第29話 正規雇用
五月の第二週、豊川に呼ばれた。
「坂本さん、ちょっと話があります」
施術の合間、豊川が珍しく真面目な顔をしていた。
「経理の人と話したんですけど」豊川は言った。「坂本さんの勤務時間、もう社員並みなんですよね。週五フルタイムだから」
「そうかもしれません」
「だから」豊川は言った。「正規雇用にしたいけど、どうでしょう。社会保険つけて、退職金積立も始めて、有給も年五日つける。夏休みと年末年始休みは別にあります。」
英二は少し驚いた。
「そこまでしていただいて、いいんですか」
「勤務時間で社会保険をつけるのはパートやバイトでも同じなんだけど、それなら正規雇用の方がご家族も安心でしょう。」
豊川はニコニコしながら言った。
「受付もヒアリングも、もうほとんど任せてるし」
「ありがとうございます」
「有給、五日ですけど」豊川は言った。「ロサンゼルス、土日挟めば九日行けますよね」
英二は指を折った。土曜、日曜、有給五日、また土曜、日曜——確かに九日になった。
「そうなります」
「使ってください」豊川はあっさり言った。「そのための有給です」
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その夜、麻衣子に話した。
「正規雇用にしてもらえることになりました。社会保険と退職金積立も」
麻衣子が箸を止めた。
「正社員ってこと?」
「そうなります」
「証券会社辞めてから、初めて聞く言葉だね」麻衣子は少し笑った。「社会保険」
「ありがたい話です」
「豊川さん、いい人だね、本当に」麻衣子は言った。「お礼、ちゃんとしてる?」
「言葉では」
「今度何か持っていって」麻衣子は言った。「お菓子でもいいから」
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介護の仕事にも慣れてきた。
最初は土曜の夜勤明けが辛かった。でも三ヶ月やって、体のリズムがわかってきた。日曜の昼から数時間寝れば、夕方には回復する。整体院で習った体のケアも活きた。
五月の終わり、英二は手帳に月々の収入をまとめた。
整体院、正社員になって基本給に変わった。手取り約十八万。
介護、月四回で約十六万(税・保険料引き後)。
合計、月三十四万前後。ボーナスや細かい変動を含めれば、月によっては四十万近くになる。
証券会社の営業部長時代の収入と比べれば、微々たるものだった。三分の一分にも届かない。
でも英二は、その数字を見て、悪くないと思った。
家族四人が生活できる。ローンも払える。子供たちの学費も、ぎりぎり回せる。何より——好きなダンスに、毎日打ち込みながら。
営業部長のときは、数字は今の3倍以上あった。でも夜は眠れず、朝はスーツのボタンが留まらない日があった。
今は、疲れているが、眠れる。
どちらがいいかと聞かれたら、迷わなかった。
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六月まで、あと二週間になった。
英二はKENJIとの練習の中で、新しいことを試していた。
「音楽を変えてみたい」と英二はKENJIに言った。
「どう変えたいんですか」
「今まで激しいファンクミュージックでポッピングをやってきました。でも——年齢に合った踊り方を考えたとき、あの激しさを自分の武器にするのは無理があると気づいて」
「代わりに何を」
「メローな曲で、ウェーブ中心のスタイルを作ってみたいです」
KENJIが少し考えた。
「具体的には」
「笠原瑠斗さんのような曲です」英二は言った。「テンポが落ち着いていて、音の隙間が広い。そこに波を乗せると、深さが出しやすいと感じます」
KENJIがフロアに出た。
「やってみてください」
英二はスマートフォンで曲をかけた。ゆったりとしたビート、メロディアスな音の重なり。
英二は膝を落とした。
いつものアップテンポの曲とは、体の反応が違った。急ぐ必要がなかった。音の隙間に、波をゆっくり通せた。
鎖骨から指先まで、絹糸のように。
止まる瞬間、彫刻のように。
三分間、ゆったりとした曲の中で踊り続けた。
止めたとき、KENJIがしばらく黙っていた。
「これです」とKENJIは言った。
「これ、というのは」
「坂本さんのスタイルです」KENJIは言った。「速さで戦うんじゃなく、この深さで戦う。今までで一番、坂本さんらしい」
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その夜、英二はインスタに動画を上げた。
初めて、メローな曲に合わせたポッピングの動画だった。激しいファンクではなく、静かで、隙間の多い音楽。その中で、英二はゆっくりと波を通した。
キャプションを書いた。
*今まで激しい曲でポッピングをやってきましたが、年齢に合わせて自分のスタイルを見直しています。速さより、深さ。四十五歳の、今のところの答えです。*
投稿した。
翌朝、コメントが増えていた。
*これ、すごく好きです。今までと違う魅力がある。*
*年齢に合わせてスタイルを変えるの、勇気いることだと思う。かっこいい。*
*LAのダンサーです。この曲との相性、すごくいい。*
英二はコメントを読んで、少し笑った。
最後のコメントに、英二は返信した。
*Thank you. Heading to LA next month.*
(ありがとう。来月ロスに行きます)
すぐに返ってきた。
*Really? Let's connect when you're here.*
(ほんと?来たら会いましょう)
英二はスマートフォンを見つめた。
ロサンゼルスに行く前から、繋がりができ始めていた。
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その週の日曜、介護の夜勤明けで昼まで寝て、夕方に起きた。
リビングで麻衣子が家計簿を見ていた。
「今月の収入、見た?」麻衣子が言った。
「うん」
「証券会社時代と比べたら、半分もないね」
「そうだね」
「でも」
麻衣子は家計簿を閉じた。
「貯金を切り崩さないで、なんとかやっていける金額だね」
英二は麻衣子を見た。
「足りる?」
「足りてる」
麻衣子は言った。
「英二さんが毎日眠れてるし、疲れてるけど、いい顔してる」
麻衣子は続けた。
「営業部長のときは、お金はあったけど、英二さんがいなかった」
「いなかった、というのは」
「体はここにいたけど、心はどこか別のところにあった感じ」麻衣子は言った。「今は、疲れてるけど、ちゃんとここにいる」
英二は答えなかった。
麻衣子が立ち上がりながら言った。
「介護の仕事、慣れた?」
「慣れた。日曜の昼から寝れば、夕方には回復する」
「よかった」麻衣子は言った。
「ロサンゼルス、あと二週間だね」
「二週間です」
「楽しみにしてる」
英二は頷いた。
窓の外に、六月に向かう初夏の空気が漂っていた。




