第十話 倉敷、白壁の町の空白
倉敷の町は、白かった。
白壁の蔵、なまこ壁の模様、川沿いに続く柳の緑。小豆島のオリーブの葉が銀色に揺れていたのとは違い、倉敷の白は静かに時間を吸い込んでいるようだった。
観光客の歩く美観地区の道を、紬はゆっくり進んだ。
手には九通目の封筒がある。
倉敷市。
倉田写真館。
倉田宗一様。
律が隣を歩いている。カメラは首から下げているが、今日はまだ一枚も撮っていない。
「撮らないの?」
紬が尋ねると、律は川の向こうの白壁を見ながら答えた。
「撮りたいけど、今は紬のほうが気になる」
「それ、写真屋としてどうなの」
「写真屋の前に、付き添いなので」
「付き添い」
「違う?」
紬は少し考えた。
違わない、と思った。
尾道を出たとき、律はただの同行者だった。車を出してくれる幼なじみ。写真館を継いだ人。母の過去を探す旅に、半歩後ろからついてくる人。
けれど小豆島を出る頃には、律が隣にいることが当たり前になっていた。
手紙を届けるのは紬の役目だ。
母の沈黙に向き合うのも、父の空白を受け止めるのも、紬自身でしかできない。
それでも、扉の前まで一緒に歩いてくれる人がいるのは、思っていたより心強かった。
倉田写真館は、美観地区の少し外れにあった。
古い木造二階建ての建物で、入口のガラス戸には金色の文字で「倉田写真館」と書かれている。店先のショーケースには、七五三や成人式、結婚写真の見本が並んでいた。色褪せたものもあり、昔からここで町の人を撮ってきたことがわかる。
紬は戸を開けた。
小さな鈴が鳴る。
店内には、写真館特有の匂いがした。古い台紙、木枠、少しだけ薬品のような匂い。壁にはモノクロ写真がいくつも飾られている。若い夫婦、赤ん坊を抱いた母親、制服姿の学生、祭りの集合写真。
奥から、背の高い老人が出てきた。
白いシャツに灰色のベスト。細い眼鏡をかけている。八十近いだろうか。動きはゆっくりだが、目ははっきりしていた。
「いらっしゃい」
「あの、倉田宗一さんでしょうか」
「ええ、私です」
「突然すみません。朝倉澪の娘です」
倉田の目が、ほんの少し見開かれた。
「朝倉澪さん……」
その名を、確かめるように繰り返す。
紬は封筒を差し出した。
「母が亡くなりました。遺品の中から、倉田さん宛ての手紙が見つかって」
倉田は封筒を受け取ると、すぐには開けなかった。宛名と差出人を見比べ、しばらく黙っていた。
「澪さんは、最後まで律儀な人だったんですね」
「ご存じなんですか」
「ええ。一度だけ、お会いしました」
「一度だけ?」
倉田は頷いた。
「でも、その一度が忘れられない人でした」
店の奥には、小さな応接室があった。古いソファと低いテーブル。棚にはアルバムがびっしり並んでいる。律は壁にかけられた古いカメラに目を留めていた。
「いいカメラですね」
律が言うと、倉田は少し嬉しそうにした。
「写真をされるんですか」
「尾道で写真館を継いでいます。村上写真館です」
「村上……ああ、尾道の。お父様のお名前は?」
「村上隆文です」
「知っています。直接お会いしたことはありませんが、いい港の写真を撮る方でした」
律は一瞬、驚いたような顔をした。
「父をご存じで」
「写真は、人より先に旅をしますから」
倉田は静かに言った。
その言葉に、紬は母の手紙を思った。
手紙もまた、人より先に旅をする。
ただし、母の手紙は長い間、文机の奥で港を出られなかった。
倉田は封を切り、便箋を広げた。
読み始めると、部屋の空気が少しずつ変わった。倉田の表情は穏やかだったが、目の奥に古い痛みが浮かんでいく。
最後まで読むと、彼は便箋を丁寧に畳んだ。
「そうですか。澪さんは、そこまで知っていたんですね」
「何をですか」
倉田は紬を見た。
「三原蒼さんのことです」
その名前が出るたび、紬の中で何かが反応する。
「母は、ここで蒼さんのことを?」
「ええ。探していました」
「探していた?」
紬は身を乗り出した。
倉田は棚から一冊の古いアルバムを取り出した。表紙には「昭和・平成 港と人」と書かれている。
「私は若い頃、港町を撮って歩いていました。倉敷だけでなく、玉島、尾道、今治、松山、下関。仕事というより、半分は趣味でした」
ページをめくると、港の写真が続いた。荷を運ぶ人、船を待つ人、ロープを結ぶ手、雨の桟橋。
あるページで、倉田の手が止まる。
そこには、ひとりの青年の写真があった。
作業着姿で、倉庫の前に立っている。顔は少し痩せているが、まぎれもなく三原蒼だった。母の写真に写っていた青年より、少し年を取って見える。目元の影が濃くなっていた。
写真の下に、手書きのメモがある。
――青井蒼太。玉島港にて。
「青井蒼太……」
紬はその名前を声に出した。
「三原蒼さんは、名前を変えていました」
倉田が言った。
「なぜですか」
「借金取りから逃げるため、そして過去を切るためでしょう。詳しいことまではわかりません。私が彼に会ったとき、彼はもう三原蒼ではなく、青井蒼太と名乗っていました」
「母は、それを知っていたんですか」
「ここへ来たとき、私がこの写真を見せました」
紬の胸がきゅっと痛んだ。
母は、この写真を見た。
会わなかった蒼が、別の名前で生きている写真を。
「母は、どうして倉田さんのところへ?」
「ある人から、私が港の写真を撮っていると聞いたそうです。三原蒼という人を探している、と言いました。けれど、探していると言いながら、会いたいとは言わなかった」
「会いたくなかったんでしょうか」
「いいえ」
倉田は静かに首を振った。
「会いたくてたまらない人の顔でした」
紬は何も言えなかった。
母は蒼に会いたかった。
それでも会わなかった。
今治で会わず、倉敷で写真を見ても会いに行かなかった。
その選択が、紬にはまだわからない。
「母は、写真を見て何と言いましたか」
「『生きていたんですね』と」
「それだけ?」
「ええ。それからしばらく泣いていました。声を出さずに」
倉田はアルバムの写真を見つめた。
「私は、住所を調べましょうかと言いました。青井蒼太という名で玉島にいたこと、当時の勤め先もわかっていましたから。でも澪さんは首を振りました」
「どうして」
「『知ることと、会うことは同じではありません』と」
紬は息をのんだ。
小豆島の前、倉敷へ向かう途中で律が似たことを言っていた。
知ることと、会うことは同じではない。
母も、そう考えていたのか。
「母は、会わない理由を話しましたか」
「少しだけ」
倉田は手紙を見た。
「手紙にも同じことが書かれていました。澪さんは、蒼さんに会えば、自分が選ばなかった人生を確かめることになるのが怖かった、と」
「選ばなかった人生」
「はい。蒼さんと暮らす人生。蒼さんを許す人生。蒼さんを責める人生。紬さんに父親を会わせる人生。そのどれも選べなかったのだと」
紬は膝の上で手を握った。
母は、選ばなかったのではなく、選べなかった。
その違いを、紬は少しずつ理解し始めている。
でも、理解したからといって痛みが消えるわけではない。
「私は、母に選んでほしかったです」
紬はぽつりと言った。
倉田と律が、静かにこちらを見る。
「会うなら会う。会わないなら会わない。父のことを話すなら話す。話さないなら、せめて話さない理由を言う。何か、ひとつでも決めてほしかった」
声が揺れた。
「でも母は、全部を宙ぶらりんにした。私にも、蒼さんにも、自分にも」
倉田はすぐには答えなかった。
窓の外で、観光客の笑い声が遠くに聞こえる。
「澪さんは、決められないことを決めたのかもしれません」
「どういう意味ですか」
「会わない。話さない。待たない。けれど忘れない。そういう形でしか、過去を持てなかったのではないでしょうか」
紬は黙った。
会わない。
話さない。
待たない。
けれど忘れない。
それは、母の人生そのもののようだった。
「蒼さんは、母のことを探していなかったんですか」
紬が尋ねると、倉田はアルバムをもう一枚めくった。
「これは、その数年後に撮った写真です」
次の写真には、同じ男が写っていた。港の喫茶店の前で、ひとり煙草を持っている。表情はさらに疲れている。だが、目は遠くを見ていた。
「このとき、彼は私に尋ねました。尾道の朝倉澪という人を知りませんか、と」
紬の胸が跳ねた。
「蒼さんも、母を探していたんですか」
「ええ。ただし、彼もまた、探しているのに会いには行かなかった」
「どうして」
「怖かったのでしょう」
倉田の声は静かだった。
「澪さんが自分を恨んでいることも、恨んでいないことも。紬さんが生まれていることも、生まれていないことも。どちらも怖かったのだと思います」
「勝手です」
紬は低く言った。
「母も、蒼さんも、みんな怖かったから黙った。怖かったから会わなかった。怖かったから、私には何も届かなかった」
「そうですね」
倉田は否定しなかった。
「大人は、怖さを理由に人を傷つけることがあります」
その言葉は、柔らかいのに痛かった。
「私も、そうでした」
「倉田さんも?」
倉田は頷いた。
「私は、蒼さんにも澪さんにも、互いの居場所を教えませんでした」
紬は目を見開いた。
「どうして」
「頼まれなかったからです」
倉田は苦く笑った。
「そう言えば聞こえはいい。でも本当は、関わるのが怖かった。写真を撮る人間は、時々、自分は記録するだけで当事者ではないと思い込みます。けれど、見たものを黙っていることも、十分に当事者なのです」
紬は母の手紙を思い出した。
黙ることもまた記録だ、と灰原が言った。
けれど黙った記録は、誰かを救うことも、傷つけることもある。
「母は、倉田さんを責めていましたか」
「いいえ。手紙には、感謝が書かれていました」
また感謝。
母は本当に、どこまでも誰かに感謝している。
紬の表情に出たのだろう。倉田は少し笑った。
「澪さんは、感謝することで自分を保っていたのかもしれませんね」
「自分を保つ?」
「恨みだけでは、生きていけない。悔いだけでも、生きていけない。だから感謝できるところを探す。そういう人だったのでは」
紬は母を思った。
今治で蒼に会えなかったこと。
郁子に止められたこと。
倉田が居場所を教えなかったこと。
普通なら恨んでもいい。
でも母は、その中から感謝を探した。
それは立派なことなのかもしれない。
けれど、同時に、母をどれほど孤独にしただろう。
倉田は棚から一枚の封筒を取り出した。
「これを、あなたに渡してほしいと預かっていました」
「誰からですか」
「蒼さんからです」
紬の呼吸が止まった。
封筒は古かった。表には何も書かれていない。ただ、裏に小さく「青井」とだけある。
「蒼さんが、私に?」
「正確には、もし朝倉澪の娘が来ることがあれば、と」
紬は手を伸ばせなかった。
父かもしれない人からの封筒。
今まで輪郭だけだった三原蒼が、急にこちらへ手を伸ばしてきたようだった。
「開けるかどうかは、あなたが決めなさい」
倉田は封筒をテーブルに置いた。
「澪さんは、自分の手紙を出せなかった。蒼さんも、この封筒を自分で届けることはできなかった。けれど、あなたまで今すぐ開けなければいけないわけではありません」
律が黙って紬を見ている。
決める。
それが、こんなに怖いことだとは思わなかった。
母は決められなかった。
蒼も決められなかった。
倉田も、関わらないことを選んだ。
なら、紬はどうするのか。
封筒を開けるか。
今は開けないか。
紬はゆっくり息を吸った。
「今は、開けません」
声は思ったより落ち着いていた。
「持って帰ってもいいですか」
「もちろんです」
倉田は静かに頷いた。
紬は封筒を鞄に入れた。
指輪の箱、母子手帳、千景から受け取った葉書の束。その隣に、蒼からの封筒が入る。
鞄が、また重くなった。
写真館を出ると、美観地区の白壁が夕方の光に染まっていた。
白かった町が、少しだけ金色を帯びている。川には小舟が浮かび、柳の枝が水面に触れていた。
律が隣で言った。
「開けんかったね」
「うん」
「それでいいと思う」
「どうして?」
「紬が決めたから」
その言葉に、紬は立ち止まりそうになった。
紬が決めた。
誰かに隠されたのではなく、誰かに止められたのでもなく、自分で今は開けないと決めた。
それは小さなことなのに、紬にとっては大きなことだった。
「私、父に会いたいのかな」
紬は呟いた。
「会いたいというより、父がいた場所を見たいのかもしれない」
「蒼さんの?」
「うん。母が選ばなかった人。私に届かなかった人。その人がどう生きたのかを、知りたい」
律は川の方を見た。
「次は福山だったっけ」
「うん。古い切符が入ってる封筒。母が書いた小説の手がかりがあるかもしれない」
「蒼さんじゃなくて、澪さん自身の夢のほうか」
「そう」
紬は鞄に手を当てた。
母の過去を追う旅は、父を探す旅だと思っていた。
でも、それだけではなかった。
母が誰を愛したか。
誰に傷つけられたか。
誰を守ったか。
それだけではなく、母が何になりたかったのかを知る旅でもある。
白壁の町を歩きながら、紬はふと思った。
空白は、何もない場所ではない。
白い壁のように、そこには光も影も映る。
何も書かれていないからこそ、誰かが隠したものも、誰かが書けなかったものも、浮かび上がる。
母の空白。
父の空白。
紬自身の空白。
それらはまだ埋まらない。
けれど、埋めることだけが答えではないのかもしれない。
紬は、鞄の中の蒼の封筒をもう一度意識した。
今は開けない。
そう決めた自分の心が、少しだけまっすぐ立っている気がした。




