第九話 小豆島、オリーブの丘で待つ人
小豆島へ渡るフェリーの上で、紬は母子手帳を開いていた。
松山の下宿で宮部君代から受け取ったものだ。表紙の角は少し擦り切れ、ページの端は薄く黄ばんでいる。けれど、中の母の字ははっきり残っていた。
――今日は少し動いた。
――夜、眠れない。
――名前を考える。
――糸のように、切れても結べる子に。
その一文を、紬は何度も読み返した。
母は、紬という名前を考えていた。
父のことも、三原蒼のことも、今治で受け取らなかった指輪のことも、何ひとつ語らなかった母が、まだ生まれていない娘の名前だけは、こんなふうに大切に考えていた。
怒りは消えない。
父を知らずに育った空白は、急に埋まらない。
けれど、母の沈黙の中に愛がなかったとは、もう言えなくなっていた。
フェリーはゆっくりと海を進んでいる。
空は淡く曇っていた。海は白っぽい青で、遠くの島々が霞の向こうに浮かんでいる。甲板に出ると、風が強かった。潮の匂いに、どこか植物の青い匂いが混じっているような気がした。
律は手すりにもたれ、カメラを構えていた。
今日はあまり話さない。
松山を出てから、二人の間には静かな時間が続いていた。気まずいわけではない。むしろ、律が沈黙を守ってくれていることがありがたかった。
聞かれたら、きっと答えられない。
母を許せそうか。
父に会いたいか。
これからどうしたいのか。
どれも、まだ言葉にならない。
紬は鞄の中から八通目の手紙を取り出した。
佐伯千景様。
小豆島に住む元看護師。松山の下宿で母を訪ね、母を泣かせた人。
森脇朔太郎も、白石灯子も、灰原正臣も、その名前を知っているようだった。けれど、誰も詳しくは話さなかった。
まるで、最後の扉の前にいる人のように。
封筒の裏には、母の字でこう書かれている。
――あなたにだけは、私が黙った理由を覚えていてほしい。
紬はその文字を指でなぞった。
黙った理由。
母は、なぜ黙ったのか。
蒼を守るため。
少年を傷つけないため。
自分の弱さを隠すため。
これまで聞いてきた答えは、どれも一部だけのように思えた。母が背負っていたものは、もっと深く、もっと複雑なのだろう。
フェリーが小豆島の港へ近づいた。
港の向こうに、ゆるやかな丘が見える。斜面にはオリーブの木が並び、銀色がかった葉が風に揺れていた。レモン畑の明るい黄色とも、尾道の坂の緑とも違う。小豆島の緑は、乾いて、光を含んでいた。
車を降りると、島の空気が体に触れた。
海の匂い。
土の匂い。
オリーブの葉の、少し苦い匂い。
律は地図を確認した。
「佐伯さんの家、オリーブ公園の近くらしい」
「丘の上?」
「うん。車で行けるけど、最後ちょっと細い道かも」
「大丈夫?」
「軽じゃけえ」
律はそう言って、少し笑った。
車は港を離れ、坂道を上っていった。
小豆島の道は、海を見下ろしたり、畑の間を抜けたりしながら曲がっていく。オリーブの木が規則正しく並び、ところどころに白い家があった。風車が遠くに見える。観光地らしい明るさもあるのに、どこか静かだった。
母はここへ来たのだろうか。
松山で泣いたあと。
あるいは、その前に。
佐伯千景という人に、何を打ち明けたのだろう。
やがて車は、丘の途中にある小さな家の前に止まった。
白い壁に、青い屋根。庭にはオリーブの木が数本あり、根元に石が積まれている。玄関先には、古い木の椅子が置かれていた。そこに、ひとりの女性が座っていた。
白髪を短く切り、薄いベージュのシャツを着ている。背筋は伸びているが、肩のあたりに長い疲れが見えた。年齢は七十前後だろうか。膝の上に本を開いていたが、車が止まる前から、こちらを見ていた。
待っていたように。
紬が車を降りると、女性はゆっくり立ち上がった。
「朝倉紬さんね」
紬は驚いた。
「はい。佐伯千景さんですか」
「ええ」
「どうして、私の名前を」
千景は小さく笑った。
「澪が、昔から何度も書いてきたから。手紙ではなく、葉書でね。あなたの名前だけは、何度も届いた」
紬は言葉を失った。
母は千景に葉書を出していた。
十二通の手紙は出せなかったのに。
自分の名前は、誰かのもとへ届いていた。
「母は、千景さんに連絡を?」
「年に一度くらい。短い葉書だけ。元気です、紬が何歳になりました、店は相変わらずです。そんなことだけ」
「私のことを……」
「ええ。澪は、あなたのことをよく書いていたわ」
千景は紬の顔を見つめた。
「写真で見たことはあったけれど、本当に澪に似ているのね」
その言葉に、今度は胸が痛まなかった。
似ている。
それが、母に飲み込まれることではなく、母から何かを受け取っていることのように思えた。
「母の遺品から、手紙が出てきました」
紬は封筒を差し出した。
「千景さん宛てです」
千景は封筒を受け取ると、すぐには見なかった。両手で包み込むように持ち、目を閉じた。
「やっぱり、書いていたのね」
「知っていたんですか」
「澪は、出せない手紙を書く人だったから」
千景はそう言って、家の中へ招いた。
室内は明るかった。
窓が大きく、丘の下の海がよく見える。棚には医学書と小説が並び、壁には古い聴診器が掛けられている。テーブルの上には、乾燥させたオリーブの葉が小皿に置かれていた。
「看護師さんだったんですよね」
「ええ。若い頃は高松の病院で、その後は小豆島の診療所で働いていたの」
「母とは、どこで?」
千景は湯を沸かしながら答えた。
「船の上よ」
「乗客として?」
「半分は乗客、半分は仕事。島の診療所へ戻る途中だった。あの日も、私はしおかぜ丸に乗っていた」
紬は息をのんだ。
「あの夜ですか」
「そう」
千景は振り返った。
「私は、事故のとき船内にいた」
部屋の空気が変わった。
これまで聞いてきた人々は、事故の断片を語った。だが、千景はその場にいた。看護師として、命に触れていた人だ。
千景はお茶を出すと、封筒を見つめた。
「読む前に、あなたに聞きたいことがあるの」
「はい」
「あなたは、澪のことを知りたいの? それとも、裁きたいの?」
紬はすぐに答えられなかった。
窓の外で、オリーブの葉が風に揺れている。
「最初は、裁きたかったのかもしれません」
紬は正直に言った。
「何も話さなかった母を責めたかった。父のことを隠したことも、私に選ばせなかったことも。でも、旅をしているうちに、母がただ黙っていただけではないこともわかってきました」
「では、今は?」
「知りたいです」
少し間を置いて、続けた。
「知ったあとで、怒るかもしれません。でも、知らないまま怒り続けるのは、もう嫌です」
千景は静かに頷いた。
「それなら、話せる」
そう言って、封を切った。
便箋を広げる音が、やけに大きく聞こえた。
千景はゆっくり読んだ。
表情はあまり変わらなかった。ただ、読み進めるうちに、口元が固く結ばれていった。最後の一枚に入ると、千景は一度だけ目を閉じた。
「ばかね、澪」
低く、呟いた。
「本当に、ばかな子」
その声には怒りがあった。
けれど、深い愛情もあった。
「何が書いてあったんですか」
紬が尋ねると、千景は手紙を畳まずにテーブルへ置いた。
「あなたにも聞いてほしいところがある」
そして、母の字を指で押さえながら読んだ。
「千景。私は今も、あの夜のことを夢に見ます。濡れた甲板、蒼の声、少年の手首、あなたの白い手。私は何度もあの場面に戻り、今度こそ違うことを言おうとします。でも夢の中でも、私はやっぱり黙っています」
紬は息を止めた。
「私は蒼を守りたかったのだと思っていました。少年を守りたかったのだとも思っていました。でも本当は、私自身が壊れるのが怖かったのです。正しいことを言えば、誰かを失う。黙れば、自分を失う。私はそのどちらも選べず、ただ黙って立っていました」
千景はそこで一度、息を整えた。
「あなたがあの夜、私に言ったことを覚えています。『澪、いまは誰かを責めるより、息をしている人を見なさい』。あの言葉がなければ、私は少年の泣き声も、蒼の震える指も、自分の体の中にいる紬の存在も、全部見失っていたと思います」
紬は目を見開いた。
自分の存在。
母は、あの時点で妊娠に気づいていたのか。
いや、事故の夜にはまだ確かではなかったのかもしれない。けれど、母の体の中にはもう紬がいた可能性がある。
千景は便箋を置いた。
「澪は、あの夜にはまだ確信していなかった。でも薄々気づいていた。体調が違う、と言っていたから」
紬は手を握った。
事故の夜、母は自分を抱えていたかもしれない。
それなのに甲板へ走った。
少年を助けるために。
「何が起きたのか、最初から教えてください」
紬は言った。
千景は、ゆっくり頷いた。
「あの夜、船は荒れていた。天気予報ではそこまでひどくならないはずだったけれど、海の上では急に風が変わることがある」
千景の目は、遠い海を見ていた。
「私は診療所へ戻る途中で、客室にいた。澪は売店。蒼は船員として、客の誘導や荷の確認をしていた。森脇さんは食堂。灰原さんは事務方。相良さんは、その便には乗っていなかったけれど、港で修理待ちをしていた」
「少年は?」
「十歳くらいの男の子だった。名前は、悠真くん」
初めて、少年に名前がついた。
これまで「少年」としか呼ばれなかった存在が、急に一人の子どもとして立ち上がった。
「悠真くんは、母親と一緒に乗っていた。母親は疲れ切っていた。船内で何度も怒鳴っていたから、澪は気にしていた」
「怒鳴っていた?」
「ええ。悠真くんに対してね。静かにしなさい、迷惑をかけないで、あんたのせいで、と」
千景の声が硬くなった。
「家庭に問題があることは、見ればわかった。でも当時は、今ほど誰も簡単に介入できなかった。澪は売店で悠真くんに本を一冊渡した。海の生き物の本だったと思う」
母らしいと思った。
叱られている子どもに、本を渡す。
言葉ではなく、逃げ場を渡す。
「悠真くんは、甲板へ出たがった。海を見たい、と言った。蒼は少しだけならと、連れていった」
「嵐なのに?」
「まだその時点では、そこまで危険だとは思われていなかった。けれど風は強くなっていた。判断が甘かったと言えば、そう」
千景は続けた。
「甲板で船が大きく揺れた。悠真くんが転んだ。手すりの隙間に体が傾いて、落ちかけた。最初に叫んだのは澪。次に蒼が走った。澪は悠真くんの手首をつかんだ。蒼は澪ごと引き戻そうとした」
紬の胸が締めつけられる。
「助かったんですよね」
「助かった。けれど蒼は、そのとき肩と腕をひどく痛めた。澪も手首を傷めた。悠真くんは泣いていた。母親は錯乱していた」
千景は自分の手を見た。
「私は呼ばれて甲板へ行った。悠真くんを診て、蒼を診た。蒼は痛みで震えていたけれど、ずっと澪を見ていた」
「母を?」
「ええ。澪は、濡れたまま立っていた。顔が真っ白だった」
「そのあと、揉めたんですね」
「そう」
千景は深く息を吐いた。
「悠真くんの母親が、船会社の責任を強く訴えた。甲板に出られる状態にしていたのが悪い。乗員が止めなかったのが悪い、と。蒼が連れていったことを言えば、蒼の責任になる。澪が事前に気づいていたことを言えば、澪の責任にもなる」
「母は、蒼さんを守るために黙った」
「それだけではないわ」
千景の声が、少し強くなった。
「澪が一番守りたかったのは、悠真くんだった」
「悠真くん?」
「悠真くんは、母親に怯えていた。事故のあとも、自分が悪い、自分が海を見たいと言ったから悪いと繰り返していた。もし蒼が誘った、澪が止めなかった、母親が怒鳴っていた、そういう話が表に出れば、責任の押しつけ合いになる。悠真くんはさらに、自分のせいだと思ったでしょう」
「でも、それで母が責められたんですよね」
「ええ」
千景は唇を結んだ。
「澪は、自分が黙ることで、悠真くんを守れると思った。蒼も守れると思った。船も、母親も、みんな少しずつ守れると思った。でも、そんなことは無理だった」
紬は黙って聞いていた。
「黙れば、誰かが傷つかずに済む。澪はそう信じた。でも現実には、黙った人間にだけ傷が集まる。澪はそれを知らなかった」
千景の言葉は、静かだが鋭かった。
「だから私は、あの子に怒ったの」
「怒った?」
「ええ。事故のあと、松山の下宿へ会いに行ったときに」
宮部君代が言っていた。
佐伯千景が訪ねてきた夜、母は初めて泣いた、と。
「私は澪に言いました。あなたが全部を背負う必要はない。黙ることを美徳にしてはいけない。誰かを守るために自分を傷つけ続ければ、いつかあなたの子どもまで、その傷の中で育つことになる、と」
紬の胸が鳴った。
「母は、何て?」
「泣いていた。ずっと、泣いていた」
千景の目元も少し赤くなった。
「澪は言ったわ。『じゃあ、私はどうすればよかったの』って。私は答えられなかった」
紬は息をのんだ。
どうすればよかったの。
それは、今の紬も聞きたい言葉だった。
母は何をすればよかったのか。
蒼を告発すればよかったのか。
悠真の母親のことまで話せばよかったのか。
自分も悪かったと名乗り出ればよかったのか。
誰も守らず、ただ事実を並べればよかったのか。
正解は、どこにもないように思えた。
「千景さんは、母を責めたんですか」
「責めたわ」
千景ははっきり言った。
「黙ったことを責めた。ひとりで背負ろうとしたことを責めた。蒼を追わなかったことも、蒼だけを守ろうとしたことも、全部責めた」
「どうしてそこまで」
「友達だったから」
千景の声が震えた。
「友達だから、きれいごとだけは言えなかった」
紬は目を伏せた。
母には、そんな友達がいた。
母を慰めるだけでなく、怒ってくれる人がいた。
「でも、澪は私を遠ざけた」
「どうして」
「私の言葉が痛かったからでしょう。図星だったから。そして、私の前では泣けてしまうから」
千景は便箋に目を落とした。
「それでも、年に一度だけ葉書をくれた。あなたのことを書いた葉書を」
「私のことを」
「そう。紬が歩きました。紬が熱を出しました。紬が東京へ行きました。紬が帰ってきません。そんな短い言葉」
紬は胸が詰まった。
母は、紬のことを誰かに報告していた。
喜びも、寂しさも、短い葉書にして。
「母は、私が東京へ行ったことをどう書いていましたか」
紬は尋ねた。
千景は少し微笑んだ。
「『紬が尾道を出ました。私は少し泣きました。でも、泣いたことはあの子には言いません』と」
紬は目を閉じた。
駅で見送った母。
紙袋に文庫本を三冊入れてくれた母。
寂しくなったら読みんさい、と言った母。
あのあと、母は泣いたのか。
紬の知らないところで。
「母は、いつも泣かない人だと思っていました」
「人は、見せる場所を選ぶだけよ」
千景は言った。
「澪は、あなたの前では母でいようとした。私の前では、少しだけ澪に戻れた。それだけ」
紬は、母をまた少し違う角度から見た気がした。
母は嘘をついていたのではない。
母でいる場所と、澪に戻る場所を分けていたのだ。
それが正しかったかどうかは、別として。
「悠真くんは、その後どうなったんですか」
紬が尋ねると、千景の表情がやわらいだ。
「生きているわ。今は岡山にいるはず。福祉の仕事をしていると聞いた」
「母は知っていたんですか」
「たぶん。澪は一度だけ、悠真くんのことを尋ねてきたから」
「会ったんですか」
「いいえ。会わなかった。会えば、また自分の沈黙を押しつけることになると思ったんでしょう」
紬は深く息を吐いた。
母は、本当にどこまでも自分を責める人だった。
でも、それだけではない。
自分が会うことで相手を苦しめるかもしれないと考えた。相手の人生に、自分の後悔を持ち込みたくなかった。
そのやさしさは、やはり少し不器用で、少し残酷だった。
「母は、私にも同じことをしたんですね」
「え?」
「父のことを話せば、私が苦しむと思った。だから黙った。でも、その沈黙で私は苦しんだ」
千景は否定しなかった。
「そうね」
「母は、人を傷つけないために黙ったのに、結局みんな少しずつ傷ついた」
「ええ」
「じゃあ、どうすればよかったんでしょう」
紬の声は小さくなった。
千景はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり言った。
「たぶん、少しずつ話すしかなかったのよ」
「少しずつ?」
「一度で全部を正しく話そうとするから、話せなくなる。間違えながら、怒られながら、泣きながら、少しずつ話せばよかった。でも澪には、それができなかった」
千景は紬を見た。
「あなたは、できるかもしれない」
紬はその言葉を受け止めた。
自分はできるだろうか。
母への怒りを。
父を知りたい気持ちを。
母を理解したい気持ちを。
全部、少しずつ言葉にできるだろうか。
千景は立ち上がり、棚から小さな箱を取り出した。
「これを渡します」
箱の中には、古い葉書の束が入っていた。
「母の?」
「ええ。私宛てに届いた澪の葉書。全部ではないけれど、残してあるもの」
紬はそっと受け取った。
一枚目の葉書には、母の字があった。
――紬が生まれました。小さくて、赤くて、泣き声が強い子です。私はまだ母になれた気がしません。でも、この子の手が私の指を握りました。
紬の視界が揺れた。
母は、誰にも何も言わなかったわけではない。
自分の弱さを、少しだけ千景に送っていた。
届いていた言葉もあった。
「読んでもいいんですか」
「もちろん。あなたに渡すために、私は残していたのかもしれない」
千景は微笑んだ。
「澪の言葉を、今度はあなたが受け取りなさい」
家を出る前、千景は紬を庭へ案内した。
丘の上から、海が見えた。オリーブの木々の向こうに、白く光る海。遠くにフェリーが小さく進んでいる。
「澪と一度だけ、ここに立ったことがあるの」
千景は言った。
「いつですか」
「あなたが生まれてから、少し経った頃。澪があなたを抱いて、小豆島へ来た。まだ赤ちゃんだったあなたを、私に見せに来たの」
紬は驚いた。
「私が、ここに?」
「ええ。覚えていないでしょうけど」
覚えているはずがない。
でも、胸の奥で何かが震えた。
自分は、母に抱かれてここに来たことがある。
オリーブの丘で、海を見たことがある。
「澪は何て言っていましたか」
千景は少し考えた。
「この子には、私より遠くへ行ってほしい、と」
それは、母が何度も形を変えて残してきた願いだった。
私の知らない海へ行けますように。
誰かを待つ人生を渡したくない。
糸のように、切れても結べる子に。
紬は海を見た。
母はずっと、紬を遠くへ行かせたかった。
でも同時に、遠くへ行った紬を寂しく思っていた。
その矛盾が、今は少しわかる気がした。
人は、愛しているから自由にしたい。
愛しているから、そばにいてほしい。
どちらも本当なのだ。
車に戻ると、律がボンネットにもたれて待っていた。
「長かったね」
「うん」
「大丈夫?」
紬は少し考えてから答えた。
「大丈夫じゃない。でも、少しだけわかった」
「何が?」
「母は、正しかったわけじゃない」
律は黙って聞いていた。
「でも、悪かっただけでもない。弱くて、間違えて、黙って、そのせいで人を傷つけて、それでも誰かを守ろうとしていた」
「うん」
「私、母を許すとか許さないとか、まだ言えない」
「言わなくていいんじゃない」
律は静かに言った。
「今は」
その「今は」に、紬は救われた。
すぐに答えを出さなくていい。
母も、答えを出せないまま生きた。だからといって、自分まで黙る必要はない。
紬は鞄の中の葉書の束に触れた。
母から千景へ届いていた、紬の記録。
母が隠していたのではなく、どこかへ預けていた言葉。
次の手紙は、倉敷だった。
古い写真館。
三原蒼が名前を変えて生きていた可能性。
父かもしれない男の、その後。
小豆島で母の沈黙の理由を知った今、紬は次に父の輪郭へ向かわなければならない。
車が丘を下りはじめる。
オリーブの葉が、窓の外で銀色に揺れている。海の光が、その隙間から何度も瞬いた。
紬は窓を少し開けた。
風が入ってくる。
苦く、青く、少しだけ塩辛い風。
母も、この風を浴びた。
赤ん坊の紬を抱いて。
遠くへ行ってほしいと願いながら、きっと腕の中の重みを手放したくなかった。
その母を、紬は初めて、少しだけ愛おしいと思った。




