第19話「軸の話」
八月の終わり、KAITOから連絡が来た。
「今週土曜、空いてますか。紹介したい人がいます。」
英二は予定を確認して「空いてます」と返した。
「橘のスタジオに十四時。来てください。」
それだけだった。
---
土曜の十四時、橘のスタジオに行くと、見慣れない男がいた。
四十代半ばくらいだった。中肉中背で、重心が安定していた。体の中心に芯が一本通っているような、そういう立ち方だった。
KAITOが紹介した。
「だーよしさんです」
「はじめまして」
だーよしさんが手を差し出した。握手をした。
「KAITOから聞いてます、坂本さん」だーよしさんは言った。穏やかな声だった。「九月にイベント出るんですよね」
「そうです」
「少し時間もらえますか」
---
だーよしさんのことは、KAITOから少し聞いていた。
アメリカでマドンナのバックダンサーをしていた人だと。それだけ聞いて、英二は言葉を失った。マドンナのバックダンサー、というのが何を意味するか、ダンスを知っている人間ならわかる話だった。
「動いてみてください」とだーよしさんは言った。
英二はフロアに出た。
ポッピングを中心にやった。ゴリさんに教わってから、波に重さが乗るようになっていた。KENJIに言われた構成も意識した。三分、やり切った。
だーよしさんが頷いた。
「いいですね」
「ありがとうございます」
「ひとつだけ聞いていいですか」だーよしさんはフロアに出てきた。「アップダウン、どんなイメージでやってますか」
英二は少し考えた。
「上下運動です。膝を使って、上に伸びて、下に落とす」
だーよしさんが頷いた。「日本人はみんなそう言います」
「違うんですか」
「アメリカでは違います」だーよしさんは言った。「アップダウンは上下運動じゃなくて、体軸を伸ばすのと縮めることなんです」
英二は意味を考えた。
「……違いがわからないですが」
「やってみます」
だーよしさんがその場でアップをした。
英二は目を疑った。
だーよしさんがしゃがんだ。フロアに近いところまで体を落とした。それでも——アップしていた。体軸が伸びていた。上下運動ではなかった。体の中心から何かが伸びたり縮んだりしていた。
「かがみこんでもアップができる」だーよしさんは言った。
今度は床に膝をついた。フロアワークの体勢だった。それでもアップが続いていた。
「フロアに入ってもアップができる」
今度は床に寝転んだ。仰向けの状態でも、体軸が伸縮していた。
「寝転んでもアップができる」
だーよしさんが立ち上がった。
橘が「やばい」と小声で言った。KAITOが黙って見ていた。ゴリさんが腕を組んで頷いていた。
「上下運動じゃなくて、軸の伸縮です」だーよしさんは英二を見た。「この感覚が、アメリカ人と日本人で根本的に違う」
「なぜ違うんですか」
「体の使い方の文化が違うからです」だーよしさんは言った。「アニメーションもポップもヒップホップも、アメリカで生まれたダンスです。だから本来は、アメリカ人の体の使い方の上に乗っている。僕たちがそれをやる以上は、彼らの身体感覚を学んだほうがいい」
英二は黙って聞いた。
「上下運動でもアップはできます。でも軸の伸縮でやると、何が変わるかわかりますか」
「……自由度が変わる、ですか」
「そうです」だーよしさんは言った。「どんな体勢でもアップができる。フロアワークとアップが分離しない。全部がつながる」
---
一時間、だーよしさんに教わった。
軸を意識する、というのは言葉では簡単だったが、体でやるのは全然別の話だった。三十年以上、上下運動としてアップを体に入れてきた英二には、その書き換えが簡単ではなかった。
でも——少しだけ、感触がわかる瞬間があった。
しゃがんだ状態で、上下ではなく軸を伸ばすイメージでアップをしたとき。体の中に、今まで感じたことのない通り道ができた気がした。
「今です」とだーよしさんが言った。「その感触です」
「一瞬だけわかりました」
「一瞬でいい」だーよしさんは言った。「その一瞬を体が覚えるまで、繰り返す。それだけです」
---
練習が終わって、五人でストレッチをしながら英二はだーよしさんに聞いた。
「マドンナのステージで、何が一番印象に残ってますか」
だーよしさんが少し考えた。
「プロの現場では、技術は当たり前なんです」だーよしさんは言った。「技術があって初めてスタートラインに立てる。その上で——何を表現するかだけを考えてる」
「技術は前提、ということですか」
「そうです。だから技術の話をしなくていい。表現の話だけができる」だーよしさんは言った。「そのレベルの人間が集まったステージは、別の次元になる」
英二は黙って聞いた。
「坂本さんは」だーよしさんは続けた。「技術がついてきてる。あとは何を表現するかです」
「それが難しい」
「難しいけど」だーよしさんは言った。「坂本さんには材料がある。KAITOから聞きました、病院のベッドの話。十七年間置いてきたものの話」
「それが材料になりますか」
「最高の材料です」だーよしさんは言った。「技術は練習で作れる。でもその人の人生は、その人にしか作れない」
---
帰り際、だーよしさんが英二に言った。
「九月のイベント、見に行けたら行きます」
「ぜひ来てください」英二は言った。「みっともないところを見せるかもしれませんが」
「みっともなくていいですよ」だーよしさんは言った。「全部出してきてください。それだけです」
英二は頷いた。
---
その夜、英二はリビングで一人立っていた。
軸を意識した。上下ではなく、伸縮。体の中心から何かが伸びるイメージ。
しゃがんだ。
軸を伸ばした。
一瞬、つながった。
もう一度やった。またつながった。
麻衣子が通りかかって、英二を見た。
「なんかまた変わった?」
「変わりましたか」
「しゃがんでるのに、なんか大きく見える」麻衣子は言った。首を傾けながら。「不思議な感じ」
「マドンナのバックダンサーだった人に教わってきました」
麻衣子が固まった。
「……マドンナ?」
「そうです」
「あのマドンナ?」
「あのマドンナです」
麻衣子がしばらく英二を見た。
「英二さんの周りって、なんか普通じゃない人たちばかり集まってくるね」
「そうですか」
「そうだよ」麻衣子は言った。「でも——」麻衣子は少し間を置いた。「そういう人たちが来るってことは、英二さんが普通じゃないってことじゃないの」
英二は答えなかった。
麻衣子がキッチンに戻りながら言った。
「九月、楽しみにしてるから」
九月まで、あと二週間だった。




