第24話「年齢という武器」
一月、英二の朝は変わった。
八時に豊川整体院に着く。開院準備をして、九時から患者の受付をする。電気治療をセットして、豊川が施術している間に備品を確認する。昼休みに豊川からもみほぐしを習う。午後の部が終わったら帰る。夜、練習する。
それが英二の一日になった。
週三から始めて、十二月の終わりには週五になっていた。豊川に「覚えが早いから」と言われた。英二には、段取りを組む癖と、人の話を聞く癖が染みついていた。どちらも整体院では使えた。
収入が、安定し始めた。
麻衣子がスーパーから帰ってきたとき、鶏むね肉じゃなくて鶏もも肉が袋に入っていた。英二は何も言わなかった。麻衣子も何も言わなかった。でもそれだけで、十分だった。
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豊川に勧められて、解剖学の本を買った。
「ダンサーのための解剖学」という本と、「運動器の構造と機能」という少し専門的な本の二冊だった。
読み始めると、止まらなかった。
骨の構造、筋肉の走行、関節の可動域、軟骨の役割——体の中で何が起きているかが、言葉と図で整理されていた。営業部長として数字を読み込んできた目が、今度は体の設計図を読み込んでいた。
そして気づいた。
年齢によって、体は変わる。
二十代の軟骨と、四十代の軟骨は違う。関節の可動域も、筋肉の回復速度も、腱の弾力性も——すべてが、年齢とともに変化していた。
英二は本を閉じて、しばらく考えた。
当たり前の話だった。でも今まで、その当たり前を直視していなかった。
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豊川に話した。
昼休み、もみほぐしの練習をしながら英二は言った。
「解剖学の本を読んで、気づいたことがあって」
「なんですか」豊川はニコニコしながら聞いた。
「ティーンや二十代前半と同じ動きをしようとしたら、私は故障する」
「そうですね」豊川は即答した。「当たり前のことですが、気づかない人が多い」
「軟骨の厚みが違う。関節の遊びが違う。筋肉の回復速度が違う」英二は言った。「同じフロアに立っても、同じ体じゃない」
「そう」豊川は言った。「俺が膝を壊したのも、二十代の動きを無理に続けたからだと思ってる。若いころのクセを体に入れすぎて、それが抜けなかった」
英二は豊川を見た。
「じゃあ、年齢に合った踊り方があるはずで」
「あります」豊川は言った。「でもそれを研究してる人は少ない。みんな若い人の動きを目標にするから」
「それじゃいつまでも追いかけるだけで」
「追いつけない」豊川は言った。「でも年齢に合った動きを突き詰めたら、逆に若い人には出せないものになる」
英二は黙って聞いた。
「坂本さんの秘伝のタレ、それかもしれないですよ」豊川はニコニコしたまま言った。「年齢という武器」
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その夜、英二はインスタを見ていた。
フォローしているダンサーの投稿を流し見していると、一本の動画が目に止まった。
韓国の投稿だった。
白髪の老人が、二十代くらいの若い男と並んで踊っていた。キャプションを見ると、祖父と孫らしかった。
英二は再生した。
若い孫のポッピングは、速くて、エネルギーがあった。動きが大きくて、観ていて気持ちよかった。
でも老人のポッピングが始まったとき、英二は画面に顔を近づけた。
大きくは動かなかった。派手さもなかった。でもウェーブの滑らかさが、孫とまるで違った。波が体の中を、切れ目なく流れていた。鎖骨から指先まで、一本の絹糸みたいに。ヒットの止まり方が、彫刻だった。動きの一つひとつに、長年の積み上げが見えた。
孫が荒削りの原石なら、祖父は磨き抜かれた玉だった。
英二は動画を止めた。
もう一回、再生した。
今度は老人だけを見た。
速さじゃなかった。大きさじゃなかった。滑らかさと、精度と、体の中を通る波の質——それだけで、観ている人間を引き込んでいた。
三回見た。
英二はスマートフォンを置いて、天井を見た。
*これだ。*
と思った。
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翌朝、KENJIに連絡した。
*見せたい動画があります。次の練習のときに。*
KENJIからすぐ返ってきた。
*明日来てください。*
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KENJIに動画を見せた。
KENJIは黙って最後まで見た。
「知ってますか、この人」と英二は聞いた。
「知りません。でも」KENJIは言った。「すごい人ですね」
「祖父と孫だそうです」
「孫より祖父のほうが、深い」
「そうなんです」英二は言った。「それで——考えたんですが」
「どうぞ」
「私が二十代と同じ動きをしようとしても、体がついてこない。故障する。でも」英二は続けた。「この老人みたいに、年齢に合った踊り方を突き詰めたら、逆に若い人には出せないものになるんじゃないかと」
KENJIが英二を見た。
「解剖学の本を読んで気づきました」英二は言った。「軟骨も関節も筋肉も、年齢で変わる。同じ体じゃない。だったら——自分の年齢の体で、何ができるかを研究する。それが私の秘伝のタレになると思って」
KENJIがしばらく黙った。
「ブガルー・サムのことを思い出しました」KENJIは言った。
「私もです」英二は言った。「巡業中に気づいてたんですが、ブガルー・サムの踊り方は、エレクトリックブガルーズの時代とは違っていた」
「違いましたか」
「速さじゃなかった。大きさじゃなかった。でも圧があった。深さがあった」英二は言った。「あれが、七十代のブガルー・サムの踊り方なんだと思って」
KENJIが頷いた。
「それを坂本さんが四十五歳でやる」
「やってみたいです」
KENJIは少し考えた。
「今月の課題を変えます」KENJIは言った。「速さを追うのをやめる。精度を上げる。波の質を上げる。一つひとつの動きを、もう一段階深くする」
「お願いします」
「大きく動くな」KENJIは言った。「小さく、深く、正確に。その三つだけ」
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その夜の練習で、英二は意識を変えた。
いつもより動きを小さくした。その分、波の質だけに集中した。
鎖骨から指先まで、絹糸を通すように。
止まる瞬間、彫刻になるように。
大きくは動かなかった。派手さもなかった。
でもテレビの黒い画面に映る自分を見て——何かが違った。
動きに、重みではなく、深みが出てきた気がした。
麻衣子が通りかかって、英二を見た。
「なんか今日、静かだね」
「小さく深くやってます」
「前より……なんか、じわっとくる感じがする」麻衣子は少し首を傾けた。「うまく言えないけど」
「じわっと、ですか」
「そう」麻衣子は言った。「派手じゃないのに、目が離せない感じ」
英二は黙った。
目が離せない。
韓国の老人ポッパーを見たとき、英二が感じたのもそれだった。
「ありがとう」と英二は言った。
「何が」麻衣子は言った。
「気づかせてくれたから」
麻衣子が「何を」という顔をしたまま、キッチンに戻った。
英二はもう一度、波を通した。
絹糸を、体の中に。
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一月の終わり、橘のスタジオでKAITOに動画を見せた。
KAITOが黙って見た。
「この老人、何者ですか」
「わからないです。インスタで偶然見つけた」
「すごい」KAITOは言った。珍しく、はっきりと。「これが目標になるんですか、坂本さんの」
「目標というより——方向です」英二は言った。「速さで若い人に勝とうとするんじゃなくて、この老人みたいな深さを目指す」
KAITOがしばらく黙った。
「俺も同じことを考えてました」KAITOは言った。「先月のバトルで二十二歳に負けてから」
「KAITOさんも」
「速さで勝てないなら、深さで行く」KAITOは言った。「二十年の積み上げを、深さに変える」KAITOは動画をもう一度見た。「この老人、二十年どころじゃないですね」
「何十年かけて、あの波になったんでしょうね」
二人でしばらく、動画を見た。
韓国のどこかのスタジオで、白髪の老人と孫が並んで踊っていた。
「坂本さん」KAITOは言った。
「なんですか」
「アメリカ行ったら、この老人みたいな人に会えるかもしれない」
英二は動画を見ながら言った。
「それが楽しみになってきました」




