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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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第十一話 福山、古い切符の行き先

 福山行きの切符は、母の手紙の中でいちばん古びていた。


 封筒から出したわけではない。まだ封は切っていない。けれど、封筒の中に硬い紙片が入っていることは、触れればわかった。四角く、小さく、少し反っている。


 封筒の表には、福山市内の古書店の名前が書かれていた。


 水野古書店。

 水野透様。


 裏には、母の字で短くこうある。


 ――あの切符を、まだ持っています。


 倉敷を出る前、紬は何度もその一文を見た。


 あの切符。


 母にとって、ただの交通券ではないのだろう。行った場所、行けなかった場所、戻れなかった時間。そういうものが、紙片の中に折りたたまれている気がした。


 倉敷から福山へ向かう電車の中で、紬は蒼からの封筒を鞄の奥にしまったままにしていた。


 開けない。


 そう決めた。


 けれど、開けないと決めたからといって、存在が消えるわけではない。鞄の底にある封筒は、ずっと体の一部のように重かった。父かもしれない人が、いつか朝倉澪の娘が来ることがあればと残した封筒。


 律は向かいの席で、カメラのストラップを指でいじっていた。


「本当に開けなくてよかった?」


 律が尋ねた。


「今はね」


「今は」


「開けたら、たぶん父のことばかり考える。でも、次の手紙は母自身のことの気がする」


「澪さん自身?」


「うん」


 紬は封筒を鞄の外ポケットから出した。


 福山の古書店宛て。

 中には古い切符。


「母は、本当は作家になりたかったのかもしれない」


 その言葉を口にすると、胸の奥が少し震えた。


 母が作家。


 不思議な響きだった。


 紬にとって母は、古書喫茶の店主だった。本を読む人であり、本を選ぶ人であり、本を売る人だった。けれど、本を書く人として母を想像したことはなかった。


 それなのに、福山の封筒を持った瞬間から、母の別の顔がそこにあるような気がしていた。


「潮待ち堂に、澪さんの書いたものって残ってなかった?」


 律が尋ねた。


「日記は見つからない。手紙はたくさんあるのに、自分のための文章は少ない」


「隠してたのかも」


「また?」


「澪さん、隠すの得意じゃけえ」


「笑えない」


「ごめん」


 律は素直に謝った。


 紬は少しだけ笑った。


「でも、そうかもね」


 母は、たくさんのものを隠していた。


 父の名前。

 蒼との約束。

 事故の夜。

 母子手帳。

 指輪の存在。

 千景への葉書。

 そして、おそらく自分の夢も。


 福山駅に着くと、空は薄く晴れていた。


 駅前は思ったより大きく、人の流れも多い。尾道や竹原のような観光地の静けさではなく、日常の町の賑わいがあった。バスのロータリー、商業施設、学校帰りの学生たち。遠くに福山城の白い姿が見える。


 水野古書店は、駅から少し歩いた商店街の外れにあった。


 古いアーケードを抜け、細い路地へ入る。シャッターを下ろした店がいくつか並ぶ中、ひとつだけ開いている小さな店があった。ガラス戸の内側まで本が積まれ、手書きの札には「郷土史・文芸・古雑誌」とある。


 戸を開けると、紙の匂いがした。


 潮待ち堂の匂いとは少し違う。こちらはもっと乾いていて、埃っぽく、時間がそのまま本の隙間に溜まっているような匂いだった。


 店内は狭く、天井近くまで本棚が伸びていた。棚の間の通路は人ひとりがやっと通れるほど。足元にも段ボールが積まれている。奥のカウンターで、老人が本に紙を巻いていた。


 丸い眼鏡、薄い白髪、細い指。


 紬が声をかける前に、老人は顔を上げた。


「いらっしゃい」


「あの、水野透さんでしょうか」


「はい。私です」


「朝倉澪の娘です」


 老人の手が止まった。


 紙を巻かれかけていた文庫本が、カウンターの上で静かに傾いた。


「澪さんの……娘さん」


「母が亡くなりました。遺品から、水野さん宛ての手紙が見つかりました」


 封筒を差し出す。


 水野は眼鏡を外し、布で拭いた。時間を稼いでいるようにも見えた。


「そうですか。澪さんが」


 その声には、驚きよりも深い沈みがあった。


「どうぞ、奥へ。少し散らかっていますが」


 店の奥には、畳二畳ほどの小さなスペースがあった。低い机と座布団。本の山に囲まれた穴蔵のような場所だった。


 水野はお茶を淹れ、封筒を机の上に置いた。


「開けても?」


「もちろんです」


 水野は慎重に封を切った。


 中から便箋と、古い切符が出てきた。


 紬は思わず身を乗り出した。


 切符は硬券だった。端が少し欠けている。印字は薄くなっているが、かろうじて読める。


 尾道から福山。


 日付は、母が二十一歳の頃。


 水野は切符を指先でつまみ、長く見つめた。


「まだ持っていたんですね」


「この切符は、何なんですか」


 水野はすぐには答えず、まず手紙を読んだ。


 便箋をめくる音が、古書店の奥に静かに響く。外の商店街の音は遠い。ここだけ時間が止まっているようだった。


 読み終えると、水野は小さく息を吐いた。


「澪さんは、やはり書く人でしたね」


 紬の胸が鳴った。


「母は、小説を書いていたんですか」


「ええ。少しだけ」


「少しだけ?」


「私が読んだのは、短いものが三つです。どれも未完成に近かった。でも、忘れられなかった」


 水野は立ち上がり、店の奥の棚から薄い箱を取り出した。箱には古い原稿用紙が束ねられて入っていた。


「これは、澪さんから預かったものではありません。昔、彼女がうちの店で書いたものを、置いていってしまったんです」


「母が、ここで?」


「ええ。今から四十年近く前になりますか。澪さんは何度かこの店に来ました。最初は客として。次に、少しだけ店番を手伝ってくれるようになった」


「母が福山で店番を?」


「はい。短い期間でした。松山から尾道へ戻る前だったと思います」


 紬は息をのんだ。


 母は松山からそのまま尾道へ戻ったのではなかった。


 福山に寄っていた。


 古書店で、少しだけ働いていた。


「お腹は?」


「目立ちはじめていました。けれど、何も聞きませんでした。聞いてはいけない顔をしていた」


 水野は原稿用紙の束をそっと机に置いた。


「澪さんは、店の片隅でよく何かを書いていました。お客がいない時間に、鉛筆で。私は古書店の人間ですから、書いている人の邪魔はしません」


「それを、母は置いていったんですか」


「ええ。ある日、尾道へ戻ると言って、この切符を買った。けれど出発の前に店へ来て、しばらく机に向かっていました。帰ったあと、原稿だけが残っていた」


「返そうとは?」


「しました。尾道の朝倉澪さん宛てに手紙を書こうと思った。でも、澪さんは連絡先を書いていかなかった。後年、潮待ち堂のことを知って、ああ、あの人は店を始めたのだとわかりました。けれどその頃には、返すタイミングを失っていました」


 タイミングを失う。


 母の周りには、その言葉が何度も現れる。


 言うタイミング。

 渡すタイミング。

 会うタイミング。

 返すタイミング。


 失われたタイミングの積み重ねが、今、十二通の手紙になって紬の前に現れている。


「読んでもいいですか」


 紬は原稿用紙を見つめた。


 水野は頷いた。


「もちろん。これは本来、あなたに届くべきものだったのかもしれません」


 紬は原稿用紙を手に取った。


 母の字だった。


 手紙の字より、少し若い。勢いがある。ところどころ消し跡があり、言葉を選び直した跡が残っている。


 題名はなかった。


 書き出しは、こうだった。


 ――少女は、港から港へ、出せなかった手紙を運んでいた。


 紬は息を止めた。


 母は、若い頃から手紙の話を書いていた。


 いや、逆かもしれない。

 母は、自分の人生をずっと手紙の物語として感じていたのかもしれない。


 続きを読む。


 少女は船の売店に立ち、乗客から手紙を預かる。ある人は亡くなった夫へ、ある人は家出した娘へ、ある人はまだ生まれていない子どもへ手紙を書く。少女は、それらを次の港へ届ける。だが、ひとつだけ届けられない手紙がある。


 自分自身への手紙。


 そこまで読んで、紬は手を止めた。


「これ、母の話ですよね」


「そうでしょうね」


 水野は静かに言った。


「でも小説です。事実そのものではなく、事実になれなかったものを書く場所です」


 紬は原稿用紙を見つめた。


 事実になれなかったもの。


 母が蒼と暮らす未来。

 父の名前を娘に告げる未来。

 事故の夜に本当のことを言う未来。

 作家になる未来。


 母は、それらを小説の中に置こうとしていたのかもしれない。


「母は、作家になりたかったんでしょうか」


 紬が尋ねると、水野は少し考えた。


「なりたかった、というより、書かずにいられなかったのだと思います」


「でも、書き続けなかった」


「ええ」


「どうしてですか」


 水野は、手紙の便箋に目を落とした。


「この手紙に書かれています。澪さんは、書くことが怖くなった、と」


「怖く?」


「書けば、自分が何を望んでいたかが見えてしまう。誰を恨んでいたか、誰に会いたかったか、何を諦めたくなかったか。そういうものが、言葉になってしまうのが怖かったそうです」


 紬は胸が痛んだ。


 母は、手紙だけでなく、小説も出せなかった。


 言葉にする力があったのに、言葉にすれば自分が壊れると思っていた。


「でも、潮待ち堂を始めた」


「ええ。澪さんは、書く代わりに、本を選ぶ人になったのかもしれません」


 水野は微笑んだ。


「自分の物語を書くのではなく、誰かのために物語を選ぶ。それもまた、ひとつの文学の関わり方です」


 紬は潮待ち堂の棚を思い出した。


 眠れない日に。

 うまく泣けない人へ。

 遠くに行きたいとき。


 母は、自分の小説を書かなかった。

 その代わりに、誰かの人生に合う本を差し出し続けた。


 それは夢を諦めた姿なのか。

 それとも、夢の形を変えた姿なのか。


 紬にはまだ、答えが出せなかった。


 水野は原稿用紙の束の一番下から、別の紙を取り出した。


「これは、澪さんが最後に書いたらしいメモです」


 紬は受け取った。


 そこには、短い文がいくつか並んでいた。


 ――港は、行く人だけのものではない。

 ――帰れなかった人も、そこで潮を待っている。

 ――手紙は、出せなかった時間ごと運ぶ。

 ――いつか、この子が読むなら、私は嘘をつきたくない。


 最後の一文で、紬は息をのんだ。


 この子。


 紬のことだ。


 母は、まだ生まれていない紬がいつか読むことを想像していた。


 そして、嘘をつきたくないと思っていた。


 それなのに母は、話さなかった。

 嘘をつかなかった代わりに、黙った。


 その選択が正しいとは思えない。


 でも、母の中では、嘘をつかないことと、言わないことがぎりぎりの境界だったのかもしれない。


「母は、弱いですね」


 紬はぽつりと言った。


 水野は頷いた。


「弱い人だったと思います」


 その言い方に、否定も慰めもなかった。


「でも、弱い人が書くものは、ときどき強い」


「強い?」


「自分が弱いことを知っている人は、他人の弱さを見逃しにくい。澪さんの文章には、それがありました」


 紬は原稿用紙を見つめた。


 少女が手紙を運ぶ物語。


 母が書きかけ、置いていった物語。


「これ、持って帰ってもいいですか」


「もちろんです。そのために、私は残していたのだと思います」


 水野は古い切符も一緒に渡した。


「この切符は?」


「澪さんが尾道へ戻った日のものです。彼女は、出発前にこの店で原稿を書いていました。電車の時間ぎりぎりまでね。私は、切符を忘れていますよと言った。澪さんは笑って、『忘れたんじゃなくて、置いていくんです』と言いました」


「置いていく?」


「戻るためではなく、ここに来たことを忘れないために、と」


 水野は切符を紬の手に置いた。


「でも結局、澪さんはこの切符も手紙に入れていた。忘れられなかったのでしょうね」


 尾道から福山。


 福山から尾道。


 母はこの切符で、何を置いていき、何を持ち帰ったのだろう。


 紬は切符を母の原稿の上に重ねた。


 潮待ち堂へ戻ったら、この原稿を読む。

 最後まで。

 未完でも、途中で途切れていても。


 母が書けなかった物語を、勝手に完成させるつもりはない。


 けれど、母が何を書こうとしていたのかは知りたい。


 古書店を出ると、商店街には夕方の光が差していた。


 律は店の外で、向かいのシャッターに映る光を撮っていた。


「撮ったんだ」


 紬が言うと、律はカメラを下ろした。


「待ってる間に一枚だけ」


「何を?」


「閉まった店の前に、光だけ残ってたから」


「それ、寂しくない?」


「少し。でも、きれいだった」


 紬はその答えを聞いて、母の原稿を思った。


 閉まった店。

 残った光。

 未完の物語。


 どれも、今の自分に近い気がした。


「母、作家になりたかったみたい」


 紬は言った。


 律は驚かなかった。


「そうか」


「でも、書けなくなった。怖くて」


「うん」


「私は編集者だったのに、母が書く人だったことを知らなかった」


 その事実が、胸に重かった。


 他人の原稿は読んできた。作家の言葉に赤字を入れ、構成を直し、タイトルを考え、帯文を書いた。なのに、いちばん近くにいた母が書きたかったことを知らなかった。


「知らなかったことは、悪いことじゃないよ」


 律が言った。


「でも、知ろうとしなかった」


「今、知ろうとしてる」


 律の言葉はいつも短い。


 短いが、必要なところに届く。


 紬は鞄の中の原稿を抱え直した。


「次は下関」


「蒼さんの最期を知る人?」


「うん。十一通目」


「その前に、蒼さんの封筒は?」


 紬は少し黙った。


 倉敷で受け取った、青井蒼太からの封筒。


 まだ開けていない。


「下関へ行く前に開けるか、あとで開けるか、迷ってる」


「どっちでもいいと思う」


「律はいつもそう言う」


「どっちでも、紬が選ぶなら」


 紬は小さく笑った。


「それ、便利な答え」


「でも本音」


 福山駅へ向かう途中、紬はふと立ち止まった。


 駅前の広場に、夕方の人々が行き交っている。学生、会社員、買い物帰りの人。誰も母のことを知らない。三原蒼のことも、朝倉紬が鞄の中に未完の原稿を入れていることも知らない。


 それでも、それぞれの人に、それぞれの言葉にならない物語があるのだろう。


 母は、そういうものを見ていたのかもしれない。


 だから本を選んだ。

 だから手紙を書いた。

 だから小説を書こうとした。


 紬は、古い切符を指で挟んだ。


 尾道から福山。


 それは母が作家になる夢を少しだけ置いていった場所であり、潮待ち堂へ戻るための場所でもあった。


 行き先は、ひとつではない。


 切符の示す駅名よりも、人はもっと遠くへ行く。あるいは、もっと深く戻る。


 紬は駅の改札へ向かった。


 鞄の中で、母の未完の原稿が静かに揺れている。


 母が書けなかった物語は、まだ終わっていない。


 けれど、終わらせるのは母ではない。蒼でもない。水野でもない。


 たぶん、紬が読むことで、ようやく次の頁が始まる。


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