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お父さんヒップホップで生きていくことにしたんだ  作者: はまゆう


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5/21

第5話「結衣の秘密

 結衣がやらかしたのは、木曜日の昼休みだった。


 きっかけは些細なことだった。クラスメートの美咲がスマートフォンで動画を見ていて、「これ知ってる?」と画面を向けてきた。ヒップホップのバトル動画だった。外国人のダンサーが床を制圧するやつで、美咲は「かっこよくない?最近ハマってて」と言った。


 結衣は「知ってる」と答えた。


「好きなの?」


「まあ」


「渋いじゃん」と美咲が笑った。「ダンス系の動画よく見るの?」


 結衣は少し迷った。


 迷ったのがよくなかった。


「……うちのお父さんが昔やってたから」


「え、ダンス?」


「ヒップホップ」


「うそ、見たい」


「やめとき」と結衣は言いかけて、美咲がもう「見せて見せて」と寄ってきていた。


 結衣はスマートフォンを出した。YouTubeを開いた。父のチャンネルはまだ生きていた。十七年前の動画が、再生数三千回のまま眠っていた。


 再生ボタンを押した。


 二人で画面を見た。


 二十八歳の坂本英二が、新宿のクラブのフロアで踊っていた。今より細くて、髪が長くて、スウェットのフードを被っていた。動きが——今の父とは別人みたいに、なめらかだった。


「……え」と美咲が言った。「これ本当にお父さん?」


「うん」


「めちゃくちゃうまくない?」


「昔の話だけど」


「いや待って」美咲が前のめりになった。「これ今もやってるの?」


「……最近また始めた」


「なんで?」


 結衣は少し黙った。


「会社やめたから」


 美咲が「あ」という顔をした。空気が読める子だった。それ以上聞かなかった。


 二人でしばらく動画を見た。


「かっこいいじゃん、普通に」と美咲は言った。「結衣んちのお父さん」


 結衣は何も言わなかった。でも悪い気はしなかった。


 問題はその翌日だった。


 廊下で同じクラスの男子、拓海に呼び止められた。拓海は美咲の隣の席で、昼休みを近くで過ごしていた男子だった。


「なあ、昨日の動画俺も見せてもらったんだけど」


 結衣の足が止まった。


「美咲が見せたの?」


「ちょっとだけ。お父さんだろ、あの人」


「……そう」


「すごくない?なんで会社員やってたの」


「それは私が聞きたい」


 拓海が笑った。「今も踊れんの?」


「練習してる」


「マジか。見てみたいな」拓海はあっけらかんと言った。「文化祭とかで踊ってくれないの」


 結衣は「そんなわけない」と言って、歩き出した。


 でも胸の中で、何かがざわついた。


 怒りじゃなかった。恥ずかしさでもなかった。


 うまく名前のつけられない感情が、肋骨のあたりをゆっくりとかき回した。


 その夜、英二がKENJIのスタジオから帰ってきた。


 汗くさかった。いい意味で、と結衣は思った。休職中の父はずっと部屋くさかった。汗くさいほうが、まだよかった。


「お父さん」


「ん」


「YouTubeのチャンネル、まだ生きてるよ」


 英二が動きを止めた。


「見たの」


「友達と」


 英二がわずかに表情を変えた。恥ずかしいのか、嬉しいのか、結衣には判断できなかった。


「なんて言ってた」


「かっこいいって」


 英二が「そうか」と言った。それだけだった。


 結衣は続けた。


「ねえ、今もあのくらい踊れるの」


「今は全然」


「でも練習したらできるの」


 英二はしばらく黙った。タオルで首の汗を拭いて、結衣を見た。


「できるかどうかより」と英二は言った。「やるかどうかだと思ってる」


 結衣は何も言わなかった。


 英二が風呂場に向かいながら「動画、消したほうがよかったか?」と振り返った。


「消さないで」と結衣は言った。


 思ったより早く出てきた言葉だった。


 英二が少し笑って、風呂場に消えた。


 結衣は自分の部屋に戻って、布団に寝転んだ。


 スマートフォンでもう一度、父の動画を見た。イヤホンで、一人で。


 二十八歳の父が、フロアの真ん中で止まった。一瞬の静止。それから弾けるように動き出した。観客が沸く音が、小さなイヤホン越しに聞こえた。


 結衣はその「沸いた瞬間」を、三回繰り返して見た。


 なんで会社員やってたの、という拓海の言葉が頭の中で繰り返された。


 結衣にも、わからなかった。


 ただ一つだけわかったのは——あの動画の父と、最近汗くさくなった父は、どこか同じ顔をしているということだった。


 イヤホンを外して、電気を消した。


 暗い天井に向かって、結衣は小さく呟いた。


「……ちゃんとやれよ」


 誰にも聞こえない声で。

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