第14話「KAITOの背中」
五月の第一土曜日、橘のスタジオに見慣れない男がいた。
四十代前半くらいだった。細身で、壁際に座ってスマートフォンを見ていた。特に目立つ風貌ではなかった。でも英二が着替えてフロアに出ると、その男が顔を上げた。
目が違った。
ダンサーの目だった。何かを常に測っているような、静かで鋭い目だった。
橘が奥から出てきた。
「あ、来た来た。紹介します」橘は言った。「KAITOさん。ポッピングの人です」
KAITOが立ち上がった。英二より少し低い身長だった。
「坂本さんですよね」KAITOは言った。「橘から聞いてます」
「はじめまして」
握手をした。手が乾いていた。力が強かった。
「四月のイベント、見てました」KAITOは言った。
英二は少し驚いた。「来てたんですか」
「別の用事で行ったんですけど、橘が出るって言ってたので。そしたら坂本さんも出てて」KAITOは言った。「三回戦、見てました」
「負けましたけど」
「RYUTAに二対一は、悪くないですよ」KAITOはまた座った。「ポッピングやってますよね、坂本さん」
「メインはポッピングです」
「見せてもらっていいですか」
英二はフロアに出た。
KAITOが見ている。橘が見ている。
トラックをかけずに、音なしでやった。アイソレーション、ウェーブ、ヒット。一つひとつ、丁寧に。
三分ほどで止めた。
KAITOが立ち上がって、フロアに出てきた。
「いいですか」
「どうぞ」
KAITOが同じ動きをした。
英二は息を飲んだ。
同じ動きのはずだった。アイソレーション、ウェーブ、ヒット——でも全然違った。体の各パーツが完全に分離していた。波が、鎖骨から指先まで一本の糸みたいに通っていた。ヒットの瞬間、空気が変わった。止まり方が、彫刻みたいだった。
橘が壁際で「やばい」と小声で言った。
KAITOが止まった。
「坂本さんのポッピング、悪くない」KAITOは言った。「でも波が途中で死んでる」
「鎖骨のあたりで、ですか」
「そこだけじゃない。膝から腰の間でも一回死んでる。体が三つのブロックで動いてる」KAITOは自分の体を指した。「ここからここが一本になると、全部変わる」
「どうやって」
KAITOが少し考えた。
「時間ありますか、今日」
「あります」
「じゃあやりましょう」
二時間、KAITOに教わった。
給料も取らなかった。教えてくれと頼んでもいなかった。ただKAITOは、気づいたことを気づいたまま言った。無駄がなかった。褒めなかった。でも否定もしなかった。ただ、正確だった。
練習が終わって、三人でストレッチをしながら橘が聞いた。
「KAITOさん、最近バトルどうですか」
KAITOが少し間を置いた。
「先月、一回戦で負けた」
橘が黙った。英二も黙った。
KAITOは淡々と言った。感情を乗せない言い方だったが、その淡々とさが、かえって重かった。
「二十二歳の子に負けた。速くて、新しかった」
「……」
「わかってたんですよ、正直」KAITOはストレッチを続けながら言った。「去年くらいから、反応速度が落ちてきてるのは気づいてた。頭で考えてから体が動く時間が、少しずつ長くなってる」
「それは」橘が言いかけた。
「年齢です」KAITOは言った。はっきりと。「誤魔化しても仕方ない」
英二はKAITOを見た。
「やめるんですか」と英二は聞いた。
KAITOが英二を見た。
「なんで」
「いや——」
「やめる理由がない」KAITOは言った。「負けたから、速さで勝てなくなってきたから、やめる?」KAITOは首を振った。「速さじゃないものを作ればいい。俺がポッピングを二十年やってきた積み上げは、二十二歳には絶対にない」
英二は黙って聞いた。
「ダンスは速さだけじゃない」KAITOは続けた。「深さがある。二十年の深さは、若さじゃ買えない。それをフロアで出せるかどうか、それだけです」
橘が「KAITOさん……」と言った。声が少し湿っていた。
「なんですか」
「かっこいいっすよ、それ」
「うるさい」KAITOは言った。でも口元が少し動いた。
帰り道、英二は一人で歩いた。
KAITOの言葉が頭の中を回っていた。
二十年の深さは、若さじゃ買えない。
英二には二十年はなかった。十七年のブランクがあった。でも——大学時代の積み上げと、この半年の積み上げが、確かにあった。四十五歳の体が、四十五年分の何かを持っていた。
スマートフォンに麻衣子からメッセージが来た。
今日遅い?ご飯残しておく?
英二は立ち止まって返信した。
もう向かってる。今日いいことがあった。
何があったの?
英二は少し考えて打った。
同い年くらいのすごいダンサーに会った。まだやめない人に。
少し間があって、麻衣子から返ってきた。
そういう人がいると、心強いね。
英二は「ああ」と打って、歩き出した。
五月の夜風が、少し温かかった。
六月まで、あと一ヶ月だった。




