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お父さんヒップホップで生きていくことにしたんだ  作者: はまゆう


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第22話「伝説と巡業」

 十月の第一週、KAITOから連絡が来た。


*今週、時間ありますか。相談があります。*


 英二は*あります*と返した。


*橘のスタジオに来てください。*


---


 スタジオに行くと、KAITOと橘が待っていた。


 KAITOが開口一番に言った。


「英二さん、英語話せますよね」


「ビジネスレベルなら」英二は言った。「証券時代に外資系の顧客担当してたので」


「よかった」KAITOは言った。「折り入って相談があって」


---


 KAITOが話した内容を、英二は黙って聞いた。


 エレクトリックブガルーズ。


 1970年代にカリフォルニアで生まれた、ポッピングの源流ともいえるグループだった。ブガルー・サム、ポッピン・ピート、ティグ・スマリー——その名前は、ポッピングをやる人間なら誰もが知っていた。


 英二も知っていた。大学のダンスサークルにいた頃、先輩たちがビデオテープで擦り切れるほど見ていたグループだった。


「今、ブガルー・サムが経済的に厳しい状況にあります」KAITOは言った。「メンバーの何人かも同じで、日本やアジアでワークショップをしながら活動を続けてる」


「それは知りませんでした」


「あまり表には出ない話ですが」KAITOは続けた。「俺が窓口になって、来月からブガルー・サムを招いて全国ワークショップを回る計画を立ててます。東京、大阪、福岡、札幌——六都市を三週間で回る」


 英二は黙って聞いた。


「アテンダントが必要なんです」KAITOは言った。「英語ができて、気が利いて、信頼できる人間。スケジュール管理、移動の手配、通訳、会場との調整——全部やってもらいたい」


「それを私に」


「英二さんしかいないと思って」


 英二は少し考えた。


「レッスンは」


「受付が終わったら、最後部でひっそり受けていい」KAITOは言った。「ブガルー・サムのレッスンを、最前列じゃなくて最後部で。それでよければ」


「……それでよければ、って」英二は言った。「十分すぎます」


「交通費と報酬は出ます」KAITOは言った。「多くはないですが」


「いくらですか」


 KAITOが数字を言った。


 多くはなかった。でも今の英二には、十分だった。


「やります」と英二は言った。


---


 その夜、英二は麻衣子に話した。


 夕飯の後、蓮が宿題をしていて、結衣が部屋にいる時間を選んだ。


「来月から三週間、全国を回ることになった」


 麻衣子が顔を上げた。


「全国?」


「ワークショップのアテンダントで。交通費と報酬が出る」


「アテンダントって何をするの」


「通訳、スケジュール管理、雑用全般です」


「誰の通訳?」


 英二は少し間を置いた。


「ブガルー・サムというダンサーです」


 麻衣子が「誰?」という顔をした。予想通りだった。


「エレクトリックブガルーズというグループのリーダーで——」


「だから誰?」


「ポッピングの、源流みたいな人です。伝説の」


 麻衣子がしばらく英二を見た。


「伝説の人が、なんで日本でワークショップやってるの」


「いろいろ事情があって」


「英二さんが通訳するの、その伝説の人の」


「そうです」


 麻衣子がコーヒーカップを両手で包んだ。少し考えている顔だった。


「三週間、家空けるの」


「そうなります」


「蓮の参観日、来月じゃなかったっけ」


 英二は固まった。


「……いつですか」


「十一日」


 英二はスケジュールを頭の中で確認した。大阪の移動日と重なっていた。


「……ごめんなさい」


 麻衣子が少し黙った。


「蓮には私から言う」麻衣子は言った。「それより報酬、ちゃんともらうんだよ。遠慮しないで」


 英二は麻衣子を見た。


「いいんですか」


「よくはないけど」麻衣子は言った。「ダメとも言えない」麻衣子はカップを置いた。「伝説の人のレッスン、最後部で受けるんでしょ」


「KAITOさんから聞いたんですか」


「さっき電話来た」麻衣子は少し笑った。「英二さんを借りますって。律儀な人ね」


「KAITOさんはそういう人です」


「最後部でひっそり受けるって、なんかおかしいね」麻衣子は言った。「伝説の人のレッスンを、最後部で」


「おかしいですか」


「英二さんらしいと思って」麻衣子は言った。「ちゃんと前に出てきなよ、そのうち」


---


 翌週、KAITOが英二をブガルー・サムに引き合わせた。


 都内のスタジオだった。


 ブガルー・サムは七十代だった。白髪で、背が高くて、でも体の芯がしっかりしていた。目が、若かった。


 KAITOが英語で紹介した。英二が挨拶した。


「よろしくお願いします。三週間、サポートさせていただきます」


 ブガルー・サムが英二を見た。


「ダンサーですか」とブガルー・サムは聞いた。


「ポッピングをやっています」英二は答えた。「まだ一年も経っていませんが」


「何歳ですか」


「四十五です」


 ブガルー・サムが少し目を細めた。


「私がポッピングを始めたのも、遅かった」ブガルー・サムは言った。「何歳から始めても、遅くはない」


 英二は「ありがとうございます」と言った。


 ブガルー・サムが続けた。


「でも」


「でも?」


「本気でやれ」ブガルー・サムは言った。静かに、でもはっきりと。「遅く始めたなら、なおさら」


 英二は黙って頷いた。


---


 巡業は十一月の第一月曜日から始まった。


 東京を皮切りに、仙台、名古屋、大阪、福岡、札幌——三週間で六都市を回った。


 英二の仕事は朝から始まった。ホテルのチェックアウト、移動の手配、会場のスタッフとの打ち合わせ、ブガルー・サムのスケジュール管理、食事の手配——細かいことが山積みだった。証券会社で鍛えた段取りの癖が、こんな場所で活きた。


 ブガルー・サムは要求が細かかった。食事の好み、移動中の環境、ステージ前の過ごし方——でも理不尽ではなかった。一流の人間の、一流のこだわりだった。


 レッスンは毎回、受付が終わった後で最後部に立った。


 参加者は各都市で三十人から五十人。みんな前に集まっていた。英二だけが後ろにいた。


 でもブガルー・サムのレッスンは、後ろからでも全部届いた。


---


 大阪のレッスンでのことだった。


 ブガルー・サムが参加者に言った。


「ポッピングは筋肉だけじゃない」


 英二は最後部で聞いていた。


「音楽を感じる。それをどう体に通すか。技術はその後の話だ」


 英二はその言葉を、手帳に書いた。


 福岡のレッスンでは、こう言った。


「ダンスはコミュニケーションだ。相手に届かないダンスは、独り言だ」


 札幌のレッスンでは、こう言った。


「自分のスタイルを持て。誰かのコピーじゃなく、あなたにしかできないものを探せ。一生かかっても見つからないかもしれない。でも探し続けることが、ダンスだ」


 英二はそのたびに手帳に書いた。


 最後部から、伝説の言葉を受け取った。


---


 三週間の最終日、札幌のレッスンが終わった後だった。


 ブガルー・サムが英二に言った。


「三週間、ありがとう」


「こちらこそ、勉強になりました」


「最後部で、毎回メモを取ってたね」


「見えてたんですか」


「見えてた」ブガルー・サムは言った。「前に出てきてよかったのに」


「アテンダントなので」


「アテンダントだけじゃないでしょ」ブガルー・サムは英二を見た。「来年、アメリカに来なさい」


 英二は固まった。


「アメリカ、ですか」


「ワークショップをやる。来てみなさい」ブガルー・サムは言った。「最後部じゃなくていい」


---


 東京に帰る飛行機の中、英二はKAITOに小声で言った。


「ブガルー・サムに、アメリカに来いと言われました」


 KAITOが少し黙った。


「いつですか」


「来年と言ってました」


「行きますか」


 英二は窓の外を見た。雲の上だった。


「行けるかどうかわかりません。でも」


「でも?」


「行きたいです」英二は言った。「来年の自分が、どこにいるか——半年前には想像できなかったから」


 KAITOが「そうですね」と言った。


 飛行機が雲を抜けた。


 眼下に、夜の東京が広がっていた。


---


 家に帰ると、深夜だった。


 リビングの電気がついていた。


 麻衣子がソファで待っていた。今回は家計簿じゃなくて、お茶を飲んでいた。


「おかえり」


「ただいま。起きてたんですか」


「なんとなく」麻衣子は言った。「どうだった、三週間」


 英二はソファに座った。


「濃かったです」


「伝説の人は」


「本物でした」英二は言った。「最後にアメリカに来いと言われました」


 麻衣子がお茶を飲む手を止めた。


「アメリカ」


「来年、ワークショップがあるそうで」


 麻衣子がしばらく黙った。


「お米、買えるようになってから行ってね」


 英二は少し笑った。


「もちろんです」


 麻衣子が立ち上がりながら言った。


「ご飯、残してあるから。温めて食べて」


「ありがとう」


 麻衣子が廊下に向かいかけて、振り返った。


「蓮の参観日、ビデオ撮っといたから」


 英二は麻衣子を見た。


「……ありがとうございます」


「見ておいてね」麻衣子は言った。「蓮、すごくいい顔してたから」


 廊下に消えた。


 英二はしばらく、静かなリビングに一人でいた。


 手帳を開いた。三週間分の、ブガルー・サムの言葉が並んでいた。


*本気でやれ。遅く始めたなら、なおさら。*


*ダンスはコミュニケーションだ。相手に届かないダンスは、独り言だ。*


*自分のスタイルを持て。一生かかっても見つからないかもしれない。でも探し続けることが、ダンスだ。*


 英二は手帳を閉じた。


 来年、アメリカ。


 半年前には想像もできなかった場所が、地図の上に現れた。


 お米が買えるようになってから、と麻衣子は言った。


 そのためにも、やることがあった。


 英二は立ち上がって、キッチンに向かった。


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