第6話「それぞれの月曜日」
十一月になった。
英二の一週間はこうなった。月水金はKENJIのスタジオ、火木は渋谷のスタジオを自主練で借りる。土日は家にいる。朝六時に起きて、夜十時に寝る。証券会社にいた頃と起床時間は同じだったが、疲れの種類が全然違った。
筋肉痛が、毎日どこかにあった。
それが嫌じゃなかった。
月曜の朝、麻衣子はパートに出た。
駅前のスーパー「フレッシュマート大山」、青果コーナー担当。時給は千百二十円だった。由里子たちには「近所でちょっとお手伝いしてる感じ」と言っていた。
同僚の田中さんは五十二歳で、麻衣子より三年先輩だった。無口だが仕事が速く、麻衣子は密かに尊敬していた。
午前中、二人でキャベツの品出しをしていると、田中さんが突然言った。
「坂本さんとこ、旦那さん退職されたんでしょ」
麻衣子は手を止めなかった。
「そうなんですよ〜、体壊しちゃって」
「今は何してるの」
「ダンスです」
田中さんの手が止まった。
「……ダンス」
「ヒップホップ!」
田中さんがキャベツを持ったまま麻衣子を見た。値踏みでも同情でもない、純粋に状況を把握しようとしている顔だった。
「仕事として?」
「本人はそのつもりで」
「坂本さんは」
「私は」麻衣子はキャベツを棚に並べながら言った。「お米が買えれば何でもいいです」
田中さんが少し黙って、またキャベツを並べ始めた。
「うちの夫もね」と田中さんは言った。「五十で脱サラして蕎麦屋やったのよ」
麻衣子は初めて聞く話だった。「そうなんですか」
「三年で閉めた」
「……それは」
「でも」と田中さんは続けた。淡々と、キャベツを並べながら。「あの三年間の夫の顔が、一番よかった。今でもそう思う」
麻衣子は何も言えなかった。
田中さんはそれ以上何も言わなかった。二人でキャベツを並べ続けた。
帰り際、麻衣子はスーパーの精肉コーナーで鶏むね肉を二枚カゴに入れた。少し考えて、もう一枚追加した。
同じ月曜日、蓮は学校から帰ってきてランドセルを投げて、リビングに転がった。
父がいなかった。
最近、父はいつもいない。でも帰ってくると汗くさい。前は帰ってくるとスーツくさかった。どっちがいいかと聞かれたら、蓮は汗くさいほうが好きだった。スーツの父は「宿題やったか」しか言わなかったが、最近の父は「今日何があった」と聞いてくる。
蓮はテレビをつけて、お菓子を食べた。
ふと思い出して、スマートフォンを取り出した。結衣のスマートフォンじゃなくて、自分の古いiPadだ。
YouTubeで「坂本英二 ダンス」と検索した。
出てきた。
再生した。
最初の五秒で、蓮は体を起こした。
画面の中の父が、知らない人みたいだった。体が柔らかくて、音楽と一緒に動いていて、周りの人たちが歓声を上げていた。
蓮は二分四十秒、一度も画面から目を離さなかった。
動画が終わった。
蓮はもう一回、再生した。
今度は途中で止めて、父がやっていた動きを真似してみた。腕を弾く動き。うまくできなかった。もう一回見て、もう一回やった。やっぱりできなかった。
三回目に少しだけできた気がした。
蓮は誰もいないリビングで、一人でにやっとした。
夜、英二が帰ってきた。
玄関を開けると、蓮が仁王立ちで待っていた。
「お父さん」
「なんだ」
「これ」
蓮が腕を弾いた。ポッピングの真似だった。形はぐちゃぐちゃだったが、やろうとしていることはわかった。
英二は一瞬、固まった。
「……誰に習った」
「YouTube。お父さんの動画」
英二がゆっくりしゃがんで、蓮の目線に合わせた。
「もう一回やってみろ」
蓮がもう一回やった。
英二が蓮の腕を軽く持って、肘の角度を直した。
「ここ、もう少し」
「こう?」
「そう。で、弾くときに止める。ここで」
蓮がやった。
今度は、少し形になった。
「できた!」
「できたな」
蓮が「もっと教えて」と言った。英二は「飯食ってからな」と言って立ち上がった。
リビングから麻衣子が顔を出した。鶏むね肉を三枚焼いた匂いがした。
「何してんの二人して」
「ダンス!」と蓮が言った。「お父さんに教えてもらった」
麻衣子が英二を見た。英二が麻衣子を見た。
麻衣子は何も言わずに、キッチンに戻った。
でも、戻り際に少しだけ笑った。
英二だけが、それを見ていた。
その夜遅く、英二はリビングで一人、鏡の代わりにテレビの黒い画面に向かって動いていた。
音は出さなかった。家族が寝ているから。
ポッピングで右腕を弾く。止める。左。止める。ウェーブを作る。鎖骨の引っかかりが、先週より少しだけ減った気がした。
気がした、だけかもしれない。
でも英二は続けた。
テレビの黒い画面に、四十五歳の自分が映っていた。スウェット姿で、汗をかいて、音のない音楽に合わせて動いている男。
悪くない、と英二は思った。
根拠のない話だったが、確かにそう思った。




