第7話「フロアの端で」
KENJIから言われたのは、一言だった。
「今週末、見学に行ってきてください」
「バトルですか」
「オープンイベントです。バトルあり、サイファーあり。出る必要はない。ただ見てくるだけでいい」
「見るだけで意味がありますか」
KENJIが英二を見た。
「今の自分がどこにいるか、わかります」
会場は渋谷の地下にあるクラブだった。
土曜の夜、二十一時。英二はエントランスで千五百円を払って中に入った。薄暗い照明、タバコと汗の混じった空気、壁を揺らす重低音——二十年以上前に何度も来た場所と、何かが同じだった。温度、というより、密度が。
フロアの中央が空いていた。サイファーだった。
六、七人が円を作って、一人ずつ中に入って踊る。ざっと見渡すと、二十代がほとんどだった。若い子に混じって三十代らしき男が一人いたが、それでも英二より十歳は若かった。
英二はフロアの端、壁際に立った。
見た。
うまかった。
それだけじゃなかった。速かった。音楽への反応が、英二の知っているダンスより一世代分、進化していた。ビートの解釈が細かい。体の各パーツが独立して動く。昔は「できたらすごい」とされていた動きが、今は基礎になっていた。
十七年という時間が、そういう形をしていた。
英二は壁に背中を預けて、腕を組んだ。
圧倒された、というより——測量した。今の自分と、フロアの中心との距離を。営業部長として十七年磨いてきた、現実を直視する目で。
遠い。
でも、ゼロじゃない。
一時間ほど見ていると、サイファーの輪が少し移動した。
新しく入ってきた数人が、壁際に集まってストレッチを始めた。英二の近くだった。
その中の一人が、英二を見た。
三十代半ば、短髪、耳にピアス。見覚えがある顔だった。向こうも同じ顔をしていた。
「……坂本さん?」
英二は少し考えた。
「橘か」
男の顔がほころんだ。
「やっぱり!久しぶりっすよ、何年ぶりですか」
橘雄介。早稲田のダンスサークルの後輩だった。英二が四年のとき、入ってきた一年生。細くて生意気で、でもセンスだけは飛び抜けていた。
「十五年は経つか」
「十六年です、俺が計算した」橘が笑った。「坂本さん、今日なんで?まさか」
「見学」
「出ないんですか」
「まだそのレベルじゃない」
橘が英二を見た。値踏みする目だったが、KENJIの目とは種類が違った。懐かしさと、何か別のものが混じっていた。
「今も踊ってるんですか、坂本さん」
「最近また始めた」
「マジですか」橘の目が変わった。「仕事は?」
「やめた」
「え」
「いろいろあって」
橘がしばらく黙った。それから「俺、今スタジオやってるんですよ」と言った。
「知らなかった」
「三年前に独立して。中目黒に小さいやつ」橘は壁に寄りかかった。「正直、ギリギリですけどね。でも続けてます」
「そうか」
「坂本さんが続けてたら」橘は言いかけて、止めた。
「続けてたら?」
「いや」橘は首を振った。「たらればの話しても仕方ないんで」
英二は「そうだな」と言った。
二人でしばらく、フロアを見た。
サイファーが盛り上がっていた。若い男が中心に入って、低いところから跳ね上がるような動きをした。歓声が上がった。
「坂本さん」と橘が言った。
「なんだ」
「バトル、出るつもりあるんですか。本気で」
「ある」
「いつ頃」
「一年以内に予選を通過したい」
橘が少し笑った。
「KENJIさんに習ってるんですよね、さっき聞こえてた」
「知ってるのか」
「知ってますよ、シーン狭いんで」橘はフロアに目を戻した。「KENJIさんが見てる人間を、俺も見てみたくなった」
「何が言いたい」
「うちのスタジオ、火曜の夜が空いてます」橘は英二を見た。「自主練で使っていいですよ、タダで。その代わり」
「その代わり?」
「たまに俺と踊ってください。坂本さんがどこまで戻るか、見ていたい」
英二は橘を見た。
サークルにいた頃、この後輩はいつもそういう目をしていた。損得じゃなくて、ダンスそのものへの純粋な欲みたいなものが、目の奥にあった。十六年経っても、それは変わっていなかった。
「わかった」と英二は言った。「迷惑かけるかもしれないが」
「迷惑じゃないから言ってます」
橘が名刺を出した。「橘雄介」「YUSUKE DANCE STUDIO」、中目黒の住所。
英二は受け取って、財布に入れた。
帰りの電車の中、英二はKENJIにメッセージを送った。
見学してきました。橘雄介に会いました。
すぐに返ってきた。
知ってます。声かけると思ってました。
英二は少し笑った。
なんで言わなかったんですか。
自分で会いに行く人間かどうか、見たかったので。
英二はスマートフォンを膝に置いた。
窓の外に夜の街が流れていた。渋谷から三軒茶屋、三軒茶屋から駒沢——家に近づくたびに、街の音が遠くなった。
フロアの中心まで、遠かった。
でも今夜、少しだけ道ができた気がした。
家に帰ると、リビングの電気がついていた。
麻衣子がソファで寝落ちしていた。テレビがついたまま、膝の上に家計簿が開いていた。
英二はテレビを消した。
家計簿がちらりと目に入った。見ようとしたわけじゃなかったが、数字が飛び込んできた。麻衣子の字で、几帳面に並んだ数字たち。収入の欄が、先月より一行増えていた。パートのシフトを増やしたらしかった。
英二は家計簿から目を離した。
毛布を持ってきて、麻衣子にかけた。
麻衣子が薄く目を開けた。
「……おかえり」
「ただいま。起こしてごめん」
「何時?」
「十一時過ぎ」
「そう」麻衣子はまた目を閉じた。「どうだった」
「遠かった」と英二は言った。「でも、いい夜だった」
麻衣子が何か言おうとして、やめた。そのまま寝息を立て始めた。
英二はしばらく、眠っている妻を見ていた。
パートのシフトを増やした妻が、家計簿を膝に寝落ちしていた。
世迷言だとわかっている。それでも——この人に、いつかフロアの中心を見せたいと、英二は思った。
根拠のない話だったが、今夜は少しだけ、根拠に近いものができた気がした。




