 灰原は椅子にもたれ、少し遠くを見るようにした。


「澪さんは、売店係でした。船の中の小さな売店です。菓子、煙草、飲み物、絵葉書、新聞、雑誌。それから古本を少し」


「古本?」


「ええ。船会社が扱っていたわけではありません。澪さんが勝手に置いていたんです。最初は自分の本を数冊。乗客が暇そうにしていると、これをどうぞ、と貸す。気に入った人には売る。次に乗ったとき返す人もいれば、別の本を置いていく人もいる。いつのまにか、船の中に小さな本棚ができていました」


 紬は、潮待ち堂の本棚を思い出した。


 眠れない日に。

 うまく泣けない人へ。

 遠くに行きたいとき。


 母の棚は、船の中から始まっていたのかもしれない。


「母らしいです」


 紬が言うと、灰原は頷いた。


「ええ。まったく、澪さんらしかった。あの人は、客の顔を見るのが上手でした。退屈しているのか、泣きたいのか、誰かに会いに行くのか、帰りたくないのか。そういうことを、なぜかわかる人でした」


「母は、家ではあまり話しませんでした」


「でしょうな」


 灰原は、そう言って少し笑った。


「船でも、自分の話はあまりしませんでした。そのかわり、人の話をよく聞いた。売店の前は、いつも小さな相談所みたいでした」


 紬は湯のみを見つめた。


 母のことを聞くたびに、知らない母が増える。


 やさしい人。

 静かな人。

 本を選ぶ人。

 人の言葉を運ぶ人。


 そのどれもが母なのだろう。けれど紬の中にいる母とは、少しずつずれている。


 紬にとって母は、聞いても答えない人だった。

 父のことも、過去のことも、自分の寂しさも、言わない人だった。


「灰原さんは、母と親しかったんですか」


「親しい、という言い方が合うかはわかりません」


 灰原は少し考えた。


「私は当時、船の事務方でしてね。乗客名簿や貨物の確認、港との連絡などをしていました。澪さんとは年が近かったので、よく話しました。本の話を」


「本の?」


「私は小説を読まない人間でした。数字と時刻表ばかり見ていた。澪さんが、そんな私に一冊の本を押しつけたんです」


「何の本ですか」


「宮沢賢治でした。『銀河鉄道の夜』」


 灰原は少し照れたように笑った。


「船の上で読むには鉄道の話も悪くないでしょう、と言ってね」


 紬も思わず笑った。


 母が言いそうだった。


「それで読んだんですか」


「読みました。夜の船で。売店の灯りの下でね。あれから私は、本を読むようになった」


 灰原は本棚を見た。


「ここにある本の半分は、澪さんが教えてくれたようなものです」


 その言葉に、紬は胸が詰まった。


 母は、ここにも残っている。


 潮待ち堂だけではなく、竹原の小さな資料館の本棚にも。


 灰原は封筒に視線を戻した。


「澪さんには、借りがありました」


「借り?」


「この資料館を作るきっかけをくれたのは、澪さんです」


 灰原は立ち上がり、壁にかけられた古い航路図の前へ行った。


 紬も後に続いた。


 瀬戸内海の地図。尾道、三原、竹原、呉、今治、松山、小豆島、下関。線で結ばれた港の名前が、母の手紙の宛先と重なって見えた。


「私たちが乗っていた船は、今はもうありません。航路も変わりました。船会社もなくなった。あの頃を知る人も減った。私は、全部消えてしまうと思っていました」


 灰原は地図に指を置いた。


「でも澪さんが言ったんです。消えるものほど、誰かが名前を呼ばないといけない、と」


「母が」


「ええ。港の名前。船の名前。そこで泣いた人、笑った人、帰った人、帰らなかった人。そういうものを、記録しておきなさいと」


「それで、資料館を?」


「最初は笑いましたよ。私にそんなことができるわけがないと。でも澪さんは、私に古い切符や航路図を送り続けてきました。自分の店で見つけたと言ってね。ここは、その積み重ねです」


 紬は展示ケースの中を見た。


 古い乗船券。

 手書きの値札。

 船内売店の写真。

 日焼けした絵葉書。


 その中に、若い女性が写っている写真があった。


 白いブラウスに紺色のスカート。肩までの髪。売店のカウンターの奥で、少しはにかむように立っている。


 紬は息を止めた。


「これ、母ですか」


「ええ」


 写真の中の母は、紬の知らない顔をしていた。


 若い。

 当たり前だが、若い。


 けれどそれだけではない。


 目が、遠くを見ていない。


 まっすぐこちらを見ている。少し緊張しながらも、そこに立つことを自分で選んだ人の顔だった。


 紬は写真から目が離せなかった。


「母は、楽しそうですね」


「楽しかったと思いますよ。少なくとも、あの頃は」


 灰原の声の最後に、かすかな影が落ちた。


 紬はそれを聞き逃さなかった。


「あの夜、というのは何ですか」


 灰原の表情が変わった。


 ほんの一瞬だったが、確かに変わった。


「野々村先生の手紙にも書いてありました。母は、あの夜から人に手紙を出す資格がないと思っていた、と」


 灰原は答えなかった。


「船で何かあったんですよね」


 沈黙が落ちた。


 雨音だけが聞こえる。


 灰原はゆっくり椅子へ戻り、封筒を手に取った。長い間、宛名を見つめていた。そして意を決したように封を切った。


 便箋を取り出す。


 紬は視線を逸らした。読むつもりはなかった。これは灰原宛ての手紙だ。


 けれど、灰原の指が震えているのが見えた。


 一枚目を読み、二枚目を読み、三枚目に入ったところで、灰原は深く息を吐いた。


「澪さんは、ずっと覚えていたんですね」


「何をですか」


 灰原は返事をせず、便箋の一部を指で押さえた。


「ここだけ、あなたも聞いたほうがいい」


 そう言って、声に出して読んだ。


「灰原さん。あの夜、あなたが私に渡してくれた乗客名簿の控えを、私は今も捨てられずにいます。そこにあった名前を、私は一人も忘れていません。忘れたら、あの日黙ったことまでなかったことになる気がしたからです」


 紬は体をこわばらせた。


 乗客名簿。


 黙ったこと。


 灰原は続けた。


「私は、言わなければならないことを言えませんでした。言えば誰かが助かったかもしれない。けれど言えば、別の誰かの暮らしを壊すことになると思いました。あのときの私に、正しさを選ぶ力はありませんでした。ただ、いちばん弱い人をこれ以上傷つけたくなかった」


 灰原の声が少し詰まった。


「あなたが、黙ることもまた記録だと言ってくれたことを、私は長い間、支えにしてきました。けれど本当は、黙った人間が救われていいのか、今もわかりません」


 そこで灰原は読むのをやめた。


 紬は言葉が出なかった。


 母が何を黙ったのかは、まだわからない。けれどそれは、単なる個人的な秘密ではなかった。乗客名簿、誰かの暮らし、いちばん弱い人。


 そこには、複数の人生があった。


「何があったんですか」


 紬はもう一度尋ねた。


 灰原は便箋を畳まず、テーブルに置いた。


「嵐の夜でした」


 その声は、ずっと昔の甲板に戻っているようだった。


「季節外れの荒れ方でね。欠航にすべきだったという人もいます。けれど当時は、今ほど判断が簡単ではなかった。荷も人も動かさなければならなかった。船は出ました」


「事故が起きたんですか」


「ええ。大きな事故、と記録されるほどではありません。新聞にも小さくしか載らなかった。けれど、あの船に乗っていた人間には、大きすぎる出来事でした」


 灰原は壁の航路図を見た。


「ひとりの少年が、甲板で転びました。海に落ちかけた。澪さんが最初に気づき、走った。三原蒼も走った」


 三原蒼。


 紬はその名前を聞いた瞬間、胸の奥が音を立てた。


 第二章で絹枝が言いかけ、言わなかった名前。母の父のことに関わるかもしれない名前。


「三原蒼さんは、母の……」


 言葉が続かなかった。


 灰原は紬を見た。


「その名前も、まだ澪さんから聞いていないんですね」


「母は、何も」


「そうですか」


「その人は、私の父ですか」


 灰原はすぐには答えなかった。


「私が言えるのは、澪さんが三原蒼を深く大切に思っていたということです」


「答えになっていません」


「ええ。答えではありません」


 苛立ちがこみ上げた。


「どうしてみんな、そうやってはっきり言わないんですか。母も、野々村さんも、灰原さんも。私はもう子どもじゃありません」


「子どもではないからです」


 灰原の声は静かだった。


「子ども相手なら、わかりやすい答えだけ渡せばいい。けれどあなたは大人です。大人には、答えだけでは足りない。そこに至るまでの痛みも、迷いも、間違いも受け取らなければならない」


「そんなの、勝手です」


「そうですね」


 灰原は否定しなかった。


「私たちは、勝手に黙ってきました」


 その言葉に、紬は黙った。


 灰原は便箋をもう一度見た。


「澪さんも、私も、あの夜からずっと黙ってきた。だからあなたが怒るのは当然です」


 怒っていい。


 そう言われると、怒りは少し行き場を失った。


 紬は湯のみを握りしめた。


「母は、何を黙ったんですか」


「全部は、私からは言えません。ですが、ひとつだけ」


 灰原は椅子から立ち上がり、奥の棚から古い帳面を持ってきた。


 茶色い表紙のノート。角が擦り切れている。


「これは、当時の乗客名簿の控えです。正式なものではありません。私が個人的に残していたものです」


「母の手紙に書いてあったものですか」


「ええ」


 灰原はページをめくった。


 手書きの名前が並んでいる。日付、便名、乗船区間。


 あるページで手が止まった。


「この日です」


 紬は日付を見た。


 胸の奥が、冷たくなった。


 母の封筒の裏に書かれていた日付と同じだった。


 一通目の手紙にも、二通目の手紙にも、形を変えて出てきた日付。十年前に書かれた手紙の中で、母が何度も戻っていた日。


「この日が、あの夜なんですね」


「そうです」


 紬は名簿に並ぶ名前を見た。


 知らない名前ばかりだった。


 その中に、三原蒼の名があった。


 朝倉澪の名前もある。


 そして、相良正義という名前。


 紬はその名前に目を止めた。


「相良……」


 灰原が顔を上げた。


「次の手紙の宛先ではありませんか」


 紬は鞄の中の箱を思い出した。


 たしか、三通目の宛先は呉だった。


 呉市。相良悠介様。


 名字が同じだ。


「相良正義さんは?」


「呉の造船所の人でした。あの船をよく見ていた。事故のあと、澪さんと少し揉めたと聞いています」


「揉めた?」


「相良さんは、澪さんを責めたわけではない。ですが、周囲はそう見た。澪さん自身も、自分が責められていると思い込んだ」


 灰原は名簿を閉じた。


「呉へ行きなさい」


 また、同じことを言われた。


 野々村絹枝は、竹原へ行けと言った。

 灰原正臣は、呉へ行けと言う。


 母の沈黙は、一か所では終わらない。


 港から港へ、手紙がつながっている。


「母は、どうしてこんなふうに手紙を残したんでしょう」


 紬は呟いた。


「直接話せばよかったのに。生きているうちに」


 灰原は手紙を封筒に戻した。


「話せなかったのでしょう」


「だから、それが」


「許せませんか」


 紬は答えられなかった。


 許せない、と思う。


 でも、母がどんな顔でこの手紙を書いたのかを想像すると、ただ責めることもできない。


 ずるい。


 死んでから手紙を見つけさせるなんて、ずるい。


 けれど、そのずるさの中に、どうしようもない弱さがある気もした。


 資料館を出る頃、雨はまだ降っていた。


 灰原は入口まで見送りに来た。


「これを」


 そう言って、小さな封筒を差し出した。


「何ですか」


「澪さんが昔、私に預けたものです。あなたが来たら渡すべきだと思いました」


「母が?」


「正確には、もし娘さんがここへ来ることがあれば、と」


 紬は封筒を受け取った。


 中には古い絵葉書が一枚入っていた。


 瀬戸内の海を進む白い船。裏には、母の字で短い言葉が書かれている。


 ――言葉は、港を選ぶ。


 紬はその一文を見つめた。


「意味、わかりますか」


 灰原は静かに首を振った。


「私にもわかりません。ただ、澪さんらしい言葉です」


 紬は絵葉書を鞄にしまった。


「手紙、届けてくださってありがとう」


 灰原は深く頭を下げた。


「澪さんに、ようやく返事ができます」


「返事?」


「ええ。もう届かないとしても、書くことはできますから」


 その言葉に、紬は胸を突かれた。


 届かなくても、書くことはできる。


 母は届かせられない手紙を書いた。

 灰原はもう届かない返事を書く。


 言葉は、どこへ行くのだろう。


 雨の保存地区を歩きながら、紬は傘の内側で小さく息を吐いた。


 白壁の町は、雨に濡れて静かだった。軒先から落ちる雫。石畳に映る格子戸。古い町並みは、過去をそのまま残しているようでいて、きっと多くのものを失っている。


 残されたものだけが、歴史になる。


 残されなかった声は、どこへ行くのだろう。


 駅へ向かう途中、紬は喫茶店に入り、鞄から三通目の封筒を取り出した。


 呉市。

 相良悠介様。


 灰原の名簿にあった相良正義と、どう関係があるのか。


 母は相良という人に、何を謝ろうとしたのか。


 封筒の裏の日付を見て、紬は指先を止めた。


 二通目と同じ日付ではない。


 けれど、その下に小さく、別の日付が書き添えられていた。


 事故の日。

 母が船に乗っていた日。

 灰原の名簿に記されていた日。


 紬は鞄の中から、一通目、二通目の封筒を思い出す。どちらにも、形は違うが同じ日付があった。


 母の手紙は、すべてあの日へ戻っている。


 紬はようやく気づいた。


 十二通は、十二人への手紙ではない。


 ひとつの夜をめぐる、十二の証言なのだ。


 窓の外で、雨が強くなった。


 紬はスマートフォンで、呉までの経路を調べた。竹原から電車を乗り継ぎ、海沿いを進む道。


 母がかつて乗った船ではなく、いまは線路で向かう。


 それでも、地図の上では同じ海に沿っている。


 紬は三通目の封筒を鞄にしまった。


 次は呉。


 母が黙った夜の輪郭が、少しずつ近づいてくる。


 喫茶店の窓ガラスに、雨粒がいくつも流れていた。向こう側の町並みは滲み、白壁も格子戸も境目を失っている。


 紬はその滲んだ景色を見ながら、母の若い写真を思い出した。


 売店の奥で、まっすぐこちらを見る母。


 その目は、まだ何も失っていない人の目だった。


 あの目が、いつから海を見るだけの目に変わったのだろう。


 それを知るために、紬はもう少し先へ行かなければならなかった。


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