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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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9/17

第九話 小豆島、オリーブの丘で待つ人

 小豆島へ渡るフェリーの上で、紬は母子手帳を開いていた。


 松山の下宿で宮部君代から受け取ったものだ。表紙の角は少し擦り切れ、ページの端は薄く黄ばんでいる。けれど、中の母の字ははっきり残っていた。


 ――今日は少し動いた。

 ――夜、眠れない。

 ――名前を考える。

 ――糸のように、切れても結べる子に。


 その一文を、紬は何度も読み返した。


 母は、紬という名前を考えていた。


 父のことも、三原蒼のことも、今治で受け取らなかった指輪のことも、何ひとつ語らなかった母が、まだ生まれていない娘の名前だけは、こんなふうに大切に考えていた。


 怒りは消えない。


 父を知らずに育った空白は、急に埋まらない。


 けれど、母の沈黙の中に愛がなかったとは、もう言えなくなっていた。


 フェリーはゆっくりと海を進んでいる。


 空は淡く曇っていた。海は白っぽい青で、遠くの島々が霞の向こうに浮かんでいる。甲板に出ると、風が強かった。潮の匂いに、どこか植物の青い匂いが混じっているような気がした。


 律は手すりにもたれ、カメラを構えていた。


 今日はあまり話さない。


 松山を出てから、二人の間には静かな時間が続いていた。気まずいわけではない。むしろ、律が沈黙を守ってくれていることがありがたかった。


 聞かれたら、きっと答えられない。


 母を許せそうか。

 父に会いたいか。

 これからどうしたいのか。


 どれも、まだ言葉にならない。


 紬は鞄の中から八通目の手紙を取り出した。


 佐伯千景様。


 小豆島に住む元看護師。松山の下宿で母を訪ね、母を泣かせた人。

 森脇朔太郎も、白石灯子も、灰原正臣も、その名前を知っているようだった。けれど、誰も詳しくは話さなかった。


 まるで、最後の扉の前にいる人のように。


 封筒の裏には、母の字でこう書かれている。


 ――あなたにだけは、私が黙った理由を覚えていてほしい。


 紬はその文字を指でなぞった。


 黙った理由。


 母は、なぜ黙ったのか。


 蒼を守るため。

 少年を傷つけないため。

 自分の弱さを隠すため。


 これまで聞いてきた答えは、どれも一部だけのように思えた。母が背負っていたものは、もっと深く、もっと複雑なのだろう。


 フェリーが小豆島の港へ近づいた。


 港の向こうに、ゆるやかな丘が見える。斜面にはオリーブの木が並び、銀色がかった葉が風に揺れていた。レモン畑の明るい黄色とも、尾道の坂の緑とも違う。小豆島の緑は、乾いて、光を含んでいた。


 車を降りると、島の空気が体に触れた。


 海の匂い。

 土の匂い。

 オリーブの葉の、少し苦い匂い。


 律は地図を確認した。


「佐伯さんの家、オリーブ公園の近くらしい」


「丘の上?」


「うん。車で行けるけど、最後ちょっと細い道かも」


「大丈夫?」


「軽じゃけえ」


 律はそう言って、少し笑った。


 車は港を離れ、坂道を上っていった。


 小豆島の道は、海を見下ろしたり、畑の間を抜けたりしながら曲がっていく。オリーブの木が規則正しく並び、ところどころに白い家があった。風車が遠くに見える。観光地らしい明るさもあるのに、どこか静かだった。


 母はここへ来たのだろうか。


 松山で泣いたあと。

 あるいは、その前に。

 佐伯千景という人に、何を打ち明けたのだろう。


 やがて車は、丘の途中にある小さな家の前に止まった。


 白い壁に、青い屋根。庭にはオリーブの木が数本あり、根元に石が積まれている。玄関先には、古い木の椅子が置かれていた。そこに、ひとりの女性が座っていた。


 白髪を短く切り、薄いベージュのシャツを着ている。背筋は伸びているが、肩のあたりに長い疲れが見えた。年齢は七十前後だろうか。膝の上に本を開いていたが、車が止まる前から、こちらを見ていた。


 待っていたように。


 紬が車を降りると、女性はゆっくり立ち上がった。


「朝倉紬さんね」


 紬は驚いた。


「はい。佐伯千景さんですか」


「ええ」


「どうして、私の名前を」


 千景は小さく笑った。


「澪が、昔から何度も書いてきたから。手紙ではなく、葉書でね。あなたの名前だけは、何度も届いた」


 紬は言葉を失った。


 母は千景に葉書を出していた。


 十二通の手紙は出せなかったのに。


 自分の名前は、誰かのもとへ届いていた。


「母は、千景さんに連絡を?」


「年に一度くらい。短い葉書だけ。元気です、紬が何歳になりました、店は相変わらずです。そんなことだけ」


「私のことを……」


「ええ。澪は、あなたのことをよく書いていたわ」


 千景は紬の顔を見つめた。


「写真で見たことはあったけれど、本当に澪に似ているのね」


 その言葉に、今度は胸が痛まなかった。


 似ている。


 それが、母に飲み込まれることではなく、母から何かを受け取っていることのように思えた。


「母の遺品から、手紙が出てきました」


 紬は封筒を差し出した。


「千景さん宛てです」


 千景は封筒を受け取ると、すぐには見なかった。両手で包み込むように持ち、目を閉じた。


「やっぱり、書いていたのね」


「知っていたんですか」


「澪は、出せない手紙を書く人だったから」


 千景はそう言って、家の中へ招いた。


 室内は明るかった。


 窓が大きく、丘の下の海がよく見える。棚には医学書と小説が並び、壁には古い聴診器が掛けられている。テーブルの上には、乾燥させたオリーブの葉が小皿に置かれていた。


「看護師さんだったんですよね」


「ええ。若い頃は高松の病院で、その後は小豆島の診療所で働いていたの」


「母とは、どこで?」


 千景は湯を沸かしながら答えた。


「船の上よ」


「乗客として?」


「半分は乗客、半分は仕事。島の診療所へ戻る途中だった。あの日も、私はしおかぜ丸に乗っていた」


 紬は息をのんだ。


「あの夜ですか」


「そう」


 千景は振り返った。


「私は、事故のとき船内にいた」


 部屋の空気が変わった。


 これまで聞いてきた人々は、事故の断片を語った。だが、千景はその場にいた。看護師として、命に触れていた人だ。


 千景はお茶を出すと、封筒を見つめた。


「読む前に、あなたに聞きたいことがあるの」


「はい」


「あなたは、澪のことを知りたいの? それとも、裁きたいの?」


 紬はすぐに答えられなかった。


 窓の外で、オリーブの葉が風に揺れている。


「最初は、裁きたかったのかもしれません」


 紬は正直に言った。


「何も話さなかった母を責めたかった。父のことを隠したことも、私に選ばせなかったことも。でも、旅をしているうちに、母がただ黙っていただけではないこともわかってきました」


「では、今は?」


「知りたいです」


 少し間を置いて、続けた。


「知ったあとで、怒るかもしれません。でも、知らないまま怒り続けるのは、もう嫌です」


 千景は静かに頷いた。


「それなら、話せる」


 そう言って、封を切った。


 便箋を広げる音が、やけに大きく聞こえた。


 千景はゆっくり読んだ。


 表情はあまり変わらなかった。ただ、読み進めるうちに、口元が固く結ばれていった。最後の一枚に入ると、千景は一度だけ目を閉じた。


「ばかね、澪」


 低く、呟いた。


「本当に、ばかな子」


 その声には怒りがあった。


 けれど、深い愛情もあった。


「何が書いてあったんですか」


 紬が尋ねると、千景は手紙を畳まずにテーブルへ置いた。


「あなたにも聞いてほしいところがある」


 そして、母の字を指で押さえながら読んだ。


「千景。私は今も、あの夜のことを夢に見ます。濡れた甲板、蒼の声、少年の手首、あなたの白い手。私は何度もあの場面に戻り、今度こそ違うことを言おうとします。でも夢の中でも、私はやっぱり黙っています」


 紬は息を止めた。


「私は蒼を守りたかったのだと思っていました。少年を守りたかったのだとも思っていました。でも本当は、私自身が壊れるのが怖かったのです。正しいことを言えば、誰かを失う。黙れば、自分を失う。私はそのどちらも選べず、ただ黙って立っていました」


 千景はそこで一度、息を整えた。


「あなたがあの夜、私に言ったことを覚えています。『澪、いまは誰かを責めるより、息をしている人を見なさい』。あの言葉がなければ、私は少年の泣き声も、蒼の震える指も、自分の体の中にいる紬の存在も、全部見失っていたと思います」


 紬は目を見開いた。


 自分の存在。


 母は、あの時点で妊娠に気づいていたのか。


 いや、事故の夜にはまだ確かではなかったのかもしれない。けれど、母の体の中にはもう紬がいた可能性がある。


 千景は便箋を置いた。


「澪は、あの夜にはまだ確信していなかった。でも薄々気づいていた。体調が違う、と言っていたから」


 紬は手を握った。


 事故の夜、母は自分を抱えていたかもしれない。


 それなのに甲板へ走った。


 少年を助けるために。


「何が起きたのか、最初から教えてください」


 紬は言った。


 千景は、ゆっくり頷いた。


「あの夜、船は荒れていた。天気予報ではそこまでひどくならないはずだったけれど、海の上では急に風が変わることがある」


 千景の目は、遠い海を見ていた。


「私は診療所へ戻る途中で、客室にいた。澪は売店。蒼は船員として、客の誘導や荷の確認をしていた。森脇さんは食堂。灰原さんは事務方。相良さんは、その便には乗っていなかったけれど、港で修理待ちをしていた」


「少年は?」


「十歳くらいの男の子だった。名前は、悠真くん」


 初めて、少年に名前がついた。


 これまで「少年」としか呼ばれなかった存在が、急に一人の子どもとして立ち上がった。


「悠真くんは、母親と一緒に乗っていた。母親は疲れ切っていた。船内で何度も怒鳴っていたから、澪は気にしていた」


「怒鳴っていた?」


「ええ。悠真くんに対してね。静かにしなさい、迷惑をかけないで、あんたのせいで、と」


 千景の声が硬くなった。


「家庭に問題があることは、見ればわかった。でも当時は、今ほど誰も簡単に介入できなかった。澪は売店で悠真くんに本を一冊渡した。海の生き物の本だったと思う」


 母らしいと思った。


 叱られている子どもに、本を渡す。


 言葉ではなく、逃げ場を渡す。


「悠真くんは、甲板へ出たがった。海を見たい、と言った。蒼は少しだけならと、連れていった」


「嵐なのに?」


「まだその時点では、そこまで危険だとは思われていなかった。けれど風は強くなっていた。判断が甘かったと言えば、そう」


 千景は続けた。


「甲板で船が大きく揺れた。悠真くんが転んだ。手すりの隙間に体が傾いて、落ちかけた。最初に叫んだのは澪。次に蒼が走った。澪は悠真くんの手首をつかんだ。蒼は澪ごと引き戻そうとした」


 紬の胸が締めつけられる。


「助かったんですよね」


「助かった。けれど蒼は、そのとき肩と腕をひどく痛めた。澪も手首を傷めた。悠真くんは泣いていた。母親は錯乱していた」


 千景は自分の手を見た。


「私は呼ばれて甲板へ行った。悠真くんを診て、蒼を診た。蒼は痛みで震えていたけれど、ずっと澪を見ていた」


「母を?」


「ええ。澪は、濡れたまま立っていた。顔が真っ白だった」


「そのあと、揉めたんですね」


「そう」


 千景は深く息を吐いた。


「悠真くんの母親が、船会社の責任を強く訴えた。甲板に出られる状態にしていたのが悪い。乗員が止めなかったのが悪い、と。蒼が連れていったことを言えば、蒼の責任になる。澪が事前に気づいていたことを言えば、澪の責任にもなる」


「母は、蒼さんを守るために黙った」


「それだけではないわ」


 千景の声が、少し強くなった。


「澪が一番守りたかったのは、悠真くんだった」


「悠真くん?」


「悠真くんは、母親に怯えていた。事故のあとも、自分が悪い、自分が海を見たいと言ったから悪いと繰り返していた。もし蒼が誘った、澪が止めなかった、母親が怒鳴っていた、そういう話が表に出れば、責任の押しつけ合いになる。悠真くんはさらに、自分のせいだと思ったでしょう」


「でも、それで母が責められたんですよね」


「ええ」


 千景は唇を結んだ。


「澪は、自分が黙ることで、悠真くんを守れると思った。蒼も守れると思った。船も、母親も、みんな少しずつ守れると思った。でも、そんなことは無理だった」


 紬は黙って聞いていた。


「黙れば、誰かが傷つかずに済む。澪はそう信じた。でも現実には、黙った人間にだけ傷が集まる。澪はそれを知らなかった」


 千景の言葉は、静かだが鋭かった。


「だから私は、あの子に怒ったの」


「怒った?」


「ええ。事故のあと、松山の下宿へ会いに行ったときに」


 宮部君代が言っていた。


 佐伯千景が訪ねてきた夜、母は初めて泣いた、と。


「私は澪に言いました。あなたが全部を背負う必要はない。黙ることを美徳にしてはいけない。誰かを守るために自分を傷つけ続ければ、いつかあなたの子どもまで、その傷の中で育つことになる、と」


 紬の胸が鳴った。


「母は、何て?」


「泣いていた。ずっと、泣いていた」


 千景の目元も少し赤くなった。


「澪は言ったわ。『じゃあ、私はどうすればよかったの』って。私は答えられなかった」


 紬は息をのんだ。


 どうすればよかったの。


 それは、今の紬も聞きたい言葉だった。


 母は何をすればよかったのか。

 蒼を告発すればよかったのか。

 悠真の母親のことまで話せばよかったのか。

 自分も悪かったと名乗り出ればよかったのか。

 誰も守らず、ただ事実を並べればよかったのか。


 正解は、どこにもないように思えた。


「千景さんは、母を責めたんですか」


「責めたわ」


 千景ははっきり言った。


「黙ったことを責めた。ひとりで背負ろうとしたことを責めた。蒼を追わなかったことも、蒼だけを守ろうとしたことも、全部責めた」


「どうしてそこまで」


「友達だったから」


 千景の声が震えた。


「友達だから、きれいごとだけは言えなかった」


 紬は目を伏せた。


 母には、そんな友達がいた。


 母を慰めるだけでなく、怒ってくれる人がいた。


「でも、澪は私を遠ざけた」


「どうして」


「私の言葉が痛かったからでしょう。図星だったから。そして、私の前では泣けてしまうから」


 千景は便箋に目を落とした。


「それでも、年に一度だけ葉書をくれた。あなたのことを書いた葉書を」


「私のことを」


「そう。紬が歩きました。紬が熱を出しました。紬が東京へ行きました。紬が帰ってきません。そんな短い言葉」


 紬は胸が詰まった。


 母は、紬のことを誰かに報告していた。


 喜びも、寂しさも、短い葉書にして。


「母は、私が東京へ行ったことをどう書いていましたか」


 紬は尋ねた。


 千景は少し微笑んだ。


「『紬が尾道を出ました。私は少し泣きました。でも、泣いたことはあの子には言いません』と」


 紬は目を閉じた。


 駅で見送った母。

 紙袋に文庫本を三冊入れてくれた母。

 寂しくなったら読みんさい、と言った母。


 あのあと、母は泣いたのか。


 紬の知らないところで。


「母は、いつも泣かない人だと思っていました」


「人は、見せる場所を選ぶだけよ」


 千景は言った。


「澪は、あなたの前では母でいようとした。私の前では、少しだけ澪に戻れた。それだけ」


 紬は、母をまた少し違う角度から見た気がした。


 母は嘘をついていたのではない。


 母でいる場所と、澪に戻る場所を分けていたのだ。


 それが正しかったかどうかは、別として。


「悠真くんは、その後どうなったんですか」


 紬が尋ねると、千景の表情がやわらいだ。


「生きているわ。今は岡山にいるはず。福祉の仕事をしていると聞いた」


「母は知っていたんですか」


「たぶん。澪は一度だけ、悠真くんのことを尋ねてきたから」


「会ったんですか」


「いいえ。会わなかった。会えば、また自分の沈黙を押しつけることになると思ったんでしょう」


 紬は深く息を吐いた。


 母は、本当にどこまでも自分を責める人だった。


 でも、それだけではない。


 自分が会うことで相手を苦しめるかもしれないと考えた。相手の人生に、自分の後悔を持ち込みたくなかった。


 そのやさしさは、やはり少し不器用で、少し残酷だった。


「母は、私にも同じことをしたんですね」


「え?」


「父のことを話せば、私が苦しむと思った。だから黙った。でも、その沈黙で私は苦しんだ」


 千景は否定しなかった。


「そうね」


「母は、人を傷つけないために黙ったのに、結局みんな少しずつ傷ついた」


「ええ」


「じゃあ、どうすればよかったんでしょう」


 紬の声は小さくなった。


 千景はしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくり言った。


「たぶん、少しずつ話すしかなかったのよ」


「少しずつ?」


「一度で全部を正しく話そうとするから、話せなくなる。間違えながら、怒られながら、泣きながら、少しずつ話せばよかった。でも澪には、それができなかった」


 千景は紬を見た。


「あなたは、できるかもしれない」


 紬はその言葉を受け止めた。


 自分はできるだろうか。


 母への怒りを。

 父を知りたい気持ちを。

 母を理解したい気持ちを。

 全部、少しずつ言葉にできるだろうか。


 千景は立ち上がり、棚から小さな箱を取り出した。


「これを渡します」


 箱の中には、古い葉書の束が入っていた。


「母の?」


「ええ。私宛てに届いた澪の葉書。全部ではないけれど、残してあるもの」


 紬はそっと受け取った。


 一枚目の葉書には、母の字があった。


 ――紬が生まれました。小さくて、赤くて、泣き声が強い子です。私はまだ母になれた気がしません。でも、この子の手が私の指を握りました。


 紬の視界が揺れた。


 母は、誰にも何も言わなかったわけではない。


 自分の弱さを、少しだけ千景に送っていた。


 届いていた言葉もあった。


「読んでもいいんですか」


「もちろん。あなたに渡すために、私は残していたのかもしれない」


 千景は微笑んだ。


「澪の言葉を、今度はあなたが受け取りなさい」


 家を出る前、千景は紬を庭へ案内した。


 丘の上から、海が見えた。オリーブの木々の向こうに、白く光る海。遠くにフェリーが小さく進んでいる。


「澪と一度だけ、ここに立ったことがあるの」


 千景は言った。


「いつですか」


「あなたが生まれてから、少し経った頃。澪があなたを抱いて、小豆島へ来た。まだ赤ちゃんだったあなたを、私に見せに来たの」


 紬は驚いた。


「私が、ここに?」


「ええ。覚えていないでしょうけど」


 覚えているはずがない。


 でも、胸の奥で何かが震えた。


 自分は、母に抱かれてここに来たことがある。

 オリーブの丘で、海を見たことがある。


「澪は何て言っていましたか」


 千景は少し考えた。


「この子には、私より遠くへ行ってほしい、と」


 それは、母が何度も形を変えて残してきた願いだった。


 私の知らない海へ行けますように。

 誰かを待つ人生を渡したくない。

 糸のように、切れても結べる子に。


 紬は海を見た。


 母はずっと、紬を遠くへ行かせたかった。


 でも同時に、遠くへ行った紬を寂しく思っていた。


 その矛盾が、今は少しわかる気がした。


 人は、愛しているから自由にしたい。

 愛しているから、そばにいてほしい。


 どちらも本当なのだ。


 車に戻ると、律がボンネットにもたれて待っていた。


「長かったね」


「うん」


「大丈夫?」


 紬は少し考えてから答えた。


「大丈夫じゃない。でも、少しだけわかった」


「何が?」


「母は、正しかったわけじゃない」


 律は黙って聞いていた。


「でも、悪かっただけでもない。弱くて、間違えて、黙って、そのせいで人を傷つけて、それでも誰かを守ろうとしていた」


「うん」


「私、母を許すとか許さないとか、まだ言えない」


「言わなくていいんじゃない」


 律は静かに言った。


「今は」


 その「今は」に、紬は救われた。


 すぐに答えを出さなくていい。


 母も、答えを出せないまま生きた。だからといって、自分まで黙る必要はない。


 紬は鞄の中の葉書の束に触れた。


 母から千景へ届いていた、紬の記録。

 母が隠していたのではなく、どこかへ預けていた言葉。


 次の手紙は、倉敷だった。


 古い写真館。

 三原蒼が名前を変えて生きていた可能性。

 父かもしれない男の、その後。


 小豆島で母の沈黙の理由を知った今、紬は次に父の輪郭へ向かわなければならない。


 車が丘を下りはじめる。


 オリーブの葉が、窓の外で銀色に揺れている。海の光が、その隙間から何度も瞬いた。


 紬は窓を少し開けた。


 風が入ってくる。


 苦く、青く、少しだけ塩辛い風。


 母も、この風を浴びた。


 赤ん坊の紬を抱いて。


 遠くへ行ってほしいと願いながら、きっと腕の中の重みを手放したくなかった。


 その母を、紬は初めて、少しだけ愛おしいと思った。


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