第十四話 尾道へ帰る夜
尾道に戻る電車の窓は、夜を映していた。
外の景色はほとんど見えない。ときおり駅の灯りが流れ、踏切の赤が窓に滲み、遠くの家々の明かりが海の上に浮いているように見えた。
紬は窓際の席で、鞄を膝に抱えていた。
重い。
旅に出たときより、明らかに重くなっている。
野々村絹枝の家でもらった、鍵盤の欠片。
灰原正臣から渡された絵葉書。
相良造船所の真鍮のプレート。
白石灯子のレモン。
森脇朔太郎の鯛めしのおむすびの包み紙。
真鍋郁子から受け取った銀の指輪。
宮部君代に返された母子手帳。
佐伯千景が残してくれていた母の葉書。
倉田宗一から預かった蒼の封筒。
水野透から渡された母の未完の原稿と古い切符。
赤間宗一郎から受け取った使えない鍵。
高瀬環の喫茶店に残されていた紙片。
形のあるものだけで、こんなに増えた。
けれど本当に重いのは、それらに結びついた声だった。
澪ちゃんは、言葉を大事にしすぎる人じゃった。
澪さんは、人の言葉を運ぶ人でした。
あの子は一番逃げなかった。
澪は、船に乗って幸せだったよ。
弱いまま、母になれたことを誇りに思っています。
あなたの前では母でいようとした。
会わない。話さない。待たない。けれど忘れない。
渡れなかったこともまた、私の人生だった。
母は、たくさんの人の中にいた。
紬の知らないところで、何十年も。
その事実は、最初は裏切りのように思えた。母は自分に何も話さなかったのに、他の誰かには葉書を出し、手紙を書き、記憶を預けていた。
けれど今は、少し違って感じる。
母は誰にも全部は渡せなかったのだ。
絹枝には、旅立ちの記憶を。
灰原には、船の記録を。
相良には、謝れなかった感謝を。
灯子には、幸せだった時間を。
森脇には、事故の痛みを。
郁子には、選ばなかった今治を。
君代には、母になる前の恐れを。
千景には、弱さと葉書を。
倉田には、会わなかった蒼を。
水野には、書けなかった小説を。
赤間には、最後に見に行けなかった海を。
環には、渡れなかった海峡を。
母は自分の人生を、ばらばらにして人に預けていた。
そして最後に、その欠片を紬に拾わせた。
それが優しさだったのか、身勝手だったのか、まだわからない。
ただ、母の人生は、紬が思っていたよりずっと広かった。
律は向かいの席で眠っていた。
カメラバッグを抱え、窓に肩を預けている。旅のあいだ、彼はずっと半歩後ろにいた。必要以上に踏み込まず、でも置いていかず、紬が立ち止まれば待ち、歩けば並んだ。
付き添い。
彼はそう言った。
紬はその言葉を思い出し、少しだけ笑った。
電車が尾道駅に近づく。
アナウンスが流れると、律が目を開けた。
「着く?」
「うん」
「寝とった」
「知ってる」
「ごめん」
「いいよ。ずっと運転してくれてたし、歩いてくれたし」
律は目をこすり、窓の外を見た。
「帰ってきたな」
帰ってきた。
その言葉が、紬の中で不思議に響いた。
東京から尾道へ戻ったときは、帰ってきたとは思えなかった。逃げてきた。戻ってしまった。母の死に間に合わなかった町へ、引きずられるように帰ってきた。
でも今、尾道駅の灯りを見たとき、胸の奥に小さな安堵があった。
帰ってきた。
そう思った。
駅を出ると、夜の尾道は静かだった。
商店街の店はほとんど閉まっている。アーケードの灯りが点々と続き、どこかの居酒屋から笑い声が漏れていた。坂の上の家々には、まだ明かりが残っている。
潮待ち堂へ向かう道を、紬と律はゆっくり歩いた。
母の店へ続く坂は、夜になると少し怖かった。子どもの頃は、街灯と街灯の間の暗がりを急いで駆け抜けた。大人になった今でも、その暗がりには昔の自分が残っている気がする。
息が少し上がる。
律が振り返った。
「持とうか」
「いい。自分で持つ」
「うん」
律はそれ以上言わなかった。
鞄は重い。
でも、この重さは自分で持ちたかった。
潮待ち堂の前に着くと、貼り紙はまだそのままだった。
――本日、臨時休業。
――しばらく、旅に出ます。
母の字と、紬の字。
並べると、まるで親子の会話のようだった。
臨時休業。
旅に出ます。
母はもう戻らない。
紬は戻ってきた。
紬は鍵を開け、引き戸を開いた。
店の中は、暗かった。
けれど、匂いは変わらない。
古い本、珈琲、木の棚、窓から入り込んだ潮。旅のあいだ、いくつもの場所で母の記憶に触れたが、この匂いだけは、母そのものだった。
律が入口で足を止めた。
「上がっていい?」
「もちろん」
「荷物だけ置いたら帰るよ。疲れとるじゃろ」
「うん。でも、珈琲淹れる」
「寝たほうがいいんじゃない?」
「淹れたい」
紬はカウンターに入り、湯を沸かした。
豆を挽く。粉をならす。湯を落とす。
手つきはまだぎこちない。けれど、旅に出る前よりは少しだけ落ち着いている気がした。焦らない。母の言葉を思い出す。
焦らなければ、おいしくなるわけではない。
でも、焦った味にはならない。
律はカウンター席に座り、店内を見回していた。
「変わってないな」
「何が?」
「ここ」
「数日しか経ってないよ」
「でも、紬は変わった」
紬は珈琲を注ぐ手を止めかけた。
「そう?」
「うん」
「どこが?」
「戻ってきた顔をしてる」
また写真屋みたいなことを言う。
紬はそう思ったが、口には出さなかった。
カップを律の前に置き、自分の分も注ぐ。
律が一口飲んだ。
「お」
「何」
「澪さんに近づいた」
「本当に?」
「少しだけ」
「少しだけか」
「でも、ちゃんと紬の味がする」
紬はカップを両手で持った。
自分の味。
母の味を再現しようとばかり思っていた。潮待ち堂を続けるなら、母のように淹れなければならない。母の棚を守り、母の客を迎え、母の言葉を継がなければならない。
でも、律の言葉を聞いて少し息が楽になった。
母の味に近づく必要はあっても、同じになる必要はないのかもしれない。
そのとき、店の引き戸が軽く叩かれた。
紬と律は同時に振り返った。
夜のこんな時間に誰だろう。
紬が戸を開けると、近所の惣菜屋の女性が立っていた。名前は知っている。確か、岡本さん。葬儀にも来てくれた人だ。
「あら、電気ついとったけえ。帰ってきたん?」
「はい。今さっき」
「遅い時間にごめんね。これ、煮物。旅から帰ったばっかりじゃ、食べるもんないじゃろ」
差し出されたタッパーは、まだ少し温かかった。
「ありがとうございます」
「澪さんにも、よう持ってきとったんよ。忙しいとき、あの人すぐご飯抜くけえ」
紬はタッパーを受け取りながら、胸が小さく痛んだ。
母の食事を気にしていた人がいた。
自分は、東京にいて何も知らなかった。
「お母さんね、うちの息子が受験で荒れとったとき、本を一冊選んでくれたんよ」
岡本さんは戸口に立ったまま言った。
「その本を読んだかどうかは知らんのじゃけど、あの子、そのあと少し落ち着いてね。澪さんが『本は読まんでも、そばに置くだけで効くことがある』って笑っとった」
母らしいと思った。
岡本さんは、じゃあ休んでね、と言って帰っていった。
紬が戸を閉めようとすると、今度は坂の上から足音がした。
白髪の男性が、紙袋を持って立っていた。葬儀で見た顔だが、名前は思い出せない。
「すまんね、明かりが見えたもんで」
「いえ」
「これ、店の鍵」
「鍵?」
男性は紙袋から古い鍵束を取り出した。
「昔、澪さんに預けられとったんよ。うちの家内が入院しとった頃、留守のあいだに花に水をやってくれてね。それから何かあったら、澪さんに頼めばええって、ずっと持っとってもろうとった」
紬は鍵束を見つめた。
母は、誰かの家の鍵まで預かっていた。
赤間から渡された使えない鍵とは違う。こちらは、母が誰かの暮らしを実際に開け閉めしていた鍵だ。
「でも、もう澪さんおらんけえ。返してもらおうと思ってたんじゃけど、言いそびれて」
「すみません。整理がまだで」
「謝ることじゃない。澪さんには、ずいぶん世話になったけえ」
男性は店内を見回した。
「この店、閉めるんかね」
紬は答えに詰まった。
閉めるつもりだった。
旅に出る前は、売ることしか考えていなかった。古書の在庫を処分し、建物をどうするか不動産屋に相談し、東京の暮らしへ戻るか、別の仕事を探すかを決める。
潮待ち堂は、母の店だ。
母がいなければ、続ける意味はない。
そう思っていた。
だが、いま店の中には、岡本さんの煮物があり、男性が返しに来た鍵がある。母の棚には、まだ誰かに選ばれるのを待っている本がある。
紬はすぐに返事ができなかった。
「まだ、決めていません」
ようやくそう言うと、男性は頷いた。
「そうか。急がんでええよ。潮待ち堂は、潮待ち堂じゃけえ」
その言葉を残して、男性も帰っていった。
潮待ち堂は、潮待ち堂。
母の店ではなく、町の中のひとつの場所として、そう呼ばれていた。
戸を閉めたあと、紬は鍵束をカウンターに置いた。
律が言った。
「続くね」
「何が?」
「澪さんの人たち」
「うん」
そのあとも、なぜか人が来た。
高校生の女の子が二人、店の前を通りかかり、明かりを見て顔を出した。
「すみません。開いてるんですか」
「今日は、もう閉めてるんだけど」
「あ、ですよね。すみません。ただ、澪さんに借りてた本、返したくて」
差し出された文庫本の表紙には、母の手書きの貸出票が挟まっていた。
――焦らなくていい子へ。
女子高生の一人が目を潤ませた。
「澪さん、進路で悩んでたとき、これ貸してくれたんです。返すの、遅くなって」
紬は本を受け取った。
「読めた?」
「はい。全部はわからなかったけど、少し楽になりました」
その子はそう言って、深く頭を下げた。
次に来たのは、宅配便の配達員だった。荷物ではなく、母宛ての古いメモを持っていた。
「仕事中に何度もここで水もらってたんです。夏、倒れそうになって。澪さん、何も言わずに冷たい麦茶出してくれて」
彼は照れくさそうに笑った。
「葬儀、仕事で行けなかったんで。これ、前におすすめしてもらった本の感想です。渡そうと思ってたんですけど」
小さな紙には、ぎこちない字で「おもしろかったです」と書かれていた。
それだけの言葉なのに、紬は胸が熱くなった。
母は、ここで何をしていたのだろう。
本を売っていた。
珈琲を淹れていた。
誰かの鍵を預かっていた。
進路に悩む子へ本を貸していた。
配達員へ麦茶を出していた。
惣菜屋の息子に本を選んでいた。
誰かの話を聞き、誰かの沈黙を邪魔せず、誰かのためにちょうどいい距離でそこにいた。
母は、有名な人ではなかった。
作家にはならなかった。
蒼とは結ばれなかった。
多くの手紙を出せなかった。
それでも、ここにいた。
潮待ち堂という場所で、確かに誰かの人生の端に触れていた。
夜が深くなり、ようやく店は静かになった。
律は帰る支度をしながら言った。
「今日は、ひとりで大丈夫?」
紬はカウンターの上を見た。
煮物、本、鍵束、感想のメモ。母が残したものではなく、母が誰かの中に残したものが、静かに並んでいる。
「大丈夫」
少し考えてから、付け加えた。
「たぶん」
律は笑った。
「たぶんで十分」
戸口で、律は振り返った。
「明日、来る?」
「どこへ?」
「ここ」
「自分の店に?」
「そう。紬の店に」
紬は言葉に詰まった。
律は、それ以上何も言わずに帰っていった。
紬の店。
まだそうは思えない。
でも、完全に母だけの店でもなくなりつつあった。
紬は店の奥、母の部屋へ向かった。
文机の上に、桐の小箱を置く。
これまでの手紙は届けた。
残っているのは、一通だけ。
宛名のない封筒。
母が亡くなる三日前の日付が書かれた、最後の手紙。
中には、幼い紬の写真らしきものが入っている。
紬は封筒を手に取った。
白い紙は、ほかの封筒より新しかった。けれど母の字は、少し弱っている。亡くなる三日前。病室か、この文机か、どこで書いたのだろう。
宛名はない。
でも、もうわかっている。
これは、紬宛てだ。
母が最後に残した手紙。
これを読めば、旅は終わるのだろうか。
それとも、もっと始まってしまうのだろうか。
紬は封筒の端に指をかけた。
しかし、開けられなかった。
下関で蒼の封筒を開けなかったときと同じではない。
蒼の封筒は、まだ距離があった。父かもしれない人。会ったことのない人。紬の名前を知っていた人。
でも、この封筒は母だ。
ずっと一緒に暮らしていた人。なのに、いちばん知らなかった人。
もし謝罪が書かれていたら、どうすればいいのだろう。
もし愛していると書かれていたら、どう受け止めればいいのだろう。
もし何もかも母の言い訳だったら、紬はまた怒れるのだろうか。
もし怒れないほど弱い言葉だったら、自分は母を抱きしめたくなってしまうのだろうか。
怖い。
読めば、母の声が戻ってくる。
もう二度と聞けないはずの声が、紙の上から紬を呼ぶ。
紬は封筒を文机の上に置いた。
今日は読まない。
そう決めた。
逃げではなく、自分で決めた保留。
赤間が言った。
読まない自由もある。ただし、読まないと決めたことまで誰かのせいにするな。
紬は深く息を吸った。
読まない。
今夜は、まだ読まない。
窓の外に、尾道の夜が広がっている。坂の下の海は見えないが、潮の気配だけが部屋に入り込んでいた。
文机の上には、宛名のない手紙。
その周りに、旅で受け取ったものをひとつずつ並べる。
鍵盤の欠片。
絵葉書。
真鍮のプレート。
銀の指輪。
母子手帳。
葉書の束。
古い切符。
使えない鍵。
門司の紙片。
母の人生の欠片が、文机の上に小さな地図を作っていた。
尾道から始まり、瀬戸内を巡り、海峡を越え、また尾道へ戻ってくる地図。
その中心に、最後の手紙がある。
紬は布団を敷かず、文机の前に座ったまま、しばらく目を閉じた。
旅は終わった。
けれど、母への返事はまだ始まっていない。
夜の潮待ち堂は、静かだった。
でもその静けさは、以前のような空白ではなかった。
誰かの声が、誰かの記憶が、誰かのありがとうが、店の本棚の間にまだ残っている。
紬はその中で、母の最後の手紙を開けないまま、夜が深くなるのを待っていた。




