第三章 竹原、保存地区の雨
尾道を出たとき、空はまだ明るかった。
けれど電車が東へ進むにつれて、窓の外の色は少しずつ鈍くなっていった。海は灰色に近い青へ変わり、低い雲が山の端にかかっている。線路沿いの家々は、どこか息をひそめているように見えた。
紬は窓際の席に座り、鞄の中の封筒を何度も確かめた。
広島県竹原市。
灰原正臣様。
二通目の手紙。
母が書き、封をし、切手まで貼ったのに、最後まで出さなかった手紙。
封筒の角は少しだけ丸くなっていた。何度も手に取られたのかもしれない。出そうとして、やめる。鞄に入れて、戻す。郵便ポストの前まで行って、引き返す。そんな母の姿を想像すると、胸の奥がざわついた。
母は、何を怖がっていたのだろう。
相手に届くことか。
それとも、返事が来ることか。
電車が小さく揺れた。
紬は窓に映る自分の顔を見た。寝不足の目。薄く結んだ口。母に似ていると言われたことは何度もある。葬儀の日も、弔問客のひとりが言った。
「澪さんの若いころにそっくりじゃね」
そのときは、曖昧に笑って頭を下げた。
似ていると言われても、嬉しくなかった。
母のことを何も知らないまま、顔だけ似ていると言われるのは、知らない服を無理に着せられるようだった。
けれど昨日、野々村絹枝の家で聞いた十八歳の母を思い出すと、その言葉は少し違って聞こえた。
海を見ていた母。
足踏みオルガンを鳴らした母。
尾道を出たかった母。
もし自分が母に似ているのなら、自分もまた、何かを我慢しているのだろうか。
竹原駅に着く少し前、雨が降り始めた。
細い雨だった。窓ガラスに小さな粒がつき、外の景色を滲ませる。駅のホームに降りると、湿った空気が肌にまとわりついた。
紬は折りたたみ傘を開いた。
駅前は静かだった。観光案内の看板があり、古い町並み保存地区への矢印が出ている。母の手紙の宛先は、その近くにある資料館だった。
石畳の道を歩く。
雨に濡れた瓦屋根が黒く光っている。白壁の蔵、格子戸の家、軒先の古い看板。尾道とは違う静けさがあった。坂ではなく、道がゆっくり奥へ続いている。海の匂いは薄い。かわりに、濡れた木と土の匂いがした。
観光客は少なかった。
店の軒下で雨宿りをする老夫婦。カメラを首から下げた若い女性。傘を差して歩く制服姿の学生。時間が少しゆっくり流れているようだった。
紬は地図を見ながら、目的の資料館へ向かった。
それは、古い商家を改装した小さな建物だった。入口の横に、手書きの札がある。
――瀬戸内航路と暮らしの資料室
開館中、と書かれている。
紬は傘をたたみ、戸を開けた。
中は薄暗く、木の床が雨の湿気を吸っていた。壁には古い航路図や船の写真、切符、乗船券、港の絵葉書が並んでいる。ガラスケースの中には、船内で使われていた食器や売店の値札、古い時刻表が展示されていた。
その奥で、ひとりの男性が書類を整理していた。
白髪混じりの髪。背筋はまっすぐしているが、動きはゆっくりしている。年齢は七十前後だろうか。濃紺のカーディガンを着て、首から眼鏡を下げていた。
紬が入ったことに気づくと、男性は顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
「あの、灰原正臣さんはいらっしゃいますか」
男性の手が止まった。
「私ですが」
紬は鞄から封筒を取り出した。
「突然すみません。朝倉澪の娘です」
その名前を口にした瞬間、空気が変わった。
灰原正臣は、しばらく何も言わなかった。驚いたというより、遠くの音を聞いたような顔だった。
「澪さんの……娘さん」
「はい。母が先日亡くなりまして」
紬は言い慣れた言葉を、また少しだけ噛みしめるように言った。
「遺品を整理していたら、この手紙が出てきました。灰原さん宛てです」
封筒を差し出す。
灰原はすぐには受け取らなかった。宛名を見つめ、差出人の文字を見つめ、やがて両手でそっと受け取った。
「澪さんの字だ」
小さな声だった。
「ご存じなんですね」
「ええ。忘れようがありません」
灰原は封筒を胸元に寄せた。
「亡くなられたのは、いつですか」
「先週です」
「そうですか」
灰原は目を伏せた。
資料館の外で、雨音が少し強くなった。格子戸の向こうで、石畳に雨が跳ねている。
「どうぞ、こちらへ」
灰原は奥の小さな部屋へ紬を案内した。そこには丸いテーブルと椅子が二脚あり、壁際には古い本棚があった。背表紙の色褪せた本が並んでいる。航海記、民俗誌、郷土史、写真集。
灰原は湯を沸かし、番茶を出してくれた。
「こんなものしかありませんが」
「ありがとうございます」
湯のみを両手で包むと、冷えた指先が少しずつほどけていった。
灰原は封筒をテーブルの上に置いたまま、しばらく眺めていた。
「開けないんですか」
紬が尋ねると、灰原は苦笑した。
「怖いんでしょうな」
「怖い?」
「手紙というものは、開けたら相手が戻ってくるでしょう。声も、顔も、そのとき言えなかったことも」
その言い方は、どこか母に似ていた。
言葉を簡単に扱わない人の声だった。
「母とは、船で一緒だったと聞きました」
「野々村先生から?」
「はい」
「そうですか。絹枝先生はお元気でしたか」
「ええ。昨日、お会いしました」
灰原は少し微笑んだ。
「澪さんに船を勧めたのは、あの先生でしたからね」
「母は、どんなふうに働いていたんですか」
灰原は椅子にもたれ、少し遠くを見るようにした。
「澪さんは、売店係でした。船の中の小さな売店です。菓子、煙草、飲み物、絵葉書、新聞、雑誌。それから古本を少し」
「古本?」
「ええ。船会社が扱っていたわけではありません。澪さんが勝手に置いていたんです。最初は自分の本を数冊。乗客が暇そうにしていると、これをどうぞ、と貸す。気に入った人には売る。次に乗ったとき返す人もいれば、別の本を置いていく人もいる。いつのまにか、船の中に小さな本棚ができていました」
紬は、潮待ち堂の本棚を思い出した。
眠れない日に。
うまく泣けない人へ。
遠くに行きたいとき。
母の棚は、船の中から始まっていたのかもしれない。
「母らしいです」
紬が言うと、灰原は頷いた。
「ええ。まったく、澪さんらしかった。あの人は、客の顔を見るのが上手でした。退屈しているのか、泣きたいのか、誰かに会いに行くのか、帰りたくないのか。そういうことを、なぜかわかる人でした」
「母は、家ではあまり話しませんでした」
「でしょうな」
灰原は、そう言って少し笑った。
「船でも、自分の話はあまりしませんでした。そのかわり、人の話をよく聞いた。売店の前は、いつも小さな相談所みたいでした」
紬は湯のみを見つめた。
母のことを聞くたびに、知らない母が増える。
やさしい人。
静かな人。
本を選ぶ人。
人の言葉を運ぶ人。
そのどれもが母なのだろう。けれど紬の中にいる母とは、少しずつずれている。
紬にとって母は、聞いても答えない人だった。
父のことも、過去のことも、自分の寂しさも、言わない人だった。
「灰原さんは、母と親しかったんですか」
「親しい、という言い方が合うかはわかりません」
灰原は少し考えた。
「私は当時、船の事務方でしてね。乗客名簿や貨物の確認、港との連絡などをしていました。澪さんとは年が近かったので、よく話しました。本の話を」
「本の?」
「私は小説を読まない人間でした。数字と時刻表ばかり見ていた。澪さんが、そんな私に一冊の本を押しつけたんです」
「何の本ですか」
「宮沢賢治でした。『銀河鉄道の夜』」
灰原は少し照れたように笑った。
「船の上で読むには鉄道の話も悪くないでしょう、と言ってね」
紬も思わず笑った。
母が言いそうだった。
「それで読んだんですか」
「読みました。夜の船で。売店の灯りの下でね。あれから私は、本を読むようになった」
灰原は本棚を見た。
「ここにある本の半分は、澪さんが教えてくれたようなものです」
その言葉に、紬は胸が詰まった。
母は、ここにも残っている。
潮待ち堂だけではなく、竹原の小さな資料館の本棚にも。
灰原は封筒に視線を戻した。
「澪さんには、借りがありました」
「借り?」
「この資料館を作るきっかけをくれたのは、澪さんです」
灰原は立ち上がり、壁にかけられた古い航路図の前へ行った。
紬も後に続いた。
瀬戸内海の地図。尾道、三原、竹原、呉、今治、松山、小豆島、下関。線で結ばれた港の名前が、母の手紙の宛先と重なって見えた。
「私たちが乗っていた船は、今はもうありません。航路も変わりました。船会社もなくなった。あの頃を知る人も減った。私は、全部消えてしまうと思っていました」
灰原は地図に指を置いた。
「でも澪さんが言ったんです。消えるものほど、誰かが名前を呼ばないといけない、と」
「母が」
「ええ。港の名前。船の名前。そこで泣いた人、笑った人、帰った人、帰らなかった人。そういうものを、記録しておきなさいと」
「それで、資料館を?」
「最初は笑いましたよ。私にそんなことができるわけがないと。でも澪さんは、私に古い切符や航路図を送り続けてきました。自分の店で見つけたと言ってね。ここは、その積み重ねです」
紬は展示ケースの中を見た。
古い乗船券。
手書きの値札。
船内売店の写真。
日焼けした絵葉書。
その中に、若い女性が写っている写真があった。
白いブラウスに紺色のスカート。肩までの髪。売店のカウンターの奥で、少しはにかむように立っている。
紬は息を止めた。
「これ、母ですか」
「ええ」
写真の中の母は、紬の知らない顔をしていた。
若い。
当たり前だが、若い。
けれどそれだけではない。
目が、遠くを見ていない。
まっすぐこちらを見ている。少し緊張しながらも、そこに立つことを自分で選んだ人の顔だった。
紬は写真から目が離せなかった。
「母は、楽しそうですね」
「楽しかったと思いますよ。少なくとも、あの頃は」
灰原の声の最後に、かすかな影が落ちた。
紬はそれを聞き逃さなかった。
「あの夜、というのは何ですか」
灰原の表情が変わった。
ほんの一瞬だったが、確かに変わった。
「野々村先生の手紙にも書いてありました。母は、あの夜から人に手紙を出す資格がないと思っていた、と」
灰原は答えなかった。
「船で何かあったんですよね」
沈黙が落ちた。
雨音だけが聞こえる。
灰原はゆっくり椅子へ戻り、封筒を手に取った。長い間、宛名を見つめていた。そして意を決したように封を切った。
便箋を取り出す。
紬は視線を逸らした。読むつもりはなかった。これは灰原宛ての手紙だ。
けれど、灰原の指が震えているのが見えた。
一枚目を読み、二枚目を読み、三枚目に入ったところで、灰原は深く息を吐いた。
「澪さんは、ずっと覚えていたんですね」
「何をですか」
灰原は返事をせず、便箋の一部を指で押さえた。
「ここだけ、あなたも聞いたほうがいい」
そう言って、声に出して読んだ。
「灰原さん。あの夜、あなたが私に渡してくれた乗客名簿の控えを、私は今も捨てられずにいます。そこにあった名前を、私は一人も忘れていません。忘れたら、あの日黙ったことまでなかったことになる気がしたからです」
紬は体をこわばらせた。
乗客名簿。
黙ったこと。
灰原は続けた。
「私は、言わなければならないことを言えませんでした。言えば誰かが助かったかもしれない。けれど言えば、別の誰かの暮らしを壊すことになると思いました。あのときの私に、正しさを選ぶ力はありませんでした。ただ、いちばん弱い人をこれ以上傷つけたくなかった」
灰原の声が少し詰まった。
「あなたが、黙ることもまた記録だと言ってくれたことを、私は長い間、支えにしてきました。けれど本当は、黙った人間が救われていいのか、今もわかりません」
そこで灰原は読むのをやめた。
紬は言葉が出なかった。
母が何を黙ったのかは、まだわからない。けれどそれは、単なる個人的な秘密ではなかった。乗客名簿、誰かの暮らし、いちばん弱い人。
そこには、複数の人生があった。
「何があったんですか」
紬はもう一度尋ねた。
灰原は便箋を畳まず、テーブルに置いた。
「嵐の夜でした」
その声は、ずっと昔の甲板に戻っているようだった。
「季節外れの荒れ方でね。欠航にすべきだったという人もいます。けれど当時は、今ほど判断が簡単ではなかった。荷も人も動かさなければならなかった。船は出ました」
「事故が起きたんですか」
「ええ。大きな事故、と記録されるほどではありません。新聞にも小さくしか載らなかった。けれど、あの船に乗っていた人間には、大きすぎる出来事でした」
灰原は壁の航路図を見た。
「ひとりの少年が、甲板で転びました。海に落ちかけた。澪さんが最初に気づき、走った。三原蒼も走った」
三原蒼。
紬はその名前を聞いた瞬間、胸の奥が音を立てた。
第二章で絹枝が言いかけ、言わなかった名前。母の父のことに関わるかもしれない名前。
「三原蒼さんは、母の……」
言葉が続かなかった。
灰原は紬を見た。
「その名前も、まだ澪さんから聞いていないんですね」
「母は、何も」
「そうですか」
「その人は、私の父ですか」
灰原はすぐには答えなかった。
「私が言えるのは、澪さんが三原蒼を深く大切に思っていたということです」
「答えになっていません」
「ええ。答えではありません」
苛立ちがこみ上げた。
「どうしてみんな、そうやってはっきり言わないんですか。母も、野々村さんも、灰原さんも。私はもう子どもじゃありません」
「子どもではないからです」
灰原の声は静かだった。
「子ども相手なら、わかりやすい答えだけ渡せばいい。けれどあなたは大人です。大人には、答えだけでは足りない。そこに至るまでの痛みも、迷いも、間違いも受け取らなければならない」
「そんなの、勝手です」
「そうですね」
灰原は否定しなかった。
「私たちは、勝手に黙ってきました」
その言葉に、紬は黙った。
灰原は便箋をもう一度見た。
「澪さんも、私も、あの夜からずっと黙ってきた。だからあなたが怒るのは当然です」
怒っていい。
そう言われると、怒りは少し行き場を失った。
紬は湯のみを握りしめた。
「母は、何を黙ったんですか」
「全部は、私からは言えません。ですが、ひとつだけ」
灰原は椅子から立ち上がり、奥の棚から古い帳面を持ってきた。
茶色い表紙のノート。角が擦り切れている。
「これは、当時の乗客名簿の控えです。正式なものではありません。私が個人的に残していたものです」
「母の手紙に書いてあったものですか」
「ええ」
灰原はページをめくった。
手書きの名前が並んでいる。日付、便名、乗船区間。
あるページで手が止まった。
「この日です」
紬は日付を見た。
胸の奥が、冷たくなった。
母の封筒の裏に書かれていた日付と同じだった。
一通目の手紙にも、二通目の手紙にも、形を変えて出てきた日付。十年前に書かれた手紙の中で、母が何度も戻っていた日。
「この日が、あの夜なんですね」
「そうです」
紬は名簿に並ぶ名前を見た。
知らない名前ばかりだった。
その中に、三原蒼の名があった。
朝倉澪の名前もある。
そして、相良正義という名前。
紬はその名前に目を止めた。
「相良……」
灰原が顔を上げた。
「次の手紙の宛先ではありませんか」
紬は鞄の中の箱を思い出した。
たしか、三通目の宛先は呉だった。
呉市。相良悠介様。
名字が同じだ。
「相良正義さんは?」
「呉の造船所の人でした。あの船をよく見ていた。事故のあと、澪さんと少し揉めたと聞いています」
「揉めた?」
「相良さんは、澪さんを責めたわけではない。ですが、周囲はそう見た。澪さん自身も、自分が責められていると思い込んだ」
灰原は名簿を閉じた。
「呉へ行きなさい」
また、同じことを言われた。
野々村絹枝は、竹原へ行けと言った。
灰原正臣は、呉へ行けと言う。
母の沈黙は、一か所では終わらない。
港から港へ、手紙がつながっている。
「母は、どうしてこんなふうに手紙を残したんでしょう」
紬は呟いた。
「直接話せばよかったのに。生きているうちに」
灰原は手紙を封筒に戻した。
「話せなかったのでしょう」
「だから、それが」
「許せませんか」
紬は答えられなかった。
許せない、と思う。
でも、母がどんな顔でこの手紙を書いたのかを想像すると、ただ責めることもできない。
ずるい。
死んでから手紙を見つけさせるなんて、ずるい。
けれど、そのずるさの中に、どうしようもない弱さがある気もした。
資料館を出る頃、雨はまだ降っていた。
灰原は入口まで見送りに来た。
「これを」
そう言って、小さな封筒を差し出した。
「何ですか」
「澪さんが昔、私に預けたものです。あなたが来たら渡すべきだと思いました」
「母が?」
「正確には、もし娘さんがここへ来ることがあれば、と」
紬は封筒を受け取った。
中には古い絵葉書が一枚入っていた。
瀬戸内の海を進む白い船。裏には、母の字で短い言葉が書かれている。
――言葉は、港を選ぶ。
紬はその一文を見つめた。
「意味、わかりますか」
灰原は静かに首を振った。
「私にもわかりません。ただ、澪さんらしい言葉です」
紬は絵葉書を鞄にしまった。
「手紙、届けてくださってありがとう」
灰原は深く頭を下げた。
「澪さんに、ようやく返事ができます」
「返事?」
「ええ。もう届かないとしても、書くことはできますから」
その言葉に、紬は胸を突かれた。
届かなくても、書くことはできる。
母は届かせられない手紙を書いた。
灰原はもう届かない返事を書く。
言葉は、どこへ行くのだろう。
雨の保存地区を歩きながら、紬は傘の内側で小さく息を吐いた。
白壁の町は、雨に濡れて静かだった。軒先から落ちる雫。石畳に映る格子戸。古い町並みは、過去をそのまま残しているようでいて、きっと多くのものを失っている。
残されたものだけが、歴史になる。
残されなかった声は、どこへ行くのだろう。
駅へ向かう途中、紬は喫茶店に入り、鞄から三通目の封筒を取り出した。
呉市。
相良悠介様。
灰原の名簿にあった相良正義と、どう関係があるのか。
母は相良という人に、何を謝ろうとしたのか。
封筒の裏の日付を見て、紬は指先を止めた。
二通目と同じ日付ではない。
けれど、その下に小さく、別の日付が書き添えられていた。
事故の日。
母が船に乗っていた日。
灰原の名簿に記されていた日。
紬は鞄の中から、一通目、二通目の封筒を思い出す。どちらにも、形は違うが同じ日付があった。
母の手紙は、すべてあの日へ戻っている。
紬はようやく気づいた。
十二通は、十二人への手紙ではない。
ひとつの夜をめぐる、十二の証言なのだ。
窓の外で、雨が強くなった。
紬はスマートフォンで、呉までの経路を調べた。竹原から電車を乗り継ぎ、海沿いを進む道。
母がかつて乗った船ではなく、いまは線路で向かう。
それでも、地図の上では同じ海に沿っている。
紬は三通目の封筒を鞄にしまった。
次は呉。
母が黙った夜の輪郭が、少しずつ近づいてくる。
喫茶店の窓ガラスに、雨粒がいくつも流れていた。向こう側の町並みは滲み、白壁も格子戸も境目を失っている。
紬はその滲んだ景色を見ながら、母の若い写真を思い出した。
売店の奥で、まっすぐこちらを見る母。
その目は、まだ何も失っていない人の目だった。
あの目が、いつから海を見るだけの目に変わったのだろう。
それを知るために、紬はもう少し先へ行かなければならなかった。




