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お父さんヒップホップで生きていくことにしたんだ  作者: はまゆう


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第27話 ブガルー・サムからのメッセージ

 三月になった。


 ブガルー・サムからKAITO経由でメッセージが来たのは、第一週の木曜日だった。


*六月、ロサンゼルスでワークショップをやる。坂本に来てほしい。*


 KAITOがそのまま転送してきた。


*どうしますか。*


 英二はメッセージを見て、しばらくスマートフォンを持ったまま立っていた。


 来い、と言われた。六月。ロサンゼルス。


 次に思ったのは、お金のことだった。


---


 その夜、英二は計算した。


 航空券、ロサンゼルス往復。調べると、エコノミーでも安くて十二万、時期によっては十五万を超えた。


 今の円安では、それだけじゃなかった。


 現地の滞在費。ホテルが一泊二万円前後。一週間いるとすれば十四万。食費、交通費を加えると、滞在だけで二十万近くなる。


 合計、三十五万前後。


 英二は画面を閉じて、収入を計算し直した。


 整体院の収入は、時給千五百円、一日七時間、週五で計算すると、月二十二日勤務で総支給が二十三万を超えた。所得税と健康保険料が引かれて、手取りは十八万前後になる。インストラクターのアシスタントと合わせると、月二十万近くになっていた。


 一年前、家計簿を見て青くなっていた頃とは、別の話になっていた。


 ただ円安が、問題だった。


 三ヶ月で六十万貯まる計算だが、生活費を引くと実際に手元に残る額は限られる。滞在費をどこまで抑えられるかが、鍵だった。


 英二は手帳に数字を並べた。


 難しいが、不可能じゃない。


---


 翌朝、麻衣子に話した。


 朝食の後、蓮が学校に出て、結衣も出て、二人になった食卓で英二は言った。


「ブガルー・サムから、六月にロサンゼルスに来いと言われた」


 麻衣子がコーヒーカップを置いた。


「六月」


「そうです」


「お金は」


「計算しました」英二は手帳を開いた。「航空券と滞在費で、最低三十万はかかります。円安なので、もう少し見ておいたほうがいい」


 麻衣子が黙って手帳を見た。


「今の収入で、三ヶ月あれば出せるんじゃないの」麻衣子は言った。


「ギリギリですが——豊川さんがロサンゼルスに知り合いがいて、泊めてもらえるかもしれないと言ってくれていて。そうなれば滞在費がだいぶ変わります」


「じゃあ退職金には手をつけなくていいじゃない」麻衣子は言った。「自分で稼いだお金で行くんだね」


 英二は少し黙った。


「そうなります」


「それがいい」麻衣子は言った。「その方が、気持ちいいでしょ」


 英二は麻衣子を見た。


「断ることも考えてました。次の機会もあるかもしれないし」


「次の機会って」麻衣子は言った。「ブガルー・サムって、おいくつだっけ」


「七十代です」


「七十代の伝説の人が、次もあるとは限らないよね」


 英二は答えなかった。


 麻衣子がコーヒーを一口飲んだ。


「行ってきなよ」麻衣子は言った。


「でも」


「英二さん」麻衣子は言った。「私に相談してるの?それとも報告してるの?」


 英二は麻衣子を見た。


「相談です」


「じゃあ私の意見言う」麻衣子は言った。「行ってきなよ」


「でも——」


「英二さんが証券会社やめてから、私のパートのシフト増やして、英二さんも整体院で週五働いて——二人で一年かけて、少しずつ立て直してきた」麻衣子は言った。「その積み上げを、ここで使わないでどこで使うの」


 英二は黙った。


「ブガルー・サムに直接呼ばれるなんて、そうそうないことでしょ」麻衣子は続けた。「そういう機会にお金を使うのが、一番いい使い方じゃないの」


「麻衣子さん」


「ただし」麻衣子は人差し指を立てた。「豊川さんのロサンゼルスの知り合い、ちゃんとお願いしてみること。滞在費を抑えられるなら抑える。それが条件」


 英二は麻衣子を見た。


「……本当にいいんですか」


「よくはないよ」麻衣子は言った。あっさりと。「でもダメとも言えない」麻衣子はコーヒーカップを持ち上げた。「それに」


「それに?」


「英二さんがロサンゼルスで踊ってるとこ、想像したら——悪くない気がして」


 英二は答えられなかった。


 麻衣子が立ち上がって、食器を片付け始めた。


「豊川さんに今日相談してみて。あとKAITOさんに、安い航空券の調べ方聞いてみて。あの人、海外慣れてそうだから」


「聞いてみます」


 麻衣子が流しで食器を洗いながら、独り言みたいに言った。


「お米が買えるようになってから、って言ったけど」


「はい」


「ロサンゼルス行っても、買えるようにしといてね」


 英二は少し笑った。


「買えるようにします」


---


 その日の午後、豊川に話した。


 施術の合間に英二が話すと、豊川はニコニコしたまま聞いていた。


「ロサンゼルス、行くべきですよ」豊川は即答した。


「滞在費が問題で。ホテルだと円安もあって、かなりかかって」


「ロサンゼルスに知り合いがいます」豊川は言った。「ダンサーで。安いところ泊めてもらえるか聞いてみましょうか」


「そんなことまで」


「坂本さんがロサンゼルスに行くのは、俺も嬉しいから」豊川はニコニコしたまま言った。「俺が行けなかった場所に、坂本さんが行ってくれるみたいで」


 英二は豊川を見た。


 膝を壊して、ダンスをやめた男が、ニコニコしながらそう言った。


「ありがとうございます」英二は言った。


「お礼はロサンゼルスから帰ってきてから言ってください」豊川は言った。「お土産も忘れずに」


---


 KAITOに航空券を相談した。


「LCCで探せば、うまくいけば八万台もある」KAITOは言った。「ただ円安だから、今年は読みにくい。早めに買ったほうがいい」


「いつ頃買えばいいですか」


「来週中に買う」KAITOは言った。「迷ってる間に上がる」


「わかりました」


「あと」KAITOは言った。「豊川さんのロサンゼルスの知り合い、俺も知ってる人かもしれない。シーンは狭いから」KAITOは笑った。「なんとかなりますよ、たいてい」


 その夜、豊川からメッセージが来た。


*知り合いに聞きました。泊まっていいって。ソファになるけど大丈夫ですか。*


 英二はすぐ返した。


*大丈夫です。ありがとうございます。*


 ソファで十分だった。


 むしろ、ロサンゼルスのダンサーの家のソファのほうが、どんなホテルより価値があると思った。


---


 数字を計算し直した。


 航空券、LCCで九万前後。滞在費、豊川さんの知り合いの家に泊めてもらえれば、食費と交通費だけになる。一週間で五万あれば十分だろう。


 合計、十五万前後。


 三ヶ月、今の収入から少しずつ積み上げれば、退職金に手をつけなくていい。


 英二は手帳を閉じた。


 行ける。


 自分で稼いだお金で、行ける。


---


 翌週、英二はKAITOに言われた通り航空券を調べた。


 LCCで、六月の第二週、往復九万二千円のものが見つかった。


 英二はしばらく画面を見た。


 購入ボタンを押す前に、麻衣子を呼んだ。


「航空券、見つかりました。九万二千円です。豊川さんの知り合いの家に泊めてもらえることになったので、滞在費は食費と交通費だけで済みそうです」


 麻衣子が画面を見た。


「全部で十五万くらい?」


「そのくらいです」


「自分で稼いだお金で、賄えるね」


「賄えます」


「買っていいよ」麻衣子は言った。「早く押して、上がる前に」


 英二は購入ボタンを押した。


 確認メールが届いた。


 六月十日、成田発ロサンゼルス行き。


 英二はメールを見た。麻衣子も横から見た。


 二人でしばらく、画面を見ていた。


「行くんだね」と麻衣子は言った。


「行きます」


「気をつけてね」


「まだ三ヶ月あります」


「今から言っとく」麻衣子は言った。「心配性だから私」


 英二は麻衣子を見た。


 心配性、と麻衣子は言った。でも画面を見る横顔は、心配より別の何かに近かった。


「ありがとう」と英二は言った。


「何が」


「行ってきてほしい、と言ってくれたから」


 麻衣子が少し黙った。


「行かせてあげるんじゃなくて」麻衣子は言った。「行ってきてほしいから」


 それだけ言って、キッチンに戻った。


 英二は確認メールをもう一度見た。


 六月十日。ロサンゼルス。


 ブガルー・サムが待っている場所。


 自分で稼いだお金で買った航空券で、行く。


 三ヶ月、やることがあった。


---


 翌朝、結衣が朝食を食べながらスマートフォンを見ていた。


 英二が「航空券を買った」と言うと、結衣が顔を上げた。


「ロサンゼルス?」


「そう」


「マジで行くの」


「行く」


 結衣がしばらく英二を見た。


「インスタ、ちゃんと更新して向こうから発信して」結衣は言った。「ロサンゼルスからの投稿、絶対バズるから」


「バズるかどうかはわからないが」


「バズる」結衣は断言した。「四十五歳の元営業部長がロサンゼルスでポッピングしてたら、バズる」


 蓮が寝ぼけた顔で来て「お父さんどこ行くの」と聞いた。


「ロサンゼルス」


「どこそれ」


「アメリカ」


「アメリカ!」蓮の目が覚めた。「お土産買ってきて!」


「何がいい」


「NBAのやつ!」


「考えておく」


 麻衣子が「蓮、座って食べて」と言った。蓮が「はーい」と言った。


 いつもの朝だった。


 でも六月に、この家の父親はロサンゼルスに行く。


 それが今朝から、決まったことになった。


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