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お父さんヒップホップで生きていくことにしたんだ  作者: はまゆう


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15/21

第16話「百六十人の六月」

 会場は渋谷のライブホールだった。


 四月の代々木より広かった。天井が高くて、音響がよかった。フロアの中央が広く空けられていて、その周りを観客が囲む形だった。照明が暗めで、フロアだけがスポットで照らされていた。


 英二が会場入りしたのは十二時だった。


 受付を済ませてウォームアップエリアに移動すると、すでに五十人以上がいた。見渡すと、知らない顔ばかりだった。それぞれが自分の世界で体を動かしていた。


 英二は端に場所を取って、静かにストレッチを始めた。


 体の確認をした。波を通した。鎖骨から指先まで、一本につながるかどうか。腰から上への移行部分、KAITOに指摘された場所を確かめた。


 つながっていた。


 昨日より、つながっていた。


 橘が来た。KAITOも来た。


「KAITOさんも来てくれたんですか」と英二は言った。


「暇だったので」KAITOは言った。相変わらず淡々としていた。


 橘がトーナメント表を広げた。


「坂本さん、ブロックD。俺はブロックB」


「当たるとしたら」


「準決勝ですね」橘は言った。また、さらっと言った。


 KAITOがトーナメント表を見た。


「ブロックDの山、強いですよ」KAITOは言った。「三回戦あたりにSHINがいる」


「SHINって」と橘が言った。声のトーンが変わった。


「知ってるんですか」と英二は聞いた。


「知ってる、というか」橘は少し言いにくそうにした。「去年の国内主要バトル、二冠取ってる人です。二十八歳。ポッピング専門」


 英二はトーナメント表を見た。


「当たるかどうかは、まだわからないですよね」


「そうですけど」橘は言った。「当たったら——」


「当たったら当たったときです」英二は言った。


 KAITOが英二を見た。何も言わなかった。でも少し、目が細くなった。


 一回戦の相手は、二十四歳だった。


 名前はTAKA。動きが大きくて、フロアの使い方が派手だった。観客を煽るのがうまかった。


 英二はフロアに入った。


 KENJIに言われてきたことをやった。入った瞬間に空気を作る。最初の一動作で観客を引き込む。


 重心を落とした。視線を上げた。肩の力を抜いた。


 ビートを待った。


 来た。


 最初の一動作を、これまでで一番重く入れた。


 観客の中から「おっ」という声が聞こえた。TAKAが一瞬、表情を変えた。


 その瞬間、英二は確信した。今日は違う、と。


 三十秒が終わった。審判三人、全員が英二の側だった。


 二回戦の相手は、三十一歳だった。


 名前はMASA。落ち着いた動きで、技術が高かった。焦らず、じっくり空間を支配するタイプだった。


 英二は対話することにした。


 MASAが重く入ってきたとき、英二は軽さで返した。MASAが止まったとき、英二は動きで埋めた。MASAが広く使ったとき、英二は小さく鋭く返した。


 バトルが、会話になっていた。


 三十秒ずつ、三セット。終わったとき、MASAがフロアを出ながら英二に小さく頷いた。四月のDAIと同じ頷きだった。


 審判、二対一で英二の側だった。


 三回戦が始まる前、英二はフロアの端で水を飲んだ。


 橘が来た。


「SHINと当たります」


 英二は頷いた。


「見ましたか、SHINの一回戦と二回戦」


「見ました」


「どうでした」


「強い」英二は言った。「でも」


「でも?」


「ポッピングは私もやってる」


 橘が少し黙った。


「KAITOさんが何か言ってました」橘は言った。


「なんて」


「『坂本さんに伝えといて』って」橘は少し笑った。「『深さで行け』って」


 英二は目を閉じた。


 KAITOの言葉が戻ってきた。二十年の深さは、若さじゃ買えない。


 英二には二十年はなかった。でも四十五年分の、体に刻まれた何かがあった。証券会社で積み上げた現実を直視する目。営業部長として培った、相手を読む力。そして——大学のフロアで、バトルを制してきた記憶。


 それが今夜、全部ここにあった。


 三回戦、SHINとの対戦が始まった。


 SHINが先攻だった。


 静かだった。最初の数カウント、ほとんど動かなかった。英二と同じように、ビートを待っていた。


 そして動き出した瞬間——会場の空気が変わった。


 うまかった。技術が高いとか、速いとか、そういう次元じゃなかった。音楽との一体感が、別格だった。ポッピングの波が体全体を貫いていて、止まる瞬間が彫刻みたいだった。観客が静かになった。静かになるほどの、圧があった。


 英二の番が来た。


 フロアに入った。


 SHINの圧が、まだフロアに残っていた。


 英二はそれを感じながら、消そうとしなかった。消すんじゃなく、その上に乗る。KENJIの言葉だった。相手が作った空気を壊すな。その続きを作れ。


 ビートを待った。


 来た。


 波を通した。鎖骨から指先まで、一本で。腰から上、KAITOに直してもらった場所が、今夜はつながっていた。ヒットを入れた。止めた。観客の中から声が上がった。


 SHINが、わずかに目を細めた。


 英二はその目を見た。見ながら、次の動きを作った。


 三十秒が終わった。


 三セット、やり切った。


 終わったとき、英二は息が上がっていた。体の底から何かが空になっていた。四月の三回戦と同じ感覚だった。でも今日は——出し切った、という感触が違った。


 審判が手を上げた。


 一人が英二の側。二人がSHINの側。


 負けた。


 でもSHINが、フロアを出る前に英二のほうに来た。


「いいポッピングしてますね」SHINは言った。


 それだけだった。


 英二は「ありがとうございます」と言った。


 それだけだった。


 でもその六文字が、今日の英二には何よりも重かった。


 ベスト16。百六十人中の。


 KENJIが来た。


「SHINに一対二は、悪くない」


「負けましたけど」


「SHINは今年のシーンで五本の指に入る」KENJIは言った。「その相手に、三セットやり切った。収穫です」


 KAITOが来た。


「波、つながってましたよ」


「KAITOさんのおかげです」


「俺は場所を教えただけです」KAITOは言った。「つなげたのは坂本さんの体です」


 家族が来たのは、三回戦が終わった後だった。


 麻衣子と蓮と結衣、そして田中さんがいた。田村さんも来ていた。美咲も来ていた。


 蓮が走ってきた。


「お父さん!SHINってめちゃくちゃ有名な人じゃん!」


「知ってたのか」


「YouTubeで見たことある!そんな人と戦ったの?」


「負けたけど」


「でもすごくない?」


 田中さんが麻衣子の隣から言った。


「はじめまして、田中です。麻衣子さんにいつもお世話になってて」


「こちらこそ」英二は言った。


「見てましたよ、三回戦」田中さんは言った。静かな目をした女性だった。「うちの夫が蕎麦屋やってたとき、あんな顔してたなって思いました」


 英二は田中さんを見た。


「どんな顔ですか」


「怖いけど、楽しそうな顔」田中さんは言った。「ああいう顔、久しぶりに見ました」


 麻衣子が田中さんの隣で、少し目を伏せた。


 英二には、麻衣子が何かをこらえているように見えた。


 結衣が来た。スマートフォンを持っていた。


「三回戦、全部撮れた」


「美咲に送るのか」


「美咲はここにいるから」結衣は言った。「インスタに上げていい?」


 英二は少し驚いた。


「インスタに?」


「お父さんのアカウント作っといたの。動画アップした方がいいと思って」


「いいけど——」


「上げる」結衣は言った。聞いていなかった。


 英二は「好きにしろ」と言った。


 麻衣子がスポーツドリンクを渡した。今日も同じだった。でも今日は、渡しながら小声で言った。


「SHINって人に、何か言われてたよね」


「いいポッピングしてますね、って」


 麻衣子が少し間を置いた。


「よかったね」


 それだけだった。


 でも英二には、それが今日一番の言葉だった。


 帰り道、六人で電車に乗った。


 蓮が田中さんに蕎麦屋の話を聞いていた。田村さんと結衣が美咲を挟んで何か話していた。


 英二と麻衣子が並んで座った。


 麻衣子が小声で言った。


「田中さん、泣いてたよ。三回戦のとき」


「田中さんが?」


「こっそり。気づかないふりしてたけど」麻衣子は窓の外を見た。「旦那さんのこと、思い出したんじゃないかな」


 英二は田中さんを見た。蓮の話を聞きながら、穏やかに笑っていた。


「蕎麦屋、三年で閉めたんでしたっけ」


「そう」麻衣子は言った。「でも田中さん、後悔してないって言ってた。あの三年が一番よかったって」


 電車が揺れた。


 英二は窓の外を見た。夜の街が流れていた。


 次のバトルがいつかは、まだ決まっていなかった。でも続けることだけは、決まっていた。


 それで十分だった。


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