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潮待ちの十二通  作者: swingout777


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16/17

第十六話 母の最後の手紙

 翌朝、紬はいつもより早く目を覚ました。


 眠っていた、というより、浅い水の中に沈んでいたような夜だった。何度も目が覚め、そのたびに文机の上の白い封筒を見た。


 開けていない。


 それを確かめるたび、少し安堵し、少し失望した。


 窓の外はまだ青かった。


 夜と朝の境目。尾道の坂道は静かで、遠くの港から低いエンジン音だけが聞こえてくる。鳥の声が一つ、二つ。どこかの家で雨戸が開く音。


 母は、この時間に起きていたのだろうか。


 店を開ける前に湯を沸かし、豆を挽き、本棚の埃を払う。文机に向かって手紙を書くこともあったのかもしれない。誰にも出せない手紙を。


 紬は布団を畳み、顔を洗った。


 台所で湯を沸かす。豆を挽く。焦らずに湯を落とす。


 今朝の珈琲は、昨日より少しだけ澄んだ味がした。苦みは残っている。でも、嫌な苦さではない。舌の奥に残る、静かな苦さだった。


 カップを両手で持ったまま、紬は母の部屋へ戻った。


 文机の上には、白い封筒と、昨日自分が書いた便箋が並んでいる。


 ――お母さんへ。


 その一行だけの便箋。


 母の最後の手紙の横で、幼い返事のように見えた。


 紬は座布団に座り、深く息を吸った。


 怖い。


 それは変わらない。


 けれど、昨日とは少し違う怖さだった。


 昨日は、読めば母が本当に終わってしまう気がして怖かった。今日は、読んだあと自分がどう変わるのかが怖い。


 母を許してしまうのか。

 もっと怒るのか。

 泣くのか。

 何も感じないのか。


 どれも怖かった。


 でも、もう読まない理由を探す一日は過ごした。


 今日は、読む。


 紬は封筒を手に取った。


 紙は薄く、指先に少しざらついた。封は丁寧に糊づけされている。母らしく、角まできっちり閉じられていた。


 封筒の裏の日付を見る。


 母が亡くなる三日前。


 その頃、母はもう病院にいた。点滴につながれ、声も細くなっていたはずだ。紬は病室で母の手を握った。何か言いたそうな顔をされた気がした。でも紬は、怖くて聞けなかった。


 何を言うの。


 そう聞けばよかった。


 けれど聞かなかった。


 母だけが黙っていたわけではない。


 紬も、聞くことから逃げた。


 紬はペーパーナイフを持った。


 母が使っていた古い真鍮のもの。柄の部分に細かな傷がある。


 封筒の端に差し入れる。


 ゆっくり、開いた。


 紙の裂ける音が、静かな部屋に響いた。


 中には、便箋が何枚も入っていた。


 それから、一枚の写真。


 幼い紬が写っている。


 三歳くらいだろうか。潮待ち堂の入口で、母に抱かれている。母は若く、少し痩せている。紬は片手に小さな絵本を持ち、母の肩に頬をつけていた。


 写真の裏には、母の字で書かれている。


 ――この子が、私を母にしてくれた日々。


 紬は写真をそっと机に置いた。


 そして、便箋を開いた。


 最初の一行に、母の字があった。


 紬へ。


 それだけで、目が熱くなった。


 母は、自分の名前を書いていた。


 紬へ。


 その文字は、弱々しくはなかった。少し震えているが、きちんと力があった。


 紬は読み始めた。


 ――紬へ。


 ――この手紙をあなたが読んでいるということは、私はもう、あなたの前で話せないところにいるのだと思います。生きているうちに話せなかったことを、死んでから手紙で渡すのは、とてもずるいことだとわかっています。あなたは、きっと怒るでしょう。怒っていいです。


 紬は息を止めた。


 怒っていい。


 母がそう書いていた。


 律も、そう言った。

 千景も、否定しなかった。

 赤間も、決めればいいと言った。


 でも、母自身が「怒っていい」と書いていることは、紬の胸を強く揺らした。


 ――私は、あなたにたくさんのことを話しませんでした。あなたの父かもしれない人のこと。私が若い頃に乗っていた船のこと。嵐の夜のこと。今治まで行って、蒼に会わずに帰ったこと。松山であなたの名前を考えたこと。小豆島で千景に叱られて泣いたこと。倉敷で蒼の写真を見たこと。福山で小説のようなものを書いて置いてきたこと。下関へ行けなかったこと。門司の喫茶店で海峡を渡れなかったこと。


 紬は便箋を握りしめそうになり、慌てて力を抜いた。


 母は知っていた。


 自分が旅する場所を、すべて。


 手紙を残した母は、紬がそこへ行くことを想定していたのだ。


 ――私はあなたに、真実をまとめて渡すことができませんでした。だから、欠片にして人に預けました。これもまた、あなたには迷惑なことだったと思います。あなたはきっと、どうして私が自分で言わなかったのかと思ったでしょう。私にも、そう思います。どうして言えなかったのか。何度も、何度も考えました。


 母の字が、少し乱れている。


 紬は指でその文字をなぞった。


 ――答えはひとつではありません。あなたを傷つけたくなかったから。蒼を責める言葉にしたくなかったから。自分が間違えていたことを認めるのが怖かったから。あなたに父を待つ人生を渡したくなかったから。そして、いちばん大きな理由は、私が弱かったからです。


 紬の喉が詰まった。


 母は、自分で書いていた。


 私は弱かった。


 何人もの人から聞いた言葉だった。弱いまま母になった人。決められなかった人。言葉を大事にしすぎて、言えなくなった人。


 でも、母自身の字で読むと、その重さは違った。


 ――紬、私はあなたの前で、いつも母でいようとしました。泣かない母。怒らない母。困らない母。あなたを送り出せる母。あなたに自由を願える母。けれど本当の私は、そんなに強くありませんでした。あなたが東京へ行く日、私は駅で笑いました。あなたの背中が見えなくなってから、家に帰って泣きました。寂しかったからです。でも同じくらい、うれしかった。あなたが私の知らない海へ行くのだと思ったから。


 東京へ出る朝を、紬は思い出した。


 尾道駅。

 紙袋に入った文庫本。

 寂しくなったら読みんさい。


 あのときの母の笑顔の裏に、涙があった。


 紬は、母が泣いたことを知らなかった。

 母は、紬に見せなかった。


 今なら少しわかる。


 見せないことが、必ずしも嘘ではない。

 でも、見せなかったことで届かないものもある。


 紬は次の便箋をめくった。


 ――あなたの父について、書きます。


 心臓が強く鳴った。


 紬は便箋を持つ手を止めた。


 部屋の中の音が遠くなる。


 父。


 この旅のあいだ、ずっと追いかけてきた言葉。三原蒼。青井蒼太。写真の中の青年。今治で待った人。下関で死んだ人。紬の名前を知っていた人。


 母は、何と書いたのか。


 紬は息を整え、読み進めた。


 ――あなたの父は、三原蒼です。


 文字が、目の中で止まった。


 父は、三原蒼。


 やはりそうだった。


 どこかでわかっていた。赤間の言葉も、母の手紙の流れも、すべてそこへ向かっていた。


 それでも、母の字で断言されると、世界が一度静かになった。


 紬には父がいた。


 名前があった。


 三原蒼。


 もう死んでいる。

 会えない。

 話せない。

 でも、いた。


 父がいなかったのではない。


 知らされなかったのだ。


 その違いが、紬の胸に鋭く刺さった。


 ――蒼は、あなたの存在を知っていました。ただ、あなたが本当に自分の子かどうかを、確かめることはしませんでした。私も、蒼に確かめさせませんでした。血の証明をすれば、すべてがはっきりすると思うかもしれません。けれど私は、そのはっきりしたものに、あなたを縛りたくなかった。


 紬は眉を寄せた。


 縛りたくなかった。


 その言葉に、反発が起きる。


 縛られたかどうかを決めるのは、自分だったはずだ。


 母は続けていた。


 ――でも今は、それが私の言い訳だったこともわかります。私は、あなたが蒼を求めることが怖かった。あなたが父を知りたいと言ったとき、私では足りないのだと感じるのが怖かった。あなたが私を責めることが怖かった。蒼があなたに会い、私が選ばなかった人生をあなたの前に差し出すことも怖かった。私はあなたを守るふりをして、自分を守っていました。


 涙が落ちた。


 便箋の端に、小さな染みができる。


 母は、そこまで書いていた。


 自分を守っていました。


 紬がずっと言いたかったことを、母はわかっていた。


 守るという言葉の裏にある、母自身の怖さ。


 それを認めていた。


 ――それでも、あなたを愛していなかったわけではありません。こんな言い方は、またあなたを困らせるかもしれません。愛していたならなぜ話さなかったのか、とあなたは思うでしょう。私もそう思います。愛していることと、正しくできることは違うのだと、私はあなたを育てながら何度も知りました。


 紬は声を漏らさず泣いた。


 愛していることと、正しくできることは違う。


 その言葉は、痛かった。


 でも、旅の中で見てきた母そのものでもあった。


 母は愛していた。

 けれど正しくできなかった。


 蒼を。

 悠真を。

 紬を。

 自分自身を。


 愛しているだけでは、人は間違えずにいられない。


 それを認めることは、母を許すことではない。

 でも、母を人間として見ることだった。


 ――蒼を恨んだことがあります。真鍋さんを恨んだことも、倉田さんを恨んだこともあります。千景に叱られて、ひどいと思ったこともあります。けれど、いちばん長く恨んだのは私自身でした。今治へ行ったのに会わなかった私。下関へ行けなかった私。あなたに父の名前を言えなかった私。書いた手紙を出せなかった私。


 ――けれど紬、私はあなたを産んだことだけは、後悔していません。


 紬は便箋から目を離せなくなった。


 ――あなたを産んだから夢を諦めたのではありません。あなたがいたから、私は夢を別の形で持ち続けることができました。本当は、作家になりたかった。これはあなたにも言えませんでした。言えば、あなたが私の夢を奪ったように感じてしまうのではないかと思ったからです。でも違います。私は書けなくなったのではなく、書くことから逃げました。あなたのせいではありません。


 母は作家になりたかった。


 福山で受け取った未完の原稿が、机の端に置いてある。


 母は、自分で書けなくなった。

 紬のせいではない。


 その言葉に、紬は胸を押さえた。


 自分は母の夢を奪ったのではなかった。


 母が逃げたものを、紬に背負わせたくないから、母は黙っていたのかもしれない。けれど、黙ったことで、かえって紬は何も知らずに母を見ていた。


 ――潮待ち堂は、私が書けなかった物語の代わりでした。誰かに本を選ぶこと。珈琲を淹れること。言えない言葉を聞くこと。返事を書けない人のそばにいること。それは作家になることとは違います。でも、私にとっては、物語のそばで生きる方法でした。


 紬は店の方を見た。


 潮待ち堂。


 母は、諦めてそこにいたのではない。


 完全に夢を叶えたわけでもない。


 夢の近くに、別の形で立っていた。


 そのことが、紬には初めてわかった気がした。


 ――あなたがこの店を継ぐ必要はありません。売ってもいい。閉めてもいい。東京へ戻ってもいい。私のために、ここに残らないでください。私はあなたに、私の続きを生きてほしいわけではありません。


 紬は息をのんだ。


 母は、店を継げとは書いていなかった。


 ――ただ、もしあなたがこの場所を自分のものにしたいと思うなら、そのときは私の店ではなく、あなたの店にしてください。私の珈琲の味を真似しなくていい。私の棚を守らなくていい。あなたが選ぶ本を置き、あなたが淹れる珈琲を出し、あなたが聞ける言葉だけを聞いてください。


 涙が止まらなかった。


 律の言葉と同じだった。


 紬の潮待ち堂。


 母も、それを望んでいた。


 母の続きを生きるのではなく、自分の場所にすること。


 ――紬、あなたの名前は、松山の小さな部屋で考えました。糸のように、切れても結べる子に。そう願いました。でも今思えば、切れたものを必ず結ばなければならないわけではありません。切れたままでも、生きていけることがあります。結び直すか、ほどいたままにするか、あなたが選んでください。


 紬は、下関で受け取った使えない鍵を見た。


 開ける扉のない鍵。


 蒼の封筒も、まだ開けていない。


 読んでもいい。

 読まなくてもいい。


 結び直してもいい。

 ほどいたままでもいい。


 母は、最後にそれを紬に返そうとしているのかもしれない。


 ――蒼のことも、あなたがどう受け取るかはあなたの自由です。父と呼んでもいい。呼ばなくてもいい。会えなかったことを怒ってもいい。何も感じなくてもいい。蒼は弱い人でした。私も弱い人でした。けれど、あなたはその弱さの結果ではありません。あなたは、あなた自身です。


 あなたは、あなた自身です。


 紬は声を出して泣いた。


 小さな子どものような泣き方だった。


 ずっと知りたかったのは、父の名前だけではなかったのかもしれない。


 自分が何者なのか。


 母の沈黙の結果なのか。

 蒼の逃亡の結果なのか。

 事故の夜の後悔から生まれた子なのか。


 そうではないと、母は書いていた。


 あなたは、あなた自身です。


 母にそれを言われるのは、遅すぎる。


 でも、言われないままよりは、ずっとよかった。


 紬は涙を拭い、最後の便箋をめくった。


 ――私はあなたに、たくさんの返事を待たせました。ごめんなさい。これは謝って済むことではありません。でも、謝らせてください。あなたに父の名前を言えなかったこと。あなたが聞いたとき、遠くにいるとだけ答えたこと。いつか話すと言って、そのいつかを先延ばしにしたこと。あなたを待たせ続けたこと。ごめんなさい。


 紬は便箋を胸に押し当てた。


 謝罪があった。


 予想していたのに、実際に読むと、どうすればいいかわからなかった。


 許す、とはまだ言えない。


 でも、母が謝っていることは受け取った。


 それだけで、胸の奥の硬いものが少しだけ形を変えた。


 ――それでも私は、あなたが生まれてからの日々を、失った夢の代わりだと思ったことはありません。あなたは代わりではなく、別の夢そのものでした。朝、あなたが泣くこと。熱を出すこと。初めて本をめくること。尾道の坂を嫌がること。東京へ行くと決めたこと。帰ってこないこと。帰ってきたこと。その全部が、私にとっては生きる理由でした。


 紬は写真を見た。


 三歳の紬を抱いた母。


 若く、疲れていて、それでも微笑んでいる母。


 ――最後に、お願いがあります。


 紬は涙で滲む文字を追った。


 ――私の手紙を全部届けてくれていたら、ありがとう。届けていなくても、あなたが決めたなら、それでいいです。私は、あなたに私の過去を背負わせたくなかったのに、結局、残してしまいました。だから、どうか最後は、あなたの言葉で終わらせてください。


 ――私に返事を書いてください。


 紬は息を止めた。


 返事。


 律が言ったことと同じ。


 母は、返事を求めていた。


 ――怒っているなら、怒っていると。許せないなら、許せないと。愛されていたとわかったなら、それも。まだわからないなら、わからないと。きれいな言葉でなくていいです。あなたの言葉で書いてください。私はそれを読むことはできません。でも、あなたが書けば、あなたの中で何かが少しだけ港を出ると思います。


 紬は便箋を握ったまま、しばらく動けなかった。


 あなたの中で何かが少しだけ港を出る。


 母は、最後まで手紙の人だった。


 言葉を港にたとえ、出せなかった手紙を残し、最後に娘へ返事を求めた。


 ずるい。


 そう思う。


 でも、母らしい。


 そうも思う。


 最後の一文があった。


 ――あなたがいつか、私の知らない海へ行けますように。けれど、行かなくてもいい。戻ってきてもいい。どこにも行けない日があってもいい。紬、あなたの海は、あなたが決めてください。


 紬は、最後の文字を見つめた。


 母の知らない海へ。


 けれど、行かなくてもいい。


 戻ってきてもいい。


 どこにも行けない日があってもいい。


 その言葉に、紬の中で何かが静かにほどけた。


 母は、最後に願いを手放そうとしていた。


 自分が渡れなかった海を、紬に渡らせようとした願い。父を待たせたくないという願い。自由であってほしいという願い。


 それらがいつのまにか紬を縛っていたことに、母は気づいていた。


 だから最後に、選ぶことを返してくれたのだ。


 遅すぎる。


 それでも、返された。


 紬は便箋を畳まなかった。


 机の上に広げたまま、しばらく泣いた。


 母の写真の前で、声を出して泣いた。


 怒りもあった。

 寂しさもあった。

 愛しさもあった。

 悔しさもあった。


 どれかひとつにまとめられない。


 まとめなくていいのだと思った。


 母は、完璧な母ではなかった。


 弱く、臆病で、決められず、たくさんのことを隠した。


 でも、紬を愛していた。


 その両方を、同じ手の中に持つしかない。


 泣き疲れた頃、店の方で戸が叩かれた。


 紬は顔を上げた。


 律かもしれない。近所の誰かかもしれない。


 けれど、すぐには立たなかった。


 まず、引き出しから便箋を出した。


 昨日、一行だけ書いた紙。


 ――お母さんへ。


 その下に、紬はペンを置いた。


 手が震えている。


 でも、書ける気がした。


 紬はゆっくり書き始めた。


 ――怒っています。


 最初の一文は、それだった。


 母への返事にふさわしいかどうかはわからない。


 でも、それが紬の言葉だった。


 ――怒っています。

 ――どうして話してくれなかったのか、今でもわかりません。

 ――お父さんの名前を、もっと早く知りたかったです。

 ――待たせないと言いながら、私はずっと待っていました。

 ――だから、簡単には許せません。


 書きながら、涙がまた落ちた。


 それでも止まらなかった。


 ――でも、手紙を読みました。

 ――お母さんが弱かったことも、怖かったことも、私を愛していたことも、読みました。

 ――愛していたなら正しくしてほしかった、と今も思います。

 ――でも、正しくできなかったお母さんを、少しだけ近く感じています。


 紬は息を吸った。


 店の戸を叩く音が、もう一度した。


 待っていて。


 心の中でそう言い、紬はさらに書いた。


 ――私は、お母さんの続きを生きません。

 ――潮待ち堂をどうするかは、私が決めます。

 ――お父さんの手紙を読むかどうかも、私が決めます。

 ――お母さんが渡れなかった海を、私が代わりに渡るわけではありません。


 そこまで書いて、紬は少し笑った。


 涙の中で、ほんの少し。


 ――でも、私は今日、少しだけ港を出た気がします。


 ペンを置いた。


 返事はまだ終わっていない。


 でも、始まった。


 それで十分だった。


 紬は母の手紙を丁寧に畳み、写真と一緒に封筒へ戻した。封はしない。もう閉じ込めない。


 自分の返事の便箋は、文机の上に置いたままにした。


 そして立ち上がった。


 店へ行く。


 戸を開けると、律が立っていた。


 手には紙袋。顔を見た瞬間、何かを察したらしく、何も聞かなかった。


 紬は泣き腫らした顔のまま言った。


「読んだ」


 律は静かに頷いた。


「うん」


「返事、書き始めた」


「うん」


「まだ、終わってない」


「終わらなくていいんじゃない」


 紬は少し笑った。


「そうだね」


 朝の光が、潮待ち堂の店内に差し込んでいた。


 本棚の背表紙が、静かに光っている。


 紬はカウンターの中へ入り、湯を沸かした。


「珈琲、飲む?」


 律は頷いた。


「飲む」


 紬は豆を挽いた。


 母の手紙を読んだ朝の珈琲。


 それは、母の味ではない。


 紬の味でも、まだ完全にはない。


 けれど湯気の向こうに、これから始まる何かが確かに見えた。


 紬はゆっくり湯を落とした。


 焦らずに。


 自分の呼吸で。


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