表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮待ちの十二通  作者: swingout777


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/17

第十五話 十二通目は、開けないまま

 朝になっても、紬は封筒を開けなかった。


 文机の上に、白い封筒が置かれている。


 宛名はない。

 差出人もない。

 裏に、母の字で日付だけが書かれている。


 母が亡くなる三日前の日付。


 それだけで、封筒はほかのどの手紙よりも重かった。


 野々村絹枝への手紙。

 灰原正臣への手紙。

 相良悠介への手紙。

 白石灯子、森脇朔太郎、真鍋郁子、宮部君代、佐伯千景、倉田宗一、水野透、赤間宗一郎、高瀬環。


 十一通の手紙は、それぞれ誰かのもとへ届いた。


 届くたびに、母の一部がほどけた。


 母は尾道を出たかった少女だった。

 船の売店で本を選んでいた人だった。

 嵐の夜、少年へ手を伸ばした人だった。

 三原蒼を愛し、守ろうとして、守りきれなかった人だった。

 今治まで来て、会わずに帰った人だった。

 妊娠中に松山の下宿で泣いた人だった。

 小豆島の親友にだけ弱さを預けた人だった。

 蒼の写真を見ても会わなかった人だった。

 小説を書きたかった人だった。

 下関の海を見に行けなかった人だった。

 門司の喫茶店で海峡を渡れなかった人だった。


 そして最後に残ったのは、紬への手紙だった。


 おそらく。


 いや、間違いなく。


 封筒の中には、幼い紬の写真らしい硬さがある。宛名がなくても、これは自分へ向けられたものだとわかっていた。


 だからこそ、開けられなかった。


 紬は文机の前に座ったまま、朝の光が障子を白くしていくのを見ていた。


 潮待ち堂はまだ静かだった。


 店の方から、古い木が鳴る音がした。風で棚が軋んだのかもしれない。外では、坂道を上る誰かの足音が聞こえる。遠くの踏切が鳴り、港の方から低いエンジン音が届く。


 尾道の朝。


 母が何十年も聞いてきた音。


 紬は封筒に触れた。


 冷たい。


 紙なのに、冷たく感じた。


 開ければ、母の声が戻ってくる。


 そう思うと、指が動かなかった。


 もし、そこに「ごめんなさい」と書かれていたら。


 紬は母を許さなければならないのだろうか。


 許せないままでいてもいいのだろうか。


 もし、そこに「愛しています」と書かれていたら。


 紬は、自分が愛されていたことを認めなければならない。


 そうなれば、これまで抱えてきた怒りの一部は、行き場を失う。


 父を知らされなかった怒り。

 母が何も言わなかった怒り。

 自分だけが待たされた怒り。


 それらを、どこへ置けばいいのだろう。


 愛されていたことと、傷つけられたことは、同時に存在する。


 そのことを、旅の中で何度も知った。


 でも、知ることと、受け入れることは違う。


 紬は封筒から手を離した。


 読まない。


 少なくとも、今はまだ。


 台所へ行き、湯を沸かした。


 珈琲豆を挽く。湯を落とす。粉がふくらむのを待つ。母がしていたように、急がず、息を整えながら。


 カップに注いだ珈琲は、以前より少しだけ母の味に近づいた気がした。


 けれど、完全には違う。


 苦みが少し強い。香りも浅い。


 それでも紬は、その味を嫌いではないと思った。


 カップを持って店へ出ると、カウンターの上には昨夜の名残があった。


 岡本さんの煮物。

 返された鍵束。

 女子高生が返した文庫本。

 配達員の感想メモ。


 母が町に残したもの。


 昨夜までは、それらが温かく見えた。


 しかし朝の光の中では、少し怖くもあった。


 自分に、この場所を引き受けられるのだろうか。


 母の店。

 母の常連。

 母が築いた信頼。

 母が預かっていた鍵。

 母が選んだ本。


 紬はずっと、他人の原稿を読む仕事をしてきた。


 誰かが書いた物語を整え、必要な言葉を探し、読みやすくする仕事。だが潮待ち堂は、原稿ではない。赤字を入れて直せるものではない。


 ここには、人が来る。


 本を買うためだけではなく、母のような誰かに会うために。


 紬は、母にはなれない。


 そう思うと、胸が苦しくなった。


 店の引き戸が、軽く叩かれた。


 まだ開店していない。そもそも、今は休業中だ。


 紬が戸を開けると、律が立っていた。


 片手に紙袋、もう片方にカメラバッグ。


「早いね」


「起きてる気がした」


「写真屋って、顔だけじゃなくて気配も読むの?」


「尾道の坂は、気配が上がってくる」


「何それ」


 紬が少し笑うと、律も笑った。


「朝ごはん。パンと卵サンド」


「また?」


「食べんじゃろ」


「……ありがとう」


 律は店に入り、カウンターに紙袋を置いた。


 すぐに、文机の方を見たわけではない。だが、最後の手紙のことをわかっている顔だった。


「読んだ?」


 紬は首を横に振った。


「まだ」


「そっか」


「読まなきゃいけないと思う?」


「思わない」


 即答だった。


 紬は少し驚いた。


「律なら、そう言うと思ったけど」


「じゃあ聞かなくても」


「聞きたかったの」


「そっか」


 律は椅子に座り、パンを取り出した。


「読まないでいるのも、しんどいじゃろ」


 紬は珈琲をもう一杯淹れながら頷いた。


「読んだら終わる気がする」


「旅が?」


「母のことを知る旅が」


「終わるのが怖い?」


「それもある」


 紬は律の前にカップを置いた。


「でも、それだけじゃない。読んだら、母の言葉が最後になってしまう気がする」


「最後?」


「うん。もう新しい母の言葉は増えない。今までは、行く先々で誰かが母の言葉を持っていた。でも、この手紙を読んだら、本当に最後」


 言っているうちに、胸が苦しくなった。


 母はもういない。


 そんなことは、葬儀の日からわかっていたはずだ。


 けれど旅の中で、母は何度も戻ってきた。誰かの記憶の中から、手紙の中から、写真の中から、母子手帳のメモから。


 だから、完全には死んでいないように思えてしまった。


 最後の手紙を読めば、その錯覚も終わる。


 紬はそれが怖いのだと、今初めて気づいた。


 律はカップを両手で持ち、少し考えてから言った。


「読んでも、終わらんと思うよ」


「どうして」


「紬が返事を書くから」


 紬は息を止めた。


「返事?」


「うん。書くじゃろ。たぶん」


 考えたことがなかった。


 母の手紙を読むことばかり考えていた。受け取ること、許すこと、怒ること、泣くこと。


 返事を書く。


 その選択肢は、紬の中になかった。


「届かないよ」


「届かんでも、書ける」


 灰原も、相良も、そう言っていた。


 届かなくても、書くことはできる。


 それを聞いたとき、紬は理解したつもりでいた。けれど、それが自分自身にも向けられる言葉だとは思っていなかった。


「何を書けばいいの」


「怒ってるって」


 律はあっさり言った。


「それから?」


「知らん。紬が書くんじゃけえ」


「雑」


「代筆はできん」


 その通りだった。


 紬は少し笑った。


 律はサンドイッチを食べながら、店の棚を見回した。


「ここ、どうする?」


「急に?」


「急じゃないじゃろ。ずっと考えとる顔しとった」


 紬はカウンターの内側から、店を見渡した。


 本棚、カウンター、窓際の席、小さな丸テーブル、母のエプロン、貼り紙。


「わからない」


「うん」


「閉めるつもりだった。でも、昨日いろんな人が来て、母がここで何をしていたのか少しわかった。そうしたら、簡単に閉めるとは言えなくなった」


「うん」


「でも、続けるとも言えない。私、母みたいにはできない」


「澪さんみたいにやる必要ある?」


「ないのかな」


「ないと思う」


 律は店の窓を見た。


「澪さんの潮待ち堂は、澪さんで終わったんじゃないかな」


 紬の胸が少し痛んだ。


「終わった?」


「うん。でも、この場所が終わるかどうかは別」


 律はカップを置いた。


「次に開けるなら、紬の潮待ち堂になるんじゃない」


 紬の潮待ち堂。


 昨夜も律は似たことを言った。


 紬の店。


 まだ遠い言葉だった。


 でも、まったくありえない言葉ではなくなっている。


 母をなぞるのではなく、自分の形で場所を開く。


 もしそれができるなら。


 紬はふと、福山で受け取った母の未完の原稿を思い出した。


 少女は、出せなかった手紙を運んでいた。


 潮待ち堂を、手紙を書く場所にできないだろうか。


 本を買うだけではなく、誰かが言えなかった言葉を書く場所。出すか出さないかは決めなくていい。ただ、書いてみる場所。


 母ができなかったことを、母の代わりにするのではない。


 母が残した傷を、別の形へ変える。


 そんなことが、できるだろうか。


 紬は自分の考えに少し驚いた。


 まだ何も決めていない。けれど、店を閉める以外の未来を初めて想像した。


 昼前になると、また人が来た。


 最初に来たのは、昨日の女子高生だった。今度は一人ではなく、友人を連れている。


「あの、すみません。まだ開いてないですよね」


「うん、まだ休業中」


「ですよね。でも、ここで勉強してもいいか聞こうと思って」


「勉強?」


「家だと集中できなくて。澪さん、前に『席が空いてたら使っていいよ』って言ってくれてたんです」


 紬は一瞬迷った。


 母ならどうするだろう、と考えそうになり、やめた。


 自分ならどうするか。


 目の前の子は、本当に困っているように見えた。無理に店を開ける必要はない。でも、席を貸すくらいならできる。


「珈琲は出せないけど、水でいいなら」


 女子高生の顔が明るくなった。


「ありがとうございます」


 窓際の席に二人が座る。


 参考書を開き、ペンケースを置く。小さな声で問題を教え合っている。


 潮待ち堂に、人の気配が戻った。


 不思議だった。


 店はまだ休業中なのに、少しだけ息を吹き返したように見える。


 次に来たのは、白髪の女性だった。常連客らしく、戸口で遠慮がちに頭を下げた。


「澪さんに頼んどった本、届いとるかと思って」


「すみません、まだ整理できていなくて」


「ええんよ。急がんけえ」


 女性は棚を見て、少し寂しそうに笑った。


「澪さん、私が夫を亡くしたとき、何も言わずに詩集を一冊出してくれてね。読む気もなかったけど、枕元に置いとったら、ある日読めたんよ」


 それから女性は、紬を見た。


「あなたも、何も急がんでええよ。読めん本は、読める日まで置いとけばええんじゃけえ」


 紬は、はっとした。


 読めない本。

 読めない手紙。


 読める日まで置いておけばいい。


 女性は何も知らないはずだ。最後の封筒のことも、蒼の封筒のことも。


 それでも、その言葉はまっすぐ紬に届いた。


「ありがとうございます」


 紬が言うと、女性は頷き、また来るねと言って帰っていった。


 午後、律は写真館へ戻った。


 入れ替わるように、岡本さんがまた顔を出した。今日はおにぎりを持ってきた。


「毎日すみません」


「ええんよ。澪さんの娘さんに食べさせるの、澪さんに怒られんようにするためじゃけえ」


「母に?」


「そう。あの人、にこにこしながら人の心配はするくせに、自分のことは放っとくじゃろ」


 紬は苦笑した。


「そうですね」


「あんたも似とるよ」


「私も?」


「顔じゃなくて、抱え込み方が」


 岡本さんはさらりと言った。


 紬は返す言葉に迷った。


 みんな、よく見ている。


 母がこの町の人を見ていたように、この町の人もまた母を見ていた。そして今、紬のことも見ている。


 それは少し息苦しい。


 でも、温かくもあった。


 夕方になる頃、潮待ち堂は不思議な状態になっていた。


 営業しているわけではないのに、人が少しずつ出入りする。女子高生が勉強をし、近所の人が本の返却をし、誰かが母の思い出をひとつ置いていく。


 紬はそのたびに戸惑いながら、話を聞いた。


 母の知らない一面は、旅の外にもまだたくさんあった。


 遠くの港へ行かなくても、母はこの坂の町に残っていた。


 夜になり、ようやく店が静かになると、紬は文机の前に戻った。


 十二通目は、まだそこにある。


 今日は何度も思った。


 開けよう。


 今なら読めるかもしれない。


 でも、そのたびに手が止まった。


 怖いのは、母の謝罪でも、愛でも、言い訳でもないのかもしれない。


 紬は、自分が母へ何を返すのかが怖いのだ。


 怒っていると書くのか。

 会いたかったと書くのか。

 どうして話してくれなかったのかと責めるのか。

 それでも愛されていたことを知っていると書くのか。


 母の手紙を読むということは、母の最後の言葉を受け取ることではない。


 自分の言葉を始めることなのだ。


 律が言った通り。


 紬は、返事を書くことになる。


 それが怖かった。


 他人の文章なら、いくらでも整えられた。


 けれど自分の本当の言葉は、うまく書ける気がしない。


 紬は引き出しから便箋を出した。


 母が使っていたものだ。白く、薄く、少しざらついた紙。


 まだ母の手紙は読んでいない。


 それでも、返事の前に、練習のように一行だけ書いてみた。


 ――お母さんへ。


 それだけで、手が止まった。


 お母さん。


 その呼びかけを文字にするのは、いつ以来だろう。


 母の日のカード以来かもしれない。小学生の頃、赤いカーネーションの絵の横に書いた。


 お母さん、いつもありがとう。


 あの頃は、ありがとうの意味を知らなかった。


 今は知りすぎて、簡単に書けない。


 紬は便箋を破らなかった。


 そのまま、文机の上に置いた。


 宛名のない封筒の横に、自分の書きかけの便箋を並べる。


 母の最後の手紙。

 紬の最初の返事。


 まだどちらも始まっていない。


 それでも、二つの白い紙が並んでいるだけで、少しだけ空気が変わった。


 夜が深くなる。


 潮待ち堂の本棚は暗がりの中に沈み、窓の外には尾道の灯りが点々と浮かんでいる。坂の下の海は見えない。けれど、潮の気配は確かにある。


 紬は布団を敷かず、文机の前に座ったまま、白い封筒を見つめていた。


 開けないまま、一日が終わる。


 それでいいと思った。


 読めない手紙は、読める日まで置いておけばいい。


 けれど、明日は読もう。


 そう思った。


 確信ではない。勇気でもない。


 ただ、今日一日開けなかったことで、明日開けるための場所が心の中に少しだけできた。


 紬は封筒にそっと手を置いた。


「明日、読むね」


 声に出して言った。


 返事はない。


 それでも、母がどこかで静かに頷いたような気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ