第十五話 十二通目は、開けないまま
朝になっても、紬は封筒を開けなかった。
文机の上に、白い封筒が置かれている。
宛名はない。
差出人もない。
裏に、母の字で日付だけが書かれている。
母が亡くなる三日前の日付。
それだけで、封筒はほかのどの手紙よりも重かった。
野々村絹枝への手紙。
灰原正臣への手紙。
相良悠介への手紙。
白石灯子、森脇朔太郎、真鍋郁子、宮部君代、佐伯千景、倉田宗一、水野透、赤間宗一郎、高瀬環。
十一通の手紙は、それぞれ誰かのもとへ届いた。
届くたびに、母の一部がほどけた。
母は尾道を出たかった少女だった。
船の売店で本を選んでいた人だった。
嵐の夜、少年へ手を伸ばした人だった。
三原蒼を愛し、守ろうとして、守りきれなかった人だった。
今治まで来て、会わずに帰った人だった。
妊娠中に松山の下宿で泣いた人だった。
小豆島の親友にだけ弱さを預けた人だった。
蒼の写真を見ても会わなかった人だった。
小説を書きたかった人だった。
下関の海を見に行けなかった人だった。
門司の喫茶店で海峡を渡れなかった人だった。
そして最後に残ったのは、紬への手紙だった。
おそらく。
いや、間違いなく。
封筒の中には、幼い紬の写真らしい硬さがある。宛名がなくても、これは自分へ向けられたものだとわかっていた。
だからこそ、開けられなかった。
紬は文机の前に座ったまま、朝の光が障子を白くしていくのを見ていた。
潮待ち堂はまだ静かだった。
店の方から、古い木が鳴る音がした。風で棚が軋んだのかもしれない。外では、坂道を上る誰かの足音が聞こえる。遠くの踏切が鳴り、港の方から低いエンジン音が届く。
尾道の朝。
母が何十年も聞いてきた音。
紬は封筒に触れた。
冷たい。
紙なのに、冷たく感じた。
開ければ、母の声が戻ってくる。
そう思うと、指が動かなかった。
もし、そこに「ごめんなさい」と書かれていたら。
紬は母を許さなければならないのだろうか。
許せないままでいてもいいのだろうか。
もし、そこに「愛しています」と書かれていたら。
紬は、自分が愛されていたことを認めなければならない。
そうなれば、これまで抱えてきた怒りの一部は、行き場を失う。
父を知らされなかった怒り。
母が何も言わなかった怒り。
自分だけが待たされた怒り。
それらを、どこへ置けばいいのだろう。
愛されていたことと、傷つけられたことは、同時に存在する。
そのことを、旅の中で何度も知った。
でも、知ることと、受け入れることは違う。
紬は封筒から手を離した。
読まない。
少なくとも、今はまだ。
台所へ行き、湯を沸かした。
珈琲豆を挽く。湯を落とす。粉がふくらむのを待つ。母がしていたように、急がず、息を整えながら。
カップに注いだ珈琲は、以前より少しだけ母の味に近づいた気がした。
けれど、完全には違う。
苦みが少し強い。香りも浅い。
それでも紬は、その味を嫌いではないと思った。
カップを持って店へ出ると、カウンターの上には昨夜の名残があった。
岡本さんの煮物。
返された鍵束。
女子高生が返した文庫本。
配達員の感想メモ。
母が町に残したもの。
昨夜までは、それらが温かく見えた。
しかし朝の光の中では、少し怖くもあった。
自分に、この場所を引き受けられるのだろうか。
母の店。
母の常連。
母が築いた信頼。
母が預かっていた鍵。
母が選んだ本。
紬はずっと、他人の原稿を読む仕事をしてきた。
誰かが書いた物語を整え、必要な言葉を探し、読みやすくする仕事。だが潮待ち堂は、原稿ではない。赤字を入れて直せるものではない。
ここには、人が来る。
本を買うためだけではなく、母のような誰かに会うために。
紬は、母にはなれない。
そう思うと、胸が苦しくなった。
店の引き戸が、軽く叩かれた。
まだ開店していない。そもそも、今は休業中だ。
紬が戸を開けると、律が立っていた。
片手に紙袋、もう片方にカメラバッグ。
「早いね」
「起きてる気がした」
「写真屋って、顔だけじゃなくて気配も読むの?」
「尾道の坂は、気配が上がってくる」
「何それ」
紬が少し笑うと、律も笑った。
「朝ごはん。パンと卵サンド」
「また?」
「食べんじゃろ」
「……ありがとう」
律は店に入り、カウンターに紙袋を置いた。
すぐに、文机の方を見たわけではない。だが、最後の手紙のことをわかっている顔だった。
「読んだ?」
紬は首を横に振った。
「まだ」
「そっか」
「読まなきゃいけないと思う?」
「思わない」
即答だった。
紬は少し驚いた。
「律なら、そう言うと思ったけど」
「じゃあ聞かなくても」
「聞きたかったの」
「そっか」
律は椅子に座り、パンを取り出した。
「読まないでいるのも、しんどいじゃろ」
紬は珈琲をもう一杯淹れながら頷いた。
「読んだら終わる気がする」
「旅が?」
「母のことを知る旅が」
「終わるのが怖い?」
「それもある」
紬は律の前にカップを置いた。
「でも、それだけじゃない。読んだら、母の言葉が最後になってしまう気がする」
「最後?」
「うん。もう新しい母の言葉は増えない。今までは、行く先々で誰かが母の言葉を持っていた。でも、この手紙を読んだら、本当に最後」
言っているうちに、胸が苦しくなった。
母はもういない。
そんなことは、葬儀の日からわかっていたはずだ。
けれど旅の中で、母は何度も戻ってきた。誰かの記憶の中から、手紙の中から、写真の中から、母子手帳のメモから。
だから、完全には死んでいないように思えてしまった。
最後の手紙を読めば、その錯覚も終わる。
紬はそれが怖いのだと、今初めて気づいた。
律はカップを両手で持ち、少し考えてから言った。
「読んでも、終わらんと思うよ」
「どうして」
「紬が返事を書くから」
紬は息を止めた。
「返事?」
「うん。書くじゃろ。たぶん」
考えたことがなかった。
母の手紙を読むことばかり考えていた。受け取ること、許すこと、怒ること、泣くこと。
返事を書く。
その選択肢は、紬の中になかった。
「届かないよ」
「届かんでも、書ける」
灰原も、相良も、そう言っていた。
届かなくても、書くことはできる。
それを聞いたとき、紬は理解したつもりでいた。けれど、それが自分自身にも向けられる言葉だとは思っていなかった。
「何を書けばいいの」
「怒ってるって」
律はあっさり言った。
「それから?」
「知らん。紬が書くんじゃけえ」
「雑」
「代筆はできん」
その通りだった。
紬は少し笑った。
律はサンドイッチを食べながら、店の棚を見回した。
「ここ、どうする?」
「急に?」
「急じゃないじゃろ。ずっと考えとる顔しとった」
紬はカウンターの内側から、店を見渡した。
本棚、カウンター、窓際の席、小さな丸テーブル、母のエプロン、貼り紙。
「わからない」
「うん」
「閉めるつもりだった。でも、昨日いろんな人が来て、母がここで何をしていたのか少しわかった。そうしたら、簡単に閉めるとは言えなくなった」
「うん」
「でも、続けるとも言えない。私、母みたいにはできない」
「澪さんみたいにやる必要ある?」
「ないのかな」
「ないと思う」
律は店の窓を見た。
「澪さんの潮待ち堂は、澪さんで終わったんじゃないかな」
紬の胸が少し痛んだ。
「終わった?」
「うん。でも、この場所が終わるかどうかは別」
律はカップを置いた。
「次に開けるなら、紬の潮待ち堂になるんじゃない」
紬の潮待ち堂。
昨夜も律は似たことを言った。
紬の店。
まだ遠い言葉だった。
でも、まったくありえない言葉ではなくなっている。
母をなぞるのではなく、自分の形で場所を開く。
もしそれができるなら。
紬はふと、福山で受け取った母の未完の原稿を思い出した。
少女は、出せなかった手紙を運んでいた。
潮待ち堂を、手紙を書く場所にできないだろうか。
本を買うだけではなく、誰かが言えなかった言葉を書く場所。出すか出さないかは決めなくていい。ただ、書いてみる場所。
母ができなかったことを、母の代わりにするのではない。
母が残した傷を、別の形へ変える。
そんなことが、できるだろうか。
紬は自分の考えに少し驚いた。
まだ何も決めていない。けれど、店を閉める以外の未来を初めて想像した。
昼前になると、また人が来た。
最初に来たのは、昨日の女子高生だった。今度は一人ではなく、友人を連れている。
「あの、すみません。まだ開いてないですよね」
「うん、まだ休業中」
「ですよね。でも、ここで勉強してもいいか聞こうと思って」
「勉強?」
「家だと集中できなくて。澪さん、前に『席が空いてたら使っていいよ』って言ってくれてたんです」
紬は一瞬迷った。
母ならどうするだろう、と考えそうになり、やめた。
自分ならどうするか。
目の前の子は、本当に困っているように見えた。無理に店を開ける必要はない。でも、席を貸すくらいならできる。
「珈琲は出せないけど、水でいいなら」
女子高生の顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
窓際の席に二人が座る。
参考書を開き、ペンケースを置く。小さな声で問題を教え合っている。
潮待ち堂に、人の気配が戻った。
不思議だった。
店はまだ休業中なのに、少しだけ息を吹き返したように見える。
次に来たのは、白髪の女性だった。常連客らしく、戸口で遠慮がちに頭を下げた。
「澪さんに頼んどった本、届いとるかと思って」
「すみません、まだ整理できていなくて」
「ええんよ。急がんけえ」
女性は棚を見て、少し寂しそうに笑った。
「澪さん、私が夫を亡くしたとき、何も言わずに詩集を一冊出してくれてね。読む気もなかったけど、枕元に置いとったら、ある日読めたんよ」
それから女性は、紬を見た。
「あなたも、何も急がんでええよ。読めん本は、読める日まで置いとけばええんじゃけえ」
紬は、はっとした。
読めない本。
読めない手紙。
読める日まで置いておけばいい。
女性は何も知らないはずだ。最後の封筒のことも、蒼の封筒のことも。
それでも、その言葉はまっすぐ紬に届いた。
「ありがとうございます」
紬が言うと、女性は頷き、また来るねと言って帰っていった。
午後、律は写真館へ戻った。
入れ替わるように、岡本さんがまた顔を出した。今日はおにぎりを持ってきた。
「毎日すみません」
「ええんよ。澪さんの娘さんに食べさせるの、澪さんに怒られんようにするためじゃけえ」
「母に?」
「そう。あの人、にこにこしながら人の心配はするくせに、自分のことは放っとくじゃろ」
紬は苦笑した。
「そうですね」
「あんたも似とるよ」
「私も?」
「顔じゃなくて、抱え込み方が」
岡本さんはさらりと言った。
紬は返す言葉に迷った。
みんな、よく見ている。
母がこの町の人を見ていたように、この町の人もまた母を見ていた。そして今、紬のことも見ている。
それは少し息苦しい。
でも、温かくもあった。
夕方になる頃、潮待ち堂は不思議な状態になっていた。
営業しているわけではないのに、人が少しずつ出入りする。女子高生が勉強をし、近所の人が本の返却をし、誰かが母の思い出をひとつ置いていく。
紬はそのたびに戸惑いながら、話を聞いた。
母の知らない一面は、旅の外にもまだたくさんあった。
遠くの港へ行かなくても、母はこの坂の町に残っていた。
夜になり、ようやく店が静かになると、紬は文机の前に戻った。
十二通目は、まだそこにある。
今日は何度も思った。
開けよう。
今なら読めるかもしれない。
でも、そのたびに手が止まった。
怖いのは、母の謝罪でも、愛でも、言い訳でもないのかもしれない。
紬は、自分が母へ何を返すのかが怖いのだ。
怒っていると書くのか。
会いたかったと書くのか。
どうして話してくれなかったのかと責めるのか。
それでも愛されていたことを知っていると書くのか。
母の手紙を読むということは、母の最後の言葉を受け取ることではない。
自分の言葉を始めることなのだ。
律が言った通り。
紬は、返事を書くことになる。
それが怖かった。
他人の文章なら、いくらでも整えられた。
けれど自分の本当の言葉は、うまく書ける気がしない。
紬は引き出しから便箋を出した。
母が使っていたものだ。白く、薄く、少しざらついた紙。
まだ母の手紙は読んでいない。
それでも、返事の前に、練習のように一行だけ書いてみた。
――お母さんへ。
それだけで、手が止まった。
お母さん。
その呼びかけを文字にするのは、いつ以来だろう。
母の日のカード以来かもしれない。小学生の頃、赤いカーネーションの絵の横に書いた。
お母さん、いつもありがとう。
あの頃は、ありがとうの意味を知らなかった。
今は知りすぎて、簡単に書けない。
紬は便箋を破らなかった。
そのまま、文机の上に置いた。
宛名のない封筒の横に、自分の書きかけの便箋を並べる。
母の最後の手紙。
紬の最初の返事。
まだどちらも始まっていない。
それでも、二つの白い紙が並んでいるだけで、少しだけ空気が変わった。
夜が深くなる。
潮待ち堂の本棚は暗がりの中に沈み、窓の外には尾道の灯りが点々と浮かんでいる。坂の下の海は見えない。けれど、潮の気配は確かにある。
紬は布団を敷かず、文机の前に座ったまま、白い封筒を見つめていた。
開けないまま、一日が終わる。
それでいいと思った。
読めない手紙は、読める日まで置いておけばいい。
けれど、明日は読もう。
そう思った。
確信ではない。勇気でもない。
ただ、今日一日開けなかったことで、明日開けるための場所が心の中に少しだけできた。
紬は封筒にそっと手を置いた。
「明日、読むね」
声に出して言った。
返事はない。
それでも、母がどこかで静かに頷いたような気がした。




