表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お父さんヒップホップで生きていくことにしたんだ  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/21

第7話「フロアの端で」

 KENJIから言われたのは、一言だった。

「今週末、見学に行ってきてください」

「バトルですか」

「オープンイベントです。バトルあり、サイファーあり。出る必要はない。ただ見てくるだけでいい」

「見るだけで意味がありますか」

 KENJIが英二を見た。

「今の自分がどこにいるか、わかります」


 会場は渋谷の地下にあるクラブだった。

 土曜の夜、二十一時。英二はエントランスで千五百円を払って中に入った。薄暗い照明、タバコと汗の混じった空気、壁を揺らす重低音——二十年以上前に何度も来た場所と、何かが同じだった。温度、というより、密度が。

 フロアの中央が空いていた。サイファーだった。

 六、七人が円を作って、一人ずつ中に入って踊る。ざっと見渡すと、二十代がほとんどだった。若い子に混じって三十代らしき男が一人いたが、それでも英二より十歳は若かった。

 英二はフロアの端、壁際に立った。

 見た。

 うまかった。

 それだけじゃなかった。速かった。音楽への反応が、英二の知っているダンスより一世代分、進化していた。ビートの解釈が細かい。体の各パーツが独立して動く。昔は「できたらすごい」とされていた動きが、今は基礎になっていた。

 十七年という時間が、そういう形をしていた。

 英二は壁に背中を預けて、腕を組んだ。

 圧倒された、というより——測量した。今の自分と、フロアの中心との距離を。営業部長として十七年磨いてきた、現実を直視する目で。

遠い。

でも、ゼロじゃない。


 一時間ほど見ていると、サイファーの輪が少し移動した。

 新しく入ってきた数人が、壁際に集まってストレッチを始めた。英二の近くだった。

 その中の一人が、英二を見た。

 三十代半ば、短髪、耳にピアス。見覚えがある顔だった。向こうも同じ顔をしていた。

「……坂本さん?」

 英二は少し考えた。

「橘か」

 男の顔がほころんだ。

「やっぱり!久しぶりっすよ、何年ぶりですか」

 橘雄介。早稲田のダンスサークルの後輩だった。英二が四年のとき、入ってきた一年生。細くて生意気で、でもセンスだけは飛び抜けていた。

「十五年は経つか」

「十六年です、俺が計算した」橘が笑った。「坂本さん、今日なんで?まさか」

「見学」

「出ないんですか」

「まだそのレベルじゃない」

 橘が英二を見た。値踏みする目だったが、KENJIの目とは種類が違った。懐かしさと、何か別のものが混じっていた。

「今も踊ってるんですか、坂本さん」

「最近また始めた」

「マジですか」橘の目が変わった。「仕事は?」

「やめた」

「え」

「いろいろあって」

 橘がしばらく黙った。それから「俺、今スタジオやってるんですよ」と言った。

「知らなかった」

「三年前に独立して。中目黒に小さいやつ」橘は壁に寄りかかった。「正直、ギリギリですけどね。でも続けてます」

「そうか」

「坂本さんが続けてたら」橘は言いかけて、止めた。

「続けてたら?」

「いや」橘は首を振った。「たらればの話しても仕方ないんで」

 英二は「そうだな」と言った。

 二人でしばらく、フロアを見た。

 サイファーが盛り上がっていた。若い男が中心に入って、低いところから跳ね上がるような動きをした。歓声が上がった。

「坂本さん」と橘が言った。

「なんだ」

「バトル、出るつもりあるんですか。本気で」

「ある」

「いつ頃」

「一年以内に予選を通過したい」

 橘が少し笑った。

「KENJIさんに習ってるんですよね、さっき聞こえてた」

「知ってるのか」

「知ってますよ、シーン狭いんで」橘はフロアに目を戻した。「KENJIさんが見てる人間を、俺も見てみたくなった」

「何が言いたい」

「うちのスタジオ、火曜の夜が空いてます」橘は英二を見た。「自主練で使っていいですよ、タダで。その代わり」

「その代わり?」

「たまに俺と踊ってください。坂本さんがどこまで戻るか、見ていたい」

 英二は橘を見た。

 サークルにいた頃、この後輩はいつもそういう目をしていた。損得じゃなくて、ダンスそのものへの純粋な欲みたいなものが、目の奥にあった。十六年経っても、それは変わっていなかった。

「わかった」と英二は言った。「迷惑かけるかもしれないが」

「迷惑じゃないから言ってます」

 橘が名刺を出した。「橘雄介」「YUSUKE DANCE STUDIO」、中目黒の住所。

 英二は受け取って、財布に入れた。


 帰りの電車の中、英二はKENJIにメッセージを送った。

見学してきました。橘雄介に会いました。

 すぐに返ってきた。

知ってます。声かけると思ってました。

 英二は少し笑った。

なんで言わなかったんですか。

自分で会いに行く人間かどうか、見たかったので。

 英二はスマートフォンを膝に置いた。

 窓の外に夜の街が流れていた。渋谷から三軒茶屋、三軒茶屋から駒沢——家に近づくたびに、街の音が遠くなった。

 フロアの中心まで、遠かった。

 でも今夜、少しだけ道ができた気がした。


 家に帰ると、リビングの電気がついていた。

 麻衣子がソファで寝落ちしていた。テレビがついたまま、膝の上に家計簿が開いていた。

 英二はテレビを消した。

 家計簿がちらりと目に入った。見ようとしたわけじゃなかったが、数字が飛び込んできた。麻衣子の字で、几帳面に並んだ数字たち。収入の欄が、先月より一行増えていた。パートのシフトを増やしたらしかった。

 英二は家計簿から目を離した。

 毛布を持ってきて、麻衣子にかけた。

 麻衣子が薄く目を開けた。

「……おかえり」

「ただいま。起こしてごめん」

「何時?」

「十一時過ぎ」

「そう」麻衣子はまた目を閉じた。「どうだった」

「遠かった」と英二は言った。「でも、いい夜だった」

 麻衣子が何か言おうとして、やめた。そのまま寝息を立て始めた。

 英二はしばらく、眠っている妻を見ていた。

 パートのシフトを増やした妻が、家計簿を膝に寝落ちしていた。

 世迷言だとわかっている。それでも——この人に、いつかフロアの中心を見せたいと、英二は思った。

 根拠のない話だったが、今夜は少しだけ、根拠に近いものができた気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ