第16話「百六十人の六月」
会場は渋谷のライブホールだった。
四月の代々木より広かった。天井が高くて、音響がよかった。フロアの中央が広く空けられていて、その周りを観客が囲む形だった。照明が暗めで、フロアだけがスポットで照らされていた。
英二が会場入りしたのは十二時だった。
受付を済ませてウォームアップエリアに移動すると、すでに五十人以上がいた。見渡すと、知らない顔ばかりだった。それぞれが自分の世界で体を動かしていた。
英二は端に場所を取って、静かにストレッチを始めた。
体の確認をした。波を通した。鎖骨から指先まで、一本につながるかどうか。腰から上への移行部分、KAITOに指摘された場所を確かめた。
つながっていた。
昨日より、つながっていた。
橘が来た。KAITOも来た。
「KAITOさんも来てくれたんですか」と英二は言った。
「暇だったので」KAITOは言った。相変わらず淡々としていた。
橘がトーナメント表を広げた。
「坂本さん、ブロックD。俺はブロックB」
「当たるとしたら」
「準決勝ですね」橘は言った。また、さらっと言った。
KAITOがトーナメント表を見た。
「ブロックDの山、強いですよ」KAITOは言った。「三回戦あたりにSHINがいる」
「SHINって」と橘が言った。声のトーンが変わった。
「知ってるんですか」と英二は聞いた。
「知ってる、というか」橘は少し言いにくそうにした。「去年の国内主要バトル、二冠取ってる人です。二十八歳。ポッピング専門」
英二はトーナメント表を見た。
「当たるかどうかは、まだわからないですよね」
「そうですけど」橘は言った。「当たったら——」
「当たったら当たったときです」英二は言った。
KAITOが英二を見た。何も言わなかった。でも少し、目が細くなった。
一回戦の相手は、二十四歳だった。
名前はTAKA。動きが大きくて、フロアの使い方が派手だった。観客を煽るのがうまかった。
英二はフロアに入った。
KENJIに言われてきたことをやった。入った瞬間に空気を作る。最初の一動作で観客を引き込む。
重心を落とした。視線を上げた。肩の力を抜いた。
ビートを待った。
来た。
最初の一動作を、これまでで一番重く入れた。
観客の中から「おっ」という声が聞こえた。TAKAが一瞬、表情を変えた。
その瞬間、英二は確信した。今日は違う、と。
三十秒が終わった。審判三人、全員が英二の側だった。
二回戦の相手は、三十一歳だった。
名前はMASA。落ち着いた動きで、技術が高かった。焦らず、じっくり空間を支配するタイプだった。
英二は対話することにした。
MASAが重く入ってきたとき、英二は軽さで返した。MASAが止まったとき、英二は動きで埋めた。MASAが広く使ったとき、英二は小さく鋭く返した。
バトルが、会話になっていた。
三十秒ずつ、三セット。終わったとき、MASAがフロアを出ながら英二に小さく頷いた。四月のDAIと同じ頷きだった。
審判、二対一で英二の側だった。
三回戦が始まる前、英二はフロアの端で水を飲んだ。
橘が来た。
「SHINと当たります」
英二は頷いた。
「見ましたか、SHINの一回戦と二回戦」
「見ました」
「どうでした」
「強い」英二は言った。「でも」
「でも?」
「ポッピングは私もやってる」
橘が少し黙った。
「KAITOさんが何か言ってました」橘は言った。
「なんて」
「『坂本さんに伝えといて』って」橘は少し笑った。「『深さで行け』って」
英二は目を閉じた。
KAITOの言葉が戻ってきた。二十年の深さは、若さじゃ買えない。
英二には二十年はなかった。でも四十五年分の、体に刻まれた何かがあった。証券会社で積み上げた現実を直視する目。営業部長として培った、相手を読む力。そして——大学のフロアで、バトルを制してきた記憶。
それが今夜、全部ここにあった。
三回戦、SHINとの対戦が始まった。
SHINが先攻だった。
静かだった。最初の数カウント、ほとんど動かなかった。英二と同じように、ビートを待っていた。
そして動き出した瞬間——会場の空気が変わった。
うまかった。技術が高いとか、速いとか、そういう次元じゃなかった。音楽との一体感が、別格だった。ポッピングの波が体全体を貫いていて、止まる瞬間が彫刻みたいだった。観客が静かになった。静かになるほどの、圧があった。
英二の番が来た。
フロアに入った。
SHINの圧が、まだフロアに残っていた。
英二はそれを感じながら、消そうとしなかった。消すんじゃなく、その上に乗る。KENJIの言葉だった。相手が作った空気を壊すな。その続きを作れ。
ビートを待った。
来た。
波を通した。鎖骨から指先まで、一本で。腰から上、KAITOに直してもらった場所が、今夜はつながっていた。ヒットを入れた。止めた。観客の中から声が上がった。
SHINが、わずかに目を細めた。
英二はその目を見た。見ながら、次の動きを作った。
三十秒が終わった。
三セット、やり切った。
終わったとき、英二は息が上がっていた。体の底から何かが空になっていた。四月の三回戦と同じ感覚だった。でも今日は——出し切った、という感触が違った。
審判が手を上げた。
一人が英二の側。二人がSHINの側。
負けた。
でもSHINが、フロアを出る前に英二のほうに来た。
「いいポッピングしてますね」SHINは言った。
それだけだった。
英二は「ありがとうございます」と言った。
それだけだった。
でもその六文字が、今日の英二には何よりも重かった。
ベスト16。百六十人中の。
KENJIが来た。
「SHINに一対二は、悪くない」
「負けましたけど」
「SHINは今年のシーンで五本の指に入る」KENJIは言った。「その相手に、三セットやり切った。収穫です」
KAITOが来た。
「波、つながってましたよ」
「KAITOさんのおかげです」
「俺は場所を教えただけです」KAITOは言った。「つなげたのは坂本さんの体です」
家族が来たのは、三回戦が終わった後だった。
麻衣子と蓮と結衣、そして田中さんがいた。田村さんも来ていた。美咲も来ていた。
蓮が走ってきた。
「お父さん!SHINってめちゃくちゃ有名な人じゃん!」
「知ってたのか」
「YouTubeで見たことある!そんな人と戦ったの?」
「負けたけど」
「でもすごくない?」
田中さんが麻衣子の隣から言った。
「はじめまして、田中です。麻衣子さんにいつもお世話になってて」
「こちらこそ」英二は言った。
「見てましたよ、三回戦」田中さんは言った。静かな目をした女性だった。「うちの夫が蕎麦屋やってたとき、あんな顔してたなって思いました」
英二は田中さんを見た。
「どんな顔ですか」
「怖いけど、楽しそうな顔」田中さんは言った。「ああいう顔、久しぶりに見ました」
麻衣子が田中さんの隣で、少し目を伏せた。
英二には、麻衣子が何かをこらえているように見えた。
結衣が来た。スマートフォンを持っていた。
「三回戦、全部撮れた」
「美咲に送るのか」
「美咲はここにいるから」結衣は言った。「インスタに上げていい?」
英二は少し驚いた。
「インスタに?」
「お父さんのアカウント作っといたの。動画アップした方がいいと思って」
「いいけど——」
「上げる」結衣は言った。聞いていなかった。
英二は「好きにしろ」と言った。
麻衣子がスポーツドリンクを渡した。今日も同じだった。でも今日は、渡しながら小声で言った。
「SHINって人に、何か言われてたよね」
「いいポッピングしてますね、って」
麻衣子が少し間を置いた。
「よかったね」
それだけだった。
でも英二には、それが今日一番の言葉だった。
帰り道、六人で電車に乗った。
蓮が田中さんに蕎麦屋の話を聞いていた。田村さんと結衣が美咲を挟んで何か話していた。
英二と麻衣子が並んで座った。
麻衣子が小声で言った。
「田中さん、泣いてたよ。三回戦のとき」
「田中さんが?」
「こっそり。気づかないふりしてたけど」麻衣子は窓の外を見た。「旦那さんのこと、思い出したんじゃないかな」
英二は田中さんを見た。蓮の話を聞きながら、穏やかに笑っていた。
「蕎麦屋、三年で閉めたんでしたっけ」
「そう」麻衣子は言った。「でも田中さん、後悔してないって言ってた。あの三年が一番よかったって」
電車が揺れた。
英二は窓の外を見た。夜の街が流れていた。
次のバトルがいつかは、まだ決まっていなかった。でも続けることだけは、決まっていた。
それで十分だった。




