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お父さんヒップホップで生きていくことにしたんだ  作者: はまゆう


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第12話 「春の声」

 三月になった。

 英二の一週間は変わっていなかった。月水金はKENJIのスタジオ、火木は橘のスタジオで自主練。ただ一つだけ変わったことがあった。

 橘に頼まれて、週に一度、初心者クラスの補助をするようになった。

「インストラクターの補助ですか」と英二は言った。

「アシスタントです」橘は言った。「給料は出ないですけど」

「それは構いませんが——私が教えていいんですか。まだ自分も練習中なのに」

「だからいいんです」橘は言った。「完成した人間より、今まさに格闘してる人間のほうが、初心者には伝わることがある」

 英二は少し考えて、引き受けた。


 初心者クラスは木曜の夜、七時から始まった。

 生徒は六人だった。二十代が四人、三十代が一人、そして四十八歳の女性が一人いた。名前は田村さんといった。娘に勧められてダンスを始めたと言っていた。

 最初の授業で、田村さんは基本のステップを踏むだけで息が上がった。鏡の前で自分の動きを見て、困った顔をした。

「なんか、思ってたのと違って」田村さんは言った。「頭ではわかってるんですけど、体がついてこなくて」

 英二は隣に立った。

「それで正常です」

「そうなんですか」

「私も三ヶ月前、同じでした」

 田村さんが英二を見た。「でも今はあんなに動けるじゃないですか」

「三ヶ月、毎日やったからです」英二は言った。「体は正直なので、やった分だけ変わります」

 田村さんが少し考えて、また鏡の前に向き直った。

 英二はその横で、もう一度ステップを見せた。ゆっくり、丁寧に。


 三月の半ば、KENJIが言った。

「四月に大きいイベントがあります」

「どのくらい大きいですか」

「関東圏の主要なバトラーが集まる。エントリーは百二十八人」

 英二は黙って聞いた。

「出てみますか」

「レベルはどのくらいですか」

「プロ手前から、セミプロまで混じります」KENJIは言った。「坂本さんが当たったら、一回戦で負けるかもしれない」

「出ます」と英二は言った。

 KENJIが少し目を細めた。

「即答ですね」

「迷う理由がないので」

「なぜ」

「負けてもベスト128です」英二は言った。「二月がベスト8だったので、数字だけ見れば後退ですが——レベルが上がった場所で戦えるなら、負け方が違う」

 KENJIが「そういうことです」と言った。珍しく、はっきりした笑顔だった。


 その夜、英二は橘のスタジオで自主練をしていた。

 練習が終わって、二人でストレッチをしながら橘が言った。

「四月のやつ、出るんですよね」

「出ます」

「俺も出ます」橘は言った。「当たったら容赦しないですよ」

「当たり前です」

 橘が笑った。

「坂本さん、変わりましたね」

「どのへんが」

「最初来たとき、体が謝ってたって言ったじゃないですか」橘は言った。「今は謝ってない。むしろ——」

「むしろ?」

「ちょっと怖いです」橘はストレッチを続けながら、さらっと言った。「四月、楽しみにしてます」


 春分の日、英二は家族と近所を散歩した。

 麻衣子と蓮と結衣、四人で歩いた。特に目的はなかった。蓮が公園で遊びたいと言って、少し寄り道した。

 ベンチに座って、蓮がブランコを漕ぐのを見ながら、麻衣子が言った。

「最近、田中さんに言われたんだよね」

「田中さん?」

「パートの同僚。夫が蕎麦屋やった人」麻衣子は少し間を置いた。「英二さんのこと話したら、『旦那さんの顔、今どうですか』って聞かれて」

「なんて答えたの?」

「『前よりいい顔してます』って言った」

 英二は麻衣子を見た。

 麻衣子は蓮のほうを見たまま、続けた。

「嘘じゃないから」

 英二は答えなかった。

 桜がまだ咲いていなかった。でもつぼみが、あちこちでふくらんでいた。

 結衣が少し離れたところでスマートフォンを見ていた。突然、こちらに歩いてきた。

「お父さん」

「なんだ」

「美咲のお父さんが、動画見て、ダンス習いたいって言い出したって」

 英二は少し笑った。

「橘のスタジオ、初心者クラスあるぞ」

「マジで言ってるの」

「マジで言ってる」

 結衣が呆れた顔をして、またスマートフォンに戻った。

 蓮がブランコから降りて走ってきた。

「お父さん!かけっこしよ!」

「今日は走らない」

「えーなんで」

「四月に大事なバトルがあるから、足を大事にしてる」

「大事なの?」

「大事だ」

 蓮が少し考えた。

「じゃあ肩車して」

「それも足を使う」

「けちー」

 麻衣子が笑った。声を出して笑った。英二も笑った。

 四人で、つぼみの桜の下を歩いた。

 四月まで、あと少しだった。


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