第18話「秘伝のタレ」
八月になった。
招待制イベントまで、あと一ヶ月だった。
KENJIの練習は、それまでと少し変わった。技術の反復から、構成を考える練習に移っていた。
「バトルは即興ですよね」と英二は言った。「構成を作れますか」
「即興の中に、設計図がある」KENJIは言った。「一流の板前が、その日の食材で料理を作るとき、でたらめに作るわけじゃない。出汁の取り方、火の入れ方、盛り付けの順番——全部、体に入った設計図がある。即興はその設計図の上で動く」
英二は黙って聞いた。
「バトルも同じです」KENJIは続けた。「最初の一動作で何を見せるか。中盤でどこを山場にするか。最後に何を残すか。三十秒の中に、全部デザインがある」
「今の私には、そのデザインがない」
「ある」KENJIは言った。「でも無意識です。意識に上げる練習をします」
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その週の火曜、橘のスタジオにKAITOとゴリさんが二人で来た。
珍しいことだった。二人が同じ日に来るのは初めてだった。
「示し合わせたんですか」と橘が聞いた。
「偶然です」とKAITOが言った。
「偶然じゃないでしょ」とゴリさんが言った。
KAITOが少し黙った。「……声をかけました」
橘が笑った。
英二は二人を見た。「何かあるんですか」
「九月のイベントまで一ヶ月でしょ」ゴリさんは言った。「二人で話してて、坂本さんに伝えたいことがあって」
「私に」
「座ってください」
四人でフロアに座った。
KAITOが口を開いた。
「技術は、坂本さん十分上がってきてます。波もつながってる。圧も出てきた」
「でも」と英二は言った。
「でも」KAITOは頷いた。「まだ、坂本さんのダンスに『坂本さん』がいない」
英二は少し考えた。
「どういう意味ですか」
「一流の板前の話、KENJIさんから聞きましたか」とゴリさんが言った。
「聞きました。設計図の話」
「設計図だけじゃなくて」ゴリさんは言った。「一流の職人には、秘伝のタレがある」
「秘伝のタレ」
「その人にしか出せない味です」ゴリさんは大きな手を膝に置いた。「技術は練習で上げられる。構成は学べる。でも秘伝のタレは、その人の人生から出てくる。教えられない」
英二は黙って聞いた。
「坂本さんには」KAITOが続けた。「十七年間、証券会社で積み上げてきたものがある。営業部長として、数字と人間を見てきた目がある。過労で倒れて、それでもフロアに戻ってきた理由がある」
「それが」
「それが坂本さんの秘伝のタレです」KAITOは言った。「でも今の坂本さんは、それをダンスに乗せていない。技術を正確にやることに集中しすぎてる」
ゴリさんが続けた。
「細部に神経を使うのは大事です。でもそれは土台の話で——その上に、自分にしかない何かを乗せないと、ただうまいダンスで終わる」
「ただうまいダンスと、その人のダンスは違う」KAITOは言った。「SHINが強いのは、技術だけじゃない。あいつのダンスには、あいつにしかない何かがある」
英二はフロアを見た。
「私の秘伝のタレが何なのか、まだわかりません」
「わかってなくていいです」ゴリさんは言った。「踊りながら出てくるものだから」
「どうやって出すんですか」
KAITOとゴリさんが、少し顔を見合わせた。
KAITOが言った。
「なんでダンスを再開したか、思い出しながら踊ってみてください」
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トラックがかかった。
英二はフロアに出た。
病院のベッドを思い出した。天井の染みを数えながら、カウンセラーの質問を聞いていた。*あなたが一番生きていると感じた瞬間はいつですか。*
一秒も迷わなかった。
新宿のクラブ。夜中の二時。汗と音楽と、床を踏む足の感触。
波を通した。
鉄を動かすように。でも今日は——その鉄の中に、十七年分の重さを入れた。スーツを着て、数字を追いかけて、部下を育てて、ローンを払って、それでも何かを置いてきた十七年分の重さを。
ヒットを入れた。
止めた。
その止まり方が、いつもと違った。自分でわかった。止まった瞬間に、何かが残った。残像みたいなものが、フロアに漂った。
続けた。
三分、音楽が終わるまでやった。
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止めたとき、スタジオが静かだった。
橘が壁際で腕を組んでいた。KAITOが目を細めていた。ゴリさんが、大きな体で静かに座っていた。
ゴリさんが口を開いた。
「出ましたね」
「何がですか」
「坂本さんのダンス」ゴリさんは言った。「さっきまでと全然違う。技術は同じなのに、見えるものが違う」
KAITOが言った。
「何を考えながら踊りましたか」
「病院のベッドを思い出してました」英二は言った。「それと——十七年間置いてきたものを」
KAITOが頷いた。
「それが秘伝のタレです」
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練習が終わって、四人で近所の定食屋に入った。
橘がビールを頼んだ。KAITOはウーロン茶だった。ゴリさんはメニューを見ながら「から揚げ定食で」と言った。英二はサバ定食にした。
ゴリさんが箸を取りながら言った。
「坂本さん、ダンスいつまで続けるつもりですか」
英二は少し考えた。
「わかりません」
「わからない?」
「やめる理由が出てくるまで、続けると思います」
「やめる理由って何ですか」
「体が動かなくなったとき、でしょうか」英二は言った。「でもKAITOさんを見てると、それもやめる理由にならない気がしてきた」
KAITOが「うるさい」と言った。でも口元が動いた。
ゴリさんが笑った。
「俺もそうですよ」ゴリさんは言った。「二十年やってきて、やめようと思ったことが一度もない。なんでかって考えたことあるんですけど」
「なんでですか」
「踊ってる間だけ、余計なことを考えなくていいから」ゴリさんは言った。あっさりと。「仕事の心配も、金の心配も、人間関係も——音楽がかかってる三十秒は、全部消える」
英二は箸を止めた。
ゴリさんが続けた。
「坂本さんも同じじゃないですか」
英二は少し考えた。
「同じです」と英二は言った。「病院のベッドで気づきました。あの感覚だけが、十七年消えなかった」
「それが答えですよ」ゴリさんは言った。「やめられない理由は、そこにある」
四人でしばらく黙って飯を食った。
定食屋の有線から、古い歌謡曲が流れていた。誰も何も言わなかった。でも悪くない沈黙だった。
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帰り道、英二はKAITOと二人になった。
駅に向かいながら、KAITOが言った。
「ゴリさん、ああ見えて繊細な人ですよ」
「そうですか」
「ポッピングの細部に、あそこまで神経使える人、そんなにいない」KAITOは言った。「見せ方、構成、隠し味——全部デザインしてる。二十年かけて作ってきたものが、全部踊りに出てる」
「KAITOさんも同じですよね」
「俺はまだまだです」KAITOは言った。
英二はKAITOを見た。
「先月のバトルで一回戦負けて、どうでしたか」
KAITOが少し間を置いた。
「悔しかったです」KAITOは言った。「でも——自分の秘伝のタレを、もっと濃くしようと思った」
「濃くする?」
「負けたから薄まるんじゃなくて、負けるたびに濃くなっていくものだと思ってる」KAITOは言った。「二十二歳には速さで勝てない。でも二十年の深さで作った隠し味は、あいつには絶対にない」
英二は黙って歩いた。
駅の手前で、KAITOが言った。
「九月、楽しみにしてます」
「負けるかもしれないですよ」
「知ってます」KAITOは言った。「でも坂本さんのダンスに、今日初めて坂本さんが出てきた。それが九月のフロアで出たら——面白いことになる」
英二は「そうだといいですが」と言った。
KAITOが改札に消えた。
英二は一人で夜の道を歩いた。
秘伝のタレ。
十七年間置いてきたものを、波に乗せる。病院のベッドで気づいたことを、ヒットに込める。四十五歳の、元営業部長の、それが武器になる。
そういうことか、と英二は思った。
空が、夏の星できれいだった。




