第28話 介護のバイト
三月の第二週、月曜日の朝だった。
豊川整体院に出勤すると、豊川がいつものようにニコニコしながら掃除をしていた。
「坂本さん、昨日どうでしたか」
「何がですか」
「介護の件、考えてみましたか」
先週のことだった。
豊川の患者に、介護施設で働いている女性がいた。腰を痛めて定期的に来院していた。施術の後、豊川と話していて「うちの施設、土日の早番から夜勤ができる人を探してるんですよね」という話になった。豊川が英二を呼んで「この人、どうですか」と言った。
女性は英二を見て「体格もいいし、すぐ雇ってもらえると思いますよ」と言った。
英二はその場で「考えさせてください」と答えていた。
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「考えました」と英二は言った。「やらせてもらえますか」
「決めたんですね」豊川はニコニコしたまま言った。「早かった」
「計算したら、願ってもない条件だったので」
「どんな計算ですか」
「土日の介護の収入は、全部ロサンゼルスの旅費に充てます。整体院とアシスタントの収入は、そのまま家族の生活費に渡す。家族の生活を一円も削らずに、自分で旅費を稼ぐ計算です」
豊川がしばらく英二を見た。
「堅い人だな」と豊川は言った。笑いながら。
「そうですか」
「普通は全部まとめて考えるけど、坂本さんは最初から分けて考えてる」豊川は言った。「奥さんへの気持ちですよね、それ」
英二は答えなかった。
豊川は患者の女性に連絡を取った。その日の夕方には施設の担当者から英二に電話が来た。メールに履歴書を添付して、オンライン面談をして、翌週から来てほしいと言われた。
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その夜、麻衣子に話した。
蓮が風呂に入っていて、結衣が部屋にいる時間だった。
「土日に介護の仕事を始めることにしたよ」
麻衣子が振り返った。
「介護?」
「豊川さんの患者さんの勤務先だ。。土曜の朝七時から入って、そのまま夜勤して、日曜の朝九時まで」
「それって——」麻衣子は少し計算した。「二十六時間?」
「休憩が四時間あるよ。昼に一時間、夕食に一時間、夜勤中に仮眠が二時間。実働二十二時間」
「体は大丈夫なの」
「やってみないとわからないけど」英二は言った。「豊川さんのところで体のケアをしてるので、大丈夫だと思う」
麻衣子がしばらく黙った。
「なんでまた介護」
「時給が良くて」英二は言った。「時給千五百円に都の介護賃金助成がついて実質二千円、さらに夜勤手当がついて、一回で五万円になる。月四回で二十万だ。」
「二十万」麻衣子が繰り返した。
「うん」
英二は続けた。
「その二十万を、まるごとロサンゼルスの旅費に充てようと思ってね。整体院とアシスタントの収入は、今まで通り家の生活費に渡したい。家族の生活は、一円も変わらない計算だ。」
麻衣子が黙った。
少し長い沈黙だった。
「無理しないで」麻衣子は言った。
「無理じゃないよ。日曜日帰ったらずっと寝てるだろうけど。」
「土日に二十六時間働いて、平日は整体院で、夜は練習して——無理じゃないって言える?」
「言えるよ。」英二は言った。「三ヶ月だけだよ。ロサンゼルスの旅費が貯まったら、介護は辞めつ予定だ」
麻衣子がまた黙った。
英二は続けた。
「麻衣子さんにこれ以上負担をかけたくない。それでなくても営業部長をしてた時と比べたら収入が大幅に減っているのに、家族の生活を削ってまでロサンゼルスに行きたくない。自分で稼いだ分だけで行きたいんだ」
麻衣子が英二を見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから小さく息を吐いた。
「わかった」と麻衣子は言った。「でも体だけは気をつけて」
「気をつけるよ」
「豊川さんに、週一でちゃんと診てもらって」
「お願いしてみる」
「あと」麻衣子は言った。「夜勤明けは必ず充分に寝てから練習して。無理して練習しない」
「わかった」
麻衣子がキッチンに戻りながら言った。
「英二さんって、ほんとに堅い人だね」
「そうかな」
「悪い意味じゃなくて」麻衣子は言った。「そういうとこが、好きだけど」
英二は答えなかった。
麻衣子が「好きだけど」と言った。
さらっと言った。でもはっきり届いた。
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英二は一人になってから、頭の中で計算した。
介護の収入、月二十万。三ヶ月で六十万。
ロサンゼルスの旅費——航空券が九万二千円、現地費用が豊川さんの知り合いの家に泊めてもらえれば食費と交通費だけで五万前後。合計十五万もあれば足りる。でも円安だから予想外に出費があるかもしれない。
六十万から十五万を引いた四十五万から40万が、余る。
まだ麻衣子には言わなかった。言うつもりもなかった。でも——ロサンゼルスから帰ってきたら、渡そうと決めていた。
何も言わずに、そっと渡す。
それだけでいいと思っていた。
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翌週の土曜日、英二は初めて介護施設に出勤した。
朝七時、施設の玄関を入ると、夜勤明けのスタッフが引き継ぎの準備をしていた。担当者に案内されて、まず早番の業務を覚えた。
入居者の朝食の配膳、食事介助、服薬確認、口腔ケアの補助——一つひとつ教わりながらやった。整体院で体の使い方を学んでいたから、体位変換や移乗の動きは飲み込みが早かった。
「介護経験ありますか」と先輩スタッフに聞かれた。
「ないですが、整体院で働いていて、体の使い方は少し知っています」
「それで十分です、むしろ助かります」と言われた。
昼休みは空き部屋1つをもらって1人で過ごせた。食事をさっと済ませて、残りの時間は横になった。眠れなかったが、体を休めた。
午後の業務、入浴の介助、夕食の介助、——デイサービスの人たちを家まで車で送り、夕食休憩1時間。夜になると施設が静かになった。
夜勤に入ると、巡回と記録が主な仕事だった。二時間の仮眠時間、英二は少し眠った。
翌朝九時、日勤のスタッフに引き継いで施設を出た。
外の空気が、冷たかった。
疲れていた。でも——悪くない疲れだった。整体院の疲れとも、ダンスの疲れとも違う。誰かの役に立った、という種類の疲れだった。
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夜勤明けの日曜、英二は家に帰って六時間眠った。
麻衣子との約束だった。必ず寝てから練習する。
夕方、目が覚めた。
体の確認をした。腰と膝に少し張りがあった。整体院で豊川に診てもらう必要があると思った。
夜、短めに練習した。波を通した。軸を伸ばした。疲れた体でやると、力が抜けて、かえって滑らかになることがあった。今夜がそれだった。
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翌日の月曜、豊川整体院に出勤すると、豊川が「どうでしたか、夜勤」と聞いた。
「思ったよりきつくなかったです」
「体はどうですか」
「車椅子とベッドの移乗が大変なくらいで、あとはきつくなかったです。でも腰と膝に張りがあります」
「診ますよ、昼休みに」豊川は言った。「三ヶ月だから、月一じゃなくて週一で診たほうがいい」
「お願いします」
「タダでいいです。施術しながら教えるので、勉強がてら受けてください。」
豊川はニコニコしながら言った。
「俺が行けなかったロサンゼルスに行ってもらうんだから、体だけは万全にしてもらわないと」
英二は豊川を見た。
「豊川さん」
「なんですか」
「なぜそこまでしてくれるんですか」
豊川が少し考えた。
「俺がジャニーズジュニアにいて、舞台で踊ってたころ」
豊川は言った。
「こういう大人が周りにいたら、俺は違う選択をしてたかもしれないと思って」
「違う選択、というのは」
「膝を壊したとき、諦めなかったかもしれない」
豊川はニコニコしたまま言った。
「でもそのときは誰もいなかった。だから諦めた」
豊川は英二を見た。
「坂本さんの周りには、KENJIさんも橘くんもKAITOさんもゴリさんも、だーよしさんも、ブガルー・サムも——みんないる。その中に俺も入れてもらえてる気がして、それが嬉しいんです」
英二は黙って聞いた。
「だから」
豊川は言った。
「坂本さんがロサンゼルスで踊ってきてくれたら、俺も一緒に行った気がする。勝手にそう思ってます」
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三月が終わった。
介護の夜勤、月四回。一回五万円、月二十万。
四月、五月と続ければ、六月のロサンゼルスまでに六十万が旅費として貯まる計算だった。
航空券の九万二千円はすでに払ってある。現地費用は豊川さんの知り合いの家に泊まれれば十五万で足りる。
残り四十五万ないし四十万は、麻衣子に渡す。
まだ言わない。言わずに、帰ってきてから渡す。
英二は手帳の数字を確認して、閉じた。
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四月の第一週、KENJIに報告した。
「介護の夜勤を始めました。土日に」
KENJIが少し黙った。
「練習時間は」
「夜勤明けは必ず仮眠してから練習します。時間は短くなりますが、質は落とさない」
「体は」
「豊川さんに週一で診てもらいます」
KENJIがしばらく英二を見た。
「なぜそこまでするんですか」
「家族の生活を削りたくないので」英二は言った。「自分で稼いだ分だけで行きたい」
KENJIが頷いた。
「わかりました」KENJIは言った。「ただし」
「ただし?」
「体を壊したらロサンゼルスに行けない。それだけ覚えておいてください」
「覚えておきます」
KENJIが「では練習しましょう」と言った。
英二はフロアに出た。
疲れた体だったが、波を通した。
疲れているときの波は、力が抜けて、滑らかだった。
KENJIがそれを見て、小さく頷いた。
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五月の終わり、介護三ヶ月目が終わった。
手帳を開いた。
介護収入、三ヶ月合計——六十万円。税引き後、五十万前後。
ロサンゼルスの費用、十五万以内。
残り、三十五万前後。
英二は数字を確認して、手帳を閉じた。
ロサンゼルスから帰ってきたら、麻衣子に渡す。
お金のことで少しでも苦労を減らしたい、お米を買うどころか、時々はお寿司の出前を頼んだりもさせてやりたい。そう思った。




