第十二話 下関、海峡の手前で
下関へ向かう電車の中で、紬はまだ蒼の封筒を開けられずにいた。
倉敷で受け取った古い封筒。
裏に小さく、青井、とだけ書かれている。
三原蒼が名前を変えて生きていた頃の名。
父かもしれない人の、最後に近い言葉。
鞄の中には、母の未完の原稿も入っている。福山の水野古書店で受け取ったものだ。
――少女は、港から港へ、出せなかった手紙を運んでいた。
その書き出しが、頭から離れない。
母は、出せなかった手紙を物語にしようとしていた。けれど自分自身の手紙は出せなかった。小説も途中で置いていった。
結局、母は何を最後まで運べなかったのだろう。
父の名前か。
事故の真相か。
自分自身の夢か。
それとも、紬への愛だったのか。
車窓の外で、町が少しずつ変わっていく。
海が近づく。
下関という地名には、紬の中でどこか終点のような響きがあった。瀬戸内の旅の先にある海峡の町。海が狭まり、流れが速くなり、本州の端で向こう岸と向かい合う場所。
ここで何かが終わるのだろうか。
それとも、ここからまた別の場所へ渡るのだろうか。
律は隣の席で、カメラを膝に置いていた。今日は車ではなく、電車で来ている。長い移動になるから、車より楽だろうと律が言った。
紬は封筒を取り出し、膝の上に置いた。
蒼の封筒。
開けるべきか。
下関に着く前に読むべきか。
下関で蒼の最期を知ってから読むべきか。
それとも、最後まで読まないままにするべきか。
律は窓の外を見たまま言った。
「迷っとる?」
「うん」
「封筒?」
「うん」
「読まなくてもいいと思う」
紬は律を見た。
「どうして?」
「知ることは大事だけど、全部を一度に受け取らんでもいい」
「でも、父かもしれない人の言葉だよ」
「だからこそ」
律は視線を紬に向けた。
「いま開けると、これから会う人の話も、全部その手紙越しに聞くことになるかもしれん」
紬は封筒を見つめた。
手紙は、相手の声を連れてくる。
灰原が言ったように、開けた瞬間、その人が戻ってくる。
蒼の手紙を読めば、蒼の声が紬の中に入ってくる。
まだ顔も知らない父の声が。
いや、写真では見た。けれど写真は入口であって、答えではない。
紬は封筒を鞄に戻した。
「下関で話を聞いてからにする」
「うん」
律はそれ以上、何も言わなかった。
下関に着くと、風が強かった。
駅を出た瞬間、海の匂いが濃くなった。尾道の穏やかな潮の匂いとも、呉の鉄混じりの匂いとも違う。ここには流れの速さがある。海が動いている匂いだった。
空は薄く曇っている。雲の切れ間から光が差し、遠くの水面が銀色に光っていた。
手紙の宛先は、赤間宗一郎。
下関の漁港近くに住む老漁師だった。
封筒の裏には、母の字でこう書かれている。
――蒼が最後に見た海を、私はまだ見に行けません。
最後に見た海。
その一文だけで、紬は何度も足が止まりそうになった。
蒼はもう死んでいるのだろうか。
倉田は、詳しくは言わなかった。玉島で青井蒼太として生きていたこと、その後も母を探していたことだけを教えてくれた。下関には、蒼の最期を知る人がいるという。
赤間宗一郎の家は、古い漁師町の一角にあった。
細い路地を抜けると、港が見えた。小さな漁船が並び、ロープが風に揺れている。岸壁には網や浮きが積まれ、潮と魚と油の匂いが混じっていた。
赤間の家は、港のすぐそばの平屋だった。
玄関先に、古い長靴と錆びた釣り針の束が置かれている。呼び鈴はなかった。紬が戸の前で声をかけようとしたとき、背後から声がした。
「朝倉澪の娘か」
振り返ると、ひとりの老人が立っていた。
小柄だが、背中は曲がっていない。日に焼けた肌、深い皺、白い眉。厚手の紺色の上着を着て、手には煙草を持っている。
「赤間宗一郎さんですか」
「そうじゃ」
老人は紬の顔をじっと見た。
「似とるな。澪にも、蒼にも」
その言葉に、紬の胸が跳ねた。
母だけでなく、蒼にも。
初めて言われた。
自分が父かもしれない人に似ていると。
「母が亡くなりまして、赤間さん宛ての手紙が見つかりました」
紬は封筒を差し出した。
赤間は受け取ると、封筒を見ずに懐へ入れた。
「読まないんですか」
「あとで読む」
「今ではなく?」
「澪の手紙は、海の前で読むもんじゃない。揺れる」
不思議な言い方だった。
赤間は顎で港の方を示した。
「ついて来い」
紬と律は顔を見合わせ、老人の後を追った。
港の端に、小さな防波堤があった。そこから海峡が見えた。
水の流れが速い。
ただの海ではなかった。潮がねじれ、白い筋を作り、遠くの船が流れに逆らうように進んでいる。向こう岸には門司の町が見えた。近い。手を伸ばせば届きそうで、けれど水が深く隔てている。
赤間は防波堤の上に腰を下ろした。
「蒼は、ここが好きじゃった」
紬は隣に立ったまま、海峡を見た。
「蒼さんは、ここにいたんですか」
「最後の数年な」
「青井蒼太という名前で?」
「そう名乗っとった時期もある。じゃが、わしの前では蒼でええと言った」
赤間は煙草に火をつけた。
「蒼さんとは、どういう関係だったんですか」
「雇った」
「漁師として?」
「最初は荷運び。腕が悪かったからな。船に乗るにも力仕事には向かん。だが、海を見る目はあった。潮を読むのはうまかった」
「怪我のせいですか」
「それもある。だが、あいつの悪かったのは腕だけじゃない。心も、ずっと片方が動いとらんかった」
赤間の言葉は荒いが、どこかやさしかった。
「母のことを、話していましたか」
「話しとった。酔うと、澪の名前ばかり出た」
紬は息を詰めた。
「私のことは?」
聞くのが怖かった。
でも、聞かずにはいられなかった。
赤間は煙を吐いた。
「知っとった」
海峡の音が、急に大きく聞こえた。
「蒼さんは、私のことを?」
「澪が子を産んだらしいことは、どこかで聞いとった。名前も知っとった。紬」
紬は足元が揺れるような感覚に襲われた。
父かもしれない男は、自分の名前を知っていた。
会いに来なかっただけで。
「どうして会いに来なかったんですか」
声が低くなる。
「知っていたなら、どうして」
「澪に止められていた」
赤間は短く言った。
「母に?」
「ああ」
「母は、蒼さんに会っていたんですか」
「会っとらん。手紙じゃ」
赤間は海を見たまま続けた。
「蒼は一度、尾道へ行こうとした。澪と子どもに会うと言ってな。わしは止めんかった。じゃが、その前に澪から手紙が来た」
「どんな手紙ですか」
「蒼宛てじゃ。わしが読むものではない」
「でも、内容は知っているんですよね」
「蒼が読んだあと、泣いたからな。だいたいはわかる」
紬は唇を噛んだ。
「母は、何て書いたんですか」
赤間はしばらく黙った。
海峡を貨物船が通っていく。低いエンジン音が体の奥に響く。
「澪は、こう書いとったらしい」
赤間はゆっくり口を開いた。
「紬には、あなたを待つ人生ではなく、自分で行き先を決める人生を歩かせたい。だから、父として名乗り出るなら、あなたの寂しさのためではなく、紬の人生のために来てください、と」
紬の胸に、熱いものと冷たいものが同時に広がった。
それは、母らしい言葉だった。
でも同時に、ひどく残酷な言葉だった。
「それで蒼さんは、来なかったんですか」
「あいつは、自分の寂しさのために行こうとしていると気づいたんじゃろう」
「そんなの」
紬の声が震えた。
「そんなの、私が決めることじゃないですか」
赤間は紬を見た。
その目には、驚きはなかった。
「そうじゃな」
「母も蒼さんも、どうして勝手に決めるんですか。私が父を待つかどうか、会いたいかどうか、傷つくかどうか、全部私のことなのに」
「そうじゃ」
「だったら、どうして」
「大人は、子どもを守るふりをして、自分の怖さを隠すことがある」
赤間の声は、風に削られた石のようだった。
「澪もそうじゃった。蒼もそうじゃった。どちらも、あんたに顔向けするのが怖かった」
紬は涙が出そうになった。
悔しかった。
母の事情を知るたび、母を責めきれなくなる。蒼の弱さを聞くたび、父をただ恨むこともできなくなる。
けれど、紬の空白は消えない。
誰もが弱かった。
誰もが怖かった。
その結果、紬だけが何も知らされなかった。
「蒼さんは、私を娘だと思っていたんですか」
紬は尋ねた。
赤間は煙草を消した。
「思っていた。だが、確かめはせんかった」
「なぜ」
「確かめて娘だったら、会わずにいることに耐えられなくなる。娘でなかったら、澪を思い続けた自分が空っぽになる。どちらも怖かったんじゃろう」
紬は海峡を見た。
向こう岸は見えているのに、渡らない。
母と蒼は、ずっとそういう距離にいたのかもしれない。
見えている。
存在を知っている。
でも渡らない。
渡れない。
「蒼さんは、いつ亡くなったんですか」
「五年前じゃ」
五年前。
紬は二十七歳だった。
東京でまだ働いていた。忙しさに追われ、母へ連絡する回数も少なくなっていた頃だ。
そのとき、父かもしれない人が下関で死んだ。
自分は何も知らなかった。
「病気ですか」
「肺を悪くした。酒も多かった。最後は入院したが、長くはなかった」
「母は知っていたんですか」
「知らせた」
紬は赤間を見た。
「母に?」
「ああ。蒼が死ぬ前に、澪へ連絡してほしいと言った」
「母は来ましたか」
赤間は首を横に振った。
「来なかった」
紬の胸が締めつけられる。
「どうして」
「手紙が来た」
「また手紙」
思わず声が強くなった。
「母は、最後まで手紙なんですね」
「そうじゃ」
赤間は否定しなかった。
「澪は手紙で、行けませんと書いた。蒼に会えば、紬に話さなければならなくなる。私はまだその勇気がない、と」
「ひどい」
紬は呟いた。
母にも、蒼にも、自分にも。
ひどい。
「蒼さんは、その手紙を?」
「読んだ」
「何て言っていましたか」
赤間は海峡を見た。
「澪らしい、と笑った」
紬は涙がこぼれそうになった。
笑った。
母の臆病さを、蒼は笑ったのか。
怒るでもなく、責めるでもなく。
「それから、こう言った。あいつは最後まで、俺に会わないことで俺を生かそうとするんだな、と」
「どういう意味ですか」
「蒼は、澪に会えば自分が壊れるとわかっとった。会えなかった時間も、会わなかった罪も、全部戻ってくる。澪も同じじゃ。二人は、会えば救われるとは限らん関係だった」
紬は言葉を失った。
会えば救われるとは限らない。
それでも、会わなければ何も始まらないと思っていた。自分なら会いたい。会って、怒りたい。問い詰めたい。泣きたい。なぜ来なかったのか、なぜ名乗らなかったのか、なぜ母をひとりにしたのかと聞きたい。
でも母と蒼は、会わないことでしか保てないものを抱えていたのかもしれない。
それを理解したくない自分がいる。
理解すれば、また怒れなくなるから。
「蒼さんは、何か残しましたか」
紬は尋ねた。
赤間は懐から小さな包みを取り出した。
「これを」
白い布に包まれていたのは、古い鍵だった。
「鍵?」
「蒼が住んでいた部屋の鍵じゃ。もう部屋は引き払った。鍵としては何の役にも立たん」
「じゃあ、どうして」
「あいつが、持っていろと言った。もし紬という子が来たら渡してくれ、と」
紬は鍵を受け取った。
小さく、冷たい。
使えない鍵。
開ける扉のない鍵。
「蒼さんは、私が来ると思っていたんでしょうか」
「来るかもしれんとは思っとった。来ないかもしれんとも思っとった」
「どっちなんですか」
「どっちでもいい、と言っていた」
赤間は少し笑った。
「来るなら、それは紬が自分で選んだ道だ。来ないなら、それも紬の道だ、と」
紬の手の中で、鍵が重くなった。
父は、会いに来なかった。
でも、紬がいつか自分で来る可能性だけは、どこかで待っていた。
それを優しさと呼ぶには、遅すぎる。
でも、完全な無関心ではなかった。
その中途半端さが、いちばん苦しかった。
「母は、蒼さんが亡くなったことを知って、どうしたんでしょう」
「知らん。手紙はそれきりじゃ」
「赤間さんは、母を責めましたか」
「責めた」
意外なほどはっきりした答えだった。
「何て?」
「来い、と書いた。死に目に間に合わんでも、墓には来い。蒼があんたを待っとった海を見に来い、と」
「母は?」
「来なかった」
赤間は空を見上げた。
「じゃが、今回の手紙を書いたんじゃろう。わし宛てに」
紬は母の封筒を思った。
――蒼が最後に見た海を、私はまだ見に行けません。
母は、結局来られなかった。
それでも手紙を書いた。
出せなかった。
「母は、弱すぎます」
紬は言った。
「そうじゃな」
「でも、私も似てる」
言ってから、自分で驚いた。
赤間は何も言わず、海峡を見ている。
「私も、開けられない手紙があります。蒼さんからの封筒。倉敷で受け取りました。でも怖くて、まだ読めない」
「読まんでもええ」
赤間は言った。
「え?」
「読まん自由もある」
紬は老人を見た。
「でも、知らなきゃ」
「知ることと、読むことは違う。倉敷の写真屋も、似たことを言ったんじゃないか」
紬は小さく笑いそうになった。
みんな、どうして同じようなことを言うのだろう。
「読まないままでもいいんですか」
「いい。ただし、読まないと決めたことまで誰かのせいにするな」
その言葉は、紬の胸に深く入った。
読まないなら、自分で読まないと決める。
読むなら、自分で読むと決める。
母が選べなかったこと。
蒼が選べなかったこと。
その続きを、紬まで誰かに委ねてはいけない。
赤間は立ち上がった。
「蒼の墓に行くか」
紬は息を止めた。
「お墓があるんですか」
「小さな墓じゃ。身寄りも少なかったからな。わしが世話しとる」
紬は迷った。
父かもしれない人の墓。
会ったこともない人の墓。
自分を娘かもしれないと思いながら、会いに来なかった人の墓。
行くべきか。
行かないべきか。
紬は海峡を見た。
向こう岸が見える。
渡るかどうかは、自分で決めるしかない。
「行きます」
声は震えたが、はっきり言えた。
赤間は頷いた。
墓は、港から少し上がった高台にあった。
小さな共同墓地の端。海峡が見える場所。墓石には、青井蒼太、と刻まれていた。三原蒼ではない。
紬はその名前を見つめた。
父かもしれない人は、最後まで本名では眠っていない。
「三原蒼の名前ではないんですね」
「本人がそう望んだ」
「どうして」
「青井蒼太として死ぬことで、三原蒼をどこかに残したかったのかもしれん」
紬には、まだよくわからなかった。
墓の前にしゃがみ、手を合わせる。
何を祈ればいいのかわからない。
会いたかったです、とは言えない。
恨んでいます、も違う。
父ですか、と墓に尋ねても答えはない。
紬は目を閉じた。
長い沈黙のあと、心の中で言った。
私は、朝倉紬です。
それだけだった。
それだけしか言えなかった。
でも、その名前を伝えることが、今の紬にできる精一杯だった。
墓地を出る頃、夕方の光が海峡に差していた。
赤間は港まで戻る途中、ぽつりと言った。
「澪は、あんたに自分で行き先を決めてほしいと言ったんじゃろう」
「はい」
「なら、決めたらええ。会わんかった父を恨むのも、会いに行かなかった母を怒るのも、手紙を読むのも読まんのも、あんたが決めたらええ」
紬は頷いた。
「ただしな」
赤間は続けた。
「自由というのは、誰にも傷つけられないことじゃない。傷ついても、そこから自分で歩くことじゃ」
風が吹いた。
海の匂いが強くなる。
母は、紬に自由を渡そうとした。
けれどそのために、たくさんのことを隠した。
蒼は、紬が自分で来ることを待った。
けれど自分からは来なかった。
そのどちらも、紬にはまだ許せない。
でも、赤間の言う自由は、少しだけわかる気がした。
傷つかない人生ではなく、傷ついたあとで歩く人生。
下関駅へ戻る前、紬は港のベンチに座り、鞄から蒼の封筒を取り出した。
律は少し離れた場所に立っていた。赤間は煙草を吸いながら海を見ている。
封筒を開けるかどうか。
紬はしばらく考えた。
そして、開けなかった。
代わりに、鞄から手帳を出した。
真っ白なページに、ペンを走らせる。
――私は、朝倉紬です。
――あなたに会えなかったことを、まだ許せません。
――でも、あなたが私の名前を知っていたことを、今日知りました。
――それだけで足りるとは思いません。
――けれど、何もなかったわけではないのだと、少しだけ思いました。
書いているうちに、涙が落ちた。
紙に小さな染みができる。
これは蒼への手紙なのか。
母への手紙なのか。
自分自身への手紙なのか。
わからなかった。
でも、書けた。
紬は手帳を閉じた。
蒼の封筒は、まだ開けない。
それは逃げではなく、今の自分が選んだ保留だった。
下関の海峡は、夕暮れの中で光っていた。
向こう岸は近い。
でも、今はまだ渡らない。
紬は立ち上がった。
次は、門司。
母が妊娠中に一度だけ訪れ、蒼に会うかどうか迷ったという古い喫茶店。
海峡の向こう側。
母が渡らなかったかもしれない場所へ、今度は紬が渡る。




