第15話「六月の準備」
五月の終わり、KENJIが言った。
「六月のイベント、エントリーしました」
「規模はどのくらいですか」
「百六十人。関東圏最大規模のオープンバトルです」KENJIは言った。「審判にプロが四人入る。見ている人間のレベルが違う」
英二は黙って聞いた。
「坂本さん、今の自分のレベルはどのくらいだと思いますか」
英二は少し考えた。
「四月よりは上です。でもまだ、仕掛けが足りない」
「そうです」KENJIは言った。「今月の課題はそこだけです。受けるだけじゃなく、主導権を取りに行く。相手が来る前に、空気を作る」
「具体的には」
「フロアに入った瞬間に、観客を自分の側に引き込む。最初の一動作で」KENJIはフロアに出た。「見てください」
KENJIがトラックをかけた。
フロアに入った瞬間——何かが変わった。
動く前から、空気が変わった。立っているだけで、フロアが KENJIのものになった。そして最初の一動作が来た。重くて、鋭くて、観客がいたら確実に声を上げる一動作だった。
英二は見ながら、分析した。
重心の位置。視線の方向。肩の角度。息のタイミング。
「わかりましたか」とKENJIが言った。
「頭では」
「体でわかるまで、今月やります」
KAITOが週に一度、橘のスタジオに来るようになった。
教えに来るわけではなかった。自分の練習をしに来た。ただ英二と橘がいると、自然に三人で踊ることになった。
ある夜、KAITOが英二のポッピングを見ながら言った。
「ウェーブ、つながってきましたね」
「まだ途切れます」
「途切れる場所、わかってますか」
「腰から上に移るところです」
「そこだけ意識してやってみてください」
英二がやった。
KAITOが見ていた。
「もう一回」
英二がもう一回やった。
「もう一回」
五回繰り返した。六回目に、KAITOが「そこです」と言った。
英二には、何が変わったかわからなかった。でも体の中で、何かが一本につながった感触があった。
「今、つながりましたよね」とKAITOが言った。
「感触はありました」
「その感触を覚えてください。体が忘れないうちに、十回繰り返す」
英二は十回繰り返した。
十回目に、橘が「おっ」と言った。
六月の第一週、木曜の夜。
初心者クラスが終わった後、田村さんが残って英二に言った。
「坂本さん、来週バトルに出るんですよね」
「そうです」
「橘先生から聞きました」田村さんはエコバッグを持ちながら言った。「応援してます」
「ありがとうございます」
「あの」田村さは少し迷った顔をして続けた。「見に行ってもいいですか。バトル」
英二は少し驚いた。
「初心者クラスの生徒さんが来るんですか」
「ダメですか」
「ダメじゃないですけど——」英二は言葉を選んだ。「レベルの高いイベントなので、私がすぐ負けるかもしれない」
「それでもいいです」田村さんは言った。「私、ダンス始めて三ヶ月で、まだ基本のステップしかできなくて。でも坂本さんが練習してるのを見てると、続けようって思えるんです」田村さんは少し照れたように笑った。「だから、フロアに立ってるところを見たい」
英二はしばらく黙った。
「場所と時間、橘さんに聞いてください」
田村さんが「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
六月の第一週の金曜、練習が終わってKENJIと二人になったとき、英二は聞いた。
「KENJIさんは、なぜ教える側に回ったんですか」
KENJIが少し間を置いた。珍しいことだった。この男が間を置くのを、英二はあまり見たことがなかった。
「バトルで勝てなくなったからです」KENJIは言った。淡々と。「三十二のとき、自分の限界が見えた。それでも踊り続けることはできた。でも——誰かを育てることのほうが、自分には向いてると思った」
「後悔はないですか」
「バトルへの未練は、今もあります」KENJIは言った。「だから坂本さんを見てると、たまに羨ましい」
英二は意外だった。
「私がですか」
「四十五歳でフロアに立てる。それは羨ましい」KENJIは言った。「私が教えてきた生徒の中で、坂本さんが一番——」
KENJIが珍しく言葉を止めた。
「一番、何ですか」
「一番、ダンスが好きそうに見える」KENJIは言った。「今頃気づいたみたいな顔で踊るから」
英二は少し笑った。
「今頃気づいたんですよ、実際」
「知ってます」KENJIは言った。「だから面白い」
バトル前日の夜、英二はリビングで静かに立っていた。
音なしで、ただ体を確認した。波を通した。ヒットを入れた。最初の一動作を、何度か試した。
麻衣子が風呂から出てきて、英二を見た。
「また動かない練習?」
「動く練習だよ、今日は」
「どっちでもいいけど」
麻衣子はソファに座った。
「明日、田中さんも来るって」
英二は手を止めた。
「田中さんが?」
「話したら来たいって。いいでしょ」
「田中さんはダンス興味あるの?」
「ないと思う」
麻衣子はテレビをつけながら言った。
「でも『旦那さんのいい顔、見てみたい』って」
英二は答えなかった。
麻衣子がテレビを見ながら続けた。
「私も、最初に来たときより楽しみになってきた。不思議だけど」
「何がだよ」
「最初は怖かったんだよね、見に行くのが」
麻衣子は言った。
「みっともなかったらどうしようって。でも今は——みっともなくてもいいかって思ってる」
「なんだそれ。どういう意味」
「失敗して側からはみっともなくても、英二さんがフロアに立ってキラキラしてる、それが見たい」
麻衣子は英二を見た。
「それだけ」
「ひどいな。かっこよかったって言ってもらえるようにかますよ。」
麻衣子がテレビに目を戻した。
「早く寝てね、明日のために」
「ああ」
英二はもう一度、最初の一動作を試した。
今夜は、いつより重かった。
六月十四日。
明日だった。




