第23話「豊川整体院」
十二月の第一週、英二は右膝を痛めた。
原因はわかっていた。巡業から帰ってきてから、練習量を増やしすぎた。ブガルー・サムの言葉が頭から離れなかった。*本気でやれ。遅く始めたなら、なおさら。*
その言葉通りにやったら、膝が悲鳴を上げた。
KENJIに言ったら「だから言ったんです、ウォームアップを省くなと」と言われた。橘に言ったら「整体行ってください、早めに」と言われた。橘が紹介してくれたのが、駒沢の整体院だった。
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「豊川整体院」は、駒沢公園から徒歩三分のマンションの一階にあった。
ドアを開けると、明るい院内だった。観葉植物が置いてあって、BGMがジャズだった。受付に誰もいなくて、奥から「はーい」という声が来た。
出てきたのは、四十五歳くらいの男だった。細身で、笑顔がよかった。ニコニコしていた、というより、顔の造りが笑っている人だった。
「坂本さんですか、橘くんの紹介の」
「そうです」
「豊川です」男は言った。「どうぞ、こちらへ」
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ベッドに横になって、豊川が膝を触り始めた。
丁寧だった。ただ触るんじゃなくて、確かめるように触っていた。膝から足首、膝から太もも、それから腰へと手が移動した。
五分ほど触って、豊川が言った。
「君、ダンサーだろ」
英二は少し驚いた。
「なぜわかるんですか」
「体が教えてくれる」豊川はニコニコしたまま言った。「筋肉の使い方が、ダンサーの体だ。特に体幹と股関節まわり。あと膝の痛め方が、ジャンプ系じゃなくてグラウンド系の痛め方をしてる」
「グラウンド系、というのは」
「フロアワーク系のダンスをやる人の膝の使い方です」豊川は言った。「ポッピングか、ブレイキンか、そのあたりじゃないですか」
「ポッピングです」
「やっぱり」豊川は手を止めた。「何年やってるんですか」
「一年も経っていません」
豊川が少し目を丸くした。
「それでこの体は」
「大学のときにやっていて、十七年ぶりに再開しました」
「いくつですか」
「四十五です」
豊川がしばらく英二を見た。それから「なるほど」と言って、また膝を触り始めた。
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施術をしながら、豊川が聞いた。
「再開したきっかけは何ですか」
英二は天井を見ながら答えた。珍しく、ほとんど全部話した。過労で倒れたこと、退職したこと、家族への宣言、KENJIと橘との出会い、バトルに出始めたこと、だーよしさんとsoukiさんとの出会い、ブガルー・サムの巡業のこと。
豊川はニコニコしながら聞いていた。手は動かしたまま、でもちゃんと聞いていた。
「面白い人だな」と豊川は言った。
「面白いですか」
「うらやましいくらい面白い」豊川は言った。「俺も昔、踊ってたんですよ」
「そうなんですか」
「ジャニーズジュニアにいて、舞台で踊ってた」豊川はあっさりと言った。「でもバックダンサー止まりだったし、膝を壊して——それで整体師になった」
英二は豊川を見た。
「後悔してますか」
「してない」豊川は即答した。「でも」豊川は少し間を置いた。「踊るのをやめたことだけは、今でも惜しいと思ってる」
英二は黙って聞いた。
「膝を壊したとき、もう踊れないと思い込んでた」豊川は言った。「でも今思えば、やり方を変えれば続けられたかもしれない。若かったから、ゼロか百かしか考えられなかった」
「今は踊ってないんですか」
「たまに、一人でね」豊川はニコニコしたまま言った。「でも人前では踊らなくなった。そこだけが、惜しい」
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施術が終わって、豊川が英二を起こした。
膝が、来たときより楽だった。
「一週間、フロアワークは休んでください」豊川は言った。「上半身の練習だけにして。来週また来てください。」
「わかりました」
翌週、 二回目の施術だった。
膝はだいぶ軽くなっていた。
「順調ですね」
豊川が膝を動かしながら言った。
「ちゃんとフロアワーク休みました?」
「言われた通りに」
「珍しいな」豊川は笑った。
「ダンサーって、だいたい言うこと聞かないんですよ」
英二も少し笑った。
施術が終わり、会計を待っていると、受付の女性が豊川に頭を下げていた。
「先生、すみません。本当に今月いっぱいで」
「うん、旦那さんの転勤だもんね。仕方ないよ」
「ご迷惑をおかけします」
「いやいや、おめでたいことだから」
女性は何度も頭を下げて帰っていった。
英二は何となくその様子を見ていた。
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「そういえば」
豊川がお茶を差し出しながら言った。
「仕事、まだ探してるんでしたっけ」
「はい」
「何か決まりそうですか」
英二は首を振った。
「営業には戻る気になれなくて」
「でしょうね」
「でも生活はありますから」
豊川は黙って頷いた。
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「実は」
豊川が受付の方を見た。
「今の受付の子、今月で辞めるんですよ」
「そうなんですか」
「だから一人探さないといけなくて」
英二は「大変ですね」とだけ言った。
豊川は笑った。
「坂本さん、やってみません?」
英二は少し間が空いた。
「……私が、ですか」
「受付と問診、ベッドの準備、電気治療のセット。そのくらいから」
豊川は変わらない笑顔で続けた。
「空いた時間は、整体も教えます。」
「私に整体ができるでしょうか?」
「できます」豊川は言った。
「体のことをわかってるダンサーは、感覚が早い。それに」
豊川は続けた。
「坂本さんは腰が低いし、会話が柔らかい。人の話をちゃんと聞ける人だとわかった。整体で一番大事なのは、それです」
英二は少し黙った。
「時間はどのくらいですか」
「九時から十三時と、十五時から十八時。週三でも構わない」豊川は言った。「時給千五百円。午後が終わったら夜は自由だから、練習できる」
英二は計算した。週三、一日七時間、時給千五百円——月に十万近くなる。インストラクターのアシスタントとは、桁が違った。
「踊るのをやめないで」豊川は言った。「昼はここで働いて、夜は練習を続けて夢を実現してほしいです。」
はっきりと、でもニコニコしたまま言った。
英二は少し笑った。
「わかりました」と英二は言った。「よろしくお願いします」
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その夜、英二は麻衣子に話した。
今日整体に行ったこと、豊川翔という整体師に会ったこと、昼間働かないかと言われたこと。
麻衣子が聞きながら言った。
「時給千五百円?」
「そう」
「週三で?」
「ああ」
麻衣子がしばらく黙った。
「その豊川さん、なんで英二さんに声をかけたの」
「橘から話を聞いてたそうで。それと——」英二は言った。「踊るのをやめてほしくない、みたいな気持ちがあるみたいで」
「踊るのをやめてほしくない?」
「自分が膝を壊してやめたから」
麻衣子がしばらく考えた。
「いい人だね」
「そうだね」
「やってみれば」麻衣子は言った。あっさりと。「整体の副業、ダンサーには意外と多いって言ってたじゃない、豊川さん」
「そう言ってた」
「じゃあ合ってるんじゃない、英二さんに」麻衣子は立ち上がりながら言った。「お米、そろそろ買えるね」
英二は少し笑った。
「買える」
「よかった」麻衣子は言った。「豊川さんにお礼言っておいて」
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翌週から、英二は豊川整体院に通い始めた。
最初の仕事は受付だった。患者さんが来るたびに名前を確認して、症状を聞いて、電気治療の機械をセットする。豊川が教えると、英二は一度で覚えた。
「覚えが早い」と豊川は言った。
「営業部長だったので、段取りだけは染みついてて」
「それ、整体でも使えますよ」豊川はニコニコしながら言った。「患者さんの話を聞く力、状況を把握する力——全部同じです」
昼休みに、豊川がもみほぐしの基礎を教えてくれた。ツボの場所、圧のかけ方、体重の乗せ方。
英二は手帳に書いた。
豊川が笑った。
「バトルのときも手帳に書くんですか」
「書きます」
「真面目だな」
「営業部長だったので」
「ははは」豊川は顔をくしゃくしゃにして笑った。
英二も笑った。
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十二月の終わり、KENJIに報告した。
整体院で働き始めたこと、週三で午前と午後、夜は練習できること。
KENJIが頷いた。
「体を知ってる人間が整体をやる、理に適ってます」
「豊川さんに習いながら、少しずつ覚えていきます」
「膝は」
「よくなってきました」
「無理するな」KENJIは言った。「来年、アメリカに行くつもりなら、体が資本です」
英二は少し驚いた。
「アメリカのこと、知ってたんですか」
「KAITOから聞きました」KENJIは言った。「ブガルー・サムに呼ばれたんでしょ」
「呼ばれたというより——来いと言われた、くらいで」
「同じことです」KENJIは言った。「行きなさい、来年」
「お米が買えるようになってから、と妻に言われてます」
KENJIが珍しく、声を出して笑った。
「麻衣子さんらしい」
「そうですか」
「現実的で、でも止めない」KENJIは言った。「いい奥さんです」
英二は答えなかった。
でも否定しなかった。
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大晦日の夜、家族四人でテレビを見た。
蓮が紅白を見ながら「この人ダンスうまい?」と聞いてくるたびに、英二が答えた。結衣がスマートフォンでインスタを見ながら、英二の動画のいいねが増えていると教えてくれた。
年が明ける少し前、麻衣子が熱燗を出してきた。
「お父さんとお母さんだけ」と言いながら、蓮と結衣にはジュースを出した。
四人で、年越しそばを食べた。
年が明けた瞬間、蓮が「あけましておめでとう!」と叫んだ。
英二は麻衣子と小さく杯を合わせた。
「来年もよろしく」と英二は言った。
「来年もよろしく」と麻衣子は言った。
それだけだった。
でも去年の今頃——病院のベッドで天井を見ていた男と、同じ人間とは思えない年越しだった。




