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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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12/17

第十二話 下関、海峡の手前で

 下関へ向かう電車の中で、紬はまだ蒼の封筒を開けられずにいた。


 倉敷で受け取った古い封筒。


 裏に小さく、青井、とだけ書かれている。


 三原蒼が名前を変えて生きていた頃の名。

 父かもしれない人の、最後に近い言葉。


 鞄の中には、母の未完の原稿も入っている。福山の水野古書店で受け取ったものだ。


 ――少女は、港から港へ、出せなかった手紙を運んでいた。


 その書き出しが、頭から離れない。


 母は、出せなかった手紙を物語にしようとしていた。けれど自分自身の手紙は出せなかった。小説も途中で置いていった。


 結局、母は何を最後まで運べなかったのだろう。


 父の名前か。

 事故の真相か。

 自分自身の夢か。

 それとも、紬への愛だったのか。


 車窓の外で、町が少しずつ変わっていく。


 海が近づく。


 下関という地名には、紬の中でどこか終点のような響きがあった。瀬戸内の旅の先にある海峡の町。海が狭まり、流れが速くなり、本州の端で向こう岸と向かい合う場所。


 ここで何かが終わるのだろうか。


 それとも、ここからまた別の場所へ渡るのだろうか。


 律は隣の席で、カメラを膝に置いていた。今日は車ではなく、電車で来ている。長い移動になるから、車より楽だろうと律が言った。


 紬は封筒を取り出し、膝の上に置いた。


 蒼の封筒。


 開けるべきか。


 下関に着く前に読むべきか。

 下関で蒼の最期を知ってから読むべきか。

 それとも、最後まで読まないままにするべきか。


 律は窓の外を見たまま言った。


「迷っとる?」


「うん」


「封筒?」


「うん」


「読まなくてもいいと思う」


 紬は律を見た。


「どうして?」


「知ることは大事だけど、全部を一度に受け取らんでもいい」


「でも、父かもしれない人の言葉だよ」


「だからこそ」


 律は視線を紬に向けた。


「いま開けると、これから会う人の話も、全部その手紙越しに聞くことになるかもしれん」


 紬は封筒を見つめた。


 手紙は、相手の声を連れてくる。


 灰原が言ったように、開けた瞬間、その人が戻ってくる。

 蒼の手紙を読めば、蒼の声が紬の中に入ってくる。


 まだ顔も知らない父の声が。


 いや、写真では見た。けれど写真は入口であって、答えではない。


 紬は封筒を鞄に戻した。


「下関で話を聞いてからにする」


「うん」


 律はそれ以上、何も言わなかった。


 下関に着くと、風が強かった。


 駅を出た瞬間、海の匂いが濃くなった。尾道の穏やかな潮の匂いとも、呉の鉄混じりの匂いとも違う。ここには流れの速さがある。海が動いている匂いだった。


 空は薄く曇っている。雲の切れ間から光が差し、遠くの水面が銀色に光っていた。


 手紙の宛先は、赤間宗一郎。


 下関の漁港近くに住む老漁師だった。


 封筒の裏には、母の字でこう書かれている。


 ――蒼が最後に見た海を、私はまだ見に行けません。


 最後に見た海。


 その一文だけで、紬は何度も足が止まりそうになった。


 蒼はもう死んでいるのだろうか。


 倉田は、詳しくは言わなかった。玉島で青井蒼太として生きていたこと、その後も母を探していたことだけを教えてくれた。下関には、蒼の最期を知る人がいるという。


 赤間宗一郎の家は、古い漁師町の一角にあった。


 細い路地を抜けると、港が見えた。小さな漁船が並び、ロープが風に揺れている。岸壁には網や浮きが積まれ、潮と魚と油の匂いが混じっていた。


 赤間の家は、港のすぐそばの平屋だった。


 玄関先に、古い長靴と錆びた釣り針の束が置かれている。呼び鈴はなかった。紬が戸の前で声をかけようとしたとき、背後から声がした。


「朝倉澪の娘か」


 振り返ると、ひとりの老人が立っていた。


 小柄だが、背中は曲がっていない。日に焼けた肌、深い皺、白い眉。厚手の紺色の上着を着て、手には煙草を持っている。


「赤間宗一郎さんですか」


「そうじゃ」


 老人は紬の顔をじっと見た。


「似とるな。澪にも、蒼にも」


 その言葉に、紬の胸が跳ねた。


 母だけでなく、蒼にも。


 初めて言われた。


 自分が父かもしれない人に似ていると。


「母が亡くなりまして、赤間さん宛ての手紙が見つかりました」


 紬は封筒を差し出した。


 赤間は受け取ると、封筒を見ずに懐へ入れた。


「読まないんですか」


「あとで読む」


「今ではなく?」


「澪の手紙は、海の前で読むもんじゃない。揺れる」


 不思議な言い方だった。


 赤間は顎で港の方を示した。


「ついて来い」


 紬と律は顔を見合わせ、老人の後を追った。


 港の端に、小さな防波堤があった。そこから海峡が見えた。


 水の流れが速い。


 ただの海ではなかった。潮がねじれ、白い筋を作り、遠くの船が流れに逆らうように進んでいる。向こう岸には門司の町が見えた。近い。手を伸ばせば届きそうで、けれど水が深く隔てている。


 赤間は防波堤の上に腰を下ろした。


「蒼は、ここが好きじゃった」


 紬は隣に立ったまま、海峡を見た。


「蒼さんは、ここにいたんですか」


「最後の数年な」


「青井蒼太という名前で?」


「そう名乗っとった時期もある。じゃが、わしの前では蒼でええと言った」


 赤間は煙草に火をつけた。


「蒼さんとは、どういう関係だったんですか」


「雇った」


「漁師として?」


「最初は荷運び。腕が悪かったからな。船に乗るにも力仕事には向かん。だが、海を見る目はあった。潮を読むのはうまかった」


「怪我のせいですか」


「それもある。だが、あいつの悪かったのは腕だけじゃない。心も、ずっと片方が動いとらんかった」


 赤間の言葉は荒いが、どこかやさしかった。


「母のことを、話していましたか」


「話しとった。酔うと、澪の名前ばかり出た」


 紬は息を詰めた。


「私のことは?」


 聞くのが怖かった。


 でも、聞かずにはいられなかった。


 赤間は煙を吐いた。


「知っとった」


 海峡の音が、急に大きく聞こえた。


「蒼さんは、私のことを?」


「澪が子を産んだらしいことは、どこかで聞いとった。名前も知っとった。紬」


 紬は足元が揺れるような感覚に襲われた。


 父かもしれない男は、自分の名前を知っていた。


 会いに来なかっただけで。


「どうして会いに来なかったんですか」


 声が低くなる。


「知っていたなら、どうして」


「澪に止められていた」


 赤間は短く言った。


「母に?」


「ああ」


「母は、蒼さんに会っていたんですか」


「会っとらん。手紙じゃ」


 赤間は海を見たまま続けた。


「蒼は一度、尾道へ行こうとした。澪と子どもに会うと言ってな。わしは止めんかった。じゃが、その前に澪から手紙が来た」


「どんな手紙ですか」


「蒼宛てじゃ。わしが読むものではない」


「でも、内容は知っているんですよね」


「蒼が読んだあと、泣いたからな。だいたいはわかる」


 紬は唇を噛んだ。


「母は、何て書いたんですか」


 赤間はしばらく黙った。


 海峡を貨物船が通っていく。低いエンジン音が体の奥に響く。


「澪は、こう書いとったらしい」


 赤間はゆっくり口を開いた。


「紬には、あなたを待つ人生ではなく、自分で行き先を決める人生を歩かせたい。だから、父として名乗り出るなら、あなたの寂しさのためではなく、紬の人生のために来てください、と」


 紬の胸に、熱いものと冷たいものが同時に広がった。


 それは、母らしい言葉だった。


 でも同時に、ひどく残酷な言葉だった。


「それで蒼さんは、来なかったんですか」


「あいつは、自分の寂しさのために行こうとしていると気づいたんじゃろう」


「そんなの」


 紬の声が震えた。


「そんなの、私が決めることじゃないですか」


 赤間は紬を見た。


 その目には、驚きはなかった。


「そうじゃな」


「母も蒼さんも、どうして勝手に決めるんですか。私が父を待つかどうか、会いたいかどうか、傷つくかどうか、全部私のことなのに」


「そうじゃ」


「だったら、どうして」


「大人は、子どもを守るふりをして、自分の怖さを隠すことがある」


 赤間の声は、風に削られた石のようだった。


「澪もそうじゃった。蒼もそうじゃった。どちらも、あんたに顔向けするのが怖かった」


 紬は涙が出そうになった。


 悔しかった。


 母の事情を知るたび、母を責めきれなくなる。蒼の弱さを聞くたび、父をただ恨むこともできなくなる。


 けれど、紬の空白は消えない。


 誰もが弱かった。

 誰もが怖かった。

 その結果、紬だけが何も知らされなかった。


「蒼さんは、私を娘だと思っていたんですか」


 紬は尋ねた。


 赤間は煙草を消した。


「思っていた。だが、確かめはせんかった」


「なぜ」


「確かめて娘だったら、会わずにいることに耐えられなくなる。娘でなかったら、澪を思い続けた自分が空っぽになる。どちらも怖かったんじゃろう」


 紬は海峡を見た。


 向こう岸は見えているのに、渡らない。


 母と蒼は、ずっとそういう距離にいたのかもしれない。


 見えている。

 存在を知っている。

 でも渡らない。

 渡れない。


「蒼さんは、いつ亡くなったんですか」


「五年前じゃ」


 五年前。


 紬は二十七歳だった。


 東京でまだ働いていた。忙しさに追われ、母へ連絡する回数も少なくなっていた頃だ。


 そのとき、父かもしれない人が下関で死んだ。


 自分は何も知らなかった。


「病気ですか」


「肺を悪くした。酒も多かった。最後は入院したが、長くはなかった」


「母は知っていたんですか」


「知らせた」


 紬は赤間を見た。


「母に?」


「ああ。蒼が死ぬ前に、澪へ連絡してほしいと言った」


「母は来ましたか」


 赤間は首を横に振った。


「来なかった」


 紬の胸が締めつけられる。


「どうして」


「手紙が来た」


「また手紙」


 思わず声が強くなった。


「母は、最後まで手紙なんですね」


「そうじゃ」


 赤間は否定しなかった。


「澪は手紙で、行けませんと書いた。蒼に会えば、紬に話さなければならなくなる。私はまだその勇気がない、と」


「ひどい」


 紬は呟いた。


 母にも、蒼にも、自分にも。


 ひどい。


「蒼さんは、その手紙を?」


「読んだ」


「何て言っていましたか」


 赤間は海峡を見た。


「澪らしい、と笑った」


 紬は涙がこぼれそうになった。


 笑った。


 母の臆病さを、蒼は笑ったのか。


 怒るでもなく、責めるでもなく。


「それから、こう言った。あいつは最後まで、俺に会わないことで俺を生かそうとするんだな、と」


「どういう意味ですか」


「蒼は、澪に会えば自分が壊れるとわかっとった。会えなかった時間も、会わなかった罪も、全部戻ってくる。澪も同じじゃ。二人は、会えば救われるとは限らん関係だった」


 紬は言葉を失った。


 会えば救われるとは限らない。


 それでも、会わなければ何も始まらないと思っていた。自分なら会いたい。会って、怒りたい。問い詰めたい。泣きたい。なぜ来なかったのか、なぜ名乗らなかったのか、なぜ母をひとりにしたのかと聞きたい。


 でも母と蒼は、会わないことでしか保てないものを抱えていたのかもしれない。


 それを理解したくない自分がいる。


 理解すれば、また怒れなくなるから。


「蒼さんは、何か残しましたか」


 紬は尋ねた。


 赤間は懐から小さな包みを取り出した。


「これを」


 白い布に包まれていたのは、古い鍵だった。


「鍵?」


「蒼が住んでいた部屋の鍵じゃ。もう部屋は引き払った。鍵としては何の役にも立たん」


「じゃあ、どうして」


「あいつが、持っていろと言った。もし紬という子が来たら渡してくれ、と」


 紬は鍵を受け取った。


 小さく、冷たい。


 使えない鍵。


 開ける扉のない鍵。


「蒼さんは、私が来ると思っていたんでしょうか」


「来るかもしれんとは思っとった。来ないかもしれんとも思っとった」


「どっちなんですか」


「どっちでもいい、と言っていた」


 赤間は少し笑った。


「来るなら、それは紬が自分で選んだ道だ。来ないなら、それも紬の道だ、と」


 紬の手の中で、鍵が重くなった。


 父は、会いに来なかった。

 でも、紬がいつか自分で来る可能性だけは、どこかで待っていた。


 それを優しさと呼ぶには、遅すぎる。


 でも、完全な無関心ではなかった。


 その中途半端さが、いちばん苦しかった。


「母は、蒼さんが亡くなったことを知って、どうしたんでしょう」


「知らん。手紙はそれきりじゃ」


「赤間さんは、母を責めましたか」


「責めた」


 意外なほどはっきりした答えだった。


「何て?」


「来い、と書いた。死に目に間に合わんでも、墓には来い。蒼があんたを待っとった海を見に来い、と」


「母は?」


「来なかった」


 赤間は空を見上げた。


「じゃが、今回の手紙を書いたんじゃろう。わし宛てに」


 紬は母の封筒を思った。


 ――蒼が最後に見た海を、私はまだ見に行けません。


 母は、結局来られなかった。


 それでも手紙を書いた。


 出せなかった。


「母は、弱すぎます」


 紬は言った。


「そうじゃな」


「でも、私も似てる」


 言ってから、自分で驚いた。


 赤間は何も言わず、海峡を見ている。


「私も、開けられない手紙があります。蒼さんからの封筒。倉敷で受け取りました。でも怖くて、まだ読めない」


「読まんでもええ」


 赤間は言った。


「え?」


「読まん自由もある」


 紬は老人を見た。


「でも、知らなきゃ」


「知ることと、読むことは違う。倉敷の写真屋も、似たことを言ったんじゃないか」


 紬は小さく笑いそうになった。


 みんな、どうして同じようなことを言うのだろう。


「読まないままでもいいんですか」


「いい。ただし、読まないと決めたことまで誰かのせいにするな」


 その言葉は、紬の胸に深く入った。


 読まないなら、自分で読まないと決める。


 読むなら、自分で読むと決める。


 母が選べなかったこと。

 蒼が選べなかったこと。


 その続きを、紬まで誰かに委ねてはいけない。


 赤間は立ち上がった。


「蒼の墓に行くか」


 紬は息を止めた。


「お墓があるんですか」


「小さな墓じゃ。身寄りも少なかったからな。わしが世話しとる」


 紬は迷った。


 父かもしれない人の墓。

 会ったこともない人の墓。

 自分を娘かもしれないと思いながら、会いに来なかった人の墓。


 行くべきか。


 行かないべきか。


 紬は海峡を見た。


 向こう岸が見える。


 渡るかどうかは、自分で決めるしかない。


「行きます」


 声は震えたが、はっきり言えた。


 赤間は頷いた。


 墓は、港から少し上がった高台にあった。


 小さな共同墓地の端。海峡が見える場所。墓石には、青井蒼太、と刻まれていた。三原蒼ではない。


 紬はその名前を見つめた。


 父かもしれない人は、最後まで本名では眠っていない。


「三原蒼の名前ではないんですね」


「本人がそう望んだ」


「どうして」


「青井蒼太として死ぬことで、三原蒼をどこかに残したかったのかもしれん」


 紬には、まだよくわからなかった。


 墓の前にしゃがみ、手を合わせる。


 何を祈ればいいのかわからない。


 会いたかったです、とは言えない。

 恨んでいます、も違う。

 父ですか、と墓に尋ねても答えはない。


 紬は目を閉じた。


 長い沈黙のあと、心の中で言った。


 私は、朝倉紬です。


 それだけだった。


 それだけしか言えなかった。


 でも、その名前を伝えることが、今の紬にできる精一杯だった。


 墓地を出る頃、夕方の光が海峡に差していた。


 赤間は港まで戻る途中、ぽつりと言った。


「澪は、あんたに自分で行き先を決めてほしいと言ったんじゃろう」


「はい」


「なら、決めたらええ。会わんかった父を恨むのも、会いに行かなかった母を怒るのも、手紙を読むのも読まんのも、あんたが決めたらええ」


 紬は頷いた。


「ただしな」


 赤間は続けた。


「自由というのは、誰にも傷つけられないことじゃない。傷ついても、そこから自分で歩くことじゃ」


 風が吹いた。


 海の匂いが強くなる。


 母は、紬に自由を渡そうとした。

 けれどそのために、たくさんのことを隠した。

 蒼は、紬が自分で来ることを待った。

 けれど自分からは来なかった。


 そのどちらも、紬にはまだ許せない。


 でも、赤間の言う自由は、少しだけわかる気がした。


 傷つかない人生ではなく、傷ついたあとで歩く人生。


 下関駅へ戻る前、紬は港のベンチに座り、鞄から蒼の封筒を取り出した。


 律は少し離れた場所に立っていた。赤間は煙草を吸いながら海を見ている。


 封筒を開けるかどうか。


 紬はしばらく考えた。


 そして、開けなかった。


 代わりに、鞄から手帳を出した。


 真っ白なページに、ペンを走らせる。


 ――私は、朝倉紬です。

 ――あなたに会えなかったことを、まだ許せません。

 ――でも、あなたが私の名前を知っていたことを、今日知りました。

 ――それだけで足りるとは思いません。

 ――けれど、何もなかったわけではないのだと、少しだけ思いました。


 書いているうちに、涙が落ちた。


 紙に小さな染みができる。


 これは蒼への手紙なのか。

 母への手紙なのか。

 自分自身への手紙なのか。


 わからなかった。


 でも、書けた。


 紬は手帳を閉じた。


 蒼の封筒は、まだ開けない。


 それは逃げではなく、今の自分が選んだ保留だった。


 下関の海峡は、夕暮れの中で光っていた。


 向こう岸は近い。


 でも、今はまだ渡らない。


 紬は立ち上がった。


 次は、門司。


 母が妊娠中に一度だけ訪れ、蒼に会うかどうか迷ったという古い喫茶店。


 海峡の向こう側。


 母が渡らなかったかもしれない場所へ、今度は紬が渡る。


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