第十一話 福山、古い切符の行き先
福山行きの切符は、母の手紙の中でいちばん古びていた。
封筒から出したわけではない。まだ封は切っていない。けれど、封筒の中に硬い紙片が入っていることは、触れればわかった。四角く、小さく、少し反っている。
封筒の表には、福山市内の古書店の名前が書かれていた。
水野古書店。
水野透様。
裏には、母の字で短くこうある。
――あの切符を、まだ持っています。
倉敷を出る前、紬は何度もその一文を見た。
あの切符。
母にとって、ただの交通券ではないのだろう。行った場所、行けなかった場所、戻れなかった時間。そういうものが、紙片の中に折りたたまれている気がした。
倉敷から福山へ向かう電車の中で、紬は蒼からの封筒を鞄の奥にしまったままにしていた。
開けない。
そう決めた。
けれど、開けないと決めたからといって、存在が消えるわけではない。鞄の底にある封筒は、ずっと体の一部のように重かった。父かもしれない人が、いつか朝倉澪の娘が来ることがあればと残した封筒。
律は向かいの席で、カメラのストラップを指でいじっていた。
「本当に開けなくてよかった?」
律が尋ねた。
「今はね」
「今は」
「開けたら、たぶん父のことばかり考える。でも、次の手紙は母自身のことの気がする」
「澪さん自身?」
「うん」
紬は封筒を鞄の外ポケットから出した。
福山の古書店宛て。
中には古い切符。
「母は、本当は作家になりたかったのかもしれない」
その言葉を口にすると、胸の奥が少し震えた。
母が作家。
不思議な響きだった。
紬にとって母は、古書喫茶の店主だった。本を読む人であり、本を選ぶ人であり、本を売る人だった。けれど、本を書く人として母を想像したことはなかった。
それなのに、福山の封筒を持った瞬間から、母の別の顔がそこにあるような気がしていた。
「潮待ち堂に、澪さんの書いたものって残ってなかった?」
律が尋ねた。
「日記は見つからない。手紙はたくさんあるのに、自分のための文章は少ない」
「隠してたのかも」
「また?」
「澪さん、隠すの得意じゃけえ」
「笑えない」
「ごめん」
律は素直に謝った。
紬は少しだけ笑った。
「でも、そうかもね」
母は、たくさんのものを隠していた。
父の名前。
蒼との約束。
事故の夜。
母子手帳。
指輪の存在。
千景への葉書。
そして、おそらく自分の夢も。
福山駅に着くと、空は薄く晴れていた。
駅前は思ったより大きく、人の流れも多い。尾道や竹原のような観光地の静けさではなく、日常の町の賑わいがあった。バスのロータリー、商業施設、学校帰りの学生たち。遠くに福山城の白い姿が見える。
水野古書店は、駅から少し歩いた商店街の外れにあった。
古いアーケードを抜け、細い路地へ入る。シャッターを下ろした店がいくつか並ぶ中、ひとつだけ開いている小さな店があった。ガラス戸の内側まで本が積まれ、手書きの札には「郷土史・文芸・古雑誌」とある。
戸を開けると、紙の匂いがした。
潮待ち堂の匂いとは少し違う。こちらはもっと乾いていて、埃っぽく、時間がそのまま本の隙間に溜まっているような匂いだった。
店内は狭く、天井近くまで本棚が伸びていた。棚の間の通路は人ひとりがやっと通れるほど。足元にも段ボールが積まれている。奥のカウンターで、老人が本に紙を巻いていた。
丸い眼鏡、薄い白髪、細い指。
紬が声をかける前に、老人は顔を上げた。
「いらっしゃい」
「あの、水野透さんでしょうか」
「はい。私です」
「朝倉澪の娘です」
老人の手が止まった。
紙を巻かれかけていた文庫本が、カウンターの上で静かに傾いた。
「澪さんの……娘さん」
「母が亡くなりました。遺品から、水野さん宛ての手紙が見つかりました」
封筒を差し出す。
水野は眼鏡を外し、布で拭いた。時間を稼いでいるようにも見えた。
「そうですか。澪さんが」
その声には、驚きよりも深い沈みがあった。
「どうぞ、奥へ。少し散らかっていますが」
店の奥には、畳二畳ほどの小さなスペースがあった。低い机と座布団。本の山に囲まれた穴蔵のような場所だった。
水野はお茶を淹れ、封筒を机の上に置いた。
「開けても?」
「もちろんです」
水野は慎重に封を切った。
中から便箋と、古い切符が出てきた。
紬は思わず身を乗り出した。
切符は硬券だった。端が少し欠けている。印字は薄くなっているが、かろうじて読める。
尾道から福山。
日付は、母が二十一歳の頃。
水野は切符を指先でつまみ、長く見つめた。
「まだ持っていたんですね」
「この切符は、何なんですか」
水野はすぐには答えず、まず手紙を読んだ。
便箋をめくる音が、古書店の奥に静かに響く。外の商店街の音は遠い。ここだけ時間が止まっているようだった。
読み終えると、水野は小さく息を吐いた。
「澪さんは、やはり書く人でしたね」
紬の胸が鳴った。
「母は、小説を書いていたんですか」
「ええ。少しだけ」
「少しだけ?」
「私が読んだのは、短いものが三つです。どれも未完成に近かった。でも、忘れられなかった」
水野は立ち上がり、店の奥の棚から薄い箱を取り出した。箱には古い原稿用紙が束ねられて入っていた。
「これは、澪さんから預かったものではありません。昔、彼女がうちの店で書いたものを、置いていってしまったんです」
「母が、ここで?」
「ええ。今から四十年近く前になりますか。澪さんは何度かこの店に来ました。最初は客として。次に、少しだけ店番を手伝ってくれるようになった」
「母が福山で店番を?」
「はい。短い期間でした。松山から尾道へ戻る前だったと思います」
紬は息をのんだ。
母は松山からそのまま尾道へ戻ったのではなかった。
福山に寄っていた。
古書店で、少しだけ働いていた。
「お腹は?」
「目立ちはじめていました。けれど、何も聞きませんでした。聞いてはいけない顔をしていた」
水野は原稿用紙の束をそっと机に置いた。
「澪さんは、店の片隅でよく何かを書いていました。お客がいない時間に、鉛筆で。私は古書店の人間ですから、書いている人の邪魔はしません」
「それを、母は置いていったんですか」
「ええ。ある日、尾道へ戻ると言って、この切符を買った。けれど出発の前に店へ来て、しばらく机に向かっていました。帰ったあと、原稿だけが残っていた」
「返そうとは?」
「しました。尾道の朝倉澪さん宛てに手紙を書こうと思った。でも、澪さんは連絡先を書いていかなかった。後年、潮待ち堂のことを知って、ああ、あの人は店を始めたのだとわかりました。けれどその頃には、返すタイミングを失っていました」
タイミングを失う。
母の周りには、その言葉が何度も現れる。
言うタイミング。
渡すタイミング。
会うタイミング。
返すタイミング。
失われたタイミングの積み重ねが、今、十二通の手紙になって紬の前に現れている。
「読んでもいいですか」
紬は原稿用紙を見つめた。
水野は頷いた。
「もちろん。これは本来、あなたに届くべきものだったのかもしれません」
紬は原稿用紙を手に取った。
母の字だった。
手紙の字より、少し若い。勢いがある。ところどころ消し跡があり、言葉を選び直した跡が残っている。
題名はなかった。
書き出しは、こうだった。
――少女は、港から港へ、出せなかった手紙を運んでいた。
紬は息を止めた。
母は、若い頃から手紙の話を書いていた。
いや、逆かもしれない。
母は、自分の人生をずっと手紙の物語として感じていたのかもしれない。
続きを読む。
少女は船の売店に立ち、乗客から手紙を預かる。ある人は亡くなった夫へ、ある人は家出した娘へ、ある人はまだ生まれていない子どもへ手紙を書く。少女は、それらを次の港へ届ける。だが、ひとつだけ届けられない手紙がある。
自分自身への手紙。
そこまで読んで、紬は手を止めた。
「これ、母の話ですよね」
「そうでしょうね」
水野は静かに言った。
「でも小説です。事実そのものではなく、事実になれなかったものを書く場所です」
紬は原稿用紙を見つめた。
事実になれなかったもの。
母が蒼と暮らす未来。
父の名前を娘に告げる未来。
事故の夜に本当のことを言う未来。
作家になる未来。
母は、それらを小説の中に置こうとしていたのかもしれない。
「母は、作家になりたかったんでしょうか」
紬が尋ねると、水野は少し考えた。
「なりたかった、というより、書かずにいられなかったのだと思います」
「でも、書き続けなかった」
「ええ」
「どうしてですか」
水野は、手紙の便箋に目を落とした。
「この手紙に書かれています。澪さんは、書くことが怖くなった、と」
「怖く?」
「書けば、自分が何を望んでいたかが見えてしまう。誰を恨んでいたか、誰に会いたかったか、何を諦めたくなかったか。そういうものが、言葉になってしまうのが怖かったそうです」
紬は胸が痛んだ。
母は、手紙だけでなく、小説も出せなかった。
言葉にする力があったのに、言葉にすれば自分が壊れると思っていた。
「でも、潮待ち堂を始めた」
「ええ。澪さんは、書く代わりに、本を選ぶ人になったのかもしれません」
水野は微笑んだ。
「自分の物語を書くのではなく、誰かのために物語を選ぶ。それもまた、ひとつの文学の関わり方です」
紬は潮待ち堂の棚を思い出した。
眠れない日に。
うまく泣けない人へ。
遠くに行きたいとき。
母は、自分の小説を書かなかった。
その代わりに、誰かの人生に合う本を差し出し続けた。
それは夢を諦めた姿なのか。
それとも、夢の形を変えた姿なのか。
紬にはまだ、答えが出せなかった。
水野は原稿用紙の束の一番下から、別の紙を取り出した。
「これは、澪さんが最後に書いたらしいメモです」
紬は受け取った。
そこには、短い文がいくつか並んでいた。
――港は、行く人だけのものではない。
――帰れなかった人も、そこで潮を待っている。
――手紙は、出せなかった時間ごと運ぶ。
――いつか、この子が読むなら、私は嘘をつきたくない。
最後の一文で、紬は息をのんだ。
この子。
紬のことだ。
母は、まだ生まれていない紬がいつか読むことを想像していた。
そして、嘘をつきたくないと思っていた。
それなのに母は、話さなかった。
嘘をつかなかった代わりに、黙った。
その選択が正しいとは思えない。
でも、母の中では、嘘をつかないことと、言わないことがぎりぎりの境界だったのかもしれない。
「母は、弱いですね」
紬はぽつりと言った。
水野は頷いた。
「弱い人だったと思います」
その言い方に、否定も慰めもなかった。
「でも、弱い人が書くものは、ときどき強い」
「強い?」
「自分が弱いことを知っている人は、他人の弱さを見逃しにくい。澪さんの文章には、それがありました」
紬は原稿用紙を見つめた。
少女が手紙を運ぶ物語。
母が書きかけ、置いていった物語。
「これ、持って帰ってもいいですか」
「もちろんです。そのために、私は残していたのだと思います」
水野は古い切符も一緒に渡した。
「この切符は?」
「澪さんが尾道へ戻った日のものです。彼女は、出発前にこの店で原稿を書いていました。電車の時間ぎりぎりまでね。私は、切符を忘れていますよと言った。澪さんは笑って、『忘れたんじゃなくて、置いていくんです』と言いました」
「置いていく?」
「戻るためではなく、ここに来たことを忘れないために、と」
水野は切符を紬の手に置いた。
「でも結局、澪さんはこの切符も手紙に入れていた。忘れられなかったのでしょうね」
尾道から福山。
福山から尾道。
母はこの切符で、何を置いていき、何を持ち帰ったのだろう。
紬は切符を母の原稿の上に重ねた。
潮待ち堂へ戻ったら、この原稿を読む。
最後まで。
未完でも、途中で途切れていても。
母が書けなかった物語を、勝手に完成させるつもりはない。
けれど、母が何を書こうとしていたのかは知りたい。
古書店を出ると、商店街には夕方の光が差していた。
律は店の外で、向かいのシャッターに映る光を撮っていた。
「撮ったんだ」
紬が言うと、律はカメラを下ろした。
「待ってる間に一枚だけ」
「何を?」
「閉まった店の前に、光だけ残ってたから」
「それ、寂しくない?」
「少し。でも、きれいだった」
紬はその答えを聞いて、母の原稿を思った。
閉まった店。
残った光。
未完の物語。
どれも、今の自分に近い気がした。
「母、作家になりたかったみたい」
紬は言った。
律は驚かなかった。
「そうか」
「でも、書けなくなった。怖くて」
「うん」
「私は編集者だったのに、母が書く人だったことを知らなかった」
その事実が、胸に重かった。
他人の原稿は読んできた。作家の言葉に赤字を入れ、構成を直し、タイトルを考え、帯文を書いた。なのに、いちばん近くにいた母が書きたかったことを知らなかった。
「知らなかったことは、悪いことじゃないよ」
律が言った。
「でも、知ろうとしなかった」
「今、知ろうとしてる」
律の言葉はいつも短い。
短いが、必要なところに届く。
紬は鞄の中の原稿を抱え直した。
「次は下関」
「蒼さんの最期を知る人?」
「うん。十一通目」
「その前に、蒼さんの封筒は?」
紬は少し黙った。
倉敷で受け取った、青井蒼太からの封筒。
まだ開けていない。
「下関へ行く前に開けるか、あとで開けるか、迷ってる」
「どっちでもいいと思う」
「律はいつもそう言う」
「どっちでも、紬が選ぶなら」
紬は小さく笑った。
「それ、便利な答え」
「でも本音」
福山駅へ向かう途中、紬はふと立ち止まった。
駅前の広場に、夕方の人々が行き交っている。学生、会社員、買い物帰りの人。誰も母のことを知らない。三原蒼のことも、朝倉紬が鞄の中に未完の原稿を入れていることも知らない。
それでも、それぞれの人に、それぞれの言葉にならない物語があるのだろう。
母は、そういうものを見ていたのかもしれない。
だから本を選んだ。
だから手紙を書いた。
だから小説を書こうとした。
紬は、古い切符を指で挟んだ。
尾道から福山。
それは母が作家になる夢を少しだけ置いていった場所であり、潮待ち堂へ戻るための場所でもあった。
行き先は、ひとつではない。
切符の示す駅名よりも、人はもっと遠くへ行く。あるいは、もっと深く戻る。
紬は駅の改札へ向かった。
鞄の中で、母の未完の原稿が静かに揺れている。
母が書けなかった物語は、まだ終わっていない。
けれど、終わらせるのは母ではない。蒼でもない。水野でもない。
たぶん、紬が読むことで、ようやく次の頁が始まる。




