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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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第十三話 門司、帰れなかった喫茶店

 門司港へ渡る船は、思っていたよりも小さかった。


 下関の港から乗り込むと、船体が足元でかすかに揺れた。ほんの数分の距離だというのに、紬にはそれが長い旅のように感じられた。


 向こう岸は見えている。


 門司の町並み、古い建物、岸壁、ゆるやかに広がる空。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、海峡の流れは速く、冷たそうだった。


 母は、この海を渡ったのだろうか。


 あるいは、渡れなかったのだろうか。


 下関で赤間宗一郎に会い、蒼の墓の前に立った。父かもしれない人の墓石には、三原蒼ではなく、青井蒼太という名が刻まれていた。


 紬は墓前で、ただ自分の名前だけを告げた。


 私は、朝倉紬です。


 それ以上は言えなかった。


 蒼が父だったのかどうか、確かな証拠はまだない。けれど、蒼は紬の名前を知っていた。自分の子かもしれないと思っていた。会いに来ようとして、母の手紙を読み、来なかった。


 母は紬に父を待つ人生を渡したくなかった。

 蒼は自分の寂しさのために会いに行くことを恐れた。

 その結果、紬は何も知らずに育った。


 それが愛だったのか、臆病だったのか、今もわからない。


 たぶん、どちらでもあったのだろう。


 船が海峡を進む。


 律は少し離れた場所で、手すりに片手を置き、門司側の景色を見ていた。カメラは首から下げたままだが、まだ撮っていない。


「速いね」


 紬が言うと、律は振り返った。


「潮?」


「うん。近いのに、簡単じゃない感じがする」


 律は海面を見た。


「だから海峡なんじゃろうね」


「近いのに、隔てるもの」


「でも、渡れる」


 その言葉が、紬の胸に残った。


 近いのに、隔てる。

 でも、渡れる。


 母と蒼の距離も、そうだったのかもしれない。互いの存在を知っていた。何度も会おうと思えば会えたのかもしれない。それでも渡らなかった。


 紬は今、その間の海を渡っている。


 母が渡れなかった場所へ。


 門司港に着くと、風が変わった。


 下関の港より少し乾いていて、古い建物の匂いが混じっている。駅舎、赤煉瓦、レトロな街灯。観光地として整えられた町の明るさの奥に、昔の港町の影が残っていた。


 十三通目ではない。


 母の手紙は十二通だった。

 けれど門司には、十二通の手紙の前に置かれた、最後の寄り道のような気配があった。


 封筒の宛先は、門司港近くの喫茶店だった。


 喫茶 海月。

 高瀬環様。


 十二通のうち、これは下関の手紙の次に置かれていた。紬は最初、これを十二通目だと思った。けれど母の文机には、宛名のない封筒が残っている。あれが本当の最後なら、門司の手紙は、そこへ至る前の最後の他者宛ての言葉ということになる。


 喫茶店は、古い商店街の横道にあった。


 木枠のガラス扉。色の褪せた青い庇。看板には、白い文字で「海月」と書かれている。くらげ、と読むのだろうか。店先には鉢植えが並び、窓辺に小さなランプが灯っていた。


 紬は戸の前で立ち止まった。


「入る?」


 律が聞いた。


「うん」


 答えたものの、手がなかなか動かなかった。


 下関で赤間に渡された使えない鍵。蒼の封筒。福山で受け取った母の未完の原稿。小豆島の葉書の束。今治の指輪。松山の母子手帳。


 鞄の中に入っているものたちは、どれも過去の重さを持っている。


 これ以上、何を受け取るのだろう。


 紬は息を吸い、扉を開けた。


 ベルが鳴った。


 店内は薄暗く、珈琲の香りが深かった。古い木のカウンター、赤いビロードの椅子、壁にかかった振り子時計。窓辺には、海月の形をしたガラス細工がいくつか吊るされていて、光を受けて淡く揺れていた。


 客は一人もいない。


 カウンターの奥で、白髪の女性がグラスを拭いていた。


 七十代半ばだろうか。髪をきれいに結い、黒いワンピースの上に白いエプロンをつけている。背筋が伸び、指の動きが丁寧だった。


「いらっしゃいませ」


 声は低く、落ち着いていた。


「あの、高瀬環さんでしょうか」


 女性の手が止まった。


「はい」


「朝倉澪の娘です」


 環はグラスをカウンターに置いた。


 表情は大きく変わらなかった。けれど、その目だけがはっきりと揺れた。


「そう。あなたが、紬さん」


 やはり、名前を知っている。


「母が亡くなりました。遺品の中から、高瀬さん宛ての手紙が見つかりました」


 紬は封筒を差し出した。


 環はそれを両手で受け取り、宛名を見た。


「澪さんの字ですね」


「母をご存じなんですね」


「ええ。一度だけ」


「一度だけ、ですか」


「でも、とても長い一度でした」


 環はそう言って、カウンターの席を勧めた。


 紬と律は並んで座った。環は珈琲を淹れはじめた。豆を挽く音が、静かな店に広がる。湯を落とす手つきは、母に少し似ていた。


 焦らない。


 母が珈琲について言った言葉を思い出した。


 環は二つのカップを置き、それから封を切った。


 便箋を広げ、読む。


 紬はカップに手を添えたまま、環の表情を見ていた。環はゆっくり読み進め、途中で一度だけ目を閉じた。最後まで読み終えると、便箋を畳まず、カウンターの上に置いた。


「澪さんは、やっぱりここを覚えていたんですね」


「ここで、母に会ったんですか」


「ええ。雨の日でした」


 環は窓の外を見た。


「もう何十年も前です。若い女性がひとりで入ってきました。濡れた髪をして、小さな鞄を抱えて、お腹をかばうように座った。珈琲は飲めますかと聞くと、飲めません、と答えた。代わりに、ホットミルクを出しました」


「母は、妊娠していたんですね」


「ええ。目立ちはじめていました」


 紬は母子手帳を思い出した。


 松山で名前を考え、尾道へ戻る途中の母。

 その母が、門司に来ていた。


「母は、なぜここへ?」


「人を待っていました」


 心臓が強く鳴った。


「蒼さんですか」


「名前は聞きませんでした。でも、あとでそれが三原蒼さんだったのだと知りました」


「母は、蒼さんに会うつもりだったんですか」


「ええ。会うかどうかを、ここで迷っていました」


 環は便箋に目を落とした。


「この手紙にも書かれています。ここまで来れば、海峡を渡れると思った。けれど、渡ったら戻れない気がした、と」


 紬はカップの中の珈琲を見つめた。


 渡ったら戻れない。


 門司から下関へ。

 あるいは、蒼のもとへ。

 父のいる未来へ。

 選ばなかった人生へ。


 母は、ここで立ち止まった。


「結局、母は渡らなかったんですね」


「その日は、渡りませんでした」


「その日は?」


 紬が顔を上げると、環は静かに頷いた。


「澪さんは、夕方までここにいました。手紙を書いて、破って、また書いて。何度も時計を見ていました」


「誰かと約束していたんですか」


「たぶん。下関で蒼さんに会うつもりだったのでしょう」


「なのに、行かなかった」


「ええ」


 まただ。


 母は、また行かなかった。


 今治へも行き、会わずに帰った。

 倉敷で蒼の写真を見ても、会いに行かなかった。

 下関の死に目にも行かなかった。

 そして門司でも、海峡の手前で止まった。


 紬は胸の中に、鈍い怒りが生まれるのを感じた。


 どうしてそこまで来て、渡らなかったの。

 どうして会わなかったの。

 どうして私の父かもしれない人から、何度も背を向けたの。


 環は紬の顔を見て、少しだけ表情をやわらげた。


「怒っているのね」


「はい」


 紬は否定しなかった。


「母は、ずっと選ばなかった。父に会うことも、私に話すことも。自分で決めたように見えて、本当は何も決めていない気がします」


「そう見えるでしょうね」


「違うんですか」


「違わないと思います」


 環の答えは静かだった。


「澪さんは、たぶん決められなかった。決められないまま、その決められなさを抱えて生きた人だったのだと思います」


「それで済むんですか」


「済みません」


 環はすぐに言った。


「決められなかった人のそばには、必ず待たされる人がいます。あなたがそうだったのでしょう」


 紬は言葉を失った。


 待たされる人。


 自分は、ずっとそうだった。


 父の名前を待ち、母の説明を待ち、自分が何者なのかを待ち、いつかという言葉を待っていた。


 母は、紬に待つ人生を渡したくないと言った。


 けれど結局、紬は待たされた。


 その矛盾を、誰かに言ってほしかったのかもしれない。


 環はカウンターの奥から、小さな木箱を出した。


「澪さんが、ここに置いていったものがあります」


「また、置いていったものですか」


 思わずそう言うと、環は少し笑った。


「ええ。人は、持っていけないものをどこかに置いていくものです」


 箱の中には、紙片が一枚入っていた。


 便箋を破ったものらしい。端が不揃いだ。そこに、母の字で短い文章が書かれていた。


 ――この子が、私の知らない海へ行けますように。


 紬は息を止めた。


 何度も形を変えて出てきた言葉。


 千景の丘で聞いた言葉。

 母の手紙の中にあった願い。

 潮待ち堂のまだ開けていない宛名のない封筒にも、きっとつながっている言葉。


「これは……」


「澪さんは、帰り際にそれを机に置いていきました。忘れ物ですかと聞くと、首を振りました」


「何て?」


「『この子に渡すには早すぎるから、ここに置いていきます』と」


 紬の指が震えた。


「私に?」


「ええ。名前はまだ決めていないと言っていました。でも、お腹の子に向けた言葉だとわかりました」


「どうして母は、それを自分で持って帰らなかったんですか」


「持って帰れば、読んでしまうからではないでしょうか」


「読んで?」


「自分が、その子に何を願ったのかを。願いは、ときどき人を縛ります。澪さんは、あなたに自由でいてほしいと願いながら、その願いであなたを縛ることを恐れたのかもしれません」


 紬は紙片を見つめた。


 私の知らない海へ行けますように。


 それは、やさしい言葉だ。


 けれど、その言葉の裏には、母自身が行けなかった海がある。渡れなかった海峡がある。会えなかった蒼がいる。


 母は紬に自由を願った。


 でもその自由には、母の未練も混じっていたのではないか。


「母は、私に自分の代わりをさせたかったんでしょうか」


 紬は小さく言った。


「自分が行けなかったところへ行け、と」


 環はしばらく黙っていた。


 振り子時計の音が聞こえる。


「そういう気持ちも、あったかもしれません」


 環は正直に言った。


「でも、それだけではないと思います」


「どうしてですか」


「その日、澪さんは私に言いました。『この子が私と違う人になるのが怖い。でも、私と同じ人になるほうがもっと怖い』と」


 紬の目に涙がにじんだ。


 母は、紬が自分と違う人になることを恐れていた。

 でも、同じように沈黙し、同じように待ち、同じように言えない人生を歩むことを、もっと恐れていた。


「だから、話せばよかったのに」


 紬は言った。


 声は震えていた。


「私が母と同じにならないようにしたかったなら、父のことも、事故のことも、自分の弱さも、話してくれればよかったのに」


「そうですね」


 環は頷いた。


「澪さんは、それができなかった」


「どうして」


「できないことを、できるようになる前に、時間が過ぎてしまったのでしょう」


 その言葉は、優しいようで残酷だった。


 時間は、待ってくれない。


 母が話せるようになる前に、紬は大人になった。東京へ行った。母と距離を置いた。母は病に倒れ、亡くなった。


 そして今、紬は門司の喫茶店で、母が置いていった紙片を見ている。


 遅い。


 すべてが遅い。


 それでも、届いてしまう。


 手紙も、紙片も、母の願いも。


 環は母の手紙を紬の方へ向けた。


「ここに、あなたへのことが書いてあります。読む?」


 紬は迷った。


「私宛てではないですよね」


「でも、あなたが聞くべきだと私は思います」


 紬は頷いた。


 環は静かに読み上げた。


「高瀬さん。あの日、私はあなたの店で海峡を渡れませんでした。蒼に会うことも、自分の弱さを認めることも、できませんでした。そのかわり、私はお腹の子に、私の知らない海へ行ってほしいと書きました。今思えば、それはとても勝手な願いでした。私は自分が渡れなかった海を、あの子に渡らせようとしていたのかもしれません」


 紬は唇を噛んだ。


「けれど、紬は私ではありません。紬がどの海を渡るか、渡らないかは、紬が決めることです。私はそれを忘れない母でいたいと思いました。思っていました。それなのに、私は多くのことを隠しました。あの子の自由を願いながら、あの子に選ぶための言葉を渡せませんでした」


 環の声が少し揺れた。


「もし、いつか紬がここへ来ることがあれば、あの日の私が渡れなかったことを伝えてください。そして、渡れなかったこともまた、私の人生だったと伝えてください」


 店の中に、長い沈黙が落ちた。


 紬は涙を拭わなかった。


 頬を流れるままにした。


 母は、わかっていた。


 自分が紬に選ぶための言葉を渡せなかったことを。自由を願いながら、沈黙で縛ってしまったことを。


 わかっていたのに、話せなかった。


 それが悔しい。


 でも、その後悔さえ母の一部だった。


「私は、母が渡れなかった海を渡ったんですね」


 紬は呟いた。


 環は頷いた。


「ええ」


「でも、それは母の代わりじゃない」


「そうです」


 律が静かにこちらを見ていた。


 紬は紙片を手に取った。


 この子が、私の知らない海へ行けますように。


「これは、持って帰ってもいいですか」


「もちろん。そのために残していました」


 環は木箱を閉じた。


「澪さんは、ここに帰ってくることはありませんでした。でも、あなたが来た。帰れなかった場所に、別の人がたどり着くこともあるのですね」


 紬は喫茶店の窓の外を見た。


 門司の町に、夕方の光が差している。人々が歩き、店が開き、海峡の向こうには下関の町が見える。


 近くて、遠い。


 遠くて、渡れる。


 店を出る前に、環は紬に一杯のホットミルクを出した。


「お母さんが飲んだものと同じです」


 白い湯気が立っている。


 紬はカップを両手で持った。


 甘く、やさしい匂いがした。


 一口飲むと、喉の奥が熱くなった。母がここで飲んだもの。母がお腹の中の紬を抱えながら飲んだもの。


 その温かさは、四十年近くの時間を越えて、紬の体に届いた。


 喫茶 海月を出ると、空は暮れかけていた。


 律は店の前で、ようやく一枚だけ写真を撮った。


「何を撮ったの?」


 紬が尋ねると、律はカメラを下ろした。


「扉」


「扉?」


「帰れなかった場所の扉」


 紬はその言葉を聞いて、店の扉を振り返った。


 母はここから出て、海峡を渡らずに帰った。


 紬はここから出て、もう一度下関へ渡る。


 同じ扉でも、行き先は違う。


 それでいいのだと思った。


 帰りの船に乗る前、紬は海峡を見た。


 水の流れは速い。夕日が水面に細く伸びている。


 紬は鞄から蒼の封筒を取り出した。


 まだ開けない。


 でも、以前ほど怖くはなかった。


 開ける日を、自分で選べばいい。


 読まない日々も、自分のものにすればいい。


 紬は封筒を鞄に戻し、代わりに母の紙片を手にした。


 この子が、私の知らない海へ行けますように。


 母が知らなかった海を、紬は今、見ている。


 母の代わりではなく、朝倉紬として。


 船が岸を離れた。


 門司の灯りが少しずつ遠ざかる。


 向こう岸の下関へ、船はまっすぐ進んでいく。


 紬は潮風の中で、小さく呟いた。


「お母さん、私は渡ったよ」


 その声は、海峡の風にほどけて消えた。


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