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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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第十話 倉敷、白壁の町の空白

 倉敷の町は、白かった。


 白壁の蔵、なまこ壁の模様、川沿いに続く柳の緑。小豆島のオリーブの葉が銀色に揺れていたのとは違い、倉敷の白は静かに時間を吸い込んでいるようだった。


 観光客の歩く美観地区の道を、紬はゆっくり進んだ。


 手には九通目の封筒がある。


 倉敷市。

 倉田写真館。

 倉田宗一様。


 律が隣を歩いている。カメラは首から下げているが、今日はまだ一枚も撮っていない。


「撮らないの?」


 紬が尋ねると、律は川の向こうの白壁を見ながら答えた。


「撮りたいけど、今は紬のほうが気になる」


「それ、写真屋としてどうなの」


「写真屋の前に、付き添いなので」


「付き添い」


「違う?」


 紬は少し考えた。


 違わない、と思った。


 尾道を出たとき、律はただの同行者だった。車を出してくれる幼なじみ。写真館を継いだ人。母の過去を探す旅に、半歩後ろからついてくる人。


 けれど小豆島を出る頃には、律が隣にいることが当たり前になっていた。


 手紙を届けるのは紬の役目だ。

 母の沈黙に向き合うのも、父の空白を受け止めるのも、紬自身でしかできない。


 それでも、扉の前まで一緒に歩いてくれる人がいるのは、思っていたより心強かった。


 倉田写真館は、美観地区の少し外れにあった。


 古い木造二階建ての建物で、入口のガラス戸には金色の文字で「倉田写真館」と書かれている。店先のショーケースには、七五三や成人式、結婚写真の見本が並んでいた。色褪せたものもあり、昔からここで町の人を撮ってきたことがわかる。


 紬は戸を開けた。


 小さな鈴が鳴る。


 店内には、写真館特有の匂いがした。古い台紙、木枠、少しだけ薬品のような匂い。壁にはモノクロ写真がいくつも飾られている。若い夫婦、赤ん坊を抱いた母親、制服姿の学生、祭りの集合写真。


 奥から、背の高い老人が出てきた。


 白いシャツに灰色のベスト。細い眼鏡をかけている。八十近いだろうか。動きはゆっくりだが、目ははっきりしていた。


「いらっしゃい」


「あの、倉田宗一さんでしょうか」


「ええ、私です」


「突然すみません。朝倉澪の娘です」


 倉田の目が、ほんの少し見開かれた。


「朝倉澪さん……」


 その名を、確かめるように繰り返す。


 紬は封筒を差し出した。


「母が亡くなりました。遺品の中から、倉田さん宛ての手紙が見つかって」


 倉田は封筒を受け取ると、すぐには開けなかった。宛名と差出人を見比べ、しばらく黙っていた。


「澪さんは、最後まで律儀な人だったんですね」


「ご存じなんですか」


「ええ。一度だけ、お会いしました」


「一度だけ?」


 倉田は頷いた。


「でも、その一度が忘れられない人でした」


 店の奥には、小さな応接室があった。古いソファと低いテーブル。棚にはアルバムがびっしり並んでいる。律は壁にかけられた古いカメラに目を留めていた。


「いいカメラですね」


 律が言うと、倉田は少し嬉しそうにした。


「写真をされるんですか」


「尾道で写真館を継いでいます。村上写真館です」


「村上……ああ、尾道の。お父様のお名前は?」


「村上隆文です」


「知っています。直接お会いしたことはありませんが、いい港の写真を撮る方でした」


 律は一瞬、驚いたような顔をした。


「父をご存じで」


「写真は、人より先に旅をしますから」


 倉田は静かに言った。


 その言葉に、紬は母の手紙を思った。


 手紙もまた、人より先に旅をする。

 ただし、母の手紙は長い間、文机の奥で港を出られなかった。


 倉田は封を切り、便箋を広げた。


 読み始めると、部屋の空気が少しずつ変わった。倉田の表情は穏やかだったが、目の奥に古い痛みが浮かんでいく。


 最後まで読むと、彼は便箋を丁寧に畳んだ。


「そうですか。澪さんは、そこまで知っていたんですね」


「何をですか」


 倉田は紬を見た。


「三原蒼さんのことです」


 その名前が出るたび、紬の中で何かが反応する。


「母は、ここで蒼さんのことを?」


「ええ。探していました」


「探していた?」


 紬は身を乗り出した。


 倉田は棚から一冊の古いアルバムを取り出した。表紙には「昭和・平成 港と人」と書かれている。


「私は若い頃、港町を撮って歩いていました。倉敷だけでなく、玉島、尾道、今治、松山、下関。仕事というより、半分は趣味でした」


 ページをめくると、港の写真が続いた。荷を運ぶ人、船を待つ人、ロープを結ぶ手、雨の桟橋。


 あるページで、倉田の手が止まる。


 そこには、ひとりの青年の写真があった。


 作業着姿で、倉庫の前に立っている。顔は少し痩せているが、まぎれもなく三原蒼だった。母の写真に写っていた青年より、少し年を取って見える。目元の影が濃くなっていた。


 写真の下に、手書きのメモがある。


 ――青井蒼太。玉島港にて。


「青井蒼太……」


 紬はその名前を声に出した。


「三原蒼さんは、名前を変えていました」


 倉田が言った。


「なぜですか」


「借金取りから逃げるため、そして過去を切るためでしょう。詳しいことまではわかりません。私が彼に会ったとき、彼はもう三原蒼ではなく、青井蒼太と名乗っていました」


「母は、それを知っていたんですか」


「ここへ来たとき、私がこの写真を見せました」


 紬の胸がきゅっと痛んだ。


 母は、この写真を見た。


 会わなかった蒼が、別の名前で生きている写真を。


「母は、どうして倉田さんのところへ?」


「ある人から、私が港の写真を撮っていると聞いたそうです。三原蒼という人を探している、と言いました。けれど、探していると言いながら、会いたいとは言わなかった」


「会いたくなかったんでしょうか」


「いいえ」


 倉田は静かに首を振った。


「会いたくてたまらない人の顔でした」


 紬は何も言えなかった。


 母は蒼に会いたかった。


 それでも会わなかった。


 今治で会わず、倉敷で写真を見ても会いに行かなかった。


 その選択が、紬にはまだわからない。


「母は、写真を見て何と言いましたか」


「『生きていたんですね』と」


「それだけ?」


「ええ。それからしばらく泣いていました。声を出さずに」


 倉田はアルバムの写真を見つめた。


「私は、住所を調べましょうかと言いました。青井蒼太という名で玉島にいたこと、当時の勤め先もわかっていましたから。でも澪さんは首を振りました」


「どうして」


「『知ることと、会うことは同じではありません』と」


 紬は息をのんだ。


 小豆島の前、倉敷へ向かう途中で律が似たことを言っていた。


 知ることと、会うことは同じではない。


 母も、そう考えていたのか。


「母は、会わない理由を話しましたか」


「少しだけ」


 倉田は手紙を見た。


「手紙にも同じことが書かれていました。澪さんは、蒼さんに会えば、自分が選ばなかった人生を確かめることになるのが怖かった、と」


「選ばなかった人生」


「はい。蒼さんと暮らす人生。蒼さんを許す人生。蒼さんを責める人生。紬さんに父親を会わせる人生。そのどれも選べなかったのだと」


 紬は膝の上で手を握った。


 母は、選ばなかったのではなく、選べなかった。


 その違いを、紬は少しずつ理解し始めている。


 でも、理解したからといって痛みが消えるわけではない。


「私は、母に選んでほしかったです」


 紬はぽつりと言った。


 倉田と律が、静かにこちらを見る。


「会うなら会う。会わないなら会わない。父のことを話すなら話す。話さないなら、せめて話さない理由を言う。何か、ひとつでも決めてほしかった」


 声が揺れた。


「でも母は、全部を宙ぶらりんにした。私にも、蒼さんにも、自分にも」


 倉田はすぐには答えなかった。


 窓の外で、観光客の笑い声が遠くに聞こえる。


「澪さんは、決められないことを決めたのかもしれません」


「どういう意味ですか」


「会わない。話さない。待たない。けれど忘れない。そういう形でしか、過去を持てなかったのではないでしょうか」


 紬は黙った。


 会わない。

 話さない。

 待たない。

 けれど忘れない。


 それは、母の人生そのもののようだった。


「蒼さんは、母のことを探していなかったんですか」


 紬が尋ねると、倉田はアルバムをもう一枚めくった。


「これは、その数年後に撮った写真です」


 次の写真には、同じ男が写っていた。港の喫茶店の前で、ひとり煙草を持っている。表情はさらに疲れている。だが、目は遠くを見ていた。


「このとき、彼は私に尋ねました。尾道の朝倉澪という人を知りませんか、と」


 紬の胸が跳ねた。


「蒼さんも、母を探していたんですか」


「ええ。ただし、彼もまた、探しているのに会いには行かなかった」


「どうして」


「怖かったのでしょう」


 倉田の声は静かだった。


「澪さんが自分を恨んでいることも、恨んでいないことも。紬さんが生まれていることも、生まれていないことも。どちらも怖かったのだと思います」


「勝手です」


 紬は低く言った。


「母も、蒼さんも、みんな怖かったから黙った。怖かったから会わなかった。怖かったから、私には何も届かなかった」


「そうですね」


 倉田は否定しなかった。


「大人は、怖さを理由に人を傷つけることがあります」


 その言葉は、柔らかいのに痛かった。


「私も、そうでした」


「倉田さんも?」


 倉田は頷いた。


「私は、蒼さんにも澪さんにも、互いの居場所を教えませんでした」


 紬は目を見開いた。


「どうして」


「頼まれなかったからです」


 倉田は苦く笑った。


「そう言えば聞こえはいい。でも本当は、関わるのが怖かった。写真を撮る人間は、時々、自分は記録するだけで当事者ではないと思い込みます。けれど、見たものを黙っていることも、十分に当事者なのです」


 紬は母の手紙を思い出した。


 黙ることもまた記録だ、と灰原が言った。


 けれど黙った記録は、誰かを救うことも、傷つけることもある。


「母は、倉田さんを責めていましたか」


「いいえ。手紙には、感謝が書かれていました」


 また感謝。


 母は本当に、どこまでも誰かに感謝している。


 紬の表情に出たのだろう。倉田は少し笑った。


「澪さんは、感謝することで自分を保っていたのかもしれませんね」


「自分を保つ?」


「恨みだけでは、生きていけない。悔いだけでも、生きていけない。だから感謝できるところを探す。そういう人だったのでは」


 紬は母を思った。


 今治で蒼に会えなかったこと。

 郁子に止められたこと。

 倉田が居場所を教えなかったこと。


 普通なら恨んでもいい。


 でも母は、その中から感謝を探した。


 それは立派なことなのかもしれない。

 けれど、同時に、母をどれほど孤独にしただろう。


 倉田は棚から一枚の封筒を取り出した。


「これを、あなたに渡してほしいと預かっていました」


「誰からですか」


「蒼さんからです」


 紬の呼吸が止まった。


 封筒は古かった。表には何も書かれていない。ただ、裏に小さく「青井」とだけある。


「蒼さんが、私に?」


「正確には、もし朝倉澪の娘が来ることがあれば、と」


 紬は手を伸ばせなかった。


 父かもしれない人からの封筒。


 今まで輪郭だけだった三原蒼が、急にこちらへ手を伸ばしてきたようだった。


「開けるかどうかは、あなたが決めなさい」


 倉田は封筒をテーブルに置いた。


「澪さんは、自分の手紙を出せなかった。蒼さんも、この封筒を自分で届けることはできなかった。けれど、あなたまで今すぐ開けなければいけないわけではありません」


 律が黙って紬を見ている。


 決める。


 それが、こんなに怖いことだとは思わなかった。


 母は決められなかった。

 蒼も決められなかった。

 倉田も、関わらないことを選んだ。


 なら、紬はどうするのか。


 封筒を開けるか。

 今は開けないか。


 紬はゆっくり息を吸った。


「今は、開けません」


 声は思ったより落ち着いていた。


「持って帰ってもいいですか」


「もちろんです」


 倉田は静かに頷いた。


 紬は封筒を鞄に入れた。


 指輪の箱、母子手帳、千景から受け取った葉書の束。その隣に、蒼からの封筒が入る。


 鞄が、また重くなった。


 写真館を出ると、美観地区の白壁が夕方の光に染まっていた。


 白かった町が、少しだけ金色を帯びている。川には小舟が浮かび、柳の枝が水面に触れていた。


 律が隣で言った。


「開けんかったね」


「うん」


「それでいいと思う」


「どうして?」


「紬が決めたから」


 その言葉に、紬は立ち止まりそうになった。


 紬が決めた。


 誰かに隠されたのではなく、誰かに止められたのでもなく、自分で今は開けないと決めた。


 それは小さなことなのに、紬にとっては大きなことだった。


「私、父に会いたいのかな」


 紬は呟いた。


「会いたいというより、父がいた場所を見たいのかもしれない」


「蒼さんの?」


「うん。母が選ばなかった人。私に届かなかった人。その人がどう生きたのかを、知りたい」


 律は川の方を見た。


「次は福山だったっけ」


「うん。古い切符が入ってる封筒。母が書いた小説の手がかりがあるかもしれない」


「蒼さんじゃなくて、澪さん自身の夢のほうか」


「そう」


 紬は鞄に手を当てた。


 母の過去を追う旅は、父を探す旅だと思っていた。


 でも、それだけではなかった。


 母が誰を愛したか。

 誰に傷つけられたか。

 誰を守ったか。

 それだけではなく、母が何になりたかったのかを知る旅でもある。


 白壁の町を歩きながら、紬はふと思った。


 空白は、何もない場所ではない。


 白い壁のように、そこには光も影も映る。

 何も書かれていないからこそ、誰かが隠したものも、誰かが書けなかったものも、浮かび上がる。


 母の空白。

 父の空白。

 紬自身の空白。


 それらはまだ埋まらない。


 けれど、埋めることだけが答えではないのかもしれない。


 紬は、鞄の中の蒼の封筒をもう一度意識した。


 今は開けない。


 そう決めた自分の心が、少しだけまっすぐ立っている気がした。


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