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お父さんヒップホップで生きていくことにしたんだ  作者: はまゆう


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19/21

第20話「意識が大事」

 九月の第一週、イベントの二週間前だった。


 橘のスタジオに、また見慣れない男が来た。


 三十代前半くらいだった。華奢で、どこか飄々とした雰囲気があった。でも立ち方に、だーよしさんと同じ種類の芯があった。体の中心に何かが通っている人間の立ち方だった。


 橘が紹介した。


「soukiさんです」


「はじめまして」


 soukiが手を差し出した。「坂本さん、聞いてますよ」と言った。


「どなたから」


「だーよしさんから」soukiは言った。「面白い人がいるって」


---


 soukiのことは、橘から少し聞いた。


 ベルギー、ノルウェー、ヨーロッパ各地でソロ公演を続けているダンサーだと。海外のバトルでも優勝経験があると。


 英二はその話を聞いて、また言葉を失った。


 だーよしさんがマドンナのバックダンサー。soukiがヨーロッパで公演を続けるダンサー。橘が中目黒でスタジオを持つダンサー。KAITOとゴリさんが二十年のキャリアを持つダンサー。


 気づけば英二がまたそういう人たちと接点を持ち始めていた。


 半年前、病院のベッドで天井を見ていた男が。


---


 練習が終わって、soukiが英二に言った。


「九月のイベント、楽しみにしてます」


「えっ、見に来てくれるんですか」


「もちろん」

soukiは言った。

「ところで坂本さん、次の目標は何ですか」


 英二は少し考えた。


「国内のバトルで結果を出すこと。いずれは自分のスタジオを持つこと」


 soukiが頷いた。でも何か言いたそうな顔をしていた。


「何かありますか」

と英二は聞いた。


「国内のバトルもスタジオも、もちろんいい目標です」soukiは言った。「でも——せっかくだーよしさんとご縁ができたんだから、世界を意識してみてもいいんじゃないかと思って」


「世界、ですか」


「坂本さんのダンス、海外でも通じると思います」soukiは言った。あっさりと、でも確信を持って。「ヨーロッパのシーンは、技術だけじゃなくてその人の内面から出てくるストーリーを見る。四十五歳で証券会社やめてフロアに戻ってきた男のダンス——向こうの観客、絶対に刺さる」


 英二はsoukiを見た。


「私が、海外で」


「変ですか」


「変というより——想像したことがなかった」


「目先のバトルで優勝して、スタジオ持って——それも素晴らしい夢です」soukiは言った。

「でも意識が変わると、練習の質が変わる。国内だけ見てるときと、世界を見てるときじゃ、同じ練習でも全然違うものになる」


 英二は黙って聞いた。


「実力をどこまで上げるかって、練習時間より意識の問題だったりするんですよ」

soukiは言った。

「時間をかければうまくなるんじゃなくて、どこを目指してるかで上がり方が変わる」


---


 その帰り道、橘と二人で歩いた。


「soukiさん、すごい人ですね」と英二は言った。


「ヨーロッパで公演やってる人が、中目黒のうちのスタジオに来るんだから、不思議ですよね」橘は言った。「でもダンスのシーンって、意外と狭いんですよ。ヴィトンのモデルしてるsoraki くんなんて辻堂の市役所の鏡の前で踊ってたり。

ちゃんとやってる人間が普通の場所で生きてます」


「私みたいな人間がつながっていいのか、まだ実は別世界なんだってわきまえないといけないですけど」


「さっきsoukiさんが言ってたように意識を変えていきましょう。そのために第一線の人たちに声かけてるんです。もうつながってるじゃないですか」

橘は言った。

「KENJI さん、KAITO さん、ゴリさん、だーよしさん、soukiさん——みんな坂本さんのダンスを見て、自分から気持ちよく来てくれてる。」


 英二は黙って歩いた。


「不思議ですね」と英二は言った。


「不思議じゃないですよ」橘は言った。「本気でやってる人間のエナジーや気には、本気の人間が引き寄せられる。それだけです」


---


 家に帰ると、麻衣子がリビングにいた。


 英二が今日あったことを、珍しく少し話した。soukiさんという人が来たこと。ヨーロッパで公演をしているダンサーだということ。世界を意識してみては、と言われたこと。


 麻衣子が聞きながら言った。


「なんか英二さんの周り、すごい人たちばかり集まってくるね。だーよしさんもそうだし」


 英二は首を振った。


「俺じゃない。KENJIさんと橘がすごいんだよ。いい人たちと出会えた」


 麻衣子がしばらく黙った。


「それを言える人が、いい人たちに出会えるんだと思うけど」


 英二は答えなかった。でも、自分ひとりで会える人たちじゃない。橘と再会させてくれたのもKENJI。

KENJIには感謝しかない。


 麻衣子がテレビをつけながら言った。


「世界かあ」


「想像できないけどね、まだ」


「私も想像できない」

麻衣子は言った。

「でも半年前、英二さんがヒップホップで生きていくって言ったとき、今みたいになるとも想像できなかった」


 英二は麻衣子を見た。


「そうだね」


「だから」

麻衣子は言った。

「想像できないことが起きるのが、最近わかってきた」

麻衣子は少し笑った。

「お米の心配ばかりしてたのにね」


 英二も笑った。


「まだお米の心配はしてください」


「してるよ、十分」


「麻衣子」

英二が言った。

「信じられないくらい充実して楽しい日々をありがとう。苦労させてる分、幸せにできるように頑張る」


「これからも二人三脚で頑張ろう!」

麻衣子が明るく言った。

麻衣子の明るさにほんとに助けられている。

この女性を伴侶にしてよかった、と心から思った。

---


 その夜、英二は一人でフロアに立った。


 いつもと同じリビング、いつもと同じスウェット姿だった。


 でも今夜は、少し違うイメージを持った。


 国内のバトルじゃなくて——もっと遠い場所のフロアを。ヨーロッパのどこかの、自分が行ったことのない場所のフロアを。どんな観客がいるかも、どんな音楽かも、わからない。


 でもそのフロアに向けて、波を通した。


 軸を伸ばした。だーよしさんに教わった、日本人のアップダウンじゃなく伸縮の感覚で。


 鉄を動かすように。ゴリさんに教わった重さのある圧で。


 十七年間置いてきたものを乗せて。KAITOに言われた自分だけの秘伝のタレも見つけたい。


 相手が来る前に空気を作る。KENJIに叩き込まれた最初の一動作で。


 全部が、今夜の英二の体の中にあった。


---


 九月十四日。


 イベントまで、あと一週間だった。


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