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お父さんヒップホップで生きていくことにしたんだ  作者: はまゆう


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20/21

第21話  第21話「九月のフロア」

 九月十四日、土曜日。


 会場は渋谷の老舗ライブハウスだった。


 招待制、エントリー三十二人。少ない人数だったが、その分密度が違った。受付で名前を告げると、スタッフが「お待ちしてました」と言った。英二は少し戸惑った。待たれる側になったのは、初めてだった。


 中に入ると、空気が違った。


 百六十人のイベントとは、種類が違う熱気だった。人数が少ない分、一人ひとりの存在感が濃かった。ウォームアップエリアを見渡すと、知っている顔がいくつかあった。六月に戦ったDAI。四月に戦ったRYUTA。そして——SHINがいた。


 SHINが英二を見た。


 軽く頷いた。英二も頷いた。


 それだけだった。


---


 KENJIが来た。橘が来た。KAITOとゴリさんが並んで来た。だーよしさんが来た。soukiさんが来た。


 英二は少し笑った。


「全員来てくれたんですか」


「当たり前じゃないですか」と橘が言った。


「坂本さんのフロア、見たかったので」とだーよしさんが言った。


「世界を意識してきましたか」とsoukiさんが言った。


「意識してきました」と英二は言った。


 KENJIが全員を見回した。


「では」KENJIは言った。「あとは坂本さんが踊るだけです」


---


 家族が来たのは開演三十分前だった。


 麻衣子と蓮と結衣、それに田中さんと田村さんと美咲が来た。六人が固まって入ってきた。


 蓮が走ってきた。


「お父さん!今日は絶対勝って!」


「やってみる」


「やってみるじゃなくて勝って!」


「蓮」と麻衣子が制した。蓮が引っ込んだ。


 麻衣子が英二を見た。


「緊張してる?」


「してる」


「どんな緊張?」


 英二は少し考えた。


「楽しみな緊張」


 麻衣子が少し目を細めた。


「それ、最初のバトルのときと全然違うね」


「違うかな」


「最初は怖そうな顔してた」麻衣子は言った。「今は——こいって感じの顔してる」


 英二は答えなかった。


 麻衣子がエコバッグからスポーツドリンクを出した。毎回同じだった。でも今回は渡す前に少し持ったまま、英二を見た。


「全部出してきて」


 英二は缶を受け取った。


「ありがとう」


---


 トーナメントが始まった。


 一回戦の相手は、二十六歳だった。


 名前はYUKI。動きが柔らかくて、音楽との対話がうまかった。観客を引き込む力があった。


 英二はフロアに入った。


 soukiの言葉を思い出した。*意識が変わると、練習の質が変わる。*


 今日の英二は、国内のバトルを意識していなかった。もっと遠い場所を意識していた。ヨーロッパのどこかのフロア。自分がまだ行ったことのない場所。その観客に届けるつもりで——波を通した。


 軸を伸ばした。だーよしさんに教わった伸縮で。


 鉄を動かすように。ゴリさんの重さで。


 最初の一動作に、すべてを込めた。


 観客がざわめいた。


 審判三人、全員が英二の側だった。


---


 二回戦の相手はRYUTAだった。


 四月に負けた相手だった。あのときベスト16で止められた壁だった。


 RYUTAが英二を見て、少し表情を変えた。四月とは違う何かを感じ取ったのかもしれなかった。


 バトルが始まった。


 RYUTAが先攻だった。五年以上の積み上げが、全部出ていた。フロアの使い方、音楽との一体感、観客への圧——完成度が高かった。


 英二の番が来た。


 病院のベッドを思い出した。十七年間置いてきたものを思い出した。それを波に乗せた。ヒットに込めた。


 秘伝のタレを、フロアに出した。


 三十秒ずつ、三セット。


 審判が手を上げた。


 二対一で、英二の側だった。


 RYUTAがフロアを出るとき、英二に言った。


「四月と全然違う」


 英二は「ありがとうございます」と言った。


---


 準々決勝の相手は、DAIだった。


 六月に対等に戦った相手だった。あのとき英二は二対一で勝ったが、DAIも成長していた。それが動きを見るとわかった。


 バトルが始まった。


 DAIが先攻だった。静かで、深かった。音楽の解釈が六月より細かくなっていた。


 英二は対話することにした。


 DAIが深く入ってきたとき、英二はさらに深く返した。DAIが軽く返してきたとき、英二は重さで答えた。ただの対話じゃなかった。主導権を取りに行く対話だった。KENJIに言われた「仕掛け」を、今日初めて本当の意味でできた気がした。


 三セット終わったとき、会場が静かだった。


 静かになるほどの、密度があった。


 審判が手を上げた。


 三対〇で、英二の側だった。


 DAIが英二に近づいてきた。


「今日の坂本さん、別人みたいだ」


「六月からだいぶ変わりました」


「変わったじゃなくて」DAIは言った。「出てきた、という感じがする」


---


 準決勝の相手は、SHINだった。


 会場がざわめいた。招待制の三十二人の観客が、全員この対戦を待っていたような空気だった。


 SHINが英二の隣に並んだ。


「また当たりましたね」SHINは言った。


「リベンジさせてください」


「どうぞ」SHINは言った。口元が少し動いた。


 バトルが始まった。


 SHINが先攻だった。


 六月と同じだった。静かな立ち上がり、ビートを待つ姿勢、そして動き出した瞬間の圧——別格だった。音楽とSHINが一体になる瞬間が、はっきりと見えた。観客が息を飲んだ。


 英二の番が来た。


 フロアに入った。


 SHINの圧がまだフロアに残っていた。


 英二はそれを消そうとしなかった。その上に乗った。


 軸を伸ばした。鉄を動かした。十七年分の重さを波に乗せた。病院のベッドを、新宿のクラブを、食卓での宣言を、麻衣子のスポーツドリンクを、結衣の袖引っ張りを、蓮の「かっこよかった」を——全部、体に通した。


 観客の中から声が上がった。


 SHINがわずかに目を細めた。


 二セット目、SHINが変えてきた。英二の重さに対して、鋭さで返してきた。対話が、本物のバトルになった。


 三セット目、英二は仕掛けた。


 相手が来る前に、空気を作った。最初の一動作で、フロアを英二のものにした。KENJIに一ヶ月かけて叩き込まれた、その一動作を。


 三十秒が終わった。


 会場が静かだった。


 審判が手を上げた。


 一人が英二の側。二人がSHINの側。


 負けた。


 でも英二は、フロアを出ながら思った。


 六月とは違う負け方だった。全部出し切った上での負けだった。それが、これまでと全然違う重さで来た。


---


 SHINが英二のところに来た。


「今日は本当にいいバトルでした」


「ありがとうございます。六月よりは」


「六月と別人です」SHINは言った。「何があったんですか、この三ヶ月」


 英二は少し考えた。


「いい人たちに出会いました」


 SHINが頷いた。


「それ、ダンスで一番大事なことかもしれないですね」


---


 KENJIが来た。


「準決勝、見ました」


「負けました」


「SHINに一対二」KENJIは言った。「六月は一対二でした」


「同じじゃないですか」


「数字は同じです」KENJIは言った。「でも中身が全然違う。六月は実力差で負けた。今日は——互角に近かった」


 英二は黙って聞いた。


「次が楽しみです」とKENJIは言った。この男がそう言うのは、珍しかった。


---


 KAITOが来た。ゴリさんが来た。


「秘伝のタレ感じましたよ」とKAITOは言った。


「鉄の重さ、伝わってました」とゴリさんは言った。


 だーよしさんが来た。


「軸、つながってましたよ」だーよしさんは言った。「しゃがんだときも、フロアワークのときも」


 soukiが来た。


「世界、意識してきましたか」


「してきました」


「伝わってました」soukiは言った。「ヨーロッパの観客、絶対に好きだと思う」


---


 家族が来た。


 蓮が走ってきた。


「お父さん!準決勝まで行った!」


「負けたけど」


「でも準決勝だよ!すごくない?」


 田中さんが来た。目が少し赤かった。


「坂本さん」田中さんは言った。「うちの夫に見せたかった」


 英二は田中さんを見た。


「田中さんの旦那さんは」


「去年、亡くなったんです」田中さんは言った。静かに。「蕎麦屋を閉めてから、五年後に」田中さんは続けた。「でも今日、坂本さんのダンスを見て——夫の蕎麦屋の三年間と、同じものを感じました」


 英二は言葉が出なかった。


 田中さんが小さく笑った。


「好きなことをやってる人の顔って、同じなんですね」


---


 麻衣子が最後に来た。


 スポーツドリンクを渡した。今日三本目だった。


「全部出せた?」


「出せました」


「SHINって人に負けたね」


「負けました」


「悔しい?」


 英二は少し考えた。


「悔しいです。でも——」


「でも?」


「次が楽しみです」英二は言った。「こんな気持ち、十七年ぶりです」


 麻衣子が黙った。


 しばらくして、小さく言った。


「よかった」


 たった三文字だった。


 でも英二には、それが今日一番の言葉だった。


---


 帰り道、六人で電車に乗った。


 蓮がsoukiから聞いたらしいヨーロッパ公演の話を、目を輝かせながら英二に話した。結衣が今日の動画を確認しながら「これ絶対バズる」と言った。田村さんと美咲が何か話していた。田中さんが窓の外を見ていた。


 麻衣子が英二の隣で小声で言った。


「田中さん、旦那さんのこと話してくれたね」


「そうですね」


「田中さんにとっても、今日大事な日だったんだね」


 英二は田中さんを見た。窓の外を見ている横顔が、穏やかだった。


 電車が揺れた。


 英二は目を閉じた。


 準決勝敗退。ベスト4。三十二人中の。


 でも数字より——今日フロアで出し切ったものが、英二の体にまだ残っていた。十七年間置いてきたものを、初めて全部使った感触が。


 次のフロアが、もう楽しみだった。


 それだけで、十分だった。


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