第十三話 門司、帰れなかった喫茶店
門司港へ渡る船は、思っていたよりも小さかった。
下関の港から乗り込むと、船体が足元でかすかに揺れた。ほんの数分の距離だというのに、紬にはそれが長い旅のように感じられた。
向こう岸は見えている。
門司の町並み、古い建物、岸壁、ゆるやかに広がる空。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、海峡の流れは速く、冷たそうだった。
母は、この海を渡ったのだろうか。
あるいは、渡れなかったのだろうか。
下関で赤間宗一郎に会い、蒼の墓の前に立った。父かもしれない人の墓石には、三原蒼ではなく、青井蒼太という名が刻まれていた。
紬は墓前で、ただ自分の名前だけを告げた。
私は、朝倉紬です。
それ以上は言えなかった。
蒼が父だったのかどうか、確かな証拠はまだない。けれど、蒼は紬の名前を知っていた。自分の子かもしれないと思っていた。会いに来ようとして、母の手紙を読み、来なかった。
母は紬に父を待つ人生を渡したくなかった。
蒼は自分の寂しさのために会いに行くことを恐れた。
その結果、紬は何も知らずに育った。
それが愛だったのか、臆病だったのか、今もわからない。
たぶん、どちらでもあったのだろう。
船が海峡を進む。
律は少し離れた場所で、手すりに片手を置き、門司側の景色を見ていた。カメラは首から下げたままだが、まだ撮っていない。
「速いね」
紬が言うと、律は振り返った。
「潮?」
「うん。近いのに、簡単じゃない感じがする」
律は海面を見た。
「だから海峡なんじゃろうね」
「近いのに、隔てるもの」
「でも、渡れる」
その言葉が、紬の胸に残った。
近いのに、隔てる。
でも、渡れる。
母と蒼の距離も、そうだったのかもしれない。互いの存在を知っていた。何度も会おうと思えば会えたのかもしれない。それでも渡らなかった。
紬は今、その間の海を渡っている。
母が渡れなかった場所へ。
門司港に着くと、風が変わった。
下関の港より少し乾いていて、古い建物の匂いが混じっている。駅舎、赤煉瓦、レトロな街灯。観光地として整えられた町の明るさの奥に、昔の港町の影が残っていた。
十三通目ではない。
母の手紙は十二通だった。
けれど門司には、十二通の手紙の前に置かれた、最後の寄り道のような気配があった。
封筒の宛先は、門司港近くの喫茶店だった。
喫茶 海月。
高瀬環様。
十二通のうち、これは下関の手紙の次に置かれていた。紬は最初、これを十二通目だと思った。けれど母の文机には、宛名のない封筒が残っている。あれが本当の最後なら、門司の手紙は、そこへ至る前の最後の他者宛ての言葉ということになる。
喫茶店は、古い商店街の横道にあった。
木枠のガラス扉。色の褪せた青い庇。看板には、白い文字で「海月」と書かれている。くらげ、と読むのだろうか。店先には鉢植えが並び、窓辺に小さなランプが灯っていた。
紬は戸の前で立ち止まった。
「入る?」
律が聞いた。
「うん」
答えたものの、手がなかなか動かなかった。
下関で赤間に渡された使えない鍵。蒼の封筒。福山で受け取った母の未完の原稿。小豆島の葉書の束。今治の指輪。松山の母子手帳。
鞄の中に入っているものたちは、どれも過去の重さを持っている。
これ以上、何を受け取るのだろう。
紬は息を吸い、扉を開けた。
ベルが鳴った。
店内は薄暗く、珈琲の香りが深かった。古い木のカウンター、赤いビロードの椅子、壁にかかった振り子時計。窓辺には、海月の形をしたガラス細工がいくつか吊るされていて、光を受けて淡く揺れていた。
客は一人もいない。
カウンターの奥で、白髪の女性がグラスを拭いていた。
七十代半ばだろうか。髪をきれいに結い、黒いワンピースの上に白いエプロンをつけている。背筋が伸び、指の動きが丁寧だった。
「いらっしゃいませ」
声は低く、落ち着いていた。
「あの、高瀬環さんでしょうか」
女性の手が止まった。
「はい」
「朝倉澪の娘です」
環はグラスをカウンターに置いた。
表情は大きく変わらなかった。けれど、その目だけがはっきりと揺れた。
「そう。あなたが、紬さん」
やはり、名前を知っている。
「母が亡くなりました。遺品の中から、高瀬さん宛ての手紙が見つかりました」
紬は封筒を差し出した。
環はそれを両手で受け取り、宛名を見た。
「澪さんの字ですね」
「母をご存じなんですね」
「ええ。一度だけ」
「一度だけ、ですか」
「でも、とても長い一度でした」
環はそう言って、カウンターの席を勧めた。
紬と律は並んで座った。環は珈琲を淹れはじめた。豆を挽く音が、静かな店に広がる。湯を落とす手つきは、母に少し似ていた。
焦らない。
母が珈琲について言った言葉を思い出した。
環は二つのカップを置き、それから封を切った。
便箋を広げ、読む。
紬はカップに手を添えたまま、環の表情を見ていた。環はゆっくり読み進め、途中で一度だけ目を閉じた。最後まで読み終えると、便箋を畳まず、カウンターの上に置いた。
「澪さんは、やっぱりここを覚えていたんですね」
「ここで、母に会ったんですか」
「ええ。雨の日でした」
環は窓の外を見た。
「もう何十年も前です。若い女性がひとりで入ってきました。濡れた髪をして、小さな鞄を抱えて、お腹をかばうように座った。珈琲は飲めますかと聞くと、飲めません、と答えた。代わりに、ホットミルクを出しました」
「母は、妊娠していたんですね」
「ええ。目立ちはじめていました」
紬は母子手帳を思い出した。
松山で名前を考え、尾道へ戻る途中の母。
その母が、門司に来ていた。
「母は、なぜここへ?」
「人を待っていました」
心臓が強く鳴った。
「蒼さんですか」
「名前は聞きませんでした。でも、あとでそれが三原蒼さんだったのだと知りました」
「母は、蒼さんに会うつもりだったんですか」
「ええ。会うかどうかを、ここで迷っていました」
環は便箋に目を落とした。
「この手紙にも書かれています。ここまで来れば、海峡を渡れると思った。けれど、渡ったら戻れない気がした、と」
紬はカップの中の珈琲を見つめた。
渡ったら戻れない。
門司から下関へ。
あるいは、蒼のもとへ。
父のいる未来へ。
選ばなかった人生へ。
母は、ここで立ち止まった。
「結局、母は渡らなかったんですね」
「その日は、渡りませんでした」
「その日は?」
紬が顔を上げると、環は静かに頷いた。
「澪さんは、夕方までここにいました。手紙を書いて、破って、また書いて。何度も時計を見ていました」
「誰かと約束していたんですか」
「たぶん。下関で蒼さんに会うつもりだったのでしょう」
「なのに、行かなかった」
「ええ」
まただ。
母は、また行かなかった。
今治へも行き、会わずに帰った。
倉敷で蒼の写真を見ても、会いに行かなかった。
下関の死に目にも行かなかった。
そして門司でも、海峡の手前で止まった。
紬は胸の中に、鈍い怒りが生まれるのを感じた。
どうしてそこまで来て、渡らなかったの。
どうして会わなかったの。
どうして私の父かもしれない人から、何度も背を向けたの。
環は紬の顔を見て、少しだけ表情をやわらげた。
「怒っているのね」
「はい」
紬は否定しなかった。
「母は、ずっと選ばなかった。父に会うことも、私に話すことも。自分で決めたように見えて、本当は何も決めていない気がします」
「そう見えるでしょうね」
「違うんですか」
「違わないと思います」
環の答えは静かだった。
「澪さんは、たぶん決められなかった。決められないまま、その決められなさを抱えて生きた人だったのだと思います」
「それで済むんですか」
「済みません」
環はすぐに言った。
「決められなかった人のそばには、必ず待たされる人がいます。あなたがそうだったのでしょう」
紬は言葉を失った。
待たされる人。
自分は、ずっとそうだった。
父の名前を待ち、母の説明を待ち、自分が何者なのかを待ち、いつかという言葉を待っていた。
母は、紬に待つ人生を渡したくないと言った。
けれど結局、紬は待たされた。
その矛盾を、誰かに言ってほしかったのかもしれない。
環はカウンターの奥から、小さな木箱を出した。
「澪さんが、ここに置いていったものがあります」
「また、置いていったものですか」
思わずそう言うと、環は少し笑った。
「ええ。人は、持っていけないものをどこかに置いていくものです」
箱の中には、紙片が一枚入っていた。
便箋を破ったものらしい。端が不揃いだ。そこに、母の字で短い文章が書かれていた。
――この子が、私の知らない海へ行けますように。
紬は息を止めた。
何度も形を変えて出てきた言葉。
千景の丘で聞いた言葉。
母の手紙の中にあった願い。
潮待ち堂のまだ開けていない宛名のない封筒にも、きっとつながっている言葉。
「これは……」
「澪さんは、帰り際にそれを机に置いていきました。忘れ物ですかと聞くと、首を振りました」
「何て?」
「『この子に渡すには早すぎるから、ここに置いていきます』と」
紬の指が震えた。
「私に?」
「ええ。名前はまだ決めていないと言っていました。でも、お腹の子に向けた言葉だとわかりました」
「どうして母は、それを自分で持って帰らなかったんですか」
「持って帰れば、読んでしまうからではないでしょうか」
「読んで?」
「自分が、その子に何を願ったのかを。願いは、ときどき人を縛ります。澪さんは、あなたに自由でいてほしいと願いながら、その願いであなたを縛ることを恐れたのかもしれません」
紬は紙片を見つめた。
私の知らない海へ行けますように。
それは、やさしい言葉だ。
けれど、その言葉の裏には、母自身が行けなかった海がある。渡れなかった海峡がある。会えなかった蒼がいる。
母は紬に自由を願った。
でもその自由には、母の未練も混じっていたのではないか。
「母は、私に自分の代わりをさせたかったんでしょうか」
紬は小さく言った。
「自分が行けなかったところへ行け、と」
環はしばらく黙っていた。
振り子時計の音が聞こえる。
「そういう気持ちも、あったかもしれません」
環は正直に言った。
「でも、それだけではないと思います」
「どうしてですか」
「その日、澪さんは私に言いました。『この子が私と違う人になるのが怖い。でも、私と同じ人になるほうがもっと怖い』と」
紬の目に涙がにじんだ。
母は、紬が自分と違う人になることを恐れていた。
でも、同じように沈黙し、同じように待ち、同じように言えない人生を歩むことを、もっと恐れていた。
「だから、話せばよかったのに」
紬は言った。
声は震えていた。
「私が母と同じにならないようにしたかったなら、父のことも、事故のことも、自分の弱さも、話してくれればよかったのに」
「そうですね」
環は頷いた。
「澪さんは、それができなかった」
「どうして」
「できないことを、できるようになる前に、時間が過ぎてしまったのでしょう」
その言葉は、優しいようで残酷だった。
時間は、待ってくれない。
母が話せるようになる前に、紬は大人になった。東京へ行った。母と距離を置いた。母は病に倒れ、亡くなった。
そして今、紬は門司の喫茶店で、母が置いていった紙片を見ている。
遅い。
すべてが遅い。
それでも、届いてしまう。
手紙も、紙片も、母の願いも。
環は母の手紙を紬の方へ向けた。
「ここに、あなたへのことが書いてあります。読む?」
紬は迷った。
「私宛てではないですよね」
「でも、あなたが聞くべきだと私は思います」
紬は頷いた。
環は静かに読み上げた。
「高瀬さん。あの日、私はあなたの店で海峡を渡れませんでした。蒼に会うことも、自分の弱さを認めることも、できませんでした。そのかわり、私はお腹の子に、私の知らない海へ行ってほしいと書きました。今思えば、それはとても勝手な願いでした。私は自分が渡れなかった海を、あの子に渡らせようとしていたのかもしれません」
紬は唇を噛んだ。
「けれど、紬は私ではありません。紬がどの海を渡るか、渡らないかは、紬が決めることです。私はそれを忘れない母でいたいと思いました。思っていました。それなのに、私は多くのことを隠しました。あの子の自由を願いながら、あの子に選ぶための言葉を渡せませんでした」
環の声が少し揺れた。
「もし、いつか紬がここへ来ることがあれば、あの日の私が渡れなかったことを伝えてください。そして、渡れなかったこともまた、私の人生だったと伝えてください」
店の中に、長い沈黙が落ちた。
紬は涙を拭わなかった。
頬を流れるままにした。
母は、わかっていた。
自分が紬に選ぶための言葉を渡せなかったことを。自由を願いながら、沈黙で縛ってしまったことを。
わかっていたのに、話せなかった。
それが悔しい。
でも、その後悔さえ母の一部だった。
「私は、母が渡れなかった海を渡ったんですね」
紬は呟いた。
環は頷いた。
「ええ」
「でも、それは母の代わりじゃない」
「そうです」
律が静かにこちらを見ていた。
紬は紙片を手に取った。
この子が、私の知らない海へ行けますように。
「これは、持って帰ってもいいですか」
「もちろん。そのために残していました」
環は木箱を閉じた。
「澪さんは、ここに帰ってくることはありませんでした。でも、あなたが来た。帰れなかった場所に、別の人がたどり着くこともあるのですね」
紬は喫茶店の窓の外を見た。
門司の町に、夕方の光が差している。人々が歩き、店が開き、海峡の向こうには下関の町が見える。
近くて、遠い。
遠くて、渡れる。
店を出る前に、環は紬に一杯のホットミルクを出した。
「お母さんが飲んだものと同じです」
白い湯気が立っている。
紬はカップを両手で持った。
甘く、やさしい匂いがした。
一口飲むと、喉の奥が熱くなった。母がここで飲んだもの。母がお腹の中の紬を抱えながら飲んだもの。
その温かさは、四十年近くの時間を越えて、紬の体に届いた。
喫茶 海月を出ると、空は暮れかけていた。
律は店の前で、ようやく一枚だけ写真を撮った。
「何を撮ったの?」
紬が尋ねると、律はカメラを下ろした。
「扉」
「扉?」
「帰れなかった場所の扉」
紬はその言葉を聞いて、店の扉を振り返った。
母はここから出て、海峡を渡らずに帰った。
紬はここから出て、もう一度下関へ渡る。
同じ扉でも、行き先は違う。
それでいいのだと思った。
帰りの船に乗る前、紬は海峡を見た。
水の流れは速い。夕日が水面に細く伸びている。
紬は鞄から蒼の封筒を取り出した。
まだ開けない。
でも、以前ほど怖くはなかった。
開ける日を、自分で選べばいい。
読まない日々も、自分のものにすればいい。
紬は封筒を鞄に戻し、代わりに母の紙片を手にした。
この子が、私の知らない海へ行けますように。
母が知らなかった海を、紬は今、見ている。
母の代わりではなく、朝倉紬として。
船が岸を離れた。
門司の灯りが少しずつ遠ざかる。
向こう岸の下関へ、船はまっすぐ進んでいく。
紬は潮風の中で、小さく呟いた。
「お母さん、私は渡ったよ」
その声は、海峡の風にほどけて消えた。




