第5話「結衣の秘密
結衣がやらかしたのは、木曜日の昼休みだった。
きっかけは些細なことだった。クラスメートの美咲がスマートフォンで動画を見ていて、「これ知ってる?」と画面を向けてきた。ヒップホップのバトル動画だった。外国人のダンサーが床を制圧するやつで、美咲は「かっこよくない?最近ハマってて」と言った。
結衣は「知ってる」と答えた。
「好きなの?」
「まあ」
「渋いじゃん」と美咲が笑った。「ダンス系の動画よく見るの?」
結衣は少し迷った。
迷ったのがよくなかった。
「……うちのお父さんが昔やってたから」
「え、ダンス?」
「ヒップホップ」
「うそ、見たい」
「やめとき」と結衣は言いかけて、美咲がもう「見せて見せて」と寄ってきていた。
結衣はスマートフォンを出した。YouTubeを開いた。父のチャンネルはまだ生きていた。十七年前の動画が、再生数三千回のまま眠っていた。
再生ボタンを押した。
二人で画面を見た。
二十八歳の坂本英二が、新宿のクラブのフロアで踊っていた。今より細くて、髪が長くて、スウェットのフードを被っていた。動きが——今の父とは別人みたいに、なめらかだった。
「……え」と美咲が言った。「これ本当にお父さん?」
「うん」
「めちゃくちゃうまくない?」
「昔の話だけど」
「いや待って」美咲が前のめりになった。「これ今もやってるの?」
「……最近また始めた」
「なんで?」
結衣は少し黙った。
「会社やめたから」
美咲が「あ」という顔をした。空気が読める子だった。それ以上聞かなかった。
二人でしばらく動画を見た。
「かっこいいじゃん、普通に」と美咲は言った。「結衣んちのお父さん」
結衣は何も言わなかった。でも悪い気はしなかった。
問題はその翌日だった。
廊下で同じクラスの男子、拓海に呼び止められた。拓海は美咲の隣の席で、昼休みを近くで過ごしていた男子だった。
「なあ、昨日の動画俺も見せてもらったんだけど」
結衣の足が止まった。
「美咲が見せたの?」
「ちょっとだけ。お父さんだろ、あの人」
「……そう」
「すごくない?なんで会社員やってたの」
「それは私が聞きたい」
拓海が笑った。「今も踊れんの?」
「練習してる」
「マジか。見てみたいな」拓海はあっけらかんと言った。「文化祭とかで踊ってくれないの」
結衣は「そんなわけない」と言って、歩き出した。
でも胸の中で、何かがざわついた。
怒りじゃなかった。恥ずかしさでもなかった。
うまく名前のつけられない感情が、肋骨のあたりをゆっくりとかき回した。
その夜、英二がKENJIのスタジオから帰ってきた。
汗くさかった。いい意味で、と結衣は思った。休職中の父はずっと部屋くさかった。汗くさいほうが、まだよかった。
「お父さん」
「ん」
「YouTubeのチャンネル、まだ生きてるよ」
英二が動きを止めた。
「見たの」
「友達と」
英二がわずかに表情を変えた。恥ずかしいのか、嬉しいのか、結衣には判断できなかった。
「なんて言ってた」
「かっこいいって」
英二が「そうか」と言った。それだけだった。
結衣は続けた。
「ねえ、今もあのくらい踊れるの」
「今は全然」
「でも練習したらできるの」
英二はしばらく黙った。タオルで首の汗を拭いて、結衣を見た。
「できるかどうかより」と英二は言った。「やるかどうかだと思ってる」
結衣は何も言わなかった。
英二が風呂場に向かいながら「動画、消したほうがよかったか?」と振り返った。
「消さないで」と結衣は言った。
思ったより早く出てきた言葉だった。
英二が少し笑って、風呂場に消えた。
結衣は自分の部屋に戻って、布団に寝転んだ。
スマートフォンでもう一度、父の動画を見た。イヤホンで、一人で。
二十八歳の父が、フロアの真ん中で止まった。一瞬の静止。それから弾けるように動き出した。観客が沸く音が、小さなイヤホン越しに聞こえた。
結衣はその「沸いた瞬間」を、三回繰り返して見た。
なんで会社員やってたの、という拓海の言葉が頭の中で繰り返された。
結衣にも、わからなかった。
ただ一つだけわかったのは——あの動画の父と、最近汗くさくなった父は、どこか同じ顔をしているということだった。
イヤホンを外して、電気を消した。
暗い天井に向かって、結衣は小さく呟いた。
「……ちゃんとやれよ」
誰にも聞こえない声で。




