表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮待ちの十二通  作者: swingout777


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/17

第十四話 尾道へ帰る夜

 尾道に戻る電車の窓は、夜を映していた。


 外の景色はほとんど見えない。ときおり駅の灯りが流れ、踏切の赤が窓に滲み、遠くの家々の明かりが海の上に浮いているように見えた。


 紬は窓際の席で、鞄を膝に抱えていた。


 重い。


 旅に出たときより、明らかに重くなっている。


 野々村絹枝の家でもらった、鍵盤の欠片。

 灰原正臣から渡された絵葉書。

 相良造船所の真鍮のプレート。

 白石灯子のレモン。

 森脇朔太郎の鯛めしのおむすびの包み紙。

 真鍋郁子から受け取った銀の指輪。

 宮部君代に返された母子手帳。

 佐伯千景が残してくれていた母の葉書。

 倉田宗一から預かった蒼の封筒。

 水野透から渡された母の未完の原稿と古い切符。

 赤間宗一郎から受け取った使えない鍵。

 高瀬環の喫茶店に残されていた紙片。


 形のあるものだけで、こんなに増えた。


 けれど本当に重いのは、それらに結びついた声だった。


 澪ちゃんは、言葉を大事にしすぎる人じゃった。

 澪さんは、人の言葉を運ぶ人でした。

 あの子は一番逃げなかった。

 澪は、船に乗って幸せだったよ。

 弱いまま、母になれたことを誇りに思っています。

 あなたの前では母でいようとした。

 会わない。話さない。待たない。けれど忘れない。

 渡れなかったこともまた、私の人生だった。


 母は、たくさんの人の中にいた。


 紬の知らないところで、何十年も。


 その事実は、最初は裏切りのように思えた。母は自分に何も話さなかったのに、他の誰かには葉書を出し、手紙を書き、記憶を預けていた。


 けれど今は、少し違って感じる。


 母は誰にも全部は渡せなかったのだ。


 絹枝には、旅立ちの記憶を。

 灰原には、船の記録を。

 相良には、謝れなかった感謝を。

 灯子には、幸せだった時間を。

 森脇には、事故の痛みを。

 郁子には、選ばなかった今治を。

 君代には、母になる前の恐れを。

 千景には、弱さと葉書を。

 倉田には、会わなかった蒼を。

 水野には、書けなかった小説を。

 赤間には、最後に見に行けなかった海を。

 環には、渡れなかった海峡を。


 母は自分の人生を、ばらばらにして人に預けていた。


 そして最後に、その欠片を紬に拾わせた。


 それが優しさだったのか、身勝手だったのか、まだわからない。


 ただ、母の人生は、紬が思っていたよりずっと広かった。


 律は向かいの席で眠っていた。


 カメラバッグを抱え、窓に肩を預けている。旅のあいだ、彼はずっと半歩後ろにいた。必要以上に踏み込まず、でも置いていかず、紬が立ち止まれば待ち、歩けば並んだ。


 付き添い。


 彼はそう言った。


 紬はその言葉を思い出し、少しだけ笑った。


 電車が尾道駅に近づく。


 アナウンスが流れると、律が目を開けた。


「着く?」


「うん」


「寝とった」


「知ってる」


「ごめん」


「いいよ。ずっと運転してくれてたし、歩いてくれたし」


 律は目をこすり、窓の外を見た。


「帰ってきたな」


 帰ってきた。


 その言葉が、紬の中で不思議に響いた。


 東京から尾道へ戻ったときは、帰ってきたとは思えなかった。逃げてきた。戻ってしまった。母の死に間に合わなかった町へ、引きずられるように帰ってきた。


 でも今、尾道駅の灯りを見たとき、胸の奥に小さな安堵があった。


 帰ってきた。


 そう思った。


 駅を出ると、夜の尾道は静かだった。


 商店街の店はほとんど閉まっている。アーケードの灯りが点々と続き、どこかの居酒屋から笑い声が漏れていた。坂の上の家々には、まだ明かりが残っている。


 潮待ち堂へ向かう道を、紬と律はゆっくり歩いた。


 母の店へ続く坂は、夜になると少し怖かった。子どもの頃は、街灯と街灯の間の暗がりを急いで駆け抜けた。大人になった今でも、その暗がりには昔の自分が残っている気がする。


 息が少し上がる。


 律が振り返った。


「持とうか」


「いい。自分で持つ」


「うん」


 律はそれ以上言わなかった。


 鞄は重い。


 でも、この重さは自分で持ちたかった。


 潮待ち堂の前に着くと、貼り紙はまだそのままだった。


 ――本日、臨時休業。

 ――しばらく、旅に出ます。


 母の字と、紬の字。


 並べると、まるで親子の会話のようだった。


 臨時休業。

 旅に出ます。


 母はもう戻らない。

 紬は戻ってきた。


 紬は鍵を開け、引き戸を開いた。


 店の中は、暗かった。


 けれど、匂いは変わらない。


 古い本、珈琲、木の棚、窓から入り込んだ潮。旅のあいだ、いくつもの場所で母の記憶に触れたが、この匂いだけは、母そのものだった。


 律が入口で足を止めた。


「上がっていい?」


「もちろん」


「荷物だけ置いたら帰るよ。疲れとるじゃろ」


「うん。でも、珈琲淹れる」


「寝たほうがいいんじゃない?」


「淹れたい」


 紬はカウンターに入り、湯を沸かした。


 豆を挽く。粉をならす。湯を落とす。


 手つきはまだぎこちない。けれど、旅に出る前よりは少しだけ落ち着いている気がした。焦らない。母の言葉を思い出す。


 焦らなければ、おいしくなるわけではない。


 でも、焦った味にはならない。


 律はカウンター席に座り、店内を見回していた。


「変わってないな」


「何が?」


「ここ」


「数日しか経ってないよ」


「でも、紬は変わった」


 紬は珈琲を注ぐ手を止めかけた。


「そう?」


「うん」


「どこが?」


「戻ってきた顔をしてる」


 また写真屋みたいなことを言う。


 紬はそう思ったが、口には出さなかった。


 カップを律の前に置き、自分の分も注ぐ。


 律が一口飲んだ。


「お」


「何」


「澪さんに近づいた」


「本当に?」


「少しだけ」


「少しだけか」


「でも、ちゃんと紬の味がする」


 紬はカップを両手で持った。


 自分の味。


 母の味を再現しようとばかり思っていた。潮待ち堂を続けるなら、母のように淹れなければならない。母の棚を守り、母の客を迎え、母の言葉を継がなければならない。


 でも、律の言葉を聞いて少し息が楽になった。


 母の味に近づく必要はあっても、同じになる必要はないのかもしれない。


 そのとき、店の引き戸が軽く叩かれた。


 紬と律は同時に振り返った。


 夜のこんな時間に誰だろう。


 紬が戸を開けると、近所の惣菜屋の女性が立っていた。名前は知っている。確か、岡本さん。葬儀にも来てくれた人だ。


「あら、電気ついとったけえ。帰ってきたん?」


「はい。今さっき」


「遅い時間にごめんね。これ、煮物。旅から帰ったばっかりじゃ、食べるもんないじゃろ」


 差し出されたタッパーは、まだ少し温かかった。


「ありがとうございます」


「澪さんにも、よう持ってきとったんよ。忙しいとき、あの人すぐご飯抜くけえ」


 紬はタッパーを受け取りながら、胸が小さく痛んだ。


 母の食事を気にしていた人がいた。


 自分は、東京にいて何も知らなかった。


「お母さんね、うちの息子が受験で荒れとったとき、本を一冊選んでくれたんよ」


 岡本さんは戸口に立ったまま言った。


「その本を読んだかどうかは知らんのじゃけど、あの子、そのあと少し落ち着いてね。澪さんが『本は読まんでも、そばに置くだけで効くことがある』って笑っとった」


 母らしいと思った。


 岡本さんは、じゃあ休んでね、と言って帰っていった。


 紬が戸を閉めようとすると、今度は坂の上から足音がした。


 白髪の男性が、紙袋を持って立っていた。葬儀で見た顔だが、名前は思い出せない。


「すまんね、明かりが見えたもんで」


「いえ」


「これ、店の鍵」


「鍵?」


 男性は紙袋から古い鍵束を取り出した。


「昔、澪さんに預けられとったんよ。うちの家内が入院しとった頃、留守のあいだに花に水をやってくれてね。それから何かあったら、澪さんに頼めばええって、ずっと持っとってもろうとった」


 紬は鍵束を見つめた。


 母は、誰かの家の鍵まで預かっていた。


 赤間から渡された使えない鍵とは違う。こちらは、母が誰かの暮らしを実際に開け閉めしていた鍵だ。


「でも、もう澪さんおらんけえ。返してもらおうと思ってたんじゃけど、言いそびれて」


「すみません。整理がまだで」


「謝ることじゃない。澪さんには、ずいぶん世話になったけえ」


 男性は店内を見回した。


「この店、閉めるんかね」


 紬は答えに詰まった。


 閉めるつもりだった。


 旅に出る前は、売ることしか考えていなかった。古書の在庫を処分し、建物をどうするか不動産屋に相談し、東京の暮らしへ戻るか、別の仕事を探すかを決める。


 潮待ち堂は、母の店だ。


 母がいなければ、続ける意味はない。


 そう思っていた。


 だが、いま店の中には、岡本さんの煮物があり、男性が返しに来た鍵がある。母の棚には、まだ誰かに選ばれるのを待っている本がある。


 紬はすぐに返事ができなかった。


「まだ、決めていません」


 ようやくそう言うと、男性は頷いた。


「そうか。急がんでええよ。潮待ち堂は、潮待ち堂じゃけえ」


 その言葉を残して、男性も帰っていった。


 潮待ち堂は、潮待ち堂。


 母の店ではなく、町の中のひとつの場所として、そう呼ばれていた。


 戸を閉めたあと、紬は鍵束をカウンターに置いた。


 律が言った。


「続くね」


「何が?」


「澪さんの人たち」


「うん」


 そのあとも、なぜか人が来た。


 高校生の女の子が二人、店の前を通りかかり、明かりを見て顔を出した。


「すみません。開いてるんですか」


「今日は、もう閉めてるんだけど」


「あ、ですよね。すみません。ただ、澪さんに借りてた本、返したくて」


 差し出された文庫本の表紙には、母の手書きの貸出票が挟まっていた。


 ――焦らなくていい子へ。


 女子高生の一人が目を潤ませた。


「澪さん、進路で悩んでたとき、これ貸してくれたんです。返すの、遅くなって」


 紬は本を受け取った。


「読めた?」


「はい。全部はわからなかったけど、少し楽になりました」


 その子はそう言って、深く頭を下げた。


 次に来たのは、宅配便の配達員だった。荷物ではなく、母宛ての古いメモを持っていた。


「仕事中に何度もここで水もらってたんです。夏、倒れそうになって。澪さん、何も言わずに冷たい麦茶出してくれて」


 彼は照れくさそうに笑った。


「葬儀、仕事で行けなかったんで。これ、前におすすめしてもらった本の感想です。渡そうと思ってたんですけど」


 小さな紙には、ぎこちない字で「おもしろかったです」と書かれていた。


 それだけの言葉なのに、紬は胸が熱くなった。


 母は、ここで何をしていたのだろう。


 本を売っていた。

 珈琲を淹れていた。

 誰かの鍵を預かっていた。

 進路に悩む子へ本を貸していた。

 配達員へ麦茶を出していた。

 惣菜屋の息子に本を選んでいた。

 誰かの話を聞き、誰かの沈黙を邪魔せず、誰かのためにちょうどいい距離でそこにいた。


 母は、有名な人ではなかった。

 作家にはならなかった。

 蒼とは結ばれなかった。

 多くの手紙を出せなかった。


 それでも、ここにいた。


 潮待ち堂という場所で、確かに誰かの人生の端に触れていた。


 夜が深くなり、ようやく店は静かになった。


 律は帰る支度をしながら言った。


「今日は、ひとりで大丈夫?」


 紬はカウンターの上を見た。


 煮物、本、鍵束、感想のメモ。母が残したものではなく、母が誰かの中に残したものが、静かに並んでいる。


「大丈夫」


 少し考えてから、付け加えた。


「たぶん」


 律は笑った。


「たぶんで十分」


 戸口で、律は振り返った。


「明日、来る?」


「どこへ?」


「ここ」


「自分の店に?」


「そう。紬の店に」


 紬は言葉に詰まった。


 律は、それ以上何も言わずに帰っていった。


 紬の店。


 まだそうは思えない。


 でも、完全に母だけの店でもなくなりつつあった。


 紬は店の奥、母の部屋へ向かった。


 文机の上に、桐の小箱を置く。


 これまでの手紙は届けた。


 残っているのは、一通だけ。


 宛名のない封筒。


 母が亡くなる三日前の日付が書かれた、最後の手紙。


 中には、幼い紬の写真らしきものが入っている。


 紬は封筒を手に取った。


 白い紙は、ほかの封筒より新しかった。けれど母の字は、少し弱っている。亡くなる三日前。病室か、この文机か、どこで書いたのだろう。


 宛名はない。


 でも、もうわかっている。


 これは、紬宛てだ。


 母が最後に残した手紙。


 これを読めば、旅は終わるのだろうか。


 それとも、もっと始まってしまうのだろうか。


 紬は封筒の端に指をかけた。


 しかし、開けられなかった。


 下関で蒼の封筒を開けなかったときと同じではない。


 蒼の封筒は、まだ距離があった。父かもしれない人。会ったことのない人。紬の名前を知っていた人。


 でも、この封筒は母だ。


 ずっと一緒に暮らしていた人。なのに、いちばん知らなかった人。


 もし謝罪が書かれていたら、どうすればいいのだろう。

 もし愛していると書かれていたら、どう受け止めればいいのだろう。

 もし何もかも母の言い訳だったら、紬はまた怒れるのだろうか。

 もし怒れないほど弱い言葉だったら、自分は母を抱きしめたくなってしまうのだろうか。


 怖い。


 読めば、母の声が戻ってくる。


 もう二度と聞けないはずの声が、紙の上から紬を呼ぶ。


 紬は封筒を文机の上に置いた。


 今日は読まない。


 そう決めた。


 逃げではなく、自分で決めた保留。


 赤間が言った。


 読まない自由もある。ただし、読まないと決めたことまで誰かのせいにするな。


 紬は深く息を吸った。


 読まない。


 今夜は、まだ読まない。


 窓の外に、尾道の夜が広がっている。坂の下の海は見えないが、潮の気配だけが部屋に入り込んでいた。


 文机の上には、宛名のない手紙。


 その周りに、旅で受け取ったものをひとつずつ並べる。


 鍵盤の欠片。

 絵葉書。

 真鍮のプレート。

 銀の指輪。

 母子手帳。

 葉書の束。

 古い切符。

 使えない鍵。

 門司の紙片。


 母の人生の欠片が、文机の上に小さな地図を作っていた。


 尾道から始まり、瀬戸内を巡り、海峡を越え、また尾道へ戻ってくる地図。


 その中心に、最後の手紙がある。


 紬は布団を敷かず、文机の前に座ったまま、しばらく目を閉じた。


 旅は終わった。


 けれど、母への返事はまだ始まっていない。


 夜の潮待ち堂は、静かだった。


 でもその静けさは、以前のような空白ではなかった。


 誰かの声が、誰かの記憶が、誰かのありがとうが、店の本棚の間にまだ残っている。


 紬はその中で、母の最後の手紙を開けないまま、夜が深くなるのを待っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ