第11話「二月十五日」
前日の夜、英二は十一時に練習をやめた。
KENJIに言われていた。「前日は早めに切り上げろ。体を温存しろ。当日に出し切れ」
シャワーを浴びて、リビングに戻ると麻衣子が起きていた。
「明日、何時に出るの」
「十二時には会場入りしたい」
「じゃあ朝ごはん、しっかり食べてね」麻衣子はテレビを消した。「私と蓮と結衣は十四時ごろ行く。開演何時だっけ」
「十五時」
「わかった」麻衣子は立ち上がりながら言った。「緊張してる?」
英二は少し考えた。
「してます」
「そう」麻衣子は廊下に向かいながら言った。「おやすみ」
「おやすみ」
それだけだった。
英二はソファに座って、しばらく天井を見た。
緊張していた。でも十二月と種類が違った。十二月は「みっともなく見られたくない」緊張だった。今夜のは——負けたくない、という緊張だった。
悪くない緊張だと思った。
当日の朝、蓮が六時半に起きてきた。
英二がキッチンでコーヒーを飲んでいると、蓮がパジャマのまま来て隣に座った。
「お父さん、今日のバトルって強い人来るの?」
「来ると思う」
「お父さん勝てる?」
「わからない」
「わからないの?」
「やってみないとわからない」
蓮が少し考えた。
「でも練習してたじゃん、毎日」
「してた」
「じゃあ大丈夫じゃん」
英二は蓮を見た。小学四年生の、根拠のない確信だった。でもその根拠のなさが、今朝の英二には少し染みた。
「そうだな」と英二は言った。
会場は恵比寿のイベントスペースだった。
定員二百人、下北沢の倍の広さだった。エントリーは六十四人。1on1のトーナメント、ジャンル不問。賞金はなかったが、審判に現役のプロが二人入っていた。
英二が会場入りすると、すでに熱気があった。
ウォームアップをしながら周りを見渡した。レベルが高かった。十二月とは明らかに違う密度だった。二十代の中に混じって、三十代らしき顔もいくつかあった。みんな、それぞれの積み上げを体に纏っていた。
橘が来た。KENJIも来た。
「緊張してますか」とKENJIが聞いた。
「してます」
「どんな緊張ですか」
「負けたくない、という緊張です」
KENJIが頷いた。「十二月より、いい緊張です」
一回戦の相手は、二十七歳の男だった。
名前はRYO。細身で、目つきが静かだった。ウォームアップを見ていると、動きに癖がなかった。癖がない、というのは強みだった。どこからでも対応できる、という意味だから。
英二は相手を見すぎないようにした。KENJIに言われていた。「相手を見るな。音楽を聴け。相手への反応はその後でいい」
一回戦が始まった。
RYOが先攻だった。
静かな立ち上がりだった。最初の八カウント、ほとんど動かなかった。ビートを聴いていた。そして十六カウント目から、スイッチが入ったように変わった。音楽の重い部分に体をぶつけるような動きが来た。観客がどよめいた。
英二の番が来た。
フロアに入った。
一月間、練習してきたことをやった。
動かなかった。最初の八カウント、ただ立った。ビートを聴いた。重い場所を探した。
観客がざわついた。動かない英二を、どう受け取っていいかわからない空気だった。
でも英二は待った。
十六カウント目。
重心が来た。
英二は動いた。
出だしの一動作に、一月分の重さが乗った。観客の中の誰かが声を上げた。英二はそれを聴きながら、音楽の中を泳いだ。ウェーブ、ポッピング、フロアワーク——すべてが十二月より一回り大きかった。体が謝っていなかった。
三十秒が終わった。
審判が手を上げた。
三人のうち、二人が英二の側だった。
二回戦の相手は、二十二歳だった。
名前はKAI。背が高くて、動きが速かった。一回戦を圧倒的な内容で勝ち上がってきていた。
英二はKAIの動きを少しだけ見た。
速さで勝負するのは無理だと判断した。瞬時に。十七年間、数字を見て判断してきた癖が、ここでも働いた。
英二が選んだのは、重さだった。
KAIの速さに対して、重心の低さと動きの重さで対抗した。相手が軽ければ、こちらは重くなる。営業でも同じだった。相手の土俵で戦わない。
でもKAIは若かった。速さだけじゃなかった。音楽への反応が鋭くて、英二の動きを受けて変化してきた。バトルの、対話の部分だった。
三十秒ずつ、三セット。
終わったとき、英二は息が上がっていた。
審判が手を上げた。
二人が英二の側、一人がKAIの側だった。
三回戦で、英二は負けた。
相手は二十五歳の、このイベントの常連らしき男だった。技術が、英二の一段階上にあった。音楽との一体感が違った。フロアの使い方が違った。英二は自分のすべてを出したが、それでも届かなかった。
審判三人、全員が相手の側だった。
妥当だと思った。
フロアを出ると、橘が待っていた。
「ベスト8です」と橘は言った。「六十四人中の」
「負けましたけど」
「ベスト8ですよ、初参加で」橘は言った。「しかも四十五歳で」
KENJIが来た。
「三回戦の相手、このイベント去年優勝してます」KENJIは言った。「負けて当然です。でも二回戦まで、よかった」
「褒め言葉ですか、それ」
「最大限の褒め言葉です」
麻衣子と蓮と結衣が来たのは、ちょうど三回戦が終わった後だった。
蓮が走ってきた。
「お父さん!見たよ、三回戦!」
「負けたのも見たか」
「見た!でも二回戦すごかった!かっこよかった!」
蓮の声が会場に響いた。周りの何人かが振り返った。英二は苦笑した。
結衣が来た。スマートフォンを持っていた。
「二回戦、撮れた」
「撮ってたのか」
「美咲に送っていい?」
「……好きにしろ」
結衣がスマートフォンを操作し始めた。その横顔が、少し誇らしげだった。
麻衣子が来た。
英二を見た。英二も麻衣子を見た。
麻衣子は何も言わなかった。
エコバッグからスポーツドリンクを出して、英二に渡した。前回と同じだった。でも今回は、渡しながら少しだけ英二の目を見た。
それだけだった。
英二は缶を受け取って、開けた。
一口飲んだ。
フロアではもう準決勝が始まっていた。DJのビートが会場を揺らしていた。
英二は家族の隣に立って、フロアの中心を見た。
まだ、あそこには届かない。
でも——届く気がした。根拠のある話に、少しずつなってきていた。
帰り道、四人で電車に乗った。
蓮がまた英二の隣で眠った。前回と同じだった。
結衣がイヤホンを片耳だけ外して言った。
「美咲から返信来た」
「何て言ってたんだ」
結衣が少し間を置いた。
「『お父さんかっこいいじゃん、うちのお父さんにも見せたい』って」
英二は窓の外を見た。
夜の街が流れていた。
「そうか」と英二は言った。
「うん」と結衣は言った。
それだけだった。
麻衣子が向かいの席から、小声で言った。
「次はいつ?」
「KENJIさんに聞いてみます」
「教えてね」
「ああ」
電車が揺れた。蓮の重さが英二の肩にかかった。
英二は目を閉じた。
ベスト8。六十四人中の。四十五歳の、元営業部長の。
悪くなかった。




