第二話 坂の上のオルガン
翌朝、紬は母の部屋で目を覚ました。
いつ眠ったのか、覚えていなかった。文机に突っ伏したまま、夜を越してしまったらしい。頬に畳の目の跡がついている。首筋が痛い。窓の外では、早い時間の尾道がもう動き出していた。
坂道を上る原付の音。遠くの踏切。港の方から聞こえる低いエンジン音。どこかの家の雨戸が開く音。
東京の朝は、もっと硬かった。
電車のアナウンス、スマートフォンの通知音、エレベーターの到着音、誰かの靴音。すべてが急かすように鳴っていた。
尾道の朝は、急がない。
それがかえって、紬には落ち着かなかった。
文机の上には、桐の小箱が置いたままだった。昨夜、蓋を閉めたはずなのに、薄く隙間が開いている。自分でそうしたのだろうか。記憶が曖昧だった。
紬は箱の蓋を開けた。
白い封筒が十一通。
そして、宛名のない一通。
一通目だけが、もうない。
野々村絹枝のもとへ届けた手紙。老婦人は封筒を胸に抱き、泣いた。母の名前を、もう届かない場所へ向けて呼んだ。
――澪ちゃんはね、何も言わん人じゃなかったんです。
――あの子は、言葉を大事にしすぎる人じゃったんです。
その言葉が、紬の中に残っていた。
言葉を大事にしすぎる。
それは、美しい言い方だと思った。けれど同時に、少しずるいとも思った。大事にしすぎた結果、娘には何も言わなかったのなら、それはやはり沈黙ではないのか。
紬は箱から二通目を取り出した。
宛先は、広島県竹原市。
灰原正臣様。
昨日、老婦人の家で聞いた名前ではない。けれど封筒の裏には、やはり母の字で日付が書かれている。十年前の秋。母がまだ元気に店に立っていた頃だ。
封は開けられない。
それでも封筒を指でなぞるだけで、母がどんなふうにこれを書いたのか想像してしまう。文机に向かい、万年筆を取り、便箋の上で少し考える。書き出しに迷い、息をつき、それでも最後まで書く。封をする。切手を貼る。そこまでして、出さない。
母は、なぜそこまでして止まったのだろう。
紬は二通目を箱に戻した。
今日はまだ、竹原へ行く気にはなれなかった。
その前に、野々村絹枝の話をきちんと聞きたいと思った。
昨日は突然だった。自分も混乱していたし、老婦人も手紙を読んだ直後だった。母が十八歳の頃にここへ通っていたこと。海を見るだけの少女だったこと。船で働き始めたこと。
聞きたいことが、あとからいくつも浮かんできた。
紬は顔を洗い、店の奥の台所で湯を沸かした。
珈琲豆は棚に残っていた。母が使っていた手回しのミルも、いつもの場所にある。豆を挽くと、乾いた音とともに香りが広がった。
母の珈琲の味を、紬は再現できない。
何度か教わろうとしたことはある。けれど母は、湯の温度や粉の量を細かく説明する人ではなかった。
「焦らんこと」
それだけだった。
「焦らんかったら、おいしくなるの?」
「少なくとも、焦った味にはならんよ」
そう言って笑っていた。
紬は湯を細く落とした。粉がふくらむ。少し苦い香りが立ちのぼる。
一口飲んで、顔をしかめた。
濃い。
母の味ではない。
それでも温かいものを飲むと、体の奥に血が戻ってくる気がした。
昼前、紬はもう一度、坂を上った。
昨日と同じ道なのに、今日は少し違って見えた。石段の脇に咲く小さな花。錆びた郵便受け。開け放たれた窓から聞こえるテレビの音。塀の上で眠る猫。
母も若い頃、この道を上ったのだろうか。
十八歳の母。
紬が知っている母は、いつも母だった。エプロンをつけ、珈琲を淹れ、本を包み、店の奥で静かに笑う人。
その前に、母にも十八歳があった。
どこかへ行きたくて、でも行けなくて、坂の上の家で海を見ていた少女がいた。
当たり前のことなのに、紬は初めてそのことに気づいた。
野々村絹枝の家の風鈴は、今日も小さく鳴っていた。
呼び鈴を押すと、昨日より早く戸が開いた。
「あら、紬さん」
名前を呼ばれて、少し驚いた。
「すみません。また来てしまって」
「ええんよ。来ると思っとりました」
絹枝はそう言って、紬を家に招き入れた。
昨日と同じ部屋。窓辺に足踏みオルガンがある。古い木の艶。黄ばんだ鍵盤。ペダルのあたりには、使い込まれた傷がいくつもついている。
紬はそのオルガンを見つめた。
「母は、これを弾いていたんですか」
「少しだけね。上手ではなかったけど、音を出すのが好きそうでした」
絹枝はオルガンの前に座り、そっと鍵盤に触れた。
かすれた音が鳴った。
古い紙をめくるような、やわらかい音だった。
「昔は小学校で音楽を教えとったんです。退職してから、この家で近所の子に歌を教えたりしとりました。澪ちゃんは生徒ではなかったけれど、いつのまにか来るようになってね」
「どうして母は、ここへ?」
「たぶん、家にいたくなかったんでしょう」
絹枝は静かに言った。
紬は口をつぐんだ。
母の実家のことは、ほとんど知らない。祖父母は紬が幼い頃にはすでに亡くなっていた。母は自分の親の話をあまりしなかった。
「澪ちゃんのお父さんは、厳しい人でした。悪い人ではなかったんでしょうけど、家の中の空気を全部自分で決めてしまうような人でね。澪ちゃんは成績がよかったのに、進学は許されんかった」
「どうしてですか」
「女の子は家に残ればいい。店を手伝えばいい。そういう考えの人でした」
紬は膝の上で手を握った。
母が進学を諦めた話は、昨日初めて聞いた。
自分は東京の大学へ行った。母は反対しなかった。むしろ、行きなさいと言った。
尾道を出る朝、母は駅まで見送りに来た。大きな荷物を持った紬に、紙袋を渡した。中には文庫本が三冊入っていた。
「寂しくなったら読みんさい」
そのとき紬は少し反発した。
本なんて、東京にいくらでもある。
そう思った。
けれど母は、自分が行けなかった場所へ娘を送り出していたのかもしれない。
紬は窓の外を見た。
尾道の海が、昨日より少し白く光っていた。
「昨日の手紙、読まれたんですよね」
紬が尋ねると、絹枝は小さく頷いた。
「ええ」
「母は、何を書いていたんですか」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれど絹枝は怒らなかった。膝の横に置いていた封筒を手に取り、中から便箋を取り出した。
「全部は、私と澪ちゃんのものにさせてください。でも、あなたに関係のあるところは、聞いてほしい」
絹枝は老眼鏡をかけ、便箋を開いた。
母の字が、そこにあった。
紬は離れた場所から、文字の並びだけを見た。内容までは読めない。けれど、母がたしかにそこにいるようだった。
絹枝はゆっくり読み始めた。
「野々村先生。長い間、ご無沙汰しています。あの日、先生が私にくださった言葉を、私は今も忘れていません。海は逃げるためにあるのではなく、行くためにある。あの言葉がなければ、私は尾道を出ることも、船に乗ることも、紬を産むこともなかったと思います」
紬は息を止めた。
自分の名前が出てきた。
母の手紙の中に。
絹枝は少し間を置いてから続けた。
「先生から譲っていただいたオルガンは、もう手元にはありません。けれど、あの音はずっと私の中に残っています。初めて鍵盤を押したとき、私は、自分にも何かを始めることができるのだと思いました。ほんの小さな音でも、自分の足で空気を送り、自分の指で鳴らすことができる。それが、私には奇跡のようでした」
絹枝の声が少し震えた。
紬はオルガンを見た。
自分の足で空気を送り、自分の指で鳴らす。
母は、そういう感覚を覚えていたのか。
絹枝は便箋を一枚めくった。
「私はあの夜から、人に手紙を出す資格がないと思っていました。伝えるべきことを伝えず、言うべきことを飲み込み、誰かの人生を少しずつ変えてしまったからです。それでも先生にだけは、ありがとうを伝えたいと思いました。私が誰かの母になれたのは、先生が私をひとりの人間として外へ送り出してくださったからです」
紬の胸が、ぎゅっと縮んだ。
あの夜。
やはり、その言葉がある。
母は何かを飲み込んだ。
言うべきことを言わなかった。
誰かの人生を変えた。
「先生、私は今も尾道にいます。でも、あの頃の私とは違います。私は逃げ帰ったのではなく、選んでここにいます。娘には、いつか私の知らない海へ行ってほしい。もしあの子が戻ってきたとしても、それは負けではないと伝えられる母でいたい。そう思っています」
絹枝はそこで読むのをやめた。
部屋の中に、オルガンの余韻のような沈黙が落ちた。
紬は何度か瞬きをした。
母は、自分が東京へ行くことをどう思っていたのだろう。
寂しかったのだろうか。
誇らしかったのだろうか。
それとも、自分が行けなかった場所へ娘が行くことを、痛みと一緒に喜んでいたのだろうか。
紬は声を出そうとして、うまく出なかった。
「母は……そんなこと、一度も言いませんでした」
「でしょうね」
絹枝は便箋を丁寧に畳んだ。
「あの子は、言葉を選びすぎるところがありました。相手を傷つけない言葉、自分が背負えば済む言葉、あとで言えばいい言葉。そうやって選んでいるうちに、言えなくなる」
紬は苦く笑った。
「それって、結局、何も言わないのと同じじゃないですか」
思ったより冷たい声が出た。
絹枝は紬を責めなかった。
「そうかもしれません」
あっさりと言った。
「言葉は、出さなければ届きません。どれだけ大事にしても、引き出しの中にしまったままでは、誰のところにも行けない」
紬は桐の箱を思い浮かべた。
十一通の手紙。
宛名のない一通。
「だから、あなたが見つけたんでしょうね」
「私が?」
「澪ちゃんは、自分では出せなかった。でも捨てもしなかった。誰にも見つからないように隠したのではなく、いつか誰かが見つけられる場所に置いた」
「そんな都合のいい話……」
言いかけて、紬は黙った。
母の文机。三段目の引き出し。風呂敷に包まれた桐の箱。
たしかに、燃やすこともできたはずだ。破ることも、海に捨てることもできたはずだ。
母はそうしなかった。
出せないまま、残した。
それは、何なのだろう。
未練か。願いか。罰か。
「澪ちゃんは、船に乗ってから変わりました」
絹枝はオルガンの鍵盤に手を置いた。
「最初に帰ってきたとき、顔が違っていました。日焼けして、少し痩せて、でも目が明るかった。港でいろんな人に会うのが楽しいと言っていました。本を売るだけじゃなく、誰かに合う一冊を探すのが好きだと」
「母らしいですね」
紬は思わずそう言った。
絹枝が微笑む。
「ええ。母になってからの澪ちゃんしか知らないあなたにも、そう思えるんですね」
紬は少し戸惑った。
母らしい。
たしかにそう言った。
昔の母を知らないのに。
でも、誰かに本を選ぶ母の姿なら、よく知っている。
店で、母はよく客の話を聞いていた。大げさに励ましたり、助言したりはしない。ただ、棚の前で少し考え、本を一冊差し出す。
「これ、今のあなたに合うかもしれん」
その言葉を聞いて、本を受け取った客がどんな顔をしていたか、紬は今になって思い出した。
救われたような顔。
何かを許されたような顔。
「船でも、同じことをしていたんですね」
「そうでしょうね」
絹枝は頷いた。
「船は、いろんな人が乗ります。帰る人、出ていく人、会いに行く人、別れてきた人。澪ちゃんは、そういう人たちの顔を見るのが上手でした」
「それなのに、どうして尾道に戻ったんでしょう」
絹枝の表情が、わずかに曇った。
「それは、私からは言えません」
「知っているんですか」
「少しだけ。でも、全部ではありません」
「事故のことですか」
紬が尋ねると、絹枝は答えなかった。
代わりに、オルガンのペダルを静かに踏んだ。鍵盤に触れると、低い音がひとつ鳴った。
「澪ちゃんは、一度だけここへ来て泣きました」
絹枝は言った。
「船を降りたあとです。髪が濡れていて、手が冷たくて、何も言わずにそこへ座っていました」
絹枝は、窓際の畳を見た。
「私は何があったのか聞きませんでした。聞けば、あの子は答えようとしてしまうから」
紬は喉の奥が詰まった。
自分なら聞いただろう。
どうしたの、何があったの、なぜ泣いているの。
答えを求めたはずだ。
けれど絹枝は聞かなかった。答えさせないことで、母を守ったのかもしれない。
「そのとき、澪ちゃんはこのオルガンを弾きました。音はめちゃくちゃでした。でも、しばらく弾いて、最後に言いました」
「何て?」
「私は、もう誰にも手紙を出せん、って」
紬は息をのんだ。
「どういう意味ですか」
「わかりません。私も、今でも全部はわからんのです」
絹枝は首を振った。
「でも、そのあと澪ちゃんは尾道に戻り、しばらくしてあなたを産みました。そして潮待ち堂を始めた」
「父のことは、何か聞いていませんか」
言葉が勝手に出た。
聞くつもりはなかった。けれど止められなかった。
絹枝は紬を見た。
まっすぐな目だった。
「澪ちゃんは、あなたのお父さんのことを悪く言ったことは一度もありません」
「じゃあ、知ってるんですか」
「名前は聞いたことがあります。でも、それを私があなたに言うべきではないと思います」
紬の胸に、怒りが走った。
まただ。
みんな、母と同じだ。
知っているのに言わない。言うべきではないと言う。こちらがどれだけ知りたいかを、勝手に決める。
「私のことなのに」
紬は低く言った。
「父親のことは、私のことです。母の秘密じゃない」
「そうですね」
絹枝は静かに受け止めた。
「あなたには、知る権利があります」
「だったら」
「でも、知る順番もあります」
紬は唇を噛んだ。
「順番なんて」
「大事です。言葉と同じです。先に置くか、あとに置くかで、意味が変わる」
編集者だった紬には、その意味がわかってしまった。
わかることが、悔しかった。
絹枝は便箋を封筒に戻した。
「竹原へ行きなさい」
「竹原?」
「次の手紙の宛先は、竹原ではありませんか」
紬は驚いて絹枝を見た。
「どうしてわかるんですか」
「澪ちゃんが船に乗って、最初に長く停まった港です。あそこで出会った人が、あの子の人生をもう一度動かした」
「灰原正臣さんを知っていますか」
絹枝は少し考えたあと、頷いた。
「名前だけ。澪ちゃんが昔、灰原さんから古い本をもらったと言っていました」
「どんな人ですか」
「私より、その人に会ったほうがいい」
絹枝はそう言って、窓の外の海を見た。
「手紙は、届いて初めて続きが始まります」
その言葉は、紬の胸に残った。
手紙は、届いて初めて続きが始まる。
母の手紙は、十年も十五年も、始まらないまま引き出しの奥に眠っていた。
それを起こしてしまったのは、自分だ。
ならば、最後まで起こす責任があるのだろうか。
帰り際、絹枝は小さな包みを紬に渡した。
「これを持っていきなさい」
「何ですか」
「澪ちゃんが昔、この家に忘れていったものです。いつか返そうと思っていました」
包みの中には、古い鍵盤の欠片が入っていた。象牙色の小さな板。裏に、母の字で一文字だけ書かれている。
行。
「行く、の行ですか」
「たぶんね」
絹枝は微笑んだ。
「澪ちゃんは、その字が好きだと言っていました。人が道を歩いている形に見えるから、と」
紬は鍵盤の欠片を手のひらに載せた。
軽い。
けれど、なぜか温かかった。
坂を下りる途中、紬は何度もその欠片を見た。
行。
行くための海。
逃げるためではなく、行くため。
母はその言葉に押されて、尾道を出た。
そして何かを抱えて、戻ってきた。
潮待ち堂に戻ると、店の中は午後の光に満ちていた。棚の上の埃が、細かく光っている。カウンターの奥に、母のエプロンが昨日と同じようにかかっていた。
紬は文机の前に座り、桐の箱を開けた。
二通目の封筒を取り出す。
広島県竹原市。
灰原正臣様。
母はこの人に、何を書いたのだろう。
紬はスマートフォンで竹原までの経路を調べた。尾道から電車を乗り継げば行ける。海沿いの駅をいくつも越えていく道のりだった。
明日、行こう。
そう決めた瞬間、心の中で何かが小さく鳴った。
オルガンの古い音に似ていた。
上手ではない。澄んでもいない。けれど、自分の足で空気を送り、自分の指で鳴らす音。
紬は二通目の手紙を鞄に入れた。
その横に、鍵盤の欠片もそっと入れる。
夜になっても、店の貼り紙はそのままだった。
――本日、臨時休業。
母の字が、暗がりの中に白く浮かんでいる。
紬はしばらくそれを見つめたあと、紙の下に小さく自分の字で書き足した。
――しばらく、旅に出ます。
下手な字だった。
母の字のように丸くも、やさしくもない。
でも、それは紬が自分で書いた言葉だった。
翌朝、紬は二通目の手紙を持って、尾道駅へ向かった。
坂を下りる途中、海が見えた。
逃げるためではなく、行くための海。
母が十八歳で見た海と、三十二歳の紬が見る海は、同じようで少し違っていた。
ホームに電車が入ってくる。
紬は鞄の中の封筒に触れた。
母の沈黙の続きが、竹原で待っている。




