第26話「化学反応」
二月の第二週、英二はインスタと格闘していた。
自分で投稿すると決めてから一週間。最初の動画は結衣に「下手くそ」と言われた。でも「お父さんの言葉で話してるのがよかった」とも言われた。それを信じて、続けることにした。
問題は、何もわからないことだった。
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ある夜、英二は練習動画を撮ろうとした。
スマートフォンをどこに置けばいいかわからなかった。手で持って自撮りすると、カメラが揺れた。壁に立てかけたら、角度が悪くて足元しか映らなかった。
結衣に聞きに行った。
「スマートフォンをどう固定すればいいんだ」
結衣が部屋から出てきて、英二のスマートフォンを見た。
「三脚も何もないの?」
「ない」
「とりあえず」結衣は台所に行って、米びつを持ってきた。「これに立てかけて」
「米びつで」
「高さがちょうどいいから」
英二は米びつにスマートフォンを立てかけた。確かに、ちょうど腰くらいの高さになった。
「角度はこのくらい」結衣がスマートフォンを少し傾けた。「全身が入るように、もう少し後ろに下がって」
英二が下がった。
「そこ」
英二は踊った。三十秒ほど撮った。
再生してみると、映像が暗かった。
「暗い」と英二は言った。
「リビングの電気だけじゃ足りない」結衣は言った。「キッチンの電気もつけて、あと電気スタンドをこっちに向けて」
電気スタンドを持ってきた。麻衣子が「何やってるの」と顔を出した。
「ダンス動画を撮ってる」
「米びつで?」
「三脚がないから」
麻衣子が少し笑って、キッチンに戻った。
もう一回撮った。今度は明るかった。でも電気スタンドの光が直接当たって、顔が白く飛んでいた。
「眩しすぎる」と英二は言った。
「スタンドを壁に向けて、反射させて」結衣は言った。「間接照明にするの」
また撮った。
今度は悪くなかった。
「これでいいか」
「まあ」結衣は言った。「でも音楽どうするの。無音じゃ上げられないよ」
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音楽の問題が、次の壁だった。
練習のときは自分でスピーカーから音楽を流していた。でも動画に録音された音は、音割れしていた。
「どうやって音を後からつけるんだ」と英二は結衣に聞いた。
「インスタのリールなら、投稿するときに音楽をつけられる」
「どうやって」
結衣がスマートフォンを操作して見せた。投稿画面に進むと、音楽を選ぶ項目があった。
「ここで曲を選んで、動画に合わせてタイミングを調整する」
「タイミングを調整?」
「ダンスのここから音楽が始まってほしい、とか決めるの」
英二は結衣の手元を見た。
「それは難しいな」
「慣れればすぐ」結衣は言った。「でも問題があって」
「何が」
「著作権のある音楽は使えないものもある。ビジネスアカウントだと特に制限がある」結衣は言った。「だからダンサーの人たちはフリーの音楽使ったり、インスタの音楽ライブラリから選んだりしてる」
「フリーの音楽」
「著作権フリーの音楽を配布してるサイトがあって——」
「ちょっと待ってくれ、メモする」
英二は手帳を出した。
結衣が「手帳……」と言って、少し笑った。
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次の問題はキャプションだった。
動画を撮って、音楽をつけて、いざ投稿しようとすると、キャプションを書く欄があった。
英二は何を書けばいいかわからなかった。
練習の動画だった。キャプションに「練習しました」と書いた。
なんか違う気がした。消した。
「二月。整体院で働きながら、夜練習しています」と書いた。
なんか説明みたいだと思った。消した。
結衣に見せた。
「何書けばいいんだ」
結衣がしばらく考えた。
「お父さんが今日、練習してて思ったことは何?」
「波の質を上げようとしてて——大きく動くより、小さく深くを意識してた」
「それ書けばいいじゃん」
「そのまま?」
「そのまま」
英二は書いた。
*大きく動くより、小さく深く。今日の練習のテーマ。韓国の老人ポッパーの動画を見てから、目指す方向が変わった気がしてる。45歳、まだ研究中。*
結衣が読んだ。
「これでいい」
「短すぎないか」
「長いより短いほうがいい」結衣は言った。「ハッシュタグもつけて」
「ハッシュタグ」
「\#ポッピング \#ダンス \#45歳 \#ヒップホップ このくらい」
英二がつけた。
「投稿ボタン、押して」
英二が押した。
投稿された。
英二はしばらくスマートフォンを見ていた。
「これで合ってるのか」
「合ってる」結衣は部屋に戻りながら言った。「あとは寝て、明日いいねがついてるか確認して」
「いいねがつかなかったら」
「つかなくても続けるの」結衣は言った。振り返らずに。「そういうもんだから、最初は」
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翌朝、英二はスマートフォンを見た。
いいねが十七件ついていた。
コメントが二件あった。
*45歳でこの動きはすごい。*
*韓国の老人ポッパー、私も見ました。あの動画好きです。*
英二はコメントを読んで、少し笑った。
韓国の老人ポッパーで繋がる人間がいた。
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その週の火曜、橘のスタジオでKAITOが言った。
「Dリーグって知ってますか」
「名前は聞いたことがあります」
「プロダンサーのリーグ戦です」KAITOは言った。「オーディションがあって——先日、最終審査に残った人たちの話を聞いたんですが」
「どんな人たちが残るんですか」
「百五十人中六人の最終審査に残った人は、皆インスタのフォロワーが三十万人近かったそうです」
英二は少し黙った。
「技術だけじゃないんですね」
「技術は前提で」KAITOは言った。「すでに自分のファンを持っている人間が選ばれる。三十万人のフォロワーがいるということは、三十万人の観客を連れてこられるということだから」
「興行として成立するかどうか、ということですか」
「そうです」KAITOは言った。「プロの世界は、うまいだけじゃ食えない。うまくて、人を集められる人間が食える」
英二は黙って聞いた。
「もう一つ」KAITOは続けた。「オーディションで見られるのは、自分がいいものを出せるかどうかだけじゃないそうです」
「他に何を見るんですか」
「対戦相手や、チームのメンバーと、いい化学反応ができるかどうか」KAITOは言った。「バトルなら相手を引き出せるか。ユニットやチームなら、他のメンバーと混ざったときに何か新しいものが生まれるか」
英二はフロアを見た。
「化学反応、ですか」
「坂本さんは、それが得意だと思います」KAITOは言った。
「私が?」
「バトルを見てると、坂本さんは相手の動きを引き出すのがうまい」KAITOは言った。「DAIとのバトル、SHINとのバトル——相手が坂本さんと対戦して、いつもより良くなってる。それが化学反応です」
英二は意外だった。
「自分ではわかりませんでした」
「だから言ってます」KAITOは言った。「技術を上げながら、その強みを伸ばしてほしい」
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その夜、英二は橘と二人で残った。
サイファーの形で、交互に踊った。
橘が動いたとき、英二は橘の動きを受け取って返した。橘が重く来たとき、英二は軽く返した。橘が止まったとき、英二は動きで埋めた。
三十分やって、橘が言った。
「KAITOさんの言ってた意味、わかります」
「化学反応ですか」
「坂本さんと踊ると、なんか自分の動きが変わる」橘は言った。「引き出されてる感じがする」
「私は何もしてないですよ、ただ受けて返してるだけで」
「それが化学反応なんですよ」橘は言った。「受けて、返す。会話と同じで。坂本さんは人の話を聞ける人だから、ダンスでも聞ける」
英二は黙って聞いた。
「営業部長、十七年やってきたから、ですかね」
「それだと思います」橘は笑った。「無駄じゃなかったですよ、あの十七年」
麻衣子と同じことを言った。
英二は少し笑った。
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帰り道、英二はインスタを開いた。
今日の投稿に、新しいコメントがついていた。
英語だった。
*Your movement has real depth. Following from LA.*
英二はコメントを読んで、止まった。
LAから。
soukiの言葉が戻ってきた。*ヨーロッパの観客、絶対に刺さると思う。*
英語でコメントに返信しようとして、何を書けばいいかわからなかった。
少し考えて、書いた。
*Thank you. I'm 45, still learning every day.*
送った。
夜の道を歩きながら、英二は思った。
LAの誰かが、駒沢の整体師ダンサーの動画を見ている。
世界は、思ったより狭いのかもしれなかった。
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家に帰ると、結衣がリビングにいた。
「お父さん、インスタ見た?」
「見た。LAから英語のコメントが来てた」
結衣が目を丸くした。
「マジで?」
「マジで」
「なんて書いてあった」
「動きに深みがある、LAからフォローしました、と」
結衣がスマートフォンを操作した。コメントを確認した。
「本当だ」結衣は言った。「お父さん、返信した?」
「した。四十五歳、まだ学んでます、と」
結衣が少し黙った。
「それ、一番いい返信じゃん」
「そうか」
「そうだよ」結衣は言った。「かっこつけてないから」
英二は「そうか」と言った。
麻衣子が奥から「ご飯あるよ」と声をかけた。
英二はダイニングに向かいながら、スマートフォンをポケットに入れた。
LAから、フォローが来た。
アメリカは、思ったより近かった。




